第8話 懇 親(こんしん)

 新宿駅南口は、どこかのツアー客らしい団体でごった返していた。午後に入って、すでに2時間が過ぎているというのに、まるで朝の通勤ラッシュの電車に乗っているような人いきれで噎せ返っていた。

 隆一は、右手に持った角2の袋で繃帯を巻いた左手を庇いながら人垣を抜け、数台のクルマが塞いだ横断歩道を渡った。

 高架の欄干に片手をつき、深呼吸をした。いやでも目に入るいくつものレールの上を、黄色や茶色の電車が交互にひっきりなしに走っていた。その斜め左前方には、色とりどりの幟を壁面に貼りつけた高島屋があった。

 隆一は、甲州街道を西に向って歩き出した。通りの右前方には、都庁やその周辺のホテルを初めとする高層ビル群が威容を誇示するかのように聳え、西陽を受けたそれらのガラス窓が眩しく光っていた。

 道路も、交通規制でも敷かれているのではと思わせるほど、両方向ともクルマが連なっており、怒りを込めたようなクラクションの音が断続的に響いていた。

 列を成すクルマの屋根には高いビルの影が伸びていたが、未だに衰えを見せない陽が射している左側の歩道のビルの下には、アスファルトの余熱とともに、排気ガスの臭気が澱んでいるようだった。駅へと急ぐらしい人が多く、行き交う数人と肩が触れた。

 文化学園女子大学の手前の角にくると、最近オープンしたのか初めて目にするハンバーガーショップがあった。照り返しの強い、溽暑(じょくしょ)の歩道を歩いてきた宿酔(ふつかよい)気味の躰に、水分を与えようと思った隆一は、迷わずそこに入った。

 アイスコーヒーをオーダーすると、空いているという2階へ上がり、ジャケットを脱いだ。シロップ抜きで流し込んだ冷たいコーヒーは、いつになく美味しく感じられた。肌にへばりついているシャツに当たるエアコンの冷気が心地よく、200円あまりで味わえる爽快感に自然と頬も弛んでいた。

 一服したあと、クラッシュド・アイスを口に入れ、神保町の出版社から受け取ってきたばかりの袋から中味を引っ張り出した。それは、B5の縦4段組の6ページにレイアウトされた初校ゲラで、原稿は隆一がリライトしたものだった。

 相談事がある――と電話を入れた隆一に、

「たまには顔を出せよ。ゲラも出ているから……」

 麻雀仲間でもある、編集長の西川はいった。

 隆一は、隅田川沿いの花川戸にある瑠璃子さんのマンションを出ると、浅草から都営地下鉄に乗った。そして、東日本橋で新宿線に乗り換え、神保町で降りたのだった。

「お前の相談事はいつものことだし構わないけど、他所の仕事みたいに、うちのも気を入れて頼むよ」

 西川は、靖国通りに面した喫茶店に向う道すがら、皮肉っぽくいった。

「よくいうよ。あのひどい原稿をリライトするのは重労働なんだよ。それに、〆切だけはなんとしても守らなくてはと思い、今回はケガを押してパソコンのキーを叩いたんだから……。でも、次回の分は取材費も出してもらうことだし、よりいいものを書くよ」

 隆一は、嘘を交えていった。クライアントに対する口の利き方ではないが、同い年ということと、7、8年に及ぶ麻雀仲間だということもあり、社外ではふたりとも無礼講が慣例だった。

 西川の言い分は、タイトルや中見出しを一考して欲しいという、いつもの口癖みたいなもので、喫茶店に入るといきなり切り出した。

「不倫の恋にすべてを捧げて堕ちていった人妻の告白手記なんだから、もっと淫らでエッチで過激な表現にしてよ……。当局に呼ばれたって、いくのは俺なんだし、ライターには迷惑かけないんだからさ。知ってのとおり、うちの雑誌はメジャーじゃないんだから、気取りは要らないんだよ。ケガしているのに悪いけど、頼むよ……」

 西川は、大きな声でいうと、【取材費】と書かれた社の茶封筒を、テーブルの上に置いた。周囲の客の視線が一斉に向けられていた。

 これまでも、警視庁生活安全局・少年課に、西川が幾度か呼び出されたことは知っていた。彼らは、毎号毎号一か八かの、きわどいグラフと記事で勝負しているのだった。それが、青少年に悪影響を及ぼす雑誌として、当局にマークされるというわけだ。

「売れなきゃ、クビなんだからな……」

 これも、西川の口癖だった。 

 確かにそのとおりで、もっと西川の言い分を採り入れて、どぎつく書き直してもいいな、という気に隆一はなっていた。今回も、取材費の仮払いという形で、隆一の意を汲んでくれたのだから……。

「じゃ、ゲラを持って帰って、校正をしながら直してくるよ」とこたえ、その中身も確かめもせずにポケットに捩じ込んだ。

「なんだ、たまにきたというのに、やらないのかよ……」

 西川は、意外? といった顔をした。

「このケガじゃ麻雀なんて無理だよ。それに、法事で九州にもいかなくちゃならないから、盆休み明けにやろうよ」

 隆一はこたえ、アイスコーヒーも呑み残したまま席を立った。

「早く治せよ。じゃ、九州から帰ってきたらやろうぜ。その前に、このゲラを届けろよな」

 西川の言葉が背中に響いた。隆一は、振り返らずに右手を挙げて応じた。

 その後、時間潰しと酔いを覚ます意味もあって古書街を冷やかした。

 暑い最中に地下鉄に乗るより、表の風に当たったほうが増しだと思い、ビルの片陰に沿ってJR御茶ノ水駅まで歩いて中央線に乗った。

 ここへくるまで隆一は、このゲラの校正は田上の事務所ですまそうと考えていた。だが、昔に隆一が請け負った西川のところの『投稿写真集』という臨時増刊号の編集を、田上に手伝ってもらったときの言葉を思い出したら、気が変わった。

「編プロもごまんとあるけど、学参物(学習参考書)とピンク系の雑誌を併行してやっているところはうちぐらいのものだろうね」

 ふたりして、笑い合ったものだが、田上の言葉は自嘲を含んだものだった。

 当時、田上は新宿の花園神社近くのワンルームマンションを事務所に充てていた。クライアントは数社の教育系出版社で、もちろんいまもそのうちの数社との取引は続いている。

「新宿にある編プロというと、風俗関係かピンクっぽいのを得意にしているように思われるからね」

 3年前に、彼が事務所を移したのは、そんな風評を払拭するためで、それ以来、隆一は、その手のものはひとりでできる原稿執筆だけにして、田上のところへ持ち込むことは控えていた。

 まして、当時と違い、スタッフの大半が入れ替わっていることを思えば、こんなエロいゲラを広げるわけにいかない、ということに気が付いたのだった。

 店に入ったときには、汗を含んでいたシャツも乾いて、氷が融けた紙コップを呷ると隆一はそこを出た。

 新宿駅が利用できて、住居表示は新宿区以外――これが、田上の新しい事務所へ移る時の条件だった。もっとも、そんな条件を充たすのは代々木2、3丁目に限られるのだが、田上は運よくその一画に恰好の物件を見つけたのだった。

 それは、文化学園女子大の手前の路地を入っていったところの左側にある大きなマンションで、有名な作家や芸能人も入居しているということをあとで知った。

 JR新宿駅の南口からは、歩いても10分余りという至便な割には緑の木々に囲まれた閑静なところで、部屋数も800室余りあるという。

 その事務所は、いわゆる2Kの広さで、10階のエレベーターの斜向いの1007号室だった。

 半ば開けたドアから顔だけ出して、「しばらく……」と隆一はいうと、左手を後ろに隠してなかに入っていった。

 右手の壁に面して並んだデスクの、2人のTシャツ姿の男が目を向けて会釈した。手前のほうが古くからいる岡村で、その奥が昨年に新卒で加わった朝野だった。ふたりとも常駐スタッフで、それぞれ数学と英語を得意としており、学参物がメインの田上には欠かせぬ戦力だという。

 左側のパソコンラックの、デスクトップの画面を覗いていた女性が慌てて駈け寄ってきて、「どちらさまでしょうか?」と、訝しげな表情で訊いた。

 隆一が初めて見る顔だった。

「いいの、有川さん。俺の友達なの……」

 部屋の奥の両袖机に陣取った田上が、ノートパソコンを覗いたままでいった。数カ月前とは違う、ローズウッドの真新しい机だった。

「どうも失礼しました」

 有川と呼ばれた幾分小柄な女性は、深々と頭を下げた。

 長い睫の大きな瞳は澄み切って、毛先にウエーブを効かせた肩にかかる黒い髪が、その瓜実顔を引き立てていた。

 トップスは、パフスリーブの白地のドット柄で、黒いデニムとほどよく調和していた。それを引き立てるような白いローファーが、細くて長い足を強調しているかのようだった。

 稀に見る端麗な容姿で、隆一は熱い視線を送りながら、クローゼットの横のソファーに腰を下ろした。

「りゅうちゃん、どうも……」

 田上は、ノートパソコンを閉じると席を立ち、「改めて紹介するけど……」と、さらに言葉を次いで、有川という女性の肩を叩いた。

「彼女は、元劇団員でいまはアフレコをやっているという有川さん。目指しているのはシナリオ作家で、後学のために編集をやりたいということで今月からきてもらっているの。例の東海ファニッシングのカタログ制作のデスクとして考えているからいろいろ教えてやってね」

「有川です。先ほどはすみませんでした」

 彼女は隆一の前に立って頭を下げると、名刺を差し出した。

 それは、もちろん田上の事務所のもので、エディトリアル・プランナーの肩書きの下に有川由紀と刷り込まれ、名前の上に「ゆうき」というルビが振ってあった。

「彼は、俺のブレーンで友達でもある中園さんね。広告や編集関係で20数年のキャリアを誇るベテランだから、頼りになるよ」と隆一を紹介した。

 立ち上がり会釈すると、隆一はいった。

「凄く綺麗な人じゃないの。これだけの美貌なら、アフレコやるより女優業を続けていればよかったのに……。まして、雑誌の編集なんて、美人がやる仕事じゃないよ……。もったいないことこの上ない」

「もう、女優でデビューするには賞味期限を過ぎてしまいました。それで、子供向けの人形劇やアニメのシナリオ作家を目指す一環として、アフレコを続けながら編集にチャレンジしている、というわけです。よろしくお願いします」

 鈴を振るような声で、有川はいった。

 さすが、アフレコをやっているだけのことはある、と隆一は感心しながら有川を見つめ、

「そうかね。俺は、イケメンだったら役者になりたかったし、歌が上手ければ歌手になりたかった。これだけは、本人が努力してもどうにもならないことだから諦めちゃったけど……。その結果が、しがないフリーライターというわけ。それはともかく、あなたみたいな美人は女優を続けるべきだと俺は思うね。その美しさは、毎日が旬(しゅん)といった感じだし、とっても美味しそうで涎(よだれ)が出るよ。諦めるには早いんじゃない」

 といって、腰を下ろした。

 有川は、頬を染めて俯いていた。

「へんに、けしかけないでよ、りゅうちゃん。うちの大事な戦力なんだから」

 と田上が笑った。さらに、

「彼は、コピーライターから出発したけど、漫画の原作やシナリオも書いているんだよ。それに、昔は官能小説も書いていただけに、女性には忠実(まめ)で如才ないから、餌食にならないように気をつけてね」

 と茶化した。

「それは男の本領で、官能小説とは関係ないじゃないのよ、ねえ……」

 隆一は、有川に視線を向けながらいった。

「へえ、そうなんですか。官能を書ける人はなんでも書けるんだって、前にいた劇団の先生がいってましたよ。わたし、そういう人尊敬します。それより、中園さんてなかなか渋い男の色気がありますね。失礼ないい方ですが、バイ・プレーヤーだったら大成したのでは……という気がします」

 有川は、立ったまま、揉み手をするような仕種をとりながらいった。その目には、えもいわれぬ色気を湛えていた。 

「それは、褒め言葉として受け取っていいの?」 

「もちろんですよ。なんでしたら、劇団に紹介してあげましょうか。いまからでも遅くないですよ」

「だったら、相手はあなたで、なにか芝居をやってみたいね。それも濡れ場オンパレードの濃厚なやつを……」

「そ、そんな……」と、有川はまた頬を染め、自分の席に戻った。

「早速、今晩から稽古付けてよ、ね……」

「…………」

「ね、有川さん。彼は美人を見ると、すぐこれだから困っちゃうのよ……。バイ・プレーヤーじゃなく、バイブレーターのほうが相応しいと思わない?」

 椅子に坐って下を向いている有川に、田上が助け舟を出した。

 それを訊いた男のふたりが声を上げて笑い出した。有川も、顔を赤くして、口を手で押さえていた。

「美人相手なら、なんだってやりますよ。でも、バイブレーターとはよくいってくれたね。社長……」

 部屋中が、また笑いの渦に包まれた。

「ところで、仕事のほうはどう?」

 田上が訊いた。

「相変わらずだよ。例の西川のところのものと、週2、3回の四ツ谷の編プロの台本の校正だけ。あとは、誰も読んでくれない原稿を書いてるだけの気儘な不自由人さ。俺には、これくらいで十分だよ」

 隆一は本音をいった。

「へんないいかただけど、それ以上増やさないでね。もうすぐ例のカタログ制作にかからなければならないし、頼りにしてるんだからね……」

「大丈夫よ。こっちが増やそうと思ったって、仕事を回してくれるようなところはないから……」

「あれっ、手どうしたの? 喧嘩でもしたかね」

 隆一の、左側に坐った田上が目を丸くしていった。

「うん、慣れないことをしたら怪我しちゃった」と隆一は誤魔化し、「金が余ってるらしく、いい机買ったんだね」と話を逸らした。

「例の、東海ファニッシングの撮影に立ち合ったら、在庫処分するからと、押しつけられたんだよ。書棚やサイドボードもセットだったけど、ここには置けないから家に置いてるよ。断り切れなくて無理したから、スッカラカンになっちゃった」

「なにいってんの。書棚には札束を並べてるんでしょう」

「銀行に積むのはアブナイからね」

「そうだね。最近の銀行はどこも火の車らしいからね。いちばん安全で確実なのは、俺に投資することだよ」

「書棚に並べ切れなくなったらそうするよ」

「早くそうなるように頑張ってよ。俺はほかからも口がかかってるし、いくら友達でも、いつまでも待てないからさ……」

「はい、わかりました、大センセー」

 田上はおどけてみせた。

「でも、冗談はさておき、なかなかその机はいいモノだよ。外国では偉い人はみんな木製の机で、ヒラはスチール製と決まっている。これでやっと、ほんものの偉い人になれたというわけだ。タガさんは童顔だから、初めての訪問客は、誰が社長だかわからなくて困っただろうけど、今度からは机でわかる」

「それで助かることも多かったんだよ。集金人がきたら『社長はいません』と逃げられたから……」

 静まっていた部屋に、また笑い声が上がった。

 田上も、みんなの笑いの輪に加わったあと、「ちょっとお茶呑みにいこう」と隆一を誘った。

 このマンションの1階には、飲食店から喫茶店、さらに酒屋や雑貨店といった商業施設が入居していて、小さな団地には負けないほどだった。

「あれから、1ヵ月近くなるんだね。みゆきさんといい線いってるそうじゃない」

 1店しかない喫茶店で、ふたつのアイスティーをオーダーすると、田上は冷やかすように切り出した。

「べつに……」と、隆一は恍けた。

 さらに田上は、みゆきからこの間一緒に呑んだ時のお礼の電話があったこと、隆一のことについて訊かれたことなどを話しはじめた。

「もちろん、俺の知ってるままを正直に話しただけだからね。ちょっと不器用で金儲けは下手だけど、大きな可能性を秘めてる男だと……」

「…………」

「みゆきさんって、なかなかの才媛だよね。それで、りゅうちゃんのことを凄く褒めてたよ、彼女。いままで出逢ったことのないタイプの人で頼もしいって……」

 田上は、隆一の顔色を窺うような視線を送りながらいうと続けた。

「なんでそう思うわれるのかね、りゅうちゃんは……。悪くいえばいいカッコしいだから、そういう男に誰でも女性は弱いのかね?」

「俺は女じゃないからその辺のところはわからないけど、べつにいいカッコをしてるわけじゃないよ。ただ、訊かれたこと以外自分については喋らないし、相手のいいところは素直に認めて褒めてあげる。これが俺の流儀だから……。それは、タガさんもとっくに知ってるじゃないよ」

「…………」

「底の浅い俺なんか、喋り過ぎるとすぐに馬脚を表わす羽目になるから、小出しにしているというわけ。そこが、タガさんと違うところかな」

 そういうと隆一は、ストローをグラスから抜き、直にグラスに口をつけた。

「いいよね。いくつになっても、恋ができて……。いや、これは、決して皮肉じゃなく、俺の率直な気持ちだからね。誤解しないでよ」

「だって、俺はれっきとしたシングルだもの。だから、誰に恋しようが自由で、不倫でもなんでもないんだからね」

「そうだね。じつに羨ましいよ。ところで、話は変わるけど、貴嶋諒子さんて知っているよね。1週間ほど前に事務所を訪ねてきたよ」

 田上は、含みのあるいいかたをした。

「知ってるけど、なんのために誰を訪ねてきたのよ」

「りゅうちゃんに決まってるじゃない。電話したけど、連絡が取れないといって……」

「ふーん。たまたま電源切っていたときにかけたんだろうよ。でも、なんで、タガさんのところを知ってたんだろう。まして、俺がいないのにくることもないのにね」

「随分、冷たいね。彼女、姚子ちゃんの友達でしょう。りゅうちゃんのことを心配したからきたんだろうよ」

 不服そうな表情で田上はいった。そして、城嶋に訊いたのかどうか、姚子のことに話を振ってきた。

 いまさら隠し立てする必要はないと思い、隆一はその経緯を説明した。

「ここんとこ、なんかおかしかったものね、りゅうちゃんの行動は……。この前、仕事場にいったとき、なんとなくわかったけどさ。また、女性関係で揉めたの?」

「そんなことないよ。相も変わらずぐーたらな生活はしてたけど、それはいま始まったことじゃないし、姚子がそれを認めるというから俺は一緒に暮すことにしたのだから……」

「それは、もちろんわかってるよ。それだけに、どうしても解せないんだよね。黙って姿を晦ますなんてする人じゃないでしょう、姚子ちゃんは……。おそらく、彼女の身に何か風雲急を告げるようなことが起こったんじゃないのかね」

「さあね。どういうんだかわからないね……。とにかく結論から先にいえば、俺に愛想を尽かしたということじゃないの」

「なんてこというの、りゅうちゃん。それがりゅうちゃんのこたえ? 本気でそう思ってるんだったら俺は怒るよ。俺は彼女も大事な仲間のひとりだと思っている。俺は、りゅうちゃんの友達だということで、仕事も紹介してもらったし、何度も一緒に酒も呑んだ。だからというわけじゃないけど、クレバーでいい人だよ彼女は……」

「…………」

「りゅうちゃんのいうことには彼女は唯々諾々(いいだくだく)で、すごーく献身的だったじゃない……。だから、今回の行動は、なにかのっぴきならない事情があったとしか俺には思えないんだよね。だとしたら可哀相じゃない。伝手を当たってみるぐらいしたって、罰は当たらないよ」

「それならそれで、一言ぐらい話してくれたっていいわけじゃない。俺はなんにもしてやれないけど、話ぐらいは訊いてあげられたと思う。いや、むしろなんとかしようと、一所懸命になったかもしれない。それをしなかったということは、俺の存在を認めていなかったということじゃないかね」

 隆一は、血眼になって捜し歩いたことには触れずにいった。

「…………」

「俺の存在価値は、夜だけのものだったんだよ、きっと……」

「そんなことはないよ。そんな拗ねた言い方をするということは、未練ある証拠だよ」

「べつに未練はないけど、いなくなってそのよさがわかったということは確かだね」

「でも、きっと帰ってくるよ。貴嶋さんもそういってたよ」

「もう忘れたからいいよ」

 隆一は、わざとぞんざいにいった。

「よくいうよ、惚れてるくせに……」

「べつに……」

「俺はね、りゅうちゃんのプライベートな問題に立ち入るつもりはないし、りゅうちゃんが誰と寝ようが関係ないんだけど、ひとつひとつけじめをつけていかないと面倒なことになるし、相手に悪いと思うんだ。俺達はちゃらんぽらんでいい加減だけど、ここというときのけじめだけは付けてきたじゃない。それだけは、今後も失わないでいこうよ。俺は、りゅうちゃんとは付き合いが長いし、りゅうちゃんの強気の裏にある繊細な心の内もわかっているつもり。だから、りゅうちゃんが傷ついて悩む姿は見たくないんだよ。これは、友達としての俺の忠告。気を悪くしないでね」

 田上は、微笑みながらいった。

「そんなことわかってる。大丈夫だよ」

「じゃ、湿っぽい話はこれで終わりにして、久しぶりに呑もうか。ワッといこうよ、ワッと……うちの有川の歓迎会を兼ねて……」

 ここで待つように田上はいい残し、席を立った。

 隆一は、そこで読み終えていたゲラに再び目を通しながら、時間を潰した。


 3人で歩いていった店は、新宿駅西口のヨドバシカメラの近くの活魚料理屋だった。ここは、田上が代々木に移ったとき以来、幾度か連れてこられたところで、新宿で呑む際の口開けとなっているところだった。これも、魚介類が好きな隆一に対する、田上の気遣いなのはわかっていた。

 通りに面した大きな生簀のなかで泳いでいる鯵や石鯛、エビなどが恰好のアイキャッチャーとなっていて、魚好きの間では評判の店らしかった。

 店の入口には、勤めを終えたサラリーマンやOLのグループが鈴なりだったが、田上は有川と隆一をしたがえるように店内に入っていった。

 案の定、カウンターも6つのテーブル席も満杯で賑々しかったが、田上は予約していたらしく、すぐに奥の部屋に通された。

 テーブルが縦にふたつ並んだ、掘りゴタツ式の、襖で仕切られた部屋だった。混んでいるなか、こんな広い部屋に3人では申し訳ないな……と隆一は思ったが、すぐに岡村と朝野があとで加わるのかもしれないと独り合点して、勧められるまま田上と有川が並んだ正面の、飾り棚を左に見る席に坐った。

「とりあえず生ビールと、鯵のタタキでいいね」

 田上がいった。

 有川が頷くのに、隆一も合わせた。

 上がり框の前に立っていた生成(きな)りの白絣の単衣(ひとえ)に茜襷(あかねだすき)の仲居は、オーダー品を笑顔で反芻すると、襖を閉めていった。

 そこで隆一は、「岡村君と朝野君はこないの?」と訊いた。

「岡村は、予定があるらしいけど、朝野は人を迎えにいってる。あとでくるよ」

 ほどなく運ばれてきた生ビールのジョッキをそれぞれ掲げ、乾杯をした。

 それから、30分ぐらい経っただろうか。3杯目の生ビールを飲み干す頃に襖が開いた。

「遅くなりました。靖国通りが混んでいたもので……」と、開けた襖から上体だけ出していったのは朝野だった。

「この時間帯は、仕方ないよ。でも、思ったより早かったじゃない」

 田上は部下を犒った。

 すぐに、「お疲れさま」と、立ち上がった有川の声が続いた。

「どうぞ、入ってください」

 朝野の言葉で、襖の向うから姿を現わしたのは、意外にもみゆきだった。

 隆一は肝を潰した。今日、隆一に逢うのをわかっていたかのように、みゆきは隆一の好みでこの前銀座で買い揃えた服で装っていた。

 モスグリーンのフリルトップスも、ブルー系のアシンメトリーのスカートも、スレンダーなみゆきをこの前よりも華麗に見せていた。

 ベージュのアルマーニのジャケットが、それらの渋い色と見事なまでに融和し、匂い立つような気品を醸していた。

 さらに、スカートの裾より見え隠れする、光沢のある大胆なネットのストッキングに包まれた膝蓋が色香を放ち、腓(こむら)から踝(くるぶし)にかけての線も煽情的に見えた。

「みゆきさん、しばらく……」

 田上が立ち上がっていった。

 隆一は目の遣り場がなく、坐ったままで時計を見た。7時を少し過ぎていた。

 通常ならみゆきは、月曜日のこの時間は『紫苑』にいっているはずだった。それに、月曜日の昼間は、アウトソーシングの会社の出社日だし、田上とどう連絡を取り合ったのだろうか。その会社が、どこにあるのかさえ隆一は知らなかったが、みゆきは朝野が迎えにいくまで、会社で待っていたのだろうか。

 まさか、みゆきの部屋まで朝野が迎えにいったわけではあるまい。前もって、約束していたわけでもなさそうだし、たまたまかかってきた田上からの電話に、みゆきは出たのだろうか。

 隆一は、みゆきのことを知っているようで、肝心なことはなにも知らないことに気がついた。 

「りゅうさんて、なんにも訊いてくれないし、また自分のことも話してくれない……」と、みゆきが泣き伏したのは先月末のことだった。まさに、みゆきのいうとおりだった。

 また、一昨日の夜、『菖蒲』で瑠璃子さんと一緒のところを見られ、それ以後幾度かかかってきたみゆきからの電話に出なかったこともあり、隆一はまともに顔を見られなかった。

「お招きくださいましてありがとうございます。それに、わざわざ迎えにまできて戴き、すみません」

 みゆきは、田上に礼を述べたあと、さらに朝野のほうを向いて頭を下げた。

「どんまい、どんまい」と田上はいうと、改めて有川と朝野を紹介した。

「そちらのお方はご存知よね」

 隆一に顎をしゃくりながら、冗談ぽく続けた田上の言葉にみゆきは頷いて、隆一に目を向けてきた。

 その色白の頬には、微かに朱が射していた。

 その、上から下まですでに知り尽くしている隆一だったが、未だ触れたことのない熟れた女(ひと)に逢ったようなときめきを覚え、熱い頬を隠すように下を向いた。

「ほら、センセー……。なに照れてんのよ。ちゃんと挨拶したら……」

 例によって、田上が冷やかした。

 隆一は顔を上げ、「しばらく……」と声をかけた。頬が、さらに熱くなった。

「ご無沙汰してます」

 いってからみゆきは、バツが悪そうに周りを見回した。

「ほう……最近は、1日逢わないと、ご無沙汰──というのかね」

 またも田上が冷やかした。

「田上さんったら、なにをおっしゃるんですか」

 みゆきは、首筋まで赤くしていった。

 立ったままの有川と朝野は、互いに顔を見合わせると笑みを洩らし、隆一を見つめていた。

 田上の勧めで隆一の隣にみゆきは腰を下ろした。有川と朝野は、田上に並んで坐った。

「さて、冗談はともかく、みんな揃ったところで乾杯といこう」

 ジョッキが届いたところで、新たに田上が音頭を取った。

 豆鯵のから揚げが入った酢の物や刺身の盛り合わせ、茶碗蒸しや鮨などが順次テーブルに並べられた。

 田上は、みゆきと有川がプロ野球の贔屓のチームについて語り合っているのに耳を傾けながら、時折相槌を打っていた。朝野は、若者らしく腹拵えに余念がなかった。

 隆一は、疼きはじめた左手を堪えながらジョッキに口をつけ、昨夜のことを思い浮かべていた。


「お店休むから、どこか都心に遊びにいかない?」という瑠璃子さんの要望にこたえ、六本木へ出かけたのだった。

 六本木に出たついでに、かつて田上と飲み歩いた思い出の店などを、瑠璃子さんとふたりで辿るつもりだったのだが、2件目のクラブを目指す頃には、傷が疼きはじめていた。心配した瑠璃子さんにしたがい、タクシーで浅草・花川戸の彼女の部屋に帰ったのだった。

 朝になって、瑠璃子さんは病院へいくよう勧めたが、瑠璃子さんと同衾していれば痛みは感じず、隆一は首を振った。それでも瑠璃子さんは、気を利かせてオキシドールと鎮痛剤と繃帯と、カッターシャツを買ってきてくれた。

 酔いが回ったせいか、傷は熱を帯びて疼いた昨夜の状態に近くなっていた。隆一は、左手はテーブルの下に隠したままで、前にある料理を眺めていた。

「りゅうちゃん、どうしたのよ? 美人に見蕩れてばかりいないで食べようよ。嫌いなものはないはずだよね」

 田上がいった。

 ほかの3人が、一斉に視線を向けた。

「…………」

「あ、そうか……。ビールはあまり呑まないんだよね。なにかほかのもの頼もうよ。みんなはなに呑む?」

「中園さんの好みでいいですよ」

 有川と朝野が口々にこたえた。みゆきも頷いた。

「ほら、みんなりゅうちゃんに合わせるってよ。なににする」

「りゅうさん、なににしますか?」

 みゆきが訊いた。

「冷酒」

 やっと口を開くきっかけができた隆一は、小さな声でこたえた。

 有川が、仲居を呼んだ。すぐに、それぞれアイスペールに入った3本の2合壜と、5つの小さ目のグラスが届けられた。

「少し戴いたらどうですか」

 さらに、みゆきがいった。

「冷酒を呑むから……」

 隆一はこたえ、2合壜を指差した。みゆきは頷いて、右手に持ったグラスにそれを満たした。隆一は、一気にそれを呷った。

「ごめん、いま思い出した……。彼氏はケガしちゃってて、利き腕が使えないから、みゆきさんに食べさせて欲しいんだって……。みゆきさんがくる前に、しきりにそういってたんだよね、有川さん」

「そうでしたね」

 田上の言葉に、有川も笑いながら相槌を打った。

「そんなこといってないからね」

 隆一は、みゆきにいった。

 アルコールに強いはずのみゆきは、またも目許を染めて口を開いた。

「どうしたんですか? ちょっと見せてください」

 みゆきにいわれて、隆一は渋々左の手を挙げた。

「あらーっ、腫れているんじゃないですか。大丈夫……」

 みゆきは、隆一の繃帯を巻いた手首を取って、頬に当てた。

 火がついたように隆一の全身は熱くなり、慌てて手を引いた。その拍子に傷がこそがれ、痛みが奔(はし)った。隆一は、呻吟しながら腰を曲げた。

「ごめんなさい。痛いでしょう」

 みゆきが気遣った。

 隆一は顔を上げ、首を振った。

「なにか食べたほうがいいでしょう……」と、みゆきは刺身を箸で挟んで、隆一の口許に差し出した。

 この際、遠慮は要らぬ──。隆一は開き直り、それを受けた。1度そうしたら、あとは平気だった。急に、食欲が出てきた。

 みゆきはそれを悟ったように、次々に鮨を食べさせてくれた。

「いままで食べ物には見向きもしなかったのに、乳呑児のように夢中で食べている。いいね、いつも役得で……」

 田上が茶化した。

「はい、社長……」

 有川が、箸で摑んだ鮨を、田上の口許へ持っていった。

「いいよ、冗談だよ」

 田上はいってそれを頬張ると、「あー、なんて美味しいんだろう」と声を上げた。

 みんなの笑い声が上がった。

「おふたりとも、お歳は召しているのに朝野さんより子供なのね。そうよねっ、朝野さん」

 有川がいった。

「急に、僕に振らないでくださいよ」と、朝野は困惑の色を浮かべていった。

「大丈夫だわよ、いまは思ったことをいっても……」と有川。

「無礼講でいいですよね、田上さん」と、みゆきも口を挟んだ。

「もちろん、いいとも……。呑むときはいつもそうだから。ねっ、りゅうちゃん」 と、田上は隆一を覗き込んだ。

 傷の痛みは続いていた。瑠璃子さんが買ってきてくれた鎮痛剤も部屋に置きっぱなしだった。隆一は、酒で紛らす以外にないと思い、冷酒を呑むピッチを上げた。

「みゆきさんは、なにが本業なの?」

 唐突に、田上がいった。

「いろいろやっていますから、なにが本業だかわかりません」

 笑みを浮かべたみゆきは、月、火、木はアウトソーシングでのインストラクター、土、日の夕方は英会話塾での講師をしていることを話し、それ以外の週の数日はクラブのヘルプをしていることを補足した。しかし、クラブのヘルプは数日前に辞めたこと、さらに、アウトソーシングの会社も今月いっぱいで辞める予定だということを、隆一に伝えるがごとく付け加えた。

「受講生が増えてきて、週4日の開講になるのです。それで、専任でやって欲しいという要請があったものですから……」

「ふーん、本業は英語の先生か……。今は、幼児の英会話教室もあるご時世だから、英語ができる人は引く手数多(あまた)なんだね」

 田上は感心してみせた。

「そんなことはないのですが、わたし自身が勉強をしたいものですから……。ところで有川さんは、どんなお仕事をされているんですか?」

 みゆきが質問した。

 有川は、劇団にいたことやアフレコをやりながらシナリオライターを目指していることを話した。

「クリエティブな仕事でいいですね」

 みゆきは、羨ましげにいうと、隆一に視線を向けてきた。

「朝野君も英語が本職じゃなかったっけ?」

 それを避けるように、隆一は朝野に水を向けた。

「それは岡村さんで、僕は数学です」

「数学の問題集制作には、彼は欠かせないのよ。とくに、解答の校正には……」

 田上が、フォローした。

「たいしたもんだ。いいブレーンを摑んでいるから、タガさんは楽だよね。そのなかで、いちばんの役立たずが俺か……」

 隆一は、自嘲を込めていった。

「なにをいうの……。りゅうちゃんは編集の大ベテランだし、俺の最も大切なブレーンだよ。いざというときに物をいうのはキャリアだし、その存在感が俺の強みになってるんだよ。この仕事は、人脈が財産だから、その点で俺は恵まれていると思う。その筆頭がりゅうちゃんさ。ね、そうだよね」

 田上は、みんなの顔を見回しながらいった。

「そうですよ。そういう後ろ盾があるから、田上さんも仕事に邁進できるのでしょうし、わたしのような新人でも伸び伸びやれる」

 田上の言葉に有川が賛同し、朝野も頷いた。

「俺は、ブレーンじゃなく、どちらかというとブレーキだから……」

 隆一は、照れ隠しに声を張り上げた。

「ブレーキ役がいないと困るんだよ。俺はアホやから、すぐ暴走するから……」

「社長はそれぐらいのほうが、部下は育つというじゃないの。トップは、銭勘定だけでいいのよ……」

 隆一は、さらに大きくいった。

「そんないいかたは失礼ですよ。田上さんは自分を卑下していってらっしゃるだけで、実際は適材適所でスタッフを上手く動かしているんですよ。稀に見る優秀な上司で、とてもアホでは勤まりません。ねっ、そうでしょう田上さん」

 みゆきは田上を援護した。

「そう、そう……。さすがみゆきさん、人を見る視点が違うね」

 田上は、相好を崩した。

「すまないね。俺は長年、水差しとブレーキ会社のコピーばかり書いてきたもので、人の話しに水を差すことと、足を引っ張ることだけが取柄なんだ」

 冗談で隆一も場を繋いだ。

 笑いの渦が起こった。

 ほどなく、田上が真顔で口を開いた。

「みゆきさんや有川さん、それに朝野君のような優秀な取り巻きがいるんだから、りゅうちゃんあたりがなにかプランニングしてくれれば、いくらでもビジネスチャンスはあると思うんだけどね」

「遊びのことならべつだけど、俺には無理だよ。昔からいわれている、怠け者の節句働き──を地でいってるんだから……。むしろ岡村君あたりが適役じゃないの」

「彼は真面目過ぎてお人好しだからね。海千山千の出版社の人間と渡り合うには線が細いと思うんだよね」

「だったら、やっぱりタガさんがやるしかないね。岡村君や朝野君は英語と数学が得意なわけだし、有川さんは映画やアニメ関係に詳しいし、みゆきさんは英語の先生ときてる。いずれ劣らぬ知識をそれぞれお持ちだから、これを結集すればいいアイデアが浮かぶでしょう。それにタガさんは教育系出版社にパイプがあり、それなりのノウハウを持っているんだから、それに照準を合わせた新しいものを企画すればニュービジネスが立ち上げられるんじゃないの。ほかにも専門的な知識を有する社外スタッフがいるわけだし……」

 みんなの顔を見ながら隆一はいった。

「教育関係は、少子化がネックだよね。すでに一部では小中高校の統廃合が進んでいるし、大学だって長年定員割れをきたして廃校になったところもある。この分野は難しいと思うね」

 田上は眉を曇らせた。

「すみません、社長……。それは、ちょっと短絡的だと思います。少子化云々は、文部科学省や全国の市町村の教育委員会が考えればいいことで、そういう時代背景のなかでニュービジネスをどう立ち上げるか、というのがこの話しの発端でしょう。そんな社会現象を引き合いに出してニュービジネスを否定するのはナンセンスで、アイデアを出そうにも出せませんよ」

 有川が異を唱えた。

 綺麗なだけではなく、本質を衝く意見を忌憚なく述べる態度に隆一は感じ入った。

「参ったねっ、美人の痛烈な批判には……。でもそのとおり。この業界にどっぷり浸かっているせいか、悪い現実しか見えてなかった」

 田上は、あっさり認めた。こういうところが田上のいいところで、隆一とは正反対だった。隆一なら、頭ごなしに屁理屈で遣り込めたかもしれない。

「そのうち、みんなで気さくにディスカッションする場を設けようか」

 田上がいった。

「そうですね。外部スタッフの人にも集まってもらってやりましょうよ」

 朝野が応じた。

「少子化といえば、意識的に子供を産まない夫婦がある一方で、産みたくてもできない夫婦もあるわけですよね。そういう現実を見ると、神の恩寵(おんちょう)も平等ではないといわざるを得ませんね」

 しみじみと、みゆきがいった。

「まったく……。世のなか、ほんとに不合理だよね」

 それを引き取って隆一はいうと、続けた。

「いささか旧聞に属するけど、2001年、朝日新聞が調査したところによると、同年1年間に国内だけで1,100組の夫婦を対象に、計約5,000回の人口授精が実施されたというんだね。その精子の提供者の大半が匿名の学生らしいが、なかには日本産科婦人科学会の指針に反し、夫の近親者のものを使ったり、エイズウイルスなどの検査をしていなかった施設もあったという。いずれにしても、多くの問題を孕んでいることは確かだよね。また、少子化対策として、このほど『次世代育成支援対策推進法』とやらが施行されたけど、ちょっと、遅すぎたきらいはあるよね」

「そういえば、子供をひとりもつくらないで自分を謳歌し、老後は税金で面倒を見てもらおうという女性の考えはおかしい云々──といった馬鹿な総理経験者もいたし、そのあと女性は子供を産む機械──と、ほざいたアホな大臣もいた。少なくとも、子供を産みにくい世の中にした政治家にはいって欲しくない台詞だよね……」

 政治家を皮肉った田上は、みんなを見回すとさらに続けた。

「企業にも、少子化対策が義務づけられ、子育てをしながら仕事がしやすい環境を作るということに政府も力を入れて、いろんな支援策を打ち出している。そのひとつとして、男性にも育児休暇を認めようという動きがあるが、それは一般企業では難しいと俺は思う。それを利用して育児に力を入れると、高らかに宣言した若い政治家がいたが、妻が出産で入院しているときに不倫して、辞職を余儀なくされた。それはともかく、有給もまともに取れないような会社で、育児休暇なんていったら、白い目で見られるのが関の山」

「そのとおり。まして、いまは、企業に従事する人の大半が、目先の教育費や住宅ローンなどで四苦八苦しているんだから……。加えて、定年後の年金だって、社会保険庁の杜撰な事務処理が露呈したし、なんやかんや理由を付けては支給額を減らしている。一部を除けば企業のトップといえど不安がいっぱいだ。したがって、社長も社員も、次世代のことまで考える余裕はない」

 隆一は、そういうとみんなを見回してから続けた。

「極論すれば、種馬にはなんらいい餌は与えないでおいて、子馬はダービーに出られるようなサラブレッドをいっぱい産め――といっているようなもので、矛盾しているよね」

「まったくだ」

 田上の相槌で、笑い声が上がった。

「ということは、これからは、この関係に注目したほうが、ニュービジネスになるかね、りゅうちゃん。子供が欲しくてもできない人達をターゲットにして……」

 冗談っぽく、田上が振ってきた。

「それは、子種ビジネスということ? 悪くはないけど、俺とタガさんが旗揚げしたら、ニーズはほとんどないんじゃないの。ふたりのDNAが欲しいという女性は皆無だろうから……」

「できの悪い子の見本ばかりが生まれると、敬遠されるか。ハッハッハッ」

 ふたりの悪乗りに、ほかの3人は顔を見合わせ爆笑した。

「どこかの国のように、わが国も一夫多妻を認めればいいと思いますよ。そうすれば、子供は増える」

 朝野が、ユニークな意見を述べた。

「なるほどね。政治家や世の成金連中のなかには、現にそういうことをしている輩(やから)がいるわけだから、それを認めてもいいよね」

 田上が応じた。

「確かにそれはいえる。実際、そういう御仁は多いはずなのに、罪に問われたというのは訊いたことがない。我々庶民にもその権利を与えるべきだ」

 隆一も、口を挟んだ。

「世の中には、金はなくても絶倫だという人は多いわけだから、是非そうすべきだ。そうすれば性犯罪もなくなる」

 田上が次いだ。

「不倫だって減りますよね」

 朝野が恍けた表情でいった。

「朝野さんもいうわね」と、有川が笑った。

「ここでは、タガさんを除けば、誰も不倫じゃないからいいよね。タガサンは社長で妻子ありなんだから、不倫などという後ろ指差される行為に走ったら駄目だよ」

 隆一は、田上に冗談を向けた。

「それは差別だ。社長だって恋はするよ。たとえ相手が人妻でも好きになる」

 田上は、拗ねてみせた。そして、続けた。

「ところでさ……。俺はちょっと前まで、不倫を絶つのを絶倫というんだと思っていたよ。交際を絶つのを絶交というのと同じでね……。だけど調べてみたら、精力絶倫とはアレが強い人のことをいうのだとわかった。そんな人が不倫を絶てるわけがないじゃないね。絶たないのに絶倫とはこれいかに……」

 またも爆笑が起こった。

「これも、豆腐と納豆を取り違えたようなもんだね」

 笑いながら、隆一は引き取った。

「さて、不倫談義はこのくらいにして、2丁目に呑みにいこうか」

 田上が水を向けた。

「2丁目って、あの新宿2丁目ですか?」

 みゆきが目を丸くしていった。

「そう、かの有名な2丁目よ」

 田上がこたえた。

「そんなところに、女性陣がいったらまずいんではないですか」

「そんなことないって……。女人禁制とはどこにも書いてないよ」

 不安げな顔をしたみゆきに、田上がいった。

「朝野君は、あそこじゃよくモテるんだって……」

 隆一は、朝野を茶化した。

「いやー、モテるなんてもんじゃないよ。この間、連れていった店では、女装させられてさ。あまりにも綺麗なもんだから、客できていた他所の店のママに惚れられちゃってね。すべて面倒見てあげるから、うちにこない――と口説かれていたよ」

 田上が、朝野のことを暴露した。

「ママといっても男の人でしょう……。あの人、朝野さんにくっつきっぱなしで、わたしなんか見向きもしないの」

 有川も追い討ちをかけた。

「また、あそこですか」と、朝野は照れ笑いしていた。

「いこういこう。そんな店なら、タガさんが誰に恋しようと、不倫にはならないから……。それに、このふたりの女性は、俺が相手するから気にしなくていいよ」

 隆一はいうと、みゆきの手を取った。

 全員が、笑いながら立ち上がった。 


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