第2話 邂 逅 (かいこう)
路地には、生暖かい空気が澱んでいた。頭の上から降ってくる蝉の声が、それを煽っているかのように躰にまとわり付く。雨が少なかった梅雨は完全に明けたようで、日中の強い陽射しに暖められたアスファルトが、陽が傾いたいまも余熱を放っていた。
隆一は、ジャケットを脱いで左の肩に掛け、だらだら歩きながら、主人とのやりとりを振り返った。
隆一の顔を見るなり主人は、コーヒーを点ててくれた。そして、隆一がそれを啜っている間に奥にいき、箪笥の抽斗(ひきだし)を浅くしたような木製の衣裳箱を持ってきた。そして、「ちょっと、確かめてくれるかね」といった。
それは、特注品らしい桐製のもので、『中園様』と筆で認(したため)められた短冊が貼ってあった。
蓋を取ると、防虫剤なのか、それにしては珍しいお香のような匂いが鼻腔を擽(くすぐ)った。なかにあった和紙の包(くる)みは、手触りからして、隆一が預けたモノに間違いなかった。
さらに主人は、奥から分厚い帳簿を持ってくると、立ったままでそれを繰り、「えーと、利子を含め、2万1,400円になります」といった。
隆一が、なにもいわないのに、だ。
一瞬、隆一は呆気に取られたが、すぐに訪ねてきた主旨を説明した。
「なーんだぁ、そうだったの……」
主人は笑みを浮かべ、「いいモノを預けるお客さんはすぐ出すものだから、あんたもそうだと思ったんだ」と次いで、さらに笑みを深くした。
「そうでなくてすみませんね」
隆一はそういいながら、惜しむように衣裳箱に蓋をすると、ソファーに深く坐り直した。
「いや、構わないよ。うちはそれが商売なんだから……」
隆一を見つめて、首を2、3度縦に振りながらいった主人は、「長く預けるのなら、利子は、3カ月ごとに払ってくれればいいんだ。毎月持ってくるのは大変だろうから、そういう慣習になっている。それは、銀行振り込みでも現金書留でも構わないよ。この前、そういわなかったかね」と、ソファーに腰掛けた。
「確か、訊いたような気がします」
隆一は、思い出したふりをした。
それを承知のうえで、敢えて隆一は足を運んだのだった。『緑一荘』にいく予定もあったが、なにより保管状態を探るのが目的だったのだ。
「管理が杜撰(ずさん)なところもあるからね。俺が昔にハッセルを預けたところは黴(カビ)がきてて、参ったよ」
友人の、婦人科のカメラマンから訊いていた言葉が頭にあって、ずっと隆一は気になっていたのだった。もし、ここがそんな状態なら、すぐに引き出すつもりでいた。だが、桐の箱を出された時点でそれは杞憂に終わったわけで、隆一は主人の顔を見るのが面映ゆかった。
隆一は、おもむろに煙草を取り出し火を点けた。
それにつられたかのように、主人も同じ動作を取った。
「それでは、きたついでに今日3ヵ月分払っておきますよ」
紫煙を吐き出しながら、隆一はいった。
「いやいや、そんなに要らないよ。まだ、ひと月足らずだし、どうしてもというならひと月分だけもらうよ。来月急に出すことだってあり得るだろう……」
煙草を挟んだ右手を左右に振りながら、主人はいった。
「そうですか」
「そうだよ。ひと月経ったらひと月分、ふた月経ったらふた月分というのが筋だ。余計な気遣いはうちでは無用だよ」
意外に、商売っ気はないんだな……と隆一は思いながら、煙草を灰皿に擦り付けた。
「ところで、青戸の赤提灯にはいってるかね」
この前の、口から出任せを憶えていた。
「ええ、あれから4、5回はいきましたね」
「そうか。でも、赤提灯といったって、たくさんあるだろう」
「ありますね。でも、僕らがいくのはガード下の、小さな焼鳥屋といつも相場は決まっていますから……」
「そこは繁盛している店かね」
「安いせいか、結構お客は入ってますね」
「へえ、そうかね……。そんな店に、1度いってみたいね」
「今度、一緒にいきましょうか」
こたえてから隆一は、まずいな……と、思った。早いうちに、青戸の呑み屋の1軒ぐらいは開拓しておかねば、口から出任せが露見してしまう。
「最近、僕は立石にもよく遊びにくるんですよ」
いってから隆一は、しまった……と思った。
「ほう。面白いところを開拓したとみえるね」
「ええ、まあ……」
隆一は、口を濁した。
「じゃ、今度誘って頂戴な。たまに若い人と遊ばないと、老け込んじゃうからね」
すかさず、主人はいった。
隆一が頷くと、主人は、おねだりが叶えられたときの子供のように目を無くして、「よろしく」と頭を下げた。
隆一は、「近いうちにぜひ……」とこたえたものの、これ以上長居すると口から出任せを見破られるのではないかと不安が過った。
「それでは、ひと月分の支払いを……」
一刻も早く退散すべきだと思い、隆一は札入れを出しながら腰を上げた。
「それはいいよ、またのときで……。今日も予定があるんだろうから、物入りだろう。わたしも、そこまで野暮じゃないよ」
主人は、笑った。
「では、お言葉に甘えて、次にきたときに……」
隆一はこたえ、引き戸を開けた。
「いいねぇ、若い人は……。ま、せいぜい愉しみなさい」
その言葉は、開き戸を開ける隆一の背中に届いた。
よっぽど話し好きな人なのだろうか。それとも、客がこなくて退屈しているのだろうか。商売そっちのけで、世間話には乗ってくるという感じだった。それに調子を合わせ、図に乗って余計なことを喋ったことが、いまになって悔やまれてきた。
べつにウソをついたわけではないが、主人の思っている面白いところと、隆一が開拓したところとは、根本的に違うのだ。それをはっきりいわなかったことが、主人を騙したように思え、釈然としなかった。
このあとは雀荘にいくだけでとくに用事はないのだから、ほかの話題に持っていけばもっと話が盛り上がり、主人の人となりが摑めたかもしれない。
駄菓子屋のほうから、陽に焼けた3人の小学生が、アイスキャンデーを舐めながら歩いてきた。
子供は、これができるからいいな……と思って歩いているうちに、駅のホームが見えてきた。
西陽を避けるように、跨線橋が作ったホームの影の辺りに多くの人が固まっていた。青戸方面に走り出した赤い電車と入れ替わるように、薄黄色に茶のストライプが入った電車が、轟音とともに道ゆく隆一を追い越した。
ラッシュのピークにはまだ早かったが、窓から見える車内は、いずれも立っている人が少なくなかった。
ホームへ上がる階段を過ぎると、見慣れたビルが見えた。すぐに3階の『緑一荘』に目がいった。
今日はあの人はくるだろうか。先月、初めて主人を訪ねた時に、同じ卓で麻雀した人だ。そう思ったら、暑さも気にならなくなっていた。そんな自分に、思わず失笑してしまった。
3階への階段を上りかけたところで、隆一は思い直した。慌てて雀荘にいったところで、あの人がきていなければ意味がない。勝負はべつにして、緊張感のない麻雀に、人数合わせで付き合わされては堪らない。ハンバーガー・ショップに入ることにした。呑みたくもないアイスコーヒーを頼んで、通りに面した窓際のカウンター席に坐った。
――『緑一荘』は、変形のL字型のフロアだった。入ってすぐの右手に、カウンターで仕切られたキッチンがあり、ソファーを挟んだ窓際に2つの自動卓があった。入り口からは死角の、左に広がる店名が書かれた窓の一角に、3卓が並んでいるのはのちに知った。
手前の2卓が立っており、いかにも近場の旦那衆といった感じの面々が闘牌していた。それぞれの卓に、ひとりずつ女性が交じっているのが目を引いた。
「いらっしゃいませ……。いまオーラスですから、少々お待ちください」
手前の卓の女性がいい、それに合わせるように、奥の卓に入っている白いワイシャツにネクタイ姿の中年の男が会釈した。
ゲームを中断しておしぼりを出してくれたのは、女性のほうだった。女性がオーナーで、まっちゃんと呼ばれた中年の男がメンバーとわかるまで、さして時間は要しなかった。
煙草を喫い終わらないうちに、手前の卓では清算がはじまっていた。
「ママ、俺も止める。お客さんがきたからいいよね」
奥の卓もゲームが終わったらしく、左側の壁を背にした女性の、対面(といめん)の男がいった。
「もう止めちゃうの……」とママは奥を一瞥すると、「それでは、奥の卓に入ってください」と、隆一に笑顔を向けた。
ずいぶん若いママだな、と思いながら、隆一は頼んだコーヒーを一啜りすると、手渡された新規来店者カードに名前ほかを、様式にしたがって記入した。
「よかったわね、こっちで……。ママは手強い人だから……」
奥の卓の女性が、笑みを浮べていった。
真赤なルージュが艶かしく、ネックにレースをあしらったベージュのカットソーが、センスのよさを表していた。
この人にはどこかで逢っている――。
咄嗟にそう思った。鼓動が激しくなった。しばらく考えても思い付かなかったが、その秘めた妖しさは、これまで隆一が出逢ったどんな美しい人とも一線を画していた。いくつか歳は下だと思えたが、そんなには離れていないという気がした。
「なにいってるのよ、勝ち頭のくせして……」
その女性の上家(かみちゃ)がいった。
冗談をいい合うところを見ると、ほとんどの客が常連のように思えた。和気藹々という雰囲気は悪くはないが、ややもすれば馴れ合いでやっているようで、正直にいうと隆一は敬遠したかった。それによる諍(いさか)いは、これまで幾度も見てきているからだ。
また、女性と闘牌するというのも最近は分が悪く、いつもの隆一だったら冷やかしで帰っていただろう。だが、その女性の魅力が、隆一のそんな気持ちを一掃した。
隆一は、ママの紹介に任せて卓に入った。その女性の対面だというのが嬉しかった。
久しぶりの牌の感触は絶妙だった。だが、初めての店ということで相手の手の内を探りながら、慎重に打ち回した。ほかの客も、新顔の隆一に気を遣ったのか、無駄口は慎んでいた。
隆一がよくいく他所のフリー雀荘には、早仕掛けの安上がりといった、せせこましい輩が多いが、意外にもここの客はそうではなかった。新顔の隆一に、敬意を表してくれたのだろうか。
隆一は、対面の女性ばかりを意識していた。女性に負けるというのは不本意だが、彼女が先行したときは2着取りを狙った。いや、狙うというより、おのずとそうなるケースが多かった。彼女は、手作りする割には聴牌(てんぱい)が早く、勝負どころを辨(わきま)えていた。
午後10時前に1卓になり、新たに来店した客にメンバーのまっちゃんが席を譲った。
「おはようございます」と、卓の近くにきて決まりきった挨拶をしたのは、夜番のメンバーだとわかった。
抜け番のママは、ひとりひとりにサービスの栄養ドリンクを出したあと、隆一の後ろに立った。
手作りを覗かれていると直感した隆一は、対面の女性に気がいっていた割には展開に恵まれて若干浮いていたこともあり、それを吐き出す覚悟で大物狙いに照準を合わせた。
思いどおりにいくこともあれば、その逆もある。それが勝負の文(あや)というものだ。しかし、あからさまな放銃は避けねばならないし、より慎重になった。午前零時を過ぎた頃、それが功を奏し、13巡目で四暗刻を自摸和了(つもあが)った。
その南場の2局は、一、四、七筒、六筒の変則四面張の面清(メンチン)を聴牌していた。四筒と単騎待ちとなる六筒なら一盃口がある。しかし、3枚使いの一筒は、すでに5巡目に下家の河に捨ててあり、実質は三面張。
聴牌した次巡に対面の女性が七筒を切ったのだが見逃した。そしたら、下家が六筒を出した。もちろん,素知らぬ顔。これが、逆だったらおそらく和了っていたに違いない。
隆一は、これを見逃したことで決心したのだった。この手は、四暗刻まで伸ばそうと……。
実際、四筒を引き入れたら振り聴承知で六筒を切れば、一筒、四筒、五筒は暗刻として見立てられ、待ちは、一筒はないとしても形は一,二、三、四、六筒の待ちだ。当然、二筒、三筒のシャンポンを自摸れば四暗刻だ。これ以外は、自摸っても和了らぬという覚悟で打ち回すことにした。
倍満の手はいつでも作れる。その思いに、運も味方してくれたようで、その3巡後に四筒を引き込み、思惑どおりの手牌となった。そっと六筒を切ると、煙草を漁るふりをした。それからは、自摸ってくるのは筒子以外の安全牌ばかりで、13巡目に自摸ったのが三筒だった。
その局は、彼女の下家が親で浮き頭だった。つまり隆一の上家だが、「とっくに、面清で倍満を和了ってたんじゃないかよ」と、隆一の河の六筒を指しながら不満そうにいった。倍満を自摸っても、親の払いは8,000点。これでは、順位は変わらない、ということを計算したうえでのことだったが、大博打ではあった。
「いやー、理牌(リーパイ)してなかったもので、待ちがわからなかったんですよ」
と、隆一は恍(とぼ)けた。
それを受けて、対面の彼女が、「自摸ったんだから、べつに問題ないじゃない」と宥(なだ)めるように下家にいい、そして隆一のほうに向きを直すと、「待ちがわかりやすい手にしたんよね」と、ウインクして見せた。
「他人の和了りについて、批判するのは止めましょう」と、笑いを含んだ声でママもいった。
隆一は、その言葉でホッとして、改めて彼女の瞳に目線を合わせた。
それからは自由自在で、局面を見ながら進行役に回った。和了るばかりが麻雀ではないのだ。彼女がリードすれば、順位が動かぬ範囲で他家の安手に差し込んだり、リードした自分が親のときは、打たず和了らず、敢えてノー聴宣言で場を進めた。別の局面では、愛想がいい、下家の沈み頭の若者の少ないチャンスをフォローし、トップを献上した。
適当に、打ち回しを決め込む余裕があると、不思議に和了ってくださいといったいい手が集まってくるし、敵の手も透けたように見えてくる。これが麻雀の醍醐味だ。勝てばいい――というのは麻雀ではない。負けない麻雀を打つ――。これが、隆一の矜持(きょうじ)だった。
気が付いたら、朝になっていた。あの人が止めたら、それに合わせようと思っていた結果だった。戦果は、大枚6枚と数千円だった。リャンピンでウマが6千3千という、下町のフリー雀荘にしては高いレートだったことによるものだ。これでは、並のサラリーマンは足が遠のくだろうと思いながらも、いい穴場を見つけた――という思いで、隆一の胸はいっぱいだった。
隆一の計算では、あの人は、大枚4枚ぐらいの浮きだったに違いない。役満や裏ドラ、赤牌やイッパツのご祝儀が、隆一のほうが多かったから、そんなものだろう。
隆一は、ママにそっとその大枚1枚をチップとして弾んだ。ほかの客が帰ったあと、ママが作ったモーニングサービスのハムエッグとトーストをあの人と食べた。
その余勢を駆って、あの日預けたままになっていたクリーニング店に引き取りにいった――。
隆一は、煙草を吹かしながら、考えていた。今日は、あの人に逢えるだろうか、と……。
あの人に、隆一は一目で魅了された。美しさに似合わず勝負強く、牌を自摸る白い指に、研ぎ澄まされた色気があった。二重(ふたえ)の切れ長な目は濡れたように澄んでおり、ときおり見せる天を仰ぐ仕種に、そこはかとなく哀愁を漂わせていた。
それでいて、勝負のあとに見せる笑顔には、男を癒してくれそうな優しさを湛えていた。願わくは、1度そのどこかに触れてみたかった。
カットソーの胸は形よく盛り上がり、黒地に白の、花柄のプリントスカートから伸びたしなやかな足が、蹌(よろ)めきを匂わせていた。毛先をラフに遊ばせた、セミロングの髪が端正な顔を際立たせ、微笑むと零れる八重歯に、無邪気さをも遺していた。
1度麻雀しただけではあったが、どこかで逢ったことがあるという思いは深まっていく。だが、それを確かめる術はない。
もしかして――と隆一は思った。『緑一荘』にくる客は、みんなあの人が目当てではないのだろうか、と……。それは思い過ごしだとしても、そういう想いを抱いて通ってくる者は少なからずいるはずで、まだあまり知らないあそこの常連たちを思い浮かべると、勝負に対するそれとは別の闘志が湧いてきた。
あれ以来3度、隆一は『緑一荘』に足を運んでいた。その1度目は、カラ梅雨だと思っていたら、午後になって急に雨が降りはじめた日で、初めて顔を出した日から3日経っていた。2度目は、6月の下旬に入った雨の日で、3度目は、台風接近で風雨の強い月末だった。その3度とも雨だったせいかあの人の姿はなく、1卓だけしか動いていなかった。
かてて加えて3度とも、和了っても放銃しても解説する奴と、少し浮くと時計ばかり見て帰りたがる奴とやる羽目になった。そんな麻雀が面白いはずはなく、はるばる雨のなかを遠征してきた甲斐がなかった。まだ、近所の野良猫と遊んでいるほうが増しだと思った。
3度目は、「もう少し付き合って……。クルマで送るから……」というママの言葉を隆一は断り、電車がある時間に止めた。
もっと、考えるべきだったと、その後、隆一は反省した。少なくとも、2度目には違う時間帯を探ってみるといった工夫をすべきだったのに、あの人のことを思うあまり、頭が回らなかった。
最初の時、早い時間にいって逢えたのは単なる偶然で、隆一にツキがあったからなのだろう。以後、すべて空振りに終わったのは、バイオリズムが下降に向っていたからかもしれない。それにも気付かず、同じ策を弄していたのだから、阿呆の一徹とはこのことだ。
その轍を踏まないために、今日はすぐに3階に上がるのを自重し、ハンバーガーショップに入ったのだ。
あの人の、くる、こないは、牌を自摸るのと一緒で運否天賦だ。それも、雀荘にいってみて、初めて確かめられることだ。しかしながら、店にいった以上、あの人がいないから帰る、といえないところにもどかしさがあった。
紙コップに口を付けながら、もしかしたら……と隆一は考えた。もしかしたら、あの人は深夜にくるのではないだろうか。「また、一緒にやりたいわ」と、隆一に語りかけたあの人の言葉は、単なる社交辞令とは思えなかった。また、ママとの会話のなかでも、「毎日でもいいわ」といっていたのを、隆一は耳にしていた。あの人は、いつも深夜にくるのだ、と隆一は確信した。
だったら、それまで待つのみだと隆一は思い、時計を見た。6時を少し過ぎていた。いま、この時間からでは早過ぎるが、どこかで時間を潰し深夜に顔を出せばいいことだ。そうと決めたら、急に腹が減ってきた。水っぽくなったコーヒーが入った紙コップを捨て、隆一はそこを出た。
あの人への隆一の想いは、歩いていても深まる一方だった。あの人は、どんな仕事をしているのだろうか。しかし、あの人には、それを想起させる匂いは微塵もなかった。
これまで隆一は、都心の有名なフリー雀荘を巡り、OLからモデル、クラブのママ、女優の卵などなど、多岐に亘る職業の女性と闘牌してきた。その数も通算すれば50人を下らないだろう。いわば、女性の職業や性格を見分けることにおいても実戦を積んできたわけで、その勘は人後に落ちないと自負していた。しかしながら、あの人の前では、それはなんの効力もなかった。 単に美しいだけの女性は少なくないが、杳として素性をわからせないところが、あの人の美貌に加味されたもうひとつの魅力で、隆一はそれに惹かれているのではないか、という気がした。
行き交う人が多い踏切を渡って路地に入り、直進した。腹を満たしてから、その後のことを考えればいい。満腹になれば、名案が浮かぶかもしれない、と思った。いつも怠惰に流されていた、時間の処し方について考えるなんて、何年ぶりだろうか。ここしばらく、仕事でさえそういうことはなかったのに……と、隆一は苦笑しながら、初めて主人にモノを預けた帰りに寄った、香ばしい匂いがする店の方向に急いだ。
胃に、違和感があった。呑むばかりで、食べたものといえば、ウナギの白焼きだけだったことを思い出した。それを肴に、生ビールの中ジョッキを3杯のあと、冷酒を長い時間飲み続け、気が付いたらその2合の空瓶は3本になっていた。
どうも、それが堪えたようだ。なのに、ブランデーを満たしたグラスを持つ手は、いまも器用に動いていた。時計の針は、すでに午前1時を回っている。
「強いですね。立て続けにロックばっかりで……」
「強くはないけど、今日は凄くおいしいんだ。素敵な人がそばにいるから……」
「まあ、お上手だこと。どこまで本気かしら……」
「すべて本気さ。やっと、ツキの女神に巡り逢えたって感じ……。だから酒も進む」
女は、嬉しそうに隆一を見て、グラスを持つ手を掲げた。
隆一も、同じ動作を取った。
『緑一荘』を自重した隆一は、時間潰しのために青戸にいくつもりで立石駅に向ったのだった。青戸で焼鳥屋の1軒も開拓しておけば、主人にいった口から出任せも、出任せではなくなる──と思ったからだ。だが、電車に乗るのは億劫になり、タクシーを拾うつもりで歩いているうちに、酒屋の前を通りがかった。
自販機でワンカップ大関を2本買い、1本はその場で空けた。流しのタクシーを物色しつつ、あとの1本を呑みながら歩いていると、青砥(あおと)駅は意外に近く高架のホームが見えてきた。どこか駅周辺の呑み屋にしけ込み、時間を潰したら『緑一荘』に戻る、という手筈だったのだが急転した。
突発的に入ったクラブの女と、閉店後に青砥駅で落ち合うことになったのだった。その後は女に任せ、タクシーに乗ってきたのが、堀切菖蒲園駅から平和橋通りを堀切菖蒲園に向っていった、極楽寺という寺にほど近いこのスナックだった。
6、7人掛けたらいっぱいになりそうなカウンターに、ボックス席が3つだけの小さな店で、もちろん女の馴染みの店だった。
胴間声で歌っていた、3人連れのサラリーマンが帰っていき、いまは彼女と隆一の声だけが店の一角を占めていた。ママは、なにか仕込みでもしているのか、ふたりに気を遣っているのか、キッチンに引っ込んでいた。
「堀切……」といわれたときは一瞬躊躇したが、それだけで断るには惜しい相手だった。
それは、いきがけの駄賃みたいなもので、青砥駅を目指して歩いているときのことだった。高架のホームが見える辺りの歩道に寝転んだ酔っ払いを、彼女は介抱していた。
信号機のような3色の小さな電球を、それぞれ縦横に鏤めたケバゲバしい電飾看板の前だった。一目でピンク系の店だとわかった。隆一はそこのホステスと助平な客だと思い、冷やかし半分で近寄っていったのだ。
女は腰を落とし、男のネクタイの結び目に手をやっていた。真鴨色のタイトスカートに強調された形のいい双臀が、隆一の目を捉えた。明滅する原色の明かりに浮かんでは翳る、目鼻立ちのいい顔が、隆一を見上げた。
低俗な店にいることを覆してあまりあるり凛々しい瞳で、隆一になにかを訴えているように見えた。
少し距離を置いた街灯の下で、そこの呼び込みらしい銀紙で作ったようなシルクハットの男が、脂(やに)下がった視線を向けていた。
隆一は無視して声をかけた。
「そんな酔っ払い、タクシーにでも押し込めばいいじゃないの」
「そんな……」
気遣う女の声が聞こえたのか、男は女の膝の辺りに手を置いた。定年間近の中小企業の係長といった感じだった。半ば開いた口から涎が垂れていた。
隆一はその男の二の腕を足の甲で払った。そして、女の手を取って立ち上がらせた。
「俺がタクシーを摑まえてくるよ。そのおっさんを乗せたら、俺と呑みにいくよね?」
困惑した表情を浮かべ、女は俯いた。
「じゃ、待っててよ……」
いうや否や、隆一は駅へと急いだ。数珠繋ぎだったタクシーに乗り込み、すぐさまそこへ戻った。
「おとっつぁん、クルマがきたよ」
隆一は、男の上体を起こした。
「しゅ、しゅまないね」
呂律の回らない男の言葉を無視し、抱えて後部座席に押し込んだ。女も、形だけ手を添えた。
なにかいいたげに、ウインドーを開けた男には構わず、タクシーは走り出した。
「うまいことやったね、おニイさん……」と、シルクハットが冷やかした。
それには耳を貸さず、「これで一件落着だ。では、参ろうか」
隆一は、女の手を取った。
「すみません。まだ、仕事中なんです」
「仕事って、そこのピンサロ? じゃ、キミのこれからの水揚げ分を俺が持つからあのポン引きに断って早上がりしなよ」
その言葉が癇(かん)に障(さわ)ったのか、女は隆一を睨みつけた。そして、急に歩き出して、ケバい店の隣のビルの階段を上りはじめた。
怒ったような目も捨て難かったし、乗りかかった船を降りては男が廃(すた)る。隆一は意地であとを追った。
2階の重厚な扉の前で女は立ち止まると、
「ピンサロでなくて残念ね。ここがわたしの仕事場なの。では悪しからず……」
と、なかへ入ろうとした。
「だったら、一緒に入って待っててあげるよ。キミが終わるまで……」
隆一は、女の手を握った。
「ここはそういうお店ではないの」
女は、隆一の手を振り切った。
「そんなことわかってるよ。たかがクラブじゃないの……」
「…………」
「銀座ならいざ知らず、人情溢れる下町で、なに気取っているんだよ」
酔いが回っているのか、思っていることと逆の言葉が次いで出た。
「そういうお店ではないといってるでしょう」
「じゃ、どういう店だよ。やらずぼったくりか……。そこらの何年何組の組長がやってる店か。だったら、なおいいよ。ヤクザと警察とブスは大嫌いだけど、渡世の行き掛かりでカモになってやろうじゃないの」
「違うといってるのに……」
「いいよ。なんだって……。客を前に勿体ぶるような女を雇ってるような店じゃ、どうせ閑古鳥が鳴いてるんだろうよ。でもキミはブスじゃないから、指名してあげてもいいよ」
そこでドアが開いて、黒のダブルのジャケットの紳士然とした男が出てきた。「いらっしゃいませ」と、いきなり差し出された名刺の肩書きは、マネージャーと刷り込まれていた。
「わたしがいってる塾の本部の、広報プランナーです」と、咄嗟に女はいった。そして、「塾長の紹介で、本日来店の電話連絡を受けていました――」などと、隆一の覚えのないことを次ぎ足した。
怪訝に思って『紫苑』と書かれた電飾看板を見ると、〔Members Only〕の文字が店名の下にあり、ドアのノブにもそのスペルの札が架かっていた。そういうことなら早くいえ、と思って女を見ると、微笑んで目配せした。
「よーしっ、勝ったぞ……」
胸のうちで叫びながら隆一がジャケットを脱ぐと、女は後ろに回りそれを手に取った。
店内は、ドアと同じ重厚なマホガニで統一されたインテリアで、同系色の絨毯が敷き詰められていた。カウンターの前には、まだこぬ客のお出ましを待つ、といった雰囲気の数人の女性が立っていた。いくつか目についたボックス席には客の姿が散見され、それぞれ女性が相伴に与っていた。
奥行のある広い店で、天井に吊るされた古びたミラーボールがゆっくり回っていた。その取り合わせが、いかにも下町らしいと思って見回していると、女が腕を取って促した。
通された席は、突き当たりのグランドピアノが置かれたステージの斜向かいだった。それは、いままで誰かが弾いていたのか、大屋根が突き上げ棒に支えられたままで、その下の響板やヒッチピンが、坐る間際に覗いた隆一の目に映った。
女が持ってきたボトルの、ヘネシーを注いだグラスを掲げたら、どかどかと客が入ってきた。女は無言で立ち去った。
替わりにきたのは、厚い唇にどぎつくルージュを引いた小太りの女性で、興味の湧かないタイプだった。隆一は黙々とヘネシーのロックを舐めながら、語りかけてくる言葉にも、上(うわ)の空で応じていた。それでも間が持たず、相手をおだてながら強引にロックを勧め、酔ったと見るや儀礼的に頬を寄せたりした。
相手がその気になって、隆一の手を取り自らの胸に宛がったところで隆一はグラスを摑み、また黙秘権の行使に入った。
そんな隆一に、相手は媚を売りながらあの手この手で仕掛けてきた。それはまるで、入ったばかりのピンサロのホステスが、営業上のマニュアルを実践しているのではと思えるほどで、白けるばかりだった。
新顔の隆一を、次からの指名客に取り込もうとしていたのだろうか。
初めての店であっても、ホステスの出方次第では、スカートのなかの太腿をまさぐる――ぐらいのスケベ心は抱くのだが、あの女のことが気になって、それはできなかった。虻蜂取らずに終わっては元も子もないという思いが強かったのだろう。最後の一線だけは自重できた。
そんな、中途半端な呑み方で時間を潰していたのだが、あの女が戻ってくる気配はなかった。欠伸(あくび)を噛み殺しながら時計を見ると、すでに11時を回っていた。隆一は、憮然としてチェックを告げた。
立ち上がった隆一に気付いたらしいあの女が駈け寄ってきた。
「愉しかったよ、置き去りにされて……」
隆一が皮肉をいうと、女は目を伏せて詫びる表情を見せ、小走りにカウンターのほうへいった。
「ありがとうございました」
クロークから出てきたマネージャーが、隆一の前で腰を屈めた。
女は、隆一のジャケットを持って、開けられたドアの外に立っていた。「勘定は……」と訊くと女は首を振り、そっと小さなメモを寄越した。
「意外に、ずけずけいうんですね」
隆一の横に並んで坐っている女は、干したグラスを見つめながらいった。
「そうかな。ほんとはシャイで思ったことの半分もいえないんだ」
「そうですか?……。とてもじゃないけど、そうは見えませんね……」
「それはきっと、アルコールのせいだね。だいぶ、酔っているから……」
「わたしにモーションかけたのも、酔ってるから……」
女は、眉根を寄せていった。
「それは、違う……。どんなに酔っていても、美しいものに抱く感情は、いつも正常だ」
隆一は、平然といった。
「その物言いがお上手だというの。これって、女性を誘惑するときのあなたの常套句?」
カウンターに肘をつき、女は隆一を覗き込んだ。真中で分けた癖のない栗色の髪の数本が、濡れて光った唇に架かった。
隆一は、右手でそっとそれに触れた。
女は、それを避けるように背を伸ばし、空(くう)を仰いだ。
流麗な鼻筋の彫りの深いシルエットが浮かび上がり、しなやかな髪が肩の後方に流れた。微かに覗いた、色付いた耳朶が、さらに隆一を魅了した。
隆一は、グラスのブランデーを舐めると、ゆっくりと口を開いた。
「常套句というからには、すでに聞き飽きてるってこと。陳腐でつまらないか……」
「それは、誤解ですよ。あなたの言葉には、それなりの斬新さを感じました。逆説的且つ暴力的で、少し強引ではあったけれど……」
「それは、さっきの青戸のことをいってるの? だったら、それは誰が悪いのかな……。一言説明すればすむことを、怠った人じゃないの……」
「あのときは半信半疑だったんです。もしかしたら、怖い組織の人なのかな……な~んて気がして……」
「そんなわけないよ。怖い組織の人間は、酔っぱらいのスケベを介抱しているようなシロート女に、ちょっかいは出さないよ」
「………」
「『ここは、会員制の店です』といえば、すんだものを……」
「それはそうですけど、なんかわたしからいうのは口幅ったくて、気付いてくれることを願っていたんです。ドアの札に……」
「もちろん、あれには気付いたけど、俺は、横文字はわからないもの。ずいぶん変わった店名だなと思ったぐらいで……」
「もう、冗談ばっかりいって……」
女は右手を上げて、隆一の頬を叩く仕種をした。
「冗談と褌は股にするけど、あまりにキミが邪険にするから、眠っていた嗜虐性が掻き立てられたのさ。だから、粗暴な言葉遣いになった。もうちょっとで、襲いかかるところだった」
「襲えばよかったじゃない」
「本気かね? ということは、キミは被虐の性癖があるね……。それなら少し時間は経ったけど、これからでもいい?」
「なんですか、もう……。どこがシャイなの? その意味取り違えていませんか」
女は隆一を見つめて口許を綻ばせた。そして、「ほんとうに、わたしでよかったんですか」と、真顔で問うてきた。
「そうだよ。キミでなくては駄目だった。俺、青戸は初めてだったし、知らない人より知ってる人と呑みにいきたかった」
「その知ってる人って誰っ……。まさかわたしのことではないでしょう」
「そのまさかよ。あのとき、あそこで知り合ったばかりの……」
「面白い人……。そういうのを唯我独尊(ゆいがどくそん)というんですよ」
「なにっ、いうがどくしん……? だって、俺はシングルだもん」
「ふっふふっ。ほんとに面白い。あなた、コントの台本でも書いたらいいわ」
「そうかね。明日からそうするから、ご指導してよ、センセー」
「いいですよ、私でよければ……」
笑顔を見せると女は、
「でも、わたしはヘルプだから、正直にいうと助かったのよ。自分のお客さんがきてくれて……」
と次いで、隆一を見つめた。
「自分のお客さんて……。まさか俺のことじゃないよね」
「そのまさかよ。あのとき、あそこで知り合ったばかりの……」
「なによ、それ……」
「ふふふっ、これでお相子ね」
ふたりは、顔を見合わせ笑った。
青戸の店と違い、女はパンツスーツに着替えていた。衣に包まれた足も、その長さが強調されて隆一の目を引いた。
「じつは、最初はキミを冷やかすつもりだったの。あのピンサロの人だと思って。そしたら、あまりにも綺麗な人だし、かいがいしく酔っ払いを介抱しているし、もしかして不倫カップル? と興味が湧いてきたんだよ……」
「………」
「キミは、なにかいいたげに俺を見つめていたし、男を引き離してやれば、俺と付き合ってくれるという予感がした。不倫するような人なら、相手はひとりよりもふたり……つまり相手が多いほどいいんじゃないかな、と思えてね」
「ずいぶんなこじつけだこと。仮に不倫だとして、相手が多いほどいいとは、どういう根拠」
「ふたりでするから不倫――なんちゃって……」
「ふふふっ。冗談だけかと思ったら、ダジャレもいうんですね。ちなみに、3人はなんというのかしら……」
「そうねぇ。不倫にひとつ足せばサンリン……。そう、3輪車だよ。昔にソープで、流行った言葉じゃない、ピンサロの花びら回転とともに……。それは、確か3Pともいったはずだ……。したことある?」
「あるわけないでしょう、そんなこと」
「今度する? 誰か誘って……」
「いやだーっ。誰をなんといって誘うんですか」
「奥にいるじゃない。恰好の生贄(いけにえ)が……」
ちょっと、冗談がきつかったか、と反省したときは遅かった。
「ママのこと? よーし、いいつけちゃおうっと……」
女は、清ました目で隆一を見据え、「この人、ママとエッチしたいといってるわよ」と、黄色い声を上げた。
「なーに、みゆきさん、大きな声を出して……」
驚いたような表情で、ママが玉暖簾の向こうから現れた。
「なんでもないです。一緒に呑みましょうって、みゆきさんが……」
と、いって彼女を見ると、潤んだ目で隆一を凝視していた。
青戸の店では「マキ」と呼ばれていたが、それは当然源氏名だろう。
隆一は、彼女の姓を訊いた。
「うづき」と彼女はいい、「陰暦の4月の卯月で、みゆきは平仮名です」と、付け加えた。
「なにっ、陰唇の4月。うづき、うづけば、うづくとき……。あー、いい響きだ」
彼女の耳元に口を寄せ、隆一は囁いた。
「なによ、もうっ」といって、みゆきは隆一の手の甲を抓(つね)った。
「いたっ」と、隆一が声を上げると、「みゆきさん、苛めちゃ駄目でしょ」と、ママが冗談っぽく窘(たしな)めた。
「だって、これがエッチばかりいうんだもの」
みゆきは、拗ねた顔をしていった。
「彼氏にこれ……とはなんですか」
「だって、名前知らないんだもん」
みゆきはいって、また隆一に目を向けた。
「知らないわけないだろうよ。いまをときめく、学習塾の広報プランナー様を……」
「そうなの、みゆきさん? なのにお名前知らないって、へんじゃない」
「違うのよ。わけあってわたしがそういったんだけど、ほんとうに知らないの」
「とても信じられないわ」
ママが、目を丸くした。
「名前も年齢も、恋愛の必須条件じゃないから、知る必要はないよね、みゆきさん」
みゆきは、笑みを浮かべて頷いた。
そこで隆一は、「俺はね…」と、自分の名を告げた。
「どんな字を書くの」と訊くみゆきの掌に、隆一は人差し指で自分の姓名をなぞった。
「もしかして、あなたたち今日が初めての出逢い? 10年来の恋人同士のような、仲睦ましさに見えるのに……」
ママは、交互にふたりの顔を見た。
「ほんとうは、そうだったりして……。ね、りゅうさん」
みゆきはそういうと、撓垂(しなだ)れ掛かってきた。
「りゅうさん」なんていわれたうえに身を寄せられて、隆一は上気した。淡いリンスの匂いに包まれながら、周りを見回した。客がいなかったことを改めて知り、ホッとした。
「美男美女には、いつも良縁がついて回るのね」
ママがいった。
「縁なんて、誰にも平等に訪れますよ。誰も、それに気付かないだけで」
視線を逸らして、隆一はいった。
「でも……」
「でもって、なんですか」
「………」
ママは、詰まって俯いた。
「縁は、みんなにえんえんに訪れますよ」
みゆきがシャレで割って入った。
ママと隆一は、思わず顔を見合わせて笑った。
それがなければ、ママとたわいない議論をはじめていたかもしれない。そんな、微妙な雲行きを逸早く察知し、正鵠(せいこく)を射た笑いでみゆきは間を取ってくれた。
思えば、数時間前、青戸の店の入口で絡んでいた隆一を、みゆきは当意即妙にマネジャーに紹介、窮地を凌いだ。
これは、臨機応変の的確な判断力がなければできないことで、彼女の怜悧な側面を端的に表わしていると隆一は感じ入った。
「では、素晴らしい出逢いを祝して乾杯しましょう」
みゆきの言葉で、3つのグラスが合わされた。静かな店内に、カチッ、カチッ、カチッという音が響いた。
みゆきが席を外した隙に、隆一はこのボトル代といって、万札1枚をカウンターの上に置いた。いいですよと固辞するママを制し、無理に手に握らせた。青戸の勘定もすませていないし、そのことも気になっていた。それもあって、みゆきはここへ誘ったのかもしれない、という思いもあったのだ。
「あとの分も、俺にいってくださいね」と、念を押した。
ママはひとりでに、みゆきとは同郷で、商売抜きに付き合っていること、みゆきが掛け持ちでいくつか仕事をしていることなど、教えてくれた。
「これから、たまに寄りますから、よろしく……」
その言葉に、「みゆきさんといらしてね」と、ママは笑顔でこたえた。
「お歌でもどうですか」
みゆきが席に戻るのに合わせて、ママはいった。
「りゅうさん、歌いましょうよ」と、みゆきが応じた。
隆一は、しばらく歌っていないし、渡された分厚い本で顔を隠した。
「では、選曲の間に先に歌います」と、みゆきがマイクを手にすると、すぐにママがリモコンで曲を入れた。
♪ Long ago and oh so far away ~
切ないメロディに乗せたみゆきの歌声が流れはじめた。それは、カーペンターズの『スーパースター』だった。
♪ Don’t you remember you told me you love me baby ~
澄んだ張りのある声で、みゆきはサビの部分も流暢に歌いこなした。
英語の不得手な隆一も、この兄妹デュオは好きだったし、アルバムもよく購入しては聴いていた。それだけに、上手か否かはすぐにわかった。
隆一は、このアーチストのナンバーは、これはもちろんみんな好きだったが、なかでも、アメリカでは結婚式の定番ソングといわれている『愛のプレリュード』をはじめ『雨の日と月曜日は』『サムタイム』『遥かなる影』などが気に入っていた。とくに、あのヘンリー・マンシーニがカレンのために書いたという『サムタイム』の、ボーカルとピアノの旋律には痺れたものだった。
「うまいね。胸にジンジン響いたよ」
みゆきは、隆一の言葉に照れたように笑みを作り、ペロッと舌を出した。
「これはロック・スターを追いかける健気(けなげ)なグルーピーを歌ったものだけど、それにしても、よくこの曲が入っていたね。確か、これは俺が二十歳(はたち)になるかならないかの頃のヒットナンバーだよ」
「これと『トップ・オブ・ザ・ワールド』は、みゆきさんの十八番(おはこ)なの」と、ママが説明した。
「そのとき、その年齢ということは、えーと……」
みゆきは、指を折る仕種をしていた。
「そうだよ。江戸時代だったら、寿命といわれた歳にあと少しだよ」
隆一はいって、笑った。そして、「でも、みゆきちゃんの年代でカーペンターズとは驚きだね。よっほどの思い入れがあるんだ」と、次いだ。
「そうなの。初体験のときに流行っていたナンバーなの」
みゆきはいって、声を出して笑った。
ママも追随した。
「ずいぶん早いじゃない。名前のとおり、子供の頃からあそこが疼いていたんだ」
「なによ、もう。シャイが訊いて呆れるわ。そういうのは、シャイじゃなく卑猥(ひ わい)というの……」
みゆきは、上目遣いで隆一を睨んだ。だが、その目には怒りの色はなかった。
「すみません。生れつきなもので。でも、図星だったりして……」
「違いますよーだ……。でも、そのとき経験していたとしても、決して早くない年齢よね、ママ」
「わたし、それにはノーコメント。純潔は崇高なものだと信じている人だから……」
「ほー、それもいまどき珍しいね。どうぞ、永遠に守り続けてください。そのうち、重要無形文化財に指定されますよ……。ところで、お生まれになった年号は?」
ママは唇を噛んで、バー・スプーンを振り上げると、隆一を凝視した。しかし、すぐに笑顔になった。
「失礼だわね、ママ……。この卑猥な男を、ふたりでやっつけようか」
みゆきは立ち上がると両手を翳し、隆一の首に近づけた。
「ごめん、許して……。3Pには、まだ早いでしょうが……」
隆一は、冗談で切り抜けた。
「でもね、初体験のことは冗談だけど、あの曲が流行ったとき、わたしは高校1年だったわ」
みゆきは隆一を見つめ、当時を懐かしむようにいった。
「それは、マジに驚いた。俺とひと回りは違うだろうと思ってたもの」
これは、隆一の本心だった。
薄い化粧の頬は、剥(む)きたての白桃のように瑞々しくて、とてもその年齢には見えなかった。そうなら、隆一とは5つぐらいしか違わない、ということだ。急に近しくなったような気がした。
当時が、ふと隆一の脳裏を過った。
――講義に出るわけでもなく、かといってバイトするわけでもなく、活動家の仲間に引き摺られながら、あちこちの学生集会に顔を出していた。そして、夜になればジャズ喫茶やコンパ、スナックなどを徘徊し、ゆきずりの相手に一夜限りの快楽を求めた。気に入れば、そのまま住み付いたことも幾度もあったし、厭(いや)になれば黙って抜け出した。
名ばかりの大学生など、さっさと見切りをつければいいものを、地元の県庁のお偉方と幼馴染みという叔父の計らいで特別奨学金を受けていたことと、学費の一部を援助してくれている姉の手前、籍だけは残しておかねばならなかった。それが、働く意志などさらさらない隆一の、唯一の遊興費だったのだ。それだけではもちろん足りず、遊ぶための軍資金を捻出するためには、肉体労働も厭(いと)わなかったから不思議だ。
その頃は、自暴自棄になっていた。その引鉄(ひきがね)となったのは、自分の前から忽然と姿を晦(くら)ました、ひとりの女性だった。その名前だけは、生涯忘れないだろう。
――南九州の鹿屋(かのや)市の高校生となった隆一は、1学期が半ばになった頃、汽車通学の車内でひとりの女子高生を見初めた。だが、想いを伝えるには、往も復も乗車する駅も下車する駅も違ううえに、同乗していられる時間も僅か10数分という悪条件だった。
朝は、毎日、2輛連結の後方の車輌の、最後尾のドア付近に立って本を読んでいる彼女に、どうやって熱い胸のうちを伝えようかと、寝ても覚めてもそればかりを考えるようになった。
そんなある日、幸運が訪れた。滅多に乗らない、たまたま早起きして乗った1番電車に、彼女が乗ってきたのだ。早起きは三文の得――という諺(ことわざ)を実感したのは、そのときが最初で、おそらく最後だろう。
午前6時半にA駅に停まる1番電車の車内は空いていた。チャンス到来とばかりに、隆一は彼女への接近を試みた。そこまでは首尾よく運んだのだが、彼女と目が合った途端に足が竦(すく)み、沈黙してしまうという体(てい)たらくで、下車するまでなにもいえなかった。意気地なし……と自分を蔑(さげす)んだ。
以来、想いは伝えられぬまま数ヵ月が過ぎていった。なにも手につかなくなり、食欲さえ減退していった。それでも諦められなかった。逆に、彼女への恋慕は、死にたいくらいに深まっていった。名も知らぬ彼女にそれを伝える術(すべ)は、手紙しかない――。苦悶の末に、隆一はそう決心したのだった。
だが、熱い胸のうちを表現するには、語彙が貧困過ぎた。隆一は、連日連夜、死に物狂いで詩や小説を渉猟(しょうりょう)、愛の言葉を漁った。そして、書いては破り、破っては書くという鏤刻(るこく)を続けていった。
理知的な彼女への思慕の念は、数枚の便箋で書き尽くせるものではなかった。それでも、彼女の心を射止めるためなら、それを永遠に続けても悔いはない、と本気で思ったものだ。
万感胸に迫る想いを込めた、満足のいく手紙を書き上げたのは、2学期がはじまってひと月経った頃だった。初秋の闇が降りたある日、彼女の乗降駅のA駅で途中下車した隆一は、そこの自転車置き場で彼女を待ち伏せ、それを手渡した。可憐な大きな瞳が、薄闇のなかで輝いたのを隆一は見逃さなかった。
返事はすぐにきた。隆一の希望どおり、学校宛に……。天にも昇る思いで、隆一はそれを、その日の日記に丸写しした。
隆一の脳裏に刻まれたその愛の綴りは、数10年経ったいまも消えていない。
――詩情豊かな書き出しに込められた純粋な想い……。いくつかの行(ぎょう)を追ったわたしの瞳は、1等星のように輝くあなたのイメージで覆われてしまいました。この続きは、空から舞い降りてきたあなたの分身が、耳もとでささやいてくれる――そんな気がして、星空を仰いだわたしです。
でも、早くその先を読みたい――一方で込み上げてくる、欲張りな思い……。
わたしは、1行読んでは両手を合わせ、星に祈ったのです。ふたりっきりで話せる日が、早く訪れるように……。
星って、なんて優しいのでしょう……。そんなわたしの願いが届いたかのように、鮮やかにきらめきを濃くすると、光の尾をたなびかせながら頭上を流れていったのです。
きっと、あなたもどこかでいま、わたしと同じ星を見ている――。
そう思うと、あなたとふたりで流れる星に乗って、夜空を舞っているような、そんな感覚にとらわれてしまったのです。
あなたが開いてくれた、自分でも気づかなかったわたしのこの胸のうち……天頂で輝くペガスス座に託しました。
静謐な空で輝く、あなたの分身のような星に、わたしの想いを届けたくて……。
忘れえぬラブ・ストーリーのヒロインのようにときめく胸――小刻みに震える指先――これは、あなただけに捧げたい、わたしの心のメッセージです。
この想いが届いたら、きっとあなたは天馬・ぺガススに乗ったペレロボン王子のように、立ちはだかる邪魔者たちを撃退しながら、わたしを迎えにきてくれるのでしょうね。
きらめく星には、わたしは遠くおよびませんが、降り注ぐ星影のようなあなたの愛が、わたしを夢の国に運んでいってくれる――そんな予感がしています。わたしはいま、星に祈っています。その日が早く訪れることを――。
安丘洋子
中園隆一様
それで、初めて彼女の名を知った。
いま思えば滑稽の一語に尽きるが、1対1の男女交際が発覚すれば停学は免れないといった封建的な校則で、デートするのは至難の業だった。それを回避するには遠出しかなく、高校1年を終えた春休みに、ふたりはそれを敢行した。
鹿屋からバスと船を乗り継いで、2時間余りをかけてふたりで鹿児島市内にいき、天文館で映画を観た。それは、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの『ひまわり』で、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の晩年の作ということだった。名作の誉れ高いあの『自転車泥棒』も彼が撮ったということを、数年後映画専門誌を見て隆一は知ったのだった。
――コミカルに描かれた前半とは対照的な、戦争に赴いたまま帰らぬ夫・アントニオをその戦地・ソビエトに探しにいった、ローレン扮する健気な妻・ジョバンナが味わう衝撃の結末に心打たれ、ふたりで涙した。ともに、初めて観た洋画だったが、とりわけあの壮大なひまわり畑に感激したことを憶えている。
そのあと、南日本放送の人気番組だった『ユアー・ヒットパレード』の公開生放送を聴きにいった。シルヴィ・バルタンの『あなたのとりこ』クリスティの『イエロー・リバー』、ディオンヌ・ワーウィックの『恋よ、さようなら』、ドーンの『ノックは3回』、ニール・ダイアモンドの『スイート・キャロライン』、オリジナル・キャストの『ミスター・マンディ』などなど、当時のヒット・ポップスに、ふたりで聴き惚れた。
早速そのあとレコード店に寄って、安丘洋子はホセ・フェリシアーノの『雨のささやき』を、隆一はジリオラ・チンクェッティの『雨』を買った。期せずして『雨』を冠した曲名だったが、いずれも世界的にヒットチャート上昇中の、ふたりがお気に入りの曲だった。
ふたりでいる時間は矢のごとく過ぎて、薄暗くなってから市電に乗り、垂水(たるみず)航路の桟橋を目指した。幸か不幸か、そこに着いた時は最終の連絡船は出港したあとだった。互いに無言のまま闇に包まれた防波堤の突端に佇み、打ち寄せる波の音を聴いていた。
買った2枚のレコードの曲名が天に届いたのか、ムードを盛り上げるかのように雨が落ちてきた。寄り添って、薄闇に浮かんだ桜島のシルエットを眺めているうちに、2つの唇は互いの温もりを確かめるように重なっていた。
そのあとふたりは、雨のなかを寄り添いながら市電通りまで引き返し、天文館へ舞い戻った。
そぼ降る雨に煙るネオン街を、どれだけ彷徨っただろうか。いつしか、西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)にいた。このままふたりで、プラットホームを離れようとしている東京行きの夜行寝台列車に乗れたなら、どんなに幸せだろうか、と思ったものだ。
どちらからともなく、またふたりは歩きはじめ、気が付いたら駅の裏の、淫靡(いんび)な明かりが靄(もや)に煙る旅館の前にいた。濡れた躰を寄せ合い、目と目で頷き合うと、ふたりはそこの門をくぐった。ちなみに、ふたりとも制服姿だった。
進路の違いから、高校卒業とともに離れ離れになったが、隆一の想いは、それで霧消するほど希薄なものではなかった。二十歳を過ぎて東京で働く安丘洋子を、隆一は探し当てた。電話でのデートの誘いを、彼女は快諾した。
持って生まれた美貌を、東京できわめていた彼女は、さらに隆一を夢中にさせた。だが、デートを重ねて数カ月経ったある日、突然、音信不通になってしまった。すべてにおいて隆一を凌駕した彼女は、ヒッピーまがいの恰好で、学生運動の真似事に現(うつつ)を抜かしているような男は、所詮自分の相手ではないと断を下したのだろう。
最後となったデートのときの彼女の瞳は、通学の電車のなかで隆一を虜にしたそれと違い、どこか妍(けん)があるように隆一には感じられた。これは、彼女の無言の別離の宣告だったのだろう。
これが、良きにつけ悪しきにつけ、隆一を変えた。
それでも当時は、なにごとにも刹那的ではあったが、負けん気と行動力だけは喪っていなかった、と思う。哀しいかな、いまはそれも潰(つい)え、先輩にいわせると “水晶の削り屑 ”と化してしまった。
この現実に、危機感を抱くこともなく、平然と唾(つばき)で矢を矧ぐような日々を送っている――。もはや、救いようがないなと思った。
隆一は、姚子と暮しはじめる前に、この安丘洋子のことを記憶から抹消するために敢えて打ち明けたのだった。
「………だから、キミはふたり目のようこになる」と……。
姚子は、「まさか、名前で女性を選んでいるわけではないでしょう」と大らかに笑いながら、「わたしは、そのようこさんには負けないわ」と大見得を切った。その言葉が、隆一の我儘をのさばらせることになったのかもしれない。それに耐えていた姚子も、結局は匙(さじ)を投げた――。
隆一は、胸の悼みを紛らすように、注ぎ足したブランデーのグラスを呷った。
「どうしたんですか、急に黙り込んで……。よかったら、あなたの思い入れのある歌を聴かせてください」
みゆきが、頬を寄せていった。
♪ 二人だけのメモリィー 何処かでもう一度~
※「いちご白書」をもう一度/荒井由実
歌い終った隆一の額には、汗が滲んでいた。大きく息を吐いて、氷が融けて水っぽい液体を一気に咽喉に流し込んだ。
「これは『バナナ白書をもう一度』という曲ですよね? この頃だったんですか、初体験は……」
おしぼりを、隆一の頬に当てながら、みゆきはいった。その目は笑っていた。
「おやっ、そのフレーズよく知ってたね。もしかして、週刊プレイボーイの愛読者だった」
「いいえ……。でも、どうして……」
隆一は、「べつに、知らなければいいよ」といって、続けた。
「バナナ……じゃないけど、初体験はこの頃だね……。といっても筆おろししたのがじゃなく、ゲバ棒手にしたのがだよ」
「ふーん……。もしかして、筋金入りの全共闘だった?」
「そんな正当なものじゃないよ。どこにでもいる、ただのアウトローさ。でも、当時は、左翼でなければ若者に非ずという風潮があったし、みんな理不尽な権力には屈しないという闘争心だけは持ってたね」
「そういう経験を積んでいる男性のほうが、骨っぽくて魅力がありますよね」
ママが持ち上げた。
「それは、筆おろしのことをいってるんでしょうか」
「いいえ、そんな……」
ママは、あまり呑んでいないのか頬を染めて俯くと、笑いを噛み殺した口許を両手で押さえた。
「ま、どっちにしても棒の話しだから、構わないけどね……」
みゆきも下を向いて、クスクス笑い出した。
すでに午前1時半を回っていた。
「さて、そろそろいこうかな……。これ以上、レディを引き留めておくと怒られそうだし、腹も減ってきたし……」
「怒る人はいないけど、お腹(なか)が空いたのはわたしも同じ。ねえ、冷や麦食べませんか……。ママ、ふたつお願いね」
みゆきは、隆一が返事をする前に、頼んでしまった。
「ごめんなさい、今日は切らしちゃってるのよ。コンビニのでよければ買ってくるけど……」
「いいわよ、それで……。ね、りゅうさん」
それをいい終えぬうちに、ママはドアの外へ消えていった。
「ねえ……りゅうさんって、どこまで帰るんですか」
「住んでいるというか、寝泊りしているのは文京区の向丘(むこうがおか)だけど、今日はそこには帰らない日なの」
「まだ、呑むんですか……。だったら、わたしもついていこうかな」
「呑みにいくんじゃないよ。悪い遊びをしにいくの。だから、美女はいかれない」
「ということは、さっき話した3輪車?」
みゆきは、目を細めていった。
「興味あるの」
「ううん。そういうことをするあなたに興味あるの」
「でも、そうじゃないから安心して……」
「そう。よかった」
「ちょっと電話してみるよ。そこがやってなければ、どこか一緒にいこう」
そうこたえて隆一はトイレに入り、『緑一荘』に電話した。ママが出て、迎えにいかせるからきて欲しい――とのことだった。隆一は、落ち合う場所と、時間をいって電話を切った。
「残念だけど、やってるようだ。キミとは次の機会にしよう」
みゆきは、頷いたあと視線を落とした。
電話しなければよかった、という気もしたが、いまはあの人に逢えるという期待のほうを優先させたかった。それが果たせなくても、麻雀があるのだから……。
「よかったら、携帯の番号を交換しよう。見てのとおりのオジンだけど気持ちは青年だから、今度一緒に盛り上がろうよ……」
「オバンでよければ構いませんことよ」
みゆきは笑顔でこたえ、紙片にペンを走らせた。
「嬉しいことをいってくれるじゃない。ますます気に入ったよ」
「近いうちに、お食事でもいかがですか」
「いいね……。キミとなら、朝ご飯も一緒に食べたいな」
「…………」
みゆきは、目許を朱に染めて隆一を見つめた。
瞬きもせず隆一も、それに応じた。
みゆきの朱の色は、見る間に頬の辺りに広がっていった。それは、アルコールのせいだけではなさそうに思えた。しばし、沈黙が流れた。そこにママが戻ってきた。
ほどなく、ふたつのガラスの器が並んだ。
食べ終わったところで隆一は、みゆきの耳許で囁いた。
「グッドラック、うづきマメ」
それに対して、笑いを含んだみゆきの声が隆一の鼓膜を震わせた。
「シーユーアゲイン、バナナ白書」
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