毛皮のコートが欲しい季節
島 俊作
第1話 失 跡(しっせき)
悔やまれた。いけばわかるだろうと高を括って、相手の道案内を遮るような生返事で電話を切ってしまったことが……。その近辺で呑んだことがある――。
電話の途中で甦(よみがえ)った、遠い記憶の最初の一齣(ひとこま)がこの駅だったのだが、目にしたそれは、まったく別のものだった。
その近辺で呑んだ……といっても、20年も前のことだ。歳月は、街も人も変えずにおかない。まして、ここは、世界に冠たる東京だ。下町とはいえ変わっていないほうがおかしい。昔の曖昧(あいまい)な記憶を頼りに、迂闊にこたえて電話を切ってしまったことが悔やまれた。
「改札を出たら、線路沿いの道を環七(かんなな)のほうに向ってください。少しいくと右手の路地の角に駄菓子屋があります。そこにうちの看板が……」
確か、電話の声はそういった。だが、右にも左にも、線路を挟むように同じような道が続いているのが、ホームから見回しただけでわかった。
この駅は、線路の左右の通りを繋ぐ跨線橋の中央に改札口があるという構造で、右にいっても左にいっても同じ通りに出る。
右か左か……電話の相手は、肝心かなめのことには触れなかった。もっとも、その前に電話を切るよう仕向けたのは自分のほうだから、他人(ひと)のせいにするのはお門違いか――。
隆一(りゅういち)は、自嘲しながら再び周りを見回した。いまになって、そのときはタクシーできた――ような気がしてきた。だとすれば、このホームに降り立ったのも、初めてということになる。
ホームからの階段を上がった、通路の途中にあるドリンクスタンドや立ち食いソバ屋を横目に見ながら自動改札口の手前までくると、隆一は歩を止めた。改札口の向こう正面の壁に、駅周辺の略図が描かれたアクリル板が貼ってあるのが目に入ったからだ。
後ろからきた人に押し出されるように自動改札口を抜けると、隆一はその前に歩み寄った。
案の定、ホームから見回して想像したとおりの同じ幅の道が、線路を挟んで続いているのが示されている。一様に、駅周辺の丁目と番地が表示されてはいるが、電話で説明された駄菓子屋の類を示すものはなにもない。やっぱりな……と隆一はつぶやきながら、額にハンカチを当てた。
環七のほうに……といわれたが、それがどの方角なのか略図には書かれていない。他人に訊くには抵抗があるし、いまさら、先方に電話するのも癪(しゃく)だと思った。
隆一は、とりあえず乗ってきた押上(おしあげ)方面行き上り電車の、進行方向の右側に出ることにした。まかり間違っても、引き返せばすむことだと、急に物わかりがよくなって、湿気たハンカチをズボンの後ろポケットに押し込みながら階段を下りた。
電話の声のとおり、線路沿いに歩いていった。いまは、「右手の路地の角……」という言葉だけが頼りだった。ということは、線路を左に見る道に違いない。よもや、線路を右に見る道で、「右手の角……」とはいうまい。だとすれば、同じ線路沿いでも2カ所に限定されるわけだ。いま歩いている道でなければ、180度逆にいけばいい。時間は、たっぷりあるのだから……と思ったら、少し気が楽になった。
初めて田舎から上京してきた子供のように、キョロキョロ辺りを見回しながら、路地の角に差し掛かるたびに目を凝らした。だが、大衆食堂や雑貨店、シャッターが下りた呑み屋の類が目に付くだけで、駄菓子屋らしき店はなかった。
隆一は、いましがた思ったことはすでに頭になく、自分の勘の悪さを恨んだ。
6月も中旬に入ったというのに空梅雨(からつゆ)が続いていた。
部屋を出たときは雲間に隠れていた太陽は、電車に乗っている間に姿を現したようで、いまは真上から照りつけていた。少し歩いたばかりの躰(からだ)は汗を噴き出し、麻のジャケットの下の、シルクのライトカラーのシャツは背中にへばりついていた。
だが、いまさら上着を脱いだところで、歩くのに邪魔臭いだけだ。
擦れ違う中年の女性やスーツのサラリーマン風の男性も額(ひたい)に汗を浮かべ、足を引き摺るように歩いていた。
隆一は、赤や青の鮮やかな色の自動販売機が並ぶ酒屋の庇(ひさし)の下で足を止めた。そして、提げてきた真赤な紙袋を地べたに置いて再びハンカチを取り出すと、額から滴る汗を拭った。薄手の綿の布切れは、ぐっしょりとなった。
缶ビールの自販機の前に立ち小銭を漁っていると、踏切の警報機の、湿ったような電子音が聞こえてきた。隆一はビールを自重し、摑んだ硬貨を小銭入れに戻すと、紙袋を手にゆっくりと足を踏み出した。赤い電車が、轟音(ごうおん)を上げながら近付いてきていた。
軽自動車でも、擦れ違うには困難をきわめるような狭い踏切を、トラキチが喜びそうな、黄色と黒色の縞模様の棒が遮っていた。
隆一は、その前に立って、電車を遣り過ごした。
耳を劈(つんざ)くような金属音と、焼鈍(やきなま)しをしたばかりの鋳鉄のような匂いを含んだ生暖かい風に包まれて、一瞬、朦朧(もうろう)とした。
ふと目を遣った、踏切の向こうの右手のビルの前に、数本の幟(のぼり)が立っていた。紅蓮(ぐれん)の地に、目玉の商品名やその特価を示す数字が羅列されたそれらは、電車が巻き起こした風に翩翻(へんぽん)とひるがえっていた。どこにでもある、ハンバーガー・ショップのそれだった。
渇いた咽喉(のど)を潤すには好都合だと隆一は思い、踏切を渡る足を早めてそのビルの前に立ち、店内を窺(うかが)った。芳香とは言い難いハンバーガーの匂いが鼻を突いた。
なにげなくその隣のビルを見上げると、美容院らしい2階のそのまた上の、ガラス窓に躍る文字に目を奪われた。
『緑一荘(りゅーいーそー)』と勘亭文字で書かれた鮮やかな緑の色のその店名の下には、リーチ麻雀という赤い文字が添えられていた。麻雀劇画で見るような、ユニークな店の名に思いを馳せながら、好きではない匂いには目を瞑ることにして、隆一はガラスの自動ドアのなかに入っていった。
アイスコーヒーをオーダーして、誰もが敬遠するレジの前の、空(す)いた4人掛けのテーブル席に坐った。
上着を脱ぐと、汗を含んだシャツにエアコンの冷気がもろに当たり、寒いくらいだった。紙コップを口に運びながら週刊誌に目を遣り、汗が引くのを待った。
シャツが乾いたところでそこを出た隆一は、先ほど辿ってきた向かいの通りを、駅のほうへと向かった。
線路をくぐる地下道の入口を過ぎると、そこから直角に伸びた路地の左側の角地に、イトーヨーカドーがあった。
線路に面した通りには、大手スーパーに対抗するかのように、魚屋や惣菜屋などの小さな店が並んでおり、買い物篭を携えた主婦らしい人たちの姿があった。
下町の商店街の、どこでも目にする光景だが、それは、隆一が遠い昔にきたときに、脳裏に焼き付けておいた一齣を再び甦らせた。
スーパーの脇の路地を入った辺りが、1度いったきりで終わった小料理屋だったのでは……。そんな感慨に浸りながら、隆一はさらに歩を進めた。
ふと目を遣った通りの前方の右手に、線路に直角にアーケード街が拓けているのが見えた。そこをくぐってきている道は線路を横切り、その向こう側の商店街を貫いていた。
どこから現れたのか、白地にブルーのドット柄の、揃いのブラウスが眩(まぶ)しい4人の女性が、隆一の前を横切った。見るともなしに見た後姿は、ブラジャーのホックが透けて見える化繊らしい薄手のブラウスで、さらに、お仕着せらしい紺のタイトスカ―トは、それぞれの、腰から臀部(でんぶ)にかけての弛(たる)み気味のラインを浮き彫りにしていた。
瞥見(べっけん)した4人の顔立ちは、年嵩(としかさ)がいってる割には化粧が濃い。決して、センスがいいとは言い難い、会社のトップが定めた制服に身を包まざるを得ない、彼女たちの気持ちがその化粧に表れているようにも見えた。
もっとも、一様に髪を茶色に染め、きつい香水の匂いを振り撒きつつ我が物顔で闊歩(かっぽ)している姿を見る限り、社長のセンスが末端まで浸透している――という気がしないでもない。
そんな隆一の想いをよそに、周囲に憚(はばか)ることなく彼女たちは声高に喋りながら、アーチの下へ消えていった。
そのあとを、上着を手にしたネクタイ姿の中年の男性が、なにやら叫びながら追っていた。
それと入れ替わるように、黄色いヘルメットに代赭色(たいしゃいろ)の菜っ葉服の、真っ黒に日焼けした3人の男たちが姿を現した。
派手な袋を提げて近付いた隆一に彼らは一瞥をくれながら、踏切を渡っていった。
真っ当な職に就いている人間には、愉しい昼休みのひとときらしく、人の流れは間断がなかった。
隆一は、昔の自分のサラリーマン時代を思い出しながら、陽が届いていないアーケード街の入り口の、ドラッグストアの壁に身を寄せた。
灰色の雲に蔽われたかと思えば青空が覗くといった、降りそうで降らない湿度の高い昼下がりで、隆一の額にはまた多くの汗の粒が浮かんでいた。
水気を含んだままの布切れを額に這わせ、目を落としながら踏切に歩み寄った隆一は、視界を水平に貫く線路の右のほうを目で追った。
強い陽光を受け、鏡のように光っている4本のレールは、左に緩やかな弧を描きながら、その前方はビルの間に沈めていた。
その、線路が隠れる辺りの右手の角地に、偉容を誇る淡いブルーのタイルの外壁の高層マンションが建っていた。そこの、路地を挟んだ手前の角に、棟の丸瓦の左部分が陽射しに光る、こぢんまりとした切妻(きりづま)の平屋があるのが見えた。
それが件(くだん)の駄菓子屋だという気がして、隆一は早足で向かった。
そこの前の通りには、色とりどりのシャツに半ズボンといった出で立ちの数人の子供がたむろしており、それぞれが冠った赤や青の野球帽が小さく揺れて見えた。近付くにつれて、店先に置いてあるPOPは、マニア垂涎(すいぜん)の『ぺコちゃん』だということも視認でき、隆一の思いは確たるものとなった。
杏飴と伸しイカが入り交じったような香りが、店先まで漂っていた。土間には、一世を風靡したインベーダーゲーム機が置かれ、それを挟むように、干乾(ひから)びた雛壇(ひなだん)が両の壁際に据えられていた。その上には、麩菓子やキャンディが入った透明のプラスチックの容器に加え、鮮やかな色の袋のスナック菓子などが散乱していた。
奥の上がり框(かまち)には、店主と思(おぼ)しき白髪の目立つ老女が腰を下ろし、数人の子供の相手をしているのが見えた。ふと目が合った隆一に、彼女は会釈をくれた。
ここが、電話の相手がいった駄菓子屋に間違いないと隆一は確信し、通りの子供たちを縫うように右に折れ、路地に面した店の板壁を見た。
果たして、そこには全面が白く塗りつぶされた3×6大の長方形のトタンの看板が横位置に貼られていた。上部の、〔お客様の希望をかなえて50年――〕と、左から右に大書された真紅のキャッチフレーズの下には、左端より腕時計、テレビ、カメラ、ネックレスといったイラストが並んでいた。
さらにその下には『㈱小山内(おさない)商事』という明朝体(みんちょうたい)の屋号と電話番号が黒ペンキで示され、それに続いて、「ココ入る次の右向こう角」という赤地に白く抜いた文字が、矢印とともに加えられていた。
「お客様の希望をかなえて――か……」と隆一はつぶやきながら真っ直ぐ進み、右に路地が延びるT字路の手前で立ち止まった。
看板に示された向かいの角地は、花崗岩のような石垣で囲われていた。その内側からは、等しく間隔を保った3本の幹が、屋根の高さを凌ぐほどに伸びていた。少し歩いて見上げると、綺麗に剪定(せんてい)された折り重なった枝葉は、さながら青海波(せいかいは)のようだった。
その左の木の向こうに、入母屋(いりもや)の棟と漆喰(しっくい)の破風(はふ)が見えた。
規則正しく葺かれた鼠色の桟瓦は、眩しいほどに輝く鬼瓦や巴瓦と相まって、燻(いぶ)し銀のような諧調の妙を見せていた。その左側には、それより一間(いっけん)ほど低い、寄せ棟の屋根が隣接していた。
右手の路地に沿って続く石垣のなかほどにある冠木門(かぶきもん)は、周りを睥睨(へいげい)するかのような植木とともに、近隣の家屋との格の違いを如実に表わしているかのようで、まさに、旧家且つ素封家(そほうか)といった趣だ。
隆一は、自分の目的を叶(かな)えるには格が違い過ぎるのでは、という不安を抱きながら通りを真っ直ぐ進み、勝手口というには立派過ぎる渋い木目の欅(けやき)の門柱に目を遣った。
右側のそれには屋号が彫られ、左側には主人らしい代表者の≪小山内龍介≫と刻まれた表札が掛かっていた。
この別棟が、「店舗」に充てられているに違いない、と隆一は思った。念のため、造り替えたばかりのような、木の香漂う開き戸の上部の格子の部分からなかを覗くと、屋号を抜いた磨りガラスの引き戸の入口があった。
物静かなところで、ほとんど人通りもないことに隆一の不安は消えて、ここを選んで電話した自分の勘の確かさを歓びながら、ひとまずそこを通り過ぎた。
さらに直進して、最初の四つ角を右に折れていった。思ったとおりの碁盤の目状の路地は、間もなくアーケード街に突き当たった。
隆一は、通りの両側の店先を眺めながら、ゆっくり歩いて往(ゆ)き来した。
このアーケード街の記憶は隆一にはなかったが、そこから枝分かれしたいくつかの細い道には、遠い昔に訪ねたときと同じ町の風情が色濃く遺っているように感じられた。隆一は、それを噛み締めながら、線路のほうへと歩を進めた。
隆一は、躊躇(ちゅうちょ)した。改めて、門柱の屋号を目にすると、徃きつ戻りつ考え込んでしまった。他人のモノを、こんなところに預けていいのだろうか。やはり、止めるべきだ――と踵(きびす)を返した途端、肩越しに声が聞こえた。
「やぁ……おいでなさい」
渋い低い声に振り向くと、少し開いた開き戸と門柱の間から、笑顔が覗いていた。澄んだ空色のシャツに、同系色のペイズリーのネクタイを締めたその人は、どこかの、上場企業の重役といった雰囲気があった。
隆一が、通りでウロウロするところを見ていたのだろうか。
「あんたかな、電話くれた人は……」
笑顔がいった。
「ええ……はい……」
隆一が、虚ろな返事をすると、
「やけにむ蒸し暑いね。さぁ、どうぞ入って……。なかは涼しいよ」と、さらに目尻の皺(しわ)を深くした。
内心、参ったな、と隆一は思った。だが、その和やかな表情を見ているうちに、迷いも薄れてきた。隆一は、小さく首を縦に振り、「ここのご主人ですか」と訊いた。笑顔が頷くのを見て、隆一はしたがうことにした。
なかは、ひんやりするほどエアコンが効いていた。敷き詰められた市松模様のリノリウムの上には、右手の壁を背に皮張りの長椅子が置かれ、天板に螺鈿(らでん)が施された猫足の木製テーブルがその前に並んでいた。それらは、デザインから見て輸入家具のようで、かなりの年代物らしいことが窺えた。
入ったまま突っ立っている隆一に、「どうぞ、掛けてください……」と主人はいうと、自ら腰を下ろした。
笑みは消えていなかったが、上から下まで睨(ね)めるように隆一を見る視線には、どこか値踏みするような鋭いものがあった。
隆一は、背筋を伸ばして目礼してから、椅子の端に腰掛けた。
すると主人は、「わたしの説明では、わかりづらかったんじゃないかね」と、首を傾げてみせた。微笑んだ目尻には、また数本の皺が刻まれていた。
隆一は、それを見てホッとして、逆方向に歩いていったことには触れずに、「いいえ、すぐわかりましたよ」とこたえた。
主人は、間髪入れずに、「確か、毛皮のコートだったよね……」と、含みのある物言いで隆一を見つめ、「では、早速見せてもらおうか」と、次いだ。
隆一は、紙袋の中のモノを取り出しテーブルの上に置くと、周りを見回した。
壁を刳り貫いて設(しつら)えられたような、応接質と執務室との間仕切りになっている一間(いっけん)ほどのカウンターの上の部分は、付け鴨居まで伸ばした左右のサッシの枠に厚そうなガラスが嵌(は)め殺しにしてあった。内側には装飾と補強を兼ねたような、七宝の透かしが入った2本の桟木が横に走っている。
さらに、カウンターに接するガラスの下の部分は、小荷物が出し入れできるくらいに楕円形に抉(えぐ)り取られ、その上部は留置場の面会室さながら、円い縁取りのなかに、放射状に無数に小さい穴が開けられていた。
時節柄、この手の店が襲撃されるという強盗事件が少なくないだけに、防犯対策上改築されたものに違いない――。芳香を放っている真新しい檜(ひのき)のカウンターの無垢板や壁板を眺めているうちに、隆一はそんな思いに囚(とら)われていた。
経済的に逼迫することが多々ある隆一ではあったが、さすがにこの手の店だけは縁がなかった。というと聞こえはいいが、裏を返せば、単に、質草になるような金目のモノは持っていなかったというだけのことで、初めて訪ねた女性の部屋のように興味をそそられるものがあった。
隆一は、主人の目を気にしながら立ち上がって上着を脱ぐと、さらにカウンターの向こうに視線を走らせた。
この店舗に充てられた別棟も、かなりの奥行があるのは外から眺めたときに摑んでいたが、執務室には向き合ったふたつのスチール製の机が見えるだけで、その奥はパーティションに遮られていた。
机の上には、分厚い帳簿が並んだ本立てとビジネスフォンが載っているだけで、隆一は意外な気がした。隆一の興味は、その仕切りの向うに及んでいた。
そこにはきっと、有名画伯の絵画や著名な絵師の落款(らっかん)が入った屏風や掛け軸があるに違いない。さらに金塊や宝石が詰まった、大きな金庫が鎮座しているはずだ。こういうモノを扱う商売の醍醐味(だいごみ)は、満足感と危機感が同居しているところにある――。
隆一の頭は、不埒な思いで占められてきていた。
この手の店を襲撃する輩(やから)は、こんなことを想像しているうちに自分を制御できなくなり、致し方なく実行に及ぶのではないだろうか――。いまはなにも見えないからいいものの、それらを目の当たりにしたなら、人は誰も悪魔の囁きに抗(あらが)えなくなるのではないか――。
あらぬことを考えているうちに、自分とてその例外ではないという思いに囚われてきて、隆一は自分が怖くなった。
そういうことを未然に防ぐために、通常はカウンター越しの商談になるはずだ、と思いつつ主人を見ると、隆一が持ってきたモノを、腕組みしながら眺めていた。
坐り際に、再度カウンターの右手のほうに隆一は目を向けた。
主人がそこから出てきたことを示す、半開きの状態になったままの木製ドアの向こうに、スチール製のキャビネットがあるのが目に入った。その扉も開きっぱなしで、なかから手提げ金庫が覗いていた。
自分の目的も忘れ、随分無用心だな――と余計なことに思いを馳せていると、奥のほうより、「ねえ、ちょっと……」という、女性らしい湿りを帯びた声が聞こえてきた。
主人は急に立ち上がり、「悪いけど、あんた、その辺でちょっと時間を潰してきてくれないかね」と、隆一を見下ろした。
体(てい)のいい断りだな、と直感的に隆一は思った。隆一の所作を見て、落ち着きのない怪しい奴だと、どこかに設置された防犯カメラを覗いていた奥の誰かが判断したのかもしれない。女性の声は、その報告かも知れず、ここで逆らおうものなら、それを自ら立証したと取られかねないだろう。
なにも後ろめたいことはなかったが、あらぬ嫌疑を掛けられるのは本意ではない。しょうがないか……と隆一は心のなかでつぶやきながら中腰で上着を着て、テーブルの上のモノに手を伸ばした。
主人は怪訝(けげん)な顔で、「それは、置いとけばいいよ……。もっとも、商談する気があるんだったらの話だけど……」と、微笑んだ。
隆一は、主人の目を見た。温和な目だった。どうも、隆一の思い過ごしだったようだ。
「あ、そうだ……」と、主人はなにか思い出したように腰を上げた。そして、カウンターの向こうへいくと机の抽斗(ひきだし)を開け、紙切れを手に戻ってきた。そして、立ったままで、「これは、ここの商店街の優待券だから、あんたに上げよう。わたしが持っていても、無駄にするだけだから……」と、差し出した。
それは、名刺大の萌黄色(もえぎいろ)のもので、〔¥1000─〕という金額とともに、商店街の名称が刷り込まれており、裏にはここの屋号のゴム印が捺してあった。偶然にも、今日までの使用期限だった。
礼をいって、ガラス戸に手をかけた隆一の背中に、「この一画の店だったら、どこでも使えるから……」という声が響いた。
隆一は、振り向いて「わかりました」とこたえた。
アーケード街の喫茶店でアイスティーを呑み、小1時間ほどで主人の店に戻った。
「これは、いまは時期はずれでなかなかは捌(は)けないし、あまり期待には添えないけど、如何(いか)ほど必要かね」
隆一の顔を見るや否や、主人はカウンターの向こうに坐ったままでいった。隆一を呼び止めたときの笑みはなく、視線の鋭い商売人の顔になっていた。変われば変わるものだと、隆一は不快を覚えた。
この手の業界人は、みんなこうなのだろうか。
さっき、自分の直感に素直にしたがい、帰るべきだった、と隆一は後悔した。お金の工面だけが目的なら、「やっぱり、やめときます」と、隆一はこたえただろう。だが、そういえないところに引け目があった。気を取り直し、ここへきた動機の、〔預けることが目的。それが叶うならば、相手のいい分はすべて呑む〕という一節を反芻した。
けだし名案だ──との思いは、いまも変わっていなかった。しかるに、ここで辞退したとて、また他所(よそ)を当たらなければならないし、ここよりもっと不愉快な思いをしないとも限らない。蒸し暑いなか、この派手な袋を提げて、他所の業者に電話して意向を伺うのも億劫(おっくう)だと思えた。水を向ける雀荘も見つけたことだし、もう少し、冷静になるべきだ、と自分にいい聞かせた。
「売るんじゃなくて、預けたいんですけど……」
隆一は、立ったままでいった。
「そんなことはわかってるよ」
主人が返した。
「利子(りし)はおいくらですか」
おもむろに訊いた。
「月に7分(ななぶ)だね」
1万円で、700円。当然、2万円ならその倍……。
「1万円でいいですか」と、小さくいった。
「えっ、いくら……」と、主人が声を上げた。
隆一は、まずいことをいったかな、と思った。考えてみれば、こんな高価なモノを保管してもらうのに、月に700円の保管料では安すぎる、と気が付いたのだ。また、たった1万円の金の工面にこんなところまできたのか、と思われるのも癪だった。
「2万円でどうですか……」
思いを新たに、少し大きな声でいった。1,400円の保管料なら妥当なところだろう、と胸を張って……。
「えっ」と、またも主人はいった。
なんだろう、この親爺は揶揄(からか)っているのか――と、咄嗟に思った。金額の、多寡(たか)に拘(こだわ)っているのだろうか。ならば、こっちは5,000円でも3,000円でも構わないんだ、といってやりたかった。だが、ここで、本心をばらすわけにはいかない。もうどうでもいいや……と投げ遣りに、「2万円」と声を上げた。
「そんなものでいいの?」
主人は、不思議そうな表情を浮かべていい、笑顔になった。
「そんなものでいいですよ」
隆一は、ぶっきらぼうに返した。
「なにか身分証明書をお持ちですか」
急に主人は、丁寧な物言いになった。
隆一は、無言でカウンターの上に運転免許証を置いた。
「まあ、そこにかけてくださいよ」
主人は促すと、隆一の赤い紙袋を持って執務室から出てきた。そして、隅に立てかけてあった折り畳みのパイプ椅子をテーブルの脇に立てると斜(はす)に向かい合って坐り、袋のなかのモノをテーブルの上に広げた。
「結構遠いところから、きてくれたんだね」
免許証を見ながら主人はいった。そして、おもむろに顔を上げ、しばらく隆一の頭の上を凝視したかと思うと、また免許証に視線を落として首を傾げた。
なんだろう――と、隆一こそ首を傾げたくなった。一筋の汗が、背中を流れるのがわかった。
不可解に思い後ろの壁を振り返ると、セピア色で「WANTED」と大書された、警察庁発行の数人の指名手配者の雁首が載った2色擦りのポスターが貼ってあった。
最初、そんなものが貼ってあることには隆一は気が付かなかったが、主人はそれと隆一を見比べていたようだ。こんなものは、隆一は初めて目にしたが、似た顔の奴でもいるのかなと、複雑な思いがした。
「近くはないですけど、それほど遠くもないですよ」
隆一は、俯き加減にこたえた。
「勤め先がこの辺なのかね」
「そうじゃないですけど、友達が青戸(あおと)にいるもので……」
なにか、警察で訊問されているかのような気がしてきて、隆一は口から出任せをいった。
「ほう、青戸にね……。では、しょっちゅう青戸にはくるんだ」
訊問は続いた。
「週2回くらいですかね。気の合う呑み仲間ですから……」
「そりゃ、いいね……。あそこは再開発が進んで、新しいビルがいっぱい建ったからシャレた店も多いだろう」
「そうみたいですね。だけど、僕等がいくのは、いつもガード下の赤提灯(あかちょうちん)ですから……」
隆一は、出任せを次いだ。
「そうかい。それは残念だ……。いやね、綺麗なお姐さんのいる店でも知ってるんだったら教えてもらおうと思ったんだよ」
主人はいうと、ハッハッハッハッと大きな笑い声を上げた。
まるで、コミカルな刑事ドラマで見る、取調室そのものだと隆一は思った。
誘導訊問には乗らないと思ったのか、手配書の顔とは別人だと確信したのか、主人は打ち解けてきたようで、ポケットから両切りの煙草(ピース)を取り出すと、隆一に勧めた。
その香りに誘われて、隆一は思わず手を出しそうになったが、自分の煙草(クール)を見せて首を振った。
「さて、冗談はともかく……」と、主人は煙草に火を点けると隆一を覗き込み、「2万円でいいんだね」と、煙を吐きながら念を押した。
「2万円でいいですよ」と、隆一は大きな声でこたえた。
すると主人は煙草を揉み消し、「これは正真正銘の、北米産のミンクを使った高級品だよ。それに相応(ふさわ)しく裏地もいいし、縫製も手縫いでしっかりしている」と、それを両手で広げて吟味(ぎんみ)した。
隆一が、はっきり金額をいうまでは、一言もモノについては触れなかったのに、この豹変ぶりだ。盗品か、もしくは吹っかけられる……とでも思っていたのだろうか。この辺の駆け引きは、さすが百戦錬磨の商売人だ、と隆一は感じ入った。一方で、これでやっと預かる気になったようだなと思い、内心喜んだ。
さらに、
「これは、アメリカのチャリティーオークションで、確かクレイマークレイマーという映画で主演した女優が出品して2万ドルもの値をつけたそれと似ているね。同じブランド品かもしれない」
主人はエンブレムを指しながら自慢するようにいうと、隆一を凝視した。
「えっ、クレイマークレイマー……。メリル・ストリープじゃないですか……」
呆気(あっけ)にとられて思わず声を上げた隆一は、「冗談でしょう」と次ぎそうになった言葉を唾と同時に呑み込むと、主人の顔を見返した。
主人は、「なにを驚いている?」といいたげな表情で再び隆一を見据え、その経緯を説明しはじめた。
それは、今年の春にいった、業界の協同組合主催のアメリカツアーでのことで、ハリウッドの撮影所で開催されていたのだという。
俄(にわ)かには信じられなかったが、それでも隆一の脳裏には、好きな女優の五指に入る、メリル・ストリープが出演したいくつかの映画のシーンが次々と浮かんできた。
デビュー作の『ジュリア』、アカデミー賞助演女優賞に輝いた、主人が話したその『クレイマークレイマー』、迫真の演技でアカデミー賞主演女優賞を受けた『ソフィーの選択』、さらに『恋におちて』『激流』『マディソン郡の橋』……。比較的新しい、『プラダを着た悪魔』では新境地を開き、芸域の広さを見せてくれたメリル・ストリープ。また、サッチャー元首相の伝記映画ではさらに磨きのかかった演技を披露した。
なかでも、人妻・モリーに扮し、大人の恋を美しく切なく演じた『恋におちて』の、哀愁を帯びた瞳と透き通るような白い肌を晒(さら)した彼女が隆一は好きで、共演のロバート・デ・ニーロに嫉妬しながらも、レンタルビデオ店で借りてきたそれを繰り返し観たものだ。また、クリント・イーストウッドと競演した『マディソン郡の橋』の彼女も、捨てがたいと思っていた。
「落とすつもりで、わたしもオークションに参加したんだが、あまりにも跳ね上がるんで途中でやめちゃった。1万5千ドルくらいまでなら、なんとかしようと思っていたんだけどね……」
主人は、上(うわ)の空の隆一に、語りかけるようにいった。
あの、2度もオスカーを受けた大女優のメリル・ストリープのモノともなれば、相応のプレミアがつくのは想像に難くないが、裏を返せば、隆一が持ってきたモノも、それなりの付加価値があるということを主人は認めているということになる。
姚子(ようこ)が、「100万円したわ」と冗談っぽくいったのは、決して冗談ではなかったのだ。
この手のモノには疎(うと)い隆一だけに、鑑定してもらう意味もあって訪ねてきたのだが、それがわかっただけでも収穫は大きかった。
「さすがにアチラは桁が違うね」
主人は、同意を求めるように振ってきた。
隆一はそれに頷きながら、改めて主人の顔を見た。
額は幾分広く、白いものが交じってはいるもののその髪は艶やかで、肌の色も若々しく張りがあった。ペイズリーのネクタイも、最初見たときより似合って見えてきた。
それにしても……と隆一は不思議に思った。なぜ、主人は客が持ってきたモノの価値を知らしめるような話をするのだろうか――。商談成立のあとでもあったし、あまり金額に執着しない隆一に気を許し、自慢話のひとつもしたくなったのだろうか。だが、決してそれが眉唾でないことは納得できた。なぜなら、それを話して得をするのは、ほかならぬ客の隆一のほうだからだ。
「あんた、コーヒーは嫌いかね」
唐突に、主人はいった。
「いえ、好きですけど……」
そのこたえもろくに訊かず、主人は奥へと消えていった。
カウンターの向うから、炭火で豆を焙煎するときのような、香ばしい匂いが漂ってきた。
「うちのコーヒーは、そこらの喫茶店では味わえないものだよ」
小さ目の銀盆に、2客のカップを載せてきた主人は、自慢げにいった。
隆一は、主人が勧めるシュガーを、「おいしいコーヒーはブラックで……」と断り、カップを口に運んだ。
それは、隆一の唇にしっくりと馴染み、これまで呑んだことがない、苦味のなかに僅かに酸味を含んだ味が口中に広がっていった。夏でも、コーヒーはやっぱり熱いほうがいい、と実感させてくれた。
「青戸にきたら、気軽にうちにコーヒー呑みにおいでよ」
主人はいいながら、隆一が呑み終えたカップを片づけはじめた。
奥から戻った主人は、2枚のピン札と隆一の免許証を手に、「それでは2万円ね。利子は月に7分で、期限は3カ月。詳しいことはこの札に書いてある」と、テーブルの上に置いた。
「さっきの喫茶店で、お釣りをもらったんですけど……」
隆一が、優待券の話をして小銭をテーブルの上に置くと、主人は、「それは交通費だよ」と笑った。
隆一は、「どうもすみません」とこたえ、それと一緒にテーブルの上の免許証と紙幣をポケットに押し込んだ。
主人の応対に最初は戸惑ったが、思惑どおりに事が運んだことに、隆一は北叟笑(ほくそえ)んだ。
主人のところへいく前に、隆一はいろいろ考えた。もちろん、姚子の実家に送り返すことも……。だが、敢えてそれはしなかった。なぜなら、姚子は親しい友人に、「中園(なかぞの)は、わたしがついていないと駄目な人なの。だから、なにがあっても、そばにいてあげたいの……」と、いっていたということを訊いていたからだ。親しい友人とは、隆一もよく知っている貴島涼子(きじまりょうこ)である。
かねてから姚子は、隆一のことを含め、私生活を他言するようなことは断じてしない性格だった。それだけに、俄かには信じ難かったが、姚子の無二の親友の貴島の話だけにそれは信憑性があった。
あの姚子が、自分の信念を覆してまで他人に隆一のことを話したということは、固い決意に違いない。それだけに、今回の行動には、なにか理由(わけ)がある。それが摑めるまでは、自分の手元に置いておくのが姚子に対する誠意だろう、と隆一は思っていたのだ。
その話しを訊いたのは、姚子が部屋を出たまま音信が途絶えて、3日目のことだった。
「姚子の携帯は繋がらないし、会社に電話したら休みだとのことで、なにかあったのでは……」
偶然、貴島がかけてきた姚子の部屋の電話に、姚子からの連絡だと早合点した隆一が出たことから、話しは進展していった。事情を打ち明けた隆一に、「1週間前に逢った時は、とくに変わったことはなかったわよ。とても信じられない」と、彼女は姚子の動静を案じてくれた。期せずして吐露した隆一の嘆きに、彼女が『姚子の言葉』として返したのが先のそれだった。
貴島は気さくな性格で、姚子と隆一の3人で食事をしたことも少なくないし、ふたりが暮らしはじめた頃、部屋を訪ねてきては泊まっていったこともしばしばだった。互いに「無二の親友」を自認していただけに、なぜ、そのとき、わたしに相談してくれなかったのだろうか――といった、落胆の色を貴島涼子は電話の声に込めていた。
隆一は、彼女が伝えてくれた言葉に一縷の望みを託し、さらに姚子を捜し続けた。以後、丸1週間をそれに割いた。だが、「籍が入っていない」という事実が、ことごとく隆一の前に立ちはだかった。それでも得心ゆくまで諦(あきら)めない、と心当たりを虱潰(しらみつぶ)しにした。だが、隆一が動けば動くほど、姚子の不義を公(おおやけ)に曝すという予期せぬ弊害が生じてきた。
詳細を知っているはずの勤務先も、何度電話で掛け合っても、長期休暇を取っています、の一点張りで要領を得なかった。さらに突っ込むと、「どういうご関係ですか……身分を明かせない方に、これ以上はお話しできません……」云々と、逆に突っ込んできた。
ふたりのことを、会社までいって説明することに、隆一自身はやぶさかではなかったが、それは姚子にとっては不名誉なことなのだろうと、思い留まった。
部屋の姚子の電話は、連日鳴り続けた。急に音信不通になったことを訝(いぶか)る友人たちからだろうことは、出なくてもわかった。姚子は、その理由を、隆一や友人が知ることを望んでいない――。
貴島から電話があって10日経った夜、隆一はそう断を下した。そして、姚子の部屋を出ることを決意した。
最低限、仕事に必要な資料と衣類だけを自分で仕事場に運び、残りは赤帽を手配した。そして、姚子の香りが残っている寝室にしばらく佇(たたず)んだ。
その香りを鼻腔に留めると浴室に向かった。脱衣籠に入れっぱなしの、汚れたカッターシャツ及びトランクス数着をごみ袋に詰めると外へ出た。ドアを閉め、施錠し、後ろ髪を引かれる思いで、その鍵をドアポストに落とした。
それは、降って湧いたようなものだった。
クリーニング店を出て、少し歩いたところで、「白神(しらがみ)さん、白神さんの旦那さん」と、聞き覚えのある声に呼び止められた。案の定、カッターシャツを出したばかりのクリーニング店の女性だった。
いま、店を出たばかりなのに、なんだろう……と思いながら、隆一は踵を返し店に戻った。
「これは、1週間ほど前に上がってきた奥様のモノのなのですが……。取りに見えないので、今日あたり連絡しようと思っていたところだったのですが……。よろしいでしょうか」
有名ブランドのロゴが白抜きされた、真赤なミラーコート製の大きな紙袋を、その女性はカウンターに載せるといった。引き取って欲しい、ということだとわかった。
その口ぶりや無理に作ったような愛想が、ここの経営者らしいことを窺わせた。ならば、引き取れない理由を話すのには都合がいい、と思った途端、
「これは、奥様にはよくお似合いでしょうね。こんな高価なものをお預かりしていると、なにかあったら大変ですからね」
世辞を交えながらも、迷惑しているといったニュアンスの言葉を投げかけてきた。
隆一は、その言葉で、袋の中身は想像していたモノに違いないと確信し、それだったらこんなところに置いておくわけにいかない、という思いを抱いた。
「白神さんは……いや奥様は、仕事がお忙しいようで、いつも帰りは遅いみたいですね」
女性は、探りを入れてきた。
「はい、僕と違って姚子は忙しくしています。多分、今日も遅いと思いますよ……」
隆一は話しを合わせ、引き取る旨を伝えた。
「お願いします。どころで白神さん。奥様はお元気……」
急に馴れ馴れしい言葉を吐いてきた。
気のせいか、『白神』をわざと連呼しているように隆一には取れた。「はい」と虚ろな返事をした隆一は、姚子の姓の『白神』で呼び止められたことを振り返っていた。
シャツを預けたときは、隆一は自分の姓の『中園』と名乗ったはずだが、『白神さん』と女性は呼び止めた。隆一はここには2年余り顔を出していないのに、確かめずにポケットに押し込んだ預り伝票にも、おそらく女性は『白神』と書いているのだろう。それにしても、隆一の記憶にはないこの店主らしい女性は、4年前の姚子と暮らしはじめたときから半年くらい、いつも一緒にきていたことを憶えていたのだろうか。
それは、べつにどうでもいいことだが、姚子が失踪し部屋を出ることを余儀なくされた隆一にとって、『白神』と呼ばれるのにはいささか抵抗があった。だから、『中園』という自分の姓を名乗ったのだが……。それをいまさら説明するのも忍びない。
考えてみれば、隆一はこの界隈の贔屓(ひいき)の店のどこでも『白神』で通っていた。姚子の庇護のもと、放蕩な生活を続けてきたというのは周知の事実だが、だからといって、そう呼ばれることを甘受していたわけではない。それは、率直にいえば、語呂のいい『白神』が隆一は好きだったし、入籍してもそれを名乗る意向を姚子には伝えていたからだった。
しかるに、周囲がそう呼ぶことに異を唱える必要性はなく、また、入籍していないことを知らしめるように、自分の姓を主張する必要もなかった。ところが、そう思っていたのは自分だけで、周囲の見方はそうではなかった、という気がしてきた。
昼前に起床しては近所の店を巡り、昼食という名目で酒を呑みはじめるのが仕事にいかない時の隆一の日課だった。
夜は夜で麻雀に興じ、それをやらないときは、呑み屋を徘徊し午前様。弁解代わりに、当然のごとく出勤前の姚子を組み敷く……。
姚子に寄生した、そんな隆一の姿を、周囲は矯(た)めつ眇(すか)めつして眺め、『白神さんのヒモ――』くらいいって、陰では揶揄(やゆ)していたのではないだろうか。
そんなことも知らずに、笑顔を振り撒きながら呑み歩いていた隆一こそ、恰好の酒の肴だったに違いない。
みんながちやほやするのも、金離れがいい上客に対する敬意の表われだと思っていたが、それは姚子という後ろ盾があったからで、隆一は端から論外だったのだ。それでも客だから、誰も面と向っていわなかっただけのことで、実情はそんなところだろう。
広いようで狭いこの商店街のこと、このクリーニング店の女主人ももそれを伝え聞いていて、そういう目でしか隆一を見ていなかったのだろう。
姚子の部屋を出ても、馴染みの呑み屋には顔を出そう、そのうち姚子は戻ってくるかもしれない、などという甘い想いを心の片隅に遺してはいたが、それこそいい面(つら)の皮だ。
この期に及んで、この界隈を彷徨(さまよ)っていたのでは、周囲の嘲笑の好餌となる。2度と、この商店街には戻ってこない――。隆一は、そう心に誓った。
それは同時に、姚子のほかに唯一遺っていた、大切なものへの訣別を自ら宣言したようなもので、胸に風穴を開けられたような虚しさがあった。
「白神さん。奥様によろしく……」
胸を痛めていた隆一の耳に、乾いた声が響いた。
隆一は、受領伝票にサインすると、大きな紙袋を抱えて外に急いだ。ここにきたことが、よかったのかそれとも悪かったのかと考えながら、陽炎(かげろう)たゆたう舗道を駅に向った。
それを手にした夜、隆一はなかなか寝つかれなかった。コンビニで買ってきた、安物のブランデーのボトルの量は、すでに半分を割っていた。
持ち込んだままの荷物は、デスクや応接テーブルの上からフロアにまで溢れ、狭いワンルームの仕事場は足の踏み場もなかった。
角部屋の2箇所にある一間(いっけん)の窓は、両方とも吊るしたハンガーの衣類で寸分の隙間もないほど塞がれていて、暑苦しさに輪をかけていた。
オフィス仕様の部屋だけに、クローゼットや棚といった収納スペースは皆無で、改めてここでの窮屈な生活を強いられることを思うと気が重くなり、眠りが遠ざかっていった。ようやく微睡(まどろ)みが訪れたかと思うと、慣れたはずの古いエアコンが発てる小さな音が邪魔をした。
ボトルの量は、徐々に減っていった。ロックを止めて生(き)で呑んでいるうちに、やっと夢の誘いを受けた。
――雪が舞っていた。人は誰も真綿のような白い精に包まれて、流れるジングルベルに合わせながら、銀座通りの白い歩道を闊歩していた。小枝に積もった白い雪に、イルミネーションの明滅が映えるツリーを見上げながら、姚子は『和光』の前に立っていた。
隆一を見ると微笑んで寄り添い、「少し歩いてみたいの……」と囁いた。
隆一は姚子の腕を取り、歩道の端の、足跡のない真っ更な雪が積ったところを選んで足を踏み出した。踏みしめる雪が、さく、さく……と音を発て、ふたりの足跡が遺されていった。
少しいくと、姚子は立ち止まり、隆一の後ろに回った。そして、数歩遅れて、隆一が刻んだ靴の跡に自分のそれを重ねてついてきた。
隆一は歩幅を狭め、数歩いっては姚子を振り返った。
姚子の、漆黒の毛皮に降る雪は、見る間に無数の光の粒となった。それは、歩を移すたびに鮮やかな色を映し出し、さながら宝石を鏤(ちりば)めたかのように燦(きら)めいた。
その下に覗く臙脂のスーツは、淡い同系色のシフォンのフリルシャツと融和し、瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気を醸し出していた。少し濃い目の赤いルージュも、初めて見せたクロスモチーフのピアスも白い面(おもて)を際立たせ、年齢を重ねてこそ得られる色香を漂わせていた。
行き交う人が、姚子の美しさを振り返った。
隆一は、充たされた気分で姚子の肩を抱き寄せた。
仄(ほの)かな香水の香りに陶然として、舞い降りてくる白い結晶に包まれながら、ベーゼを交わした。
「今日は、あなたに見せたくて。お洒落(しゃれ)したの……」
「とっても綺麗だ。この、燦く明かりや、雪よりも……」
リザーブしておいた、ベイサイドのホテルの最上階のラウンジで、粉雪に煙る夜景を眺めながら、ふたりはラトゥールで乾杯した――。
目が覚めた隆一は、窓辺に吊るしておいた毛皮に頬を擦り付けた。絹のような烏羽色(からすばいろ)の毛並が優しく肌を撫でたものの、馥郁(ふくいく)とした姚子の匂いは消えていた。
冬がくる前に、買ったらしいそれを着た姚子を、隆一が見たのはその1度だけだった。それは、一緒に暮しはじめて3年半が過ぎた、昨年のクリスマス・イブの日で、夢に見たとおり忘れ得ぬ一夜となった。
そのときの姚子は、夢に現れた姚子よりも妖艶(ようえん)で、隆一を虜(とりこ)にした。
それを姚子は、梅雨間近の季節外れにクリーニングに出していた。そのとき、姚子は決心したのだろうか。隆一との暮しに幕を引くことを……。隆一の、微かな移り香さえ消さねばならなかったのだろうか。新しい暮しをはじめるために……。
その想いが胸を締め付け、部屋に置いて眺めることさえ拒まれているように、隆一には思えてならなかった。送り返すこともままならず、部屋に置いておくことさえ否定された持ち主のいないモノを、朝な夕なに眺めて過ごすのは、もはや限界だった。このままでは、いつか鋭利な刃物で切り裂いてしまうのではないか、という妄想に囚われた。
ほかの場所に移すことが管理上も万全だし、心の乱れからも開放される――。それが、隆一が思い付いた唯一の手立てだった。隆一は、多くの小荷物預り所やトランクルームに電話を入れてみた。前者は長期は駄目だというし、後者はひと月の家賃に近い額を要する、という。「小物といえど、単独でコンテナを使用しますから……」というのが、トランクルーム業者の共通した回答だった。「そんな馬鹿な……」と、出かかった言葉を呑み込んで、隆一は最後の業者への電話を切った。
友人にも訊いてみた。だが、意に添うところはなかった。諦めかけて、タウンページを繰っているうちに閃いた。その業種に「これだっ」とつぶやき、突き出し広告の[葛飾区立石――]という文字に、「ここだっ」と叫んでいた。
近場は抵抗があったし、かといってあまり遠いのは気が乗らなかった。遠い昔に呑みにいって、熱い一夜を過ごした小料理屋の若女将のことを思い出し、食指が動いた。
クリーニング店から引き取った、1週間後のことだった。
隆一は、その日、朝陽が昇りはじめる頃に目が覚めた。
吊るしっぱなしのハンガーをフロアに置くと、ブラインドを上げた。窓を開け、風とともに射し込む陽光にそのミンクのコートを晒した。オリーブ色の新鮮な光に、繊細な毛先が浮かび上がった。一瞬、あのクリスマス・イブの雪のペーブメントが脳裏を過(よぎ)った。
隆一は素っ裸になると、それを直(じか)に着た。
豊満な姚子の胸と、くびれた腰を艶(あで)やかに包んでいたそれも、隆一には袖刳りの辺りが窮屈だった。
それを着たまま隆一は、部屋の隅でしばらく佇んでいた。
匂い立つような妖(あや)しい姚子の香りを含んでいたそれも、今は業務用洗剤が染みたような無粋な匂いがするだけで、心悲(うらがな)しくなるばかりだった。
隆一は、ベイサイドのホテルのスィートで、頬を染めた姚子のシフォンのブラウスのボタンを外していった、あのクリスマス・イブの夜を思い浮かべながらそれを脱いだ。躰はじっとり汗ばみ、鼠蹊部(そけいぶ)を流れる血は滾(たぎ)っていた。
冷蔵庫から出したビールを、ラッパ呑みした。いつしか眠ってしまっていた。再び目を覚ましたのは、ブラインドの隙間から洩れてくる陽射しが熱い10時前だった。
コーヒーを呑みながら、目的のところに確認の電話を入れた。それを綺麗に畳みなおすと、愛娘(まなむすめ)を嫁がせる父親の思いとはこんなものかもしれないと想像しながら赤い紙袋にそれを戻し、部屋を出た――。
駅まで戻った隆一は、少しこの町を探索してみようと思った。昔、同僚が連れていった、あの小料理屋があるかを確かめたかったからだ。
アーケード街に引き返し、路地を右に入った。
焼鳥屋や居酒屋、定食屋があるかと思えば、それらに挟まれて民家が軒を連ね、風鈴の音が流れているといった、他所(よそ)ではあまり見られない佇まいが続いていた。先ほどいった喫茶店の帰りに、目星をつけておいた辺りで、隆一は立ち止まった。
周りの情景から、ここに間違いないと確信した。だが、そこには、小料理屋とはかけ離れた、間口の狭い煉瓦色の3階建てのビルが建っていた。隆一は、少しだけ身を移した斜(はす)の位置から、そのビルに視線を走らせた。
1階のガラス戸には、『△〇会計事務所』という文字が書かれ、机の上のディスプレイを覗いている事務服の女性の姿が奥のほうに見えた。それに続く左側の黒いサッシの門柱に挟まれた門扉には、『生田流お琴教室』と横に認められたアクリル板が括り付けてあった。
黒い鉄柵の2階のベランダに、ベンジャミンゴムノキとヒマラヤ杉の鉢植えがあるのが見えた。その上を跨いだ物干し竿には、神宮の杜を沸かせる東京六大学の野球の伝統校のユニホームとアンダーシャツが干してあり、家並の間を抜けてくる西陽を受けていた。その2階が、住居であるらしいことは容易に想像できた。
その上の3階が琴の稽古場らしく、強い陽射しを和らげるような琴の音が、風に乗って頭上を流れていく。
「琴の師匠になるのがわたしの夢なのよ。このお店はその資金をつくるためなの。運よく家元になれたら、琴の稽古場に改築するの――」と、こっそり耳打ちしたあの夜の若女将の言葉を隆一は思い出していた。
酔って色付いたときに浮かべた目許の憂いは、すでに三十路(みそじ)に入った女のそれを思わせたが、そのあと直に触れた白い肌は、穢(けが)れを知らない少女のそれのように艶(つや)やかだった。
そんな女将だっただけに、言い寄る数多(あまた)の客のなかから、自分の夢を叶えてくれると確信した伴侶を選び、早くに所帯を持ったのだろう。いまは、その公認会計士の夫とともに、子供の成長に期待を抱きながら、琴を教える充実の日々を送っているのかもしれない――。
隆一は、取り留めのない想いを廻(めぐ)らせながら、ゆっくりとそこを離れた。
――当時、隆一が勤めていた会社は、中堅の広告代理店だった。いずこも、高度成長政策の波に乗り活況を呈していた頃で、ご多分に洩れず勤務先もその恩恵に浴していた。
籍を置いた制作部は営業に引き回され、帰りは深更になるという日が続いていたそんな春のある日の午後、普段は大人しい東北出身の総務部の経理担当の同僚が上司と一悶着あったらしく荒れていた。
「たまには俺達も会社の金で憂さ晴らししようぜ」と、大枚数枚をちらつかせながら声をかけてきたのだ。鬱憤が溜まっていた隆一に、断る理由はない。
4月の東京には珍しく肌寒い日で、午後になって降りはじめた雨は、陽が沈む前には雪に変わっていた。そんななか、重い牡丹雪を浴びながら、池袋、大塚、上野とキャバレーをハシゴしたあと、彼のいうまま吉原に突進した。
時間を延長して “汗 ”を流し、「最後は俺の縄張(しま)・立石で仕上げだ」という彼にしたがいタクシーを飛ばした。
そこへ着いたのは午前零時を回っており、暖簾(のれん)をしまいかけていた女将だったが、彼の顔を見るや否や微笑んで請(しょう)じ入れた。
女将は、睫(まつげ)の長い大きな瞳が蠱惑的(こわくてき)で、それと対照的な小さな唇に愛くるしさがあった。
小桜の江戸小紋を、紺のお太鼓柄の名古屋帯でまとめた着こなしは出色(しゅっしょく)で、その挙措(きょそ)にも艶冶(えんや)な雰囲気を漂わせていた。
毛先にウエーブを効かせ、ワイルドな躍動感を出した髪型もその細面(ほそおもて)によく似合い、ほつれた前髪が額にかかっている様も映えていた。加えて、なにげなく覗かせる白い項(うなじ)に漂う色香が、男の情念を揺らめかせずにおかなかった。
金町(かなまち)に住んでいた彼が立石を主張する理由を、そこへいって初めて納得した隆一だった。無論、隆一も、これなら毎日通いたいと思ったほどだった。
板前を帰した女将は、品書きにない手料理を拵(こしら)えながら、その合間にふたりに酌をするという気の遣いようで、彼との親密度が窺えた。ふたりの、たわいない愚痴にも真剣に耳を傾けながら、たまに年上らしい助言もくれた。
隆一は、ときおり科(しな)を作る女将に見蕩れながら、いつになく呑むピッチを上げていた。
呑み過ぎたふたりは女将の言葉に甘え、奥の小上がりで雑魚寝となった。
「酔った男性ふたりを置き去りにして、わたしが帰るわけにいかないわね」と、女将もふたりの間に仰臥した。
酔い醒めで肌寒い隆一には、エアコンの暖房は効果がなく、なかなか寝つかれなかった。彼の鼾(いびき)のせいもあったが、なにより脂粉の匂いを放っている隣の女将がそれに輪をかけた。
吉原で、初々(ういうい)しくて且つ大胆な相手と延長戦を交えてきて間もないというのに、艶(なまめ)かしい女将の前では、隆一の股間は抑えが利かなくなっていた。
隆一は、脈打つ下半身に抗えず、そっと女将の手に触れた。すると、待ち構えていたかのように、女将も即座に反応した。
隆一は、身八つ口から左手を忍ばせ、乳房をまさぐった。固くしこった乳首が、隆一の掌のなかで跳ねた。
女将も、それに呼応して隆一の股間に手を運んで、脹らみを数回撫でるとファスナーを下ろしはじめた。衣擦れの音が、ふたりの欲情に拍車をかけた。
隆一は女将を抱き起こすと、しなやかな指で頂点に導かれた強張りをその妖しい口に宛がった。
猛りをきわめた隆一は女将に覆い被さり、着物の裾を紮(から)げた。障子を透けてくる生簀(いけす)の淡い明かりに女将の白い大腿と、黒い対照的な翳りが晒された。さらに、白い足袋を剥き取り両足を肩に担ぎ上げると、隆一は藻の下のうねりを指で穿(うが)った。溢れ出た粘った液が、指を湿らした。
女将は、起き上がると隆一の耳許に口を寄せ、「そっと、激しくね」と囁いた。
隆一は、目でこたえると再び女将と唇を重ね、執拗に舌を挿し入れた。
女将はそのまま倒れ込み、両足で隆一の腰を挟んできた。
潤んだ肉の狭間を指先で嬲(なぶ)った隆一は、その泥濘(でいねい)のなかに、自らの怒張を深く沈めていった。
女将は、自分の手で自らの口を押さえながら、激しく腰を使った。女将のその手は、やがてふたりの股間の繋がりの部分を淫(みだ)らに這い、両の細い指で屹立の根元をきつく挟んだ。
隆一の抽薹(ちゅうだい)に合わせた大きな喘(あえ)ぎが、部屋中に響いた。
ときおり見せる彼の寝返りも、もはやふたりは気にならなかった。
女将の襦袢(じゅばん)と湯文字(ゆもじ)は湿りを帯び、隆一の額には脂汗(あぶらあせ)が滲んでいた。
目が覚めたときは、彼の姿はなかった。
女将は、「もう気兼ねはいらないね」と、隆一の下腹部に顔を埋めてきた。ふたりは、窓から射し込む柔らかい朝の光のなかで、更なる陶酔に溺れていった。
隆一は、昼前に会社に電話を入れた。「風邪をひいて……」と切り出したら、「無理しないでいいですよ。お大事に……」という総務部の年増の女の課長がいった。彼が、始業前に病欠の届けを出してくれていたのだった。
「おいしいものを食べて、もう1度汗をかいたら、風邪も治るでしょう」
女将は微笑み、昼餉の支度にかかった。
彼は、そのひと月後、「実家の不幸で、家業を継がねばならない」という理由を付けて、会社を辞めた。
「あの人は、資産家の娘で面倒見がいいから、真面目に付き合えよ。俺は田舎に引っ込むから……」
東京をあとにする日に彼はいった。
隆一は複雑な気持ちになり、2度と女将の店には顔を出せなかった――。 以来、20年ぶりの立石だった。
隆一は、飛び込みのセールスマンよろしく、1軒1軒探るように縦横に走る路地を辿っていった。どの一画にも、必ずといっていいほど1軒の飲食店があった。
隆一が注目したのは、板切れに手書きの文字が躍る看板を、さりげなく立て掛けた小料理屋。ガラス戸に貼った紙に書いた屋号が、店先で焼く鳥の煙で煤(すす)け、読みにくくなった焼鳥屋などだった。
いずれも、虚飾を捨てて味で勝負している、といった姿勢が鄙(ひな)びた店構えから伝わってきそうで、そこに隆一は下町の商人の意気込みを見た気がした。
隆一は、急に腹が鳴った。思えば、出掛けに自分の部屋で呑んだコーヒーと、主人のところで呑んだそれだけが胃に収まっているだけだった。食べ物屋に駆け込みたい衝動を抑えながら、そこを通り過ぎた。
線路沿いの魚屋では、豆絞りのタオルを捻り鉢巻にした店員が、ハンドスピーカーを手に「安さ」を訴えていた。スーパーに続く通りの人の数も膨れ上がっていた。買い物に勤(いそ)しむ人たちの表情を見ているうちに、一家団欒の愉しい夕食の光景が浮かんできた。久しく、そういうことに触れていない自分を顧みながら、隆一は京成線の地下道をくぐった。
路地を真っ直ぐいくと、右手に小さな社が見えた。梅田神社と記されていた。
道は南側同様に、ほぼ碁盤の目になっているようで、雑貨店や飲食店などが軒を連ね、そのなかに民家が混在している、といった町並を形成していた。
駅から離れていくにしたがい人通りも疎らになり、シャッターを下ろしたままの店舗や、ウインドーに「閉店セール」の短冊を貼った洋品店もあった。
傾いた陽は雲間に隠れていたが、暑さは真昼のそれを持続していた。
隆一は、空腹と渇きを覚えながら、人の姿が目立つほうへと歩いていった。
時計を見ると、5時前だった。この時間なら、近くに開いている吞み屋がありそうだなと思ったら、踏み出す足も軽くなった。
それは的中した。左へ曲がった通りのなかほどに鰻屋の看板が見えた。老舗らしい店構えから流れてくる香ばしい匂いに誘われるままなかに入った。
白焼きとアルコールで腹を満たした隆一は、家並を抜けて駅へと戻った。
数時間前に渡った踏み切りの、向こうに見えるビルの3階を見上げた。窓に書かれた『緑一荘』の緑の文字が、隆一を招いているように感じられた。隆一は踏み切りを渡ると、駆け足でそのビルの階段を3階まで上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます