第9話 出 立(しゅったつ)
羽田を飛び立って、1時間になろうとしていた。
隆一の腕に凭れて目を閉じていた瑠璃子さんは、ふと上体を起こすと窓に顔を近付けて声を上げた。
「ねえ、見て、見て……。真っ青な海が広がっている」
隆一は、瑠璃子さんに頬擦りするように顔を寄せ、窓の下方に視線を向けた。
迫(せ)り出した右翼のフラップに少し邪魔されてはいたが、その先には瑠璃子さんの言葉どおりの色の海面があった。その翼に分断された岸壁も視界に入った。当って砕ける波が、白く輝いているのがわかる。
「いま、どのあたりを飛んでるのかしら?」
瑠璃子さんが訊いた。
「紀伊半島(きいはんとう)の潮岬(しおのみさき)の上空かな……」
「へえ……。日本の海も綺麗だわね」
訊けば、瑠璃子さんは、飛行機に乗ったのは卒業旅行でヨーロッパへいったのが最初だという。新婚旅行でアメリカの西海岸にいったのが2度目で、3度目は20年ほど前の2月に、父親と義母にお伴して札幌の雪祭りにいったそうだ。それ以来の空の旅――というわけで、久方ぶりに上空から眺めた縹渺(ひょうびょう)とした青い海に、感激もひとしおといった面持ちだった。
逆二等辺三角形を彷彿させる岬が、翼のはるか下方に見えてきた。その底辺に当たる位置から鋭角な頂上に至る一帯は深い緑に蔽われており、2つの辺に相当する海岸は、白い飛沫(しぶき)の帯に縁取られていた。
その、頂点から距離を置いた微かに白波が立つ海面には、小豆(あずき)のような茶色の粒が、糸屑のような白い尾を引いているのが見えた。この高度からは豆粒にしか見えないそれも間近で目にしたなら、かなり大きな船に違いないだろう。
「下に見えるのは室戸岬(むろとみさき)だね。紀伊半島は、とっくに通過したようだ」
太平洋に突き出した先端が、白波に洗われているのを眺めながら隆一はいった。それは、すぐに視界から消えた。
また、すぐに、視界の前方に岬が入ってきた。足摺岬(あしずりみさき)だった。この、高知県を象徴するふたつの岬の間に横たわっているのが土佐湾である。その海岸線は、緩やかな弧を描いているのが、手に取るようにわかる。
「もう、足摺岬の上だよ。速いね」
「室戸岬に足摺岬……。というと、四国ね……。四国も意外に小さいのね」
瑠璃子さんは、隆一に視線を戻すと子供のようなことをいった。
「高度1万㍍から見ればこんなものでしょう。この高さからなら、九州だって小さく見えますよ」
5年ぶりに見る空からの景色を懐かしみながら、隆一はいった。
「四国には、八十八箇所の霊場があるのよね。これは、弘法大師が開いたのでしょう?」
瑠璃子さんは、隆一を見上げるように問いかけた。
「そうですよ」
「弘法大師は、別名、空海(くうかい)といわなかった?」
「よく、ご存じで……。幼名は真魚(まお)といい、室戸岬での修行を終えて空海と改めたと、ものの本に書いてある。その室戸岬の突端にあるのが高知県では一番目となる都合二十四番目の最御崎寺(ほつみさきじ)で、あと二十五番目が津照寺(しんしょうじ)、二十六番目が金剛頂寺(こんごうちょうじ)と続く。つまり、室戸市に3つの札所があるというわけです」
「よく知ってるね。どうしてそんなに詳しいの?」
「じつは、最初に勤めた会社の夏の慰安旅行が四国一周で、ここの3つの札所だけはいったことがあるんですよ。高知県には、三十九番目の延光寺(えんこうじ)までの16の札所があり、当時、先輩達はそこまで順に巡ったけど、僕等若いものは室戸の宿に居残った。その頃は、寺などになんの興味もなかったからね」
「もしかして、麻雀ばかりやってたの?」
「当りー……。それで、抜け番になったら海へいって泳いでいた……」
「昔から麻雀狂いだったの?」
「麻雀のためなら、デートもすっぽかすというのが昔の僕だったね。覚えたのは高校1年の時だけど、あれは麻薬みたいなもので、なかなか止められないじゃない。同じ “麻 ”の字がつくからかね」
「じゃ、麻薬も覚えて止められないでいるの?」
「何をおっしゃる……。例えばの話でしょう」
「そう。よかった……。ところで、八十八箇所をすべて巡るにはどれくらいかかるのかしら……」
「全行程1,400㌔あるというから、のんびり回れば1日10㌔平均で140日でしょ。もっとも、ついでにほかの名所にも寄りたくなるだろうから、1年かければ十分じゃないかな。どうせだったら、それぐらいかけたいというのが僕の意見だね」
「1年がかりか……。綿密な日程を立てて巡ってみたいわね」
「お遍路さんになるには、まだ瑠璃子さんはちょっとだけ若いんじゃない。それとも、いますぐにも仏に懺悔(さんげ)しなければならないほど、悪いことをしてきたの?」
「何をおっしゃる……。わたしがそんな悪い女に見える」
「見える。その美しさは悪以外のなにものでもない」
「ほんとうに口がお上手なんだから、もう」
瑠璃子さんは、頬を染めて窓のほうに目を逸らした。
その、睫の長い、愁いを帯びたような横顔に隆一は、初めて逢ったときと同じ戦慄を覚えた。
それに気付いたかのように瑠璃子さんは向き直り、隆一の目を見据えたあと小さな笑みを作った。
隆一は、頬が熱くなった。
「もし、10年後も付き合っていたなら、ふたりでお遍路さんになろうか」
照れ隠しに隆一は、突拍子もないことを口にした。
「いいわね、それも……」
「それで、同じところからスタートして、ひとりは『順打ち』、もう一方は『逆打ち』で、それぞれ八十八箇所を巡り、同じスタート地点に戻る、というのはどう。それで、早かったほうを勝ちとして、負けたほうはなんでもしたがう、ということにしては……」
「そんなのイヤ。わたしをひとりで1,400㌔も歩かせるの? いま、こうして九州へいくということは、これからなんでも一緒に行動するということじゃないの……。わたしはそのつもりでついてきたのよ。あなたと一緒でなければ、お遍路さんになんかならない」
媚びるような目をして、瑠璃子さんは高い声でいった。
隆一は、周囲の視線を気にしながら、「ゴメン。ちょっと、ふざけてみただけだよ……」と声を潜めてこたえた。
「それに、『順打ち』……とか、どういう意味?」
「ごめん……あさはかな知識をひけらかして……。一番目から順に巡るのが『順打ち』で、『逆打ち』は文字どおり八十八番目から巡ること。じつは、これも何かの本で知った受け売りなの……」
頭を掻きながら、隆一はいった。
「これだけの距離を歩いて巡ったら、さすがに旅をしたという気がするでしょうね」
「そうですよ。交通機関を利用していくのは、旅ではなくただの移動だと高橋三千綱という作家がエッセーに書いてたけど、僕も同感だね。そういう旅をして死ぬというのが理想で、もしこの八十八箇所巡りをするのであれば、香川県さぬき市にある八十八番目の大窪寺(おおくぼじ)に辿り着いたところで、臨終というのがいいね。そうなったら、そこに葬ってもらえばいいから、誰の手も煩わせずにすむ。全財産を持っていけば、それぐらいやってくれるでしょうよ、寺も……」
本音と冗談を交えて、隆一はいった。
隆一の、左隣の席で居眠りしていた白髪の男の客が目を覚まされたらしく、わざとらしく空咳(からせき)をした。
隆一は、瑠璃子さんのほうに身を寄せながら、唇に人差指を当てた。
「いいわね、それも……」
瑠璃子さんは、幾分声を落としながら真顔で応じた。
「そうする?」
「あなたとなら、そうしてもいい」
「それはいいとして、その前に僕は『西国(さいごく)三十三所』巡りをしてみたい。これは、和歌山県の青岸渡寺(せいがんとじ)にはじまる奈良、京都、大阪、兵庫、滋賀の近畿地方を中心に岐阜まで及ぶ観音巡礼の霊場でね。最後の三十三番目の華厳寺(けごんじ)は岐阜の谷汲村(たにぐみむら--現・揖斐川町)というところにある。この谷汲村には、郡上八幡(ぐじょうはちまん)の郡上踊りに比肩する谷汲踊りというのがあるそうで、僕は1度それを見てみたいんだ。その町役場のブログによると、2月を豊年祈願祭、4月を桜祭、11月を紅葉祭と銘打って踊りまくるという、歴史のある踊りみたいだよ」
「わたしもいきたい」
「じつは、僕は、華厳寺(けごんじ)と一番目の青岸渡寺、三十番目の宝厳寺(ほうごんじ)の3カ所にはいったことがあるんだ。その宝厳寺というのがまた変わったところにあってね。琵琶湖の北湖(ほっこ)に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)という島にある。
そこにいったのは、フリーライターをやっていた昔、マリンスポーツ専門誌の琵琶湖特集の取材にいったときだった。浜大津のマリーナから、レンタルのランナバウトで、ぶっ飛ばしたよ」
「そこにわたしも連れていって……。あなたのいったところ、そしてこれからいくところ、わたし、みんないってみたい」
「いいですよ。生きてる限りそうしても……」
少し声が大きかったようで、ドリンクサービスの紙コップを集めていた、サンイエローの制服に身を包んだ客室乗務員と目が合った。寺の話しに加え、死ぬとか生きるとかの言葉を口にしたことをそれとなく聞いていたのか、彼女は訝しげな表情をしていた。
瑠璃子さんが微笑んで会釈すると、乗務員は笑みを返して去っていった。
機は、すでに足摺岬の上空を掠め、日向灘(ひゅうがなだ)の上にあった。徐々に高度を下げているらしく、機体が少し揺れはじめた。機の下に広がる、海の緑の色が濃くなって、ベルト着用のアナウンスが流れた。
瑠璃子さんは、隆一の二の腕を摑みながら窓に額を付けて、外の景色を眺めていた。ほどなく、機の下に見える景色は、白い雲を被った山並に変わっていた。
機はさらに旋回しながら高度を下げ、ぽっかり浮かんだ雲の下を飛んでいた。小高い山の裾野に続くビニールハウスや、黄色くなりかけた葉を残した煙草畑の畝(うね)が、くっきりと視界に入ってきた。
桜島が望めることを隆一は期待していたが、それは窓の視界に入ることはなかった。
「着陸するのね」
瑠璃子さんは、隆一の目を見ていった。
すぐに着陸体制に入り、逆噴射の轟音に続いて強い衝撃があった。機は、陽炎たゆたう鹿児島空港の滑走路を疾走していた。定刻どおりの到着だった。
盆休み前のせいか、空港ビルは、出迎えなのかこれから都会へ飛び立っていくのか、真っ黒に日焼けした、ジーンズにTシャツといったラフな恰好の、学生らしい男女のグループや家族連れが目立っていた。サーフボードを抱えた集団もいた。
「混んでいるようだから、食事はどこか途中でしようね」
午後1時を少し回ったこの時間は、カフェもレストランも行列ができているのを見て隆一はいった。
1階の、手荷物が載ったコンベアの周りも黒山の人だかりで、ふたりの着替えが入ったボストンバッグと、ゼロのアタッシュケースを機内持込みにしていたことを喜びながら、人の波を尻目に空港ビルの外に出た。
瑠璃子さんは、隆一が提げたアタッシュケースにも手を伸ばしたが、隆一は首を振った。
「東京と、全然違うのね。空の色も太陽も空気も……」
強い陽射しを受けながら、瑠璃子さんはいった。
ミモザイエローのフリルシャツと、アシンメトリーのベージュの地に花柄をあしらったレイヤードタイプのシルクスカートが、夏の陽に映えていた。
また、サイドのアクセントに花びら縁取った、優美なラインのストラップのミュールも、ミルクティーのような上品な色と相まって全体を引き締めて見せていた。
同系色でありながら、ややもすればちぐはぐな感じになる取り合わせだったが、この人が着ると意外に落ち着いて見えた。それは、年齢を重ねるごとに磨かれてきた瑠璃子さんのセンスを窺わせるもので、真夏の雑踏のなかでひときわ光彩を放っていた。
加えて、頭に載せた薄紫のクロッシュも、シャギーを入れた前髪とうまく融和し、肩に掛けたフェンディのショルダーとともに優雅なシルエットを描いていた。まさに、ファッション雑誌から抜け出したといった趣で、行き交う人がその姿を振り返っていた。
隆一は、優越感に浸りながら繃帯を巻いた左手で、瑠璃子さんの右手を取った。そして、ゆっくりと歩きながら空港ビルの前の駐車場を抜け、通りを隔てたところにあるレンンタカーの看板を目指した。
スイッチを入れたカーラジオから流れてきたのは、軽快なテンポの、1910フルーツガム・カンパニーの『サイモン・セッズ』だった。
福岡をキー局とするFM放送で、夏休み特番の、懐かしのヒットポップス特集だということは、あとで知った。
これは、確か隆一が高校に入る前の年にヒットした曲だった。高校に入学してから鹿屋に下宿していた同級生の大きなモジュラーステレオでこれをかけて、焼酎を呑みながらみんなでゴーゴーを踊った記憶がある。隆一は、ボリュームを上げながら、予定していた鹿児島空港より続く走行ルートの国道504号線に入り、長い坂を下っていった。
瑠璃子さんは、半ばほど倒したシートに身を預けながら、流れる曲に聴き入っていた。15分ほどで国道223号線に合流した。
この道は、鹿児島県隼人町(はやとちょう)から霧島経由で宮崎県の高原町(たかはるちょう)を結ぶルートで、ドイツのロマンチック街道にあやかったような名を冠している。その名は、『鹿児島ロマン街道』。それに魅せられてこの道を走るべく、隆一は事前に地図で調べておいたのだ。
瑠璃子さんと一緒に走ったという足跡を残すには、もっともこの道が相応しいと思ったうえでのことだった。片側一車線の狭い道だが、首都圏のような渋滞はなかった。
山を抉ったような川沿いの道をしばらく走っていくと、赤や黄色の幟を立てた旅館が並ぶ温泉街に入った。妙見(みょうけん)温泉だった。ここは、新川渓谷(しんかわけいこく)温泉郷の一翼を担う古い温泉街で、隆一もその名前だけは小学生の時分に耳にしていた。比較的小さな規模らしく、ものの数分で旅館街を走り抜け、曲がりくねった登りの道に入った。
走るに連れてクルマも幾分多くなり、数台の観光バスと擦れ違った。曲は、ピンキー&フェラスの『マンチェスターとリバプール』に変わっていた。
瑠璃子さんは、クロッシュで顔を蔽い、眠っているように見えた。隆一は、効き過ぎたエアコンの温度を上げ、カーラジオのボリュームを下げた。
隆一が、瑠璃子さんに、この旅への誘いの言葉をかけたのは、『瑠璃』で肉欲を耽溺(たんでき)したあといった、瑠璃子さんのマンションだった。
店を出てタクシーを拾ったときはすでに雨も止み、空は白みはじめていた。そのマンションは、言問橋を渡って江戸通りを浅草・松屋方向に曲がって、さらに路地を左に入った隅田川沿いにあった。8階の洋間のその部屋の窓の真下に、東武線の鉄橋の明かりや首都高のランプを映し込んでいる水面(みなも)が見えた。
いまなら、その真後ろの位置に、東京スカイツリーが見えるはずである。
瑠璃子さんは、隆一の左手にラップを巻いてくれてから、バスルームに誘(いざな)った。
「3日間だけ、僕と付き合ってくれませんか」
優しく躰を洗ってくれている瑠璃子さんに、隆一はいった。
「いいわよ。ケガしているし、なにかと不自由でしょうから、よくなるまでここにいるといいわ」
「そうじゃないですよ。一緒にいって欲しいところがあるんです」
「そうなの……。それはいいけど、ケガが治らないと無理でしょう」
「大丈夫ですよ、一緒にいってくれれば治る……。ね、いくでしょう」
「いくって、どこへいくの?」
九州――といったときは、さすがに瑠璃子さんは驚いた様子で、返事を躊躇っていた。隆一は、それ以上はいわずにバスルームを出た。
淡いグリーンのシースルーのネグリジェに着替えると、瑠璃子さんは隆一を寝室へ誘った。そして、自らベッドに腰を下ろすと改めて口を切った。
「ねえ、ほんとに九州にいくの……。あなた、誘おうと思えば、わたしよりほかに誰かいるでしょうよ」
「そんなことは訊いていない。あなたがいくかどうか訊いてるの……」
「…………」
「『どこでもいいから連れていって……』と、あなたが昨日いったからそうしようと思っただけで、無理だったらいいんだ。ゴメンね、この話、なかったことにしよう……。じゃ、僕はこれで帰ります」
隆一は、後退りしながらいった。
瑠璃子さんは慌てて立ち上がり、隆一の右の二の腕を摑むと、「待ってよ……。誰もいかないなんていってないでしょう。あまりに唐突だったから、ちょっと迷っただけ……。横になってゆっくり予定を話してよ」と、いった。
隆一は、「そう」とつぶやくと、手に傷を負っていることも忘れ、瑠璃子さんを抱き上げベッドに運んだ。
「誘ってくれて嬉しいわ。これで、あなたが本気だということがわかった」
その後の、ケガを押しての隆一の執拗な愛撫に、瑠璃子さんの迷いは一掃されたようだった。
旧盆の前後に重ねて、毎年1週間ぐらいは休みを取っているのだと、あとで瑠璃子さんはいい、少女のように微笑みながら歌を口ずさんだ。
道の左側の山手のほうに白い蒸気が舞い上がっているのが見え、漂っている硫黄の匂いが車内にも入り込んできた。クルマは、すでに霧島温泉郷のお膝元の牧園町(まきぞのちょう)に入っていた。
隆一は、町の中心部らしいところにある公園の駐車場にクルマを停めた。カーラジオのスイッチを切ろうとすると、瑠璃子さんが「待って」と、隆一の手を制した。流れていたのは、ピーター・ポール&マリーの『虹と共に消えた恋』だった。
「この曲好きなの。これを最後まで聴こう」
瑠璃子さんは、前屈みになったまま隆一を見上げていった。
これは、わが国のフォークソング・ブームのきっかけを作った曲といわれていた。しっとりとしたメロディにマッチした、息の合ったハーモニーを聴かせてくれるこのグループが、隆一も嫌いではなかった。
「いい曲だよね。いま聴いても全然古くないね」
瑠璃子さんは、懐かしむようにいった。
「PPMは僕も好き……。ところで瑠璃子さんは、こんな曲のような初恋だったんですか? それ以外にも、いろんなパターンの恋をしたでしょう」
瑠璃子さんは、隆一を見つめて笑みを作り、首を左右に振った。
「腹減ったね。なにか腹拵えしようか」
ほどなくして隆一はいった。
いま食べると夕食がまずくなるから、軽くすませておこうと瑠璃子さんはいい、駐車場脇のコンビニに走った。
公園のベンチに腰掛け、瑠璃子さんが買ってきたおにぎり1個をウーロン茶で流し込み、そのあとリポビタンDを呑んだ。
西の方角に、傾きかけた陽に燦めく錦江湾が見え、その左手に噴煙を吐いている桜島が望めた。この位置から桜島を見るのは隆一も初めてだったが、黒い雨雲のような噴煙を青い空に貼りつけている様は雄大だった。
それに比して、半逆光の山容は墨絵のようで、柔らかい稜線を描きながら海に溶け込んでおり、その頂上とは対照的な景観を造っていた。
「桜島って、こんなに綺麗だったの。もっと、ごつごつとした男性的な山だと想っていた」
瑠璃子さんは、大きな目を細めていった。
「僕も、こんな桜島は初めて……。いままでは、鹿児島市内と垂水(たるみず)の方角からしか見ていないんだ。ここから見ると、女性的なふくよかな形をした、優しい山って観じだよね」
「いえてる……。もっと、違う角度からも見てみたいわ」
「それは、明日以降のお愉しみ……ね」
隆一はいうと瑠璃子さんをクルマに促し、アクセルを踏んだ。
牧園丸尾のT字路で、国道223号線に別れを告げ、小林・えびの高原―牧園線に入った。
曲がりくねった上りの坂が続いていた。『硫黄谷温泉案内所』というプレハブを過ぎると間もなく、行き交うクルマや歩いている人の姿が多くなった。
名にしおう林田温泉街で、さすがにここは鄙(ひな)びたというイメージからはほど遠く、東京近郊に数多ある近代的な温泉街という感じがした。
「着いたの?」
瑠璃子さんが、窓の外を見回しながらいった。
「まだです。これから先が長いの」
こたえてから煙草を手にした隆一は、まだ瑠璃子さんに目的地を告げていないことに気が付いた。ここを過ぎて平坦なところへ出たら話せばいいかと思いつつ、シガーライターで火を点けるとアクセルを踏み込んだ。
九十九(つづら)折りの急な坂が続いていた。狭い道の上には、鬱蒼とした木々の枝が迫り出し、さながら夕闇が降りているかのように薄暗く感じられた。椨(たぶ)、椎(しい)、樫(かし)などの常緑広葉樹と樅(もみ)、栂(つが)、赤松などの針葉樹が混在した一大温帯林だった。
「凄いところを走るのね。この下のほうに宿はいっぱいあったのに、どこまでいくつもりなの?」
痺れを切らしたかのように、瑠璃子さんは問いかけてきた。
「道が途切れるまでいくの。今日泊まるところは、山奥にある一軒家でお化け屋敷みたいなところだって……。瑠璃子さん、大丈夫かな……」。
隆一は、瑠璃子さんの右膝に繃帯を巻いた手を置いていった。
「あなたがついていれば平気よ」
瑠璃子さんは、弾んだ声でこたえた。
それを助長するような曲が、カーラジオから流れてきた。
♪ Hey there Georgy girl Swinging down the streets so fancy free~ …………
シーカーズの『ジョージー・ガール』だった。
「これ、聴いたことがある。なんていう曲だっけ……」
瑠璃子さんが訊いた。
隆一がこたえると、「どういう意味?」とさらに訊いた。
「あなたみたいな女性のこと……」
「…………」
「それは冗談で、直訳すればジョージのような女の子だよ。ジョージつまり『男のような女の子』というわけだ。これは、僕が高校の頃聴いていたMBC(南日本放送)の、『ユア―・ヒットパレード』という番組の、横山欣司(よこやまきんじ)という名D・Jがいったことだから間違いないよ」
「へえー、そうなの……」
「この人は凄い人で、司会はもちろん、番組の構成から選曲まですべてひとりでこなしていたという話しでね。あのオールナイト・ニッポンの斎藤安弘を筆頭とする名D・Jの面々にも勝るとも劣らないマルチ人間だと僕は当時から思っていた。博識で音楽以外のトークも上手いし、なにより燻し銀のような響きの声がよかった。この人の、心の襞を震わすような声に痺れたという女の子は、当時随分いたっけ」
「そんな昔のことを、よく覚えているわね」
「憶えていますよ。その頃の、田舎の高校生の愉しみといえば、ポップスか女の子ぐらいしかなかったもん」。
「ところでね……シーカーズは解散したあとメンバーを入れ替えて、ニューシーカーズで再スタートし、『愛するハーモニー』という曲をリリースしたんだよ。聴いたことあるでしょう。歌い出しが、
♪ I’d like to build the world a home and furnish it with Love~……
という曲。このメロディは、コカ・コーラのCMソングに使われた。これが、企業とアーチストがタイアップしたメディア・ミックスの走りで、大ヒットした。
その後、各国の多くのアーチストがこの路線で売り出したよね。有名なところでは、1970年代当初にジェリー・ウォーレスが歌ってヒットした『男の世界』という男性整髪料のマンダムのCMソングがあったでしょう。いまは亡きチャールズ・ブロンソンが『オー~マンダム』とやって、一躍脚光を浴びたじゃない。このCFは、鬼才の誉れ高いあの大林宣彦監督が撮ったんだって。
ついでにいえば、松山千春の『季節の中で』と渡辺徹の『約束』は江崎グリコのチョコレートのCMで、僕が好きなところでは小椋佳や渡辺真知子にも化粧品メーカーとタイアップしたヒットナンバーがあった。ちなみに、山口百恵の『いい日旅立ち』も旧国鉄のCMソングだよね」
「ほんとうにいろんなこと知ってるわね。あなたと付き合った女性は、飽きなかったでしょうね」
「飽きたからみんな去っていったんだろうよ。哀しいかな、ずっと独り身だということがなによりの証拠でしょう」
「未練たらしい言い方ね。でも、独り身だからわたしとこられたわけでしょう」
瑠璃子さんは、悪戯っぽくいった。
「そうでなくてもあなたを誘ったと思う」
「うまいこといって……。ほんとうは浮気性なんじゃないの」
「違いますよ~だ。美しい人を見れば、男は誰も誘いたくなるという本音をいったまで。実際、アクションを起こすかどうかは人それぞれだろうけど……」
「あなたは行動派タイプなのね」
「そうでもないけど……。ただ、同じ美しい人でも、アクションを起こさずにいられないタイプと、プラトニックのままでいいというタイプの2種類がいる。あなたは、アクションを起こさずにいられないタイプの人だったから、ちょっかいを出した。いけなかった?」
「いけなくはないけど……。もし、これから先もそういうタイプの人に出逢ったら、そうするの? だったらわたし寂しくなっちゃうな」
「それは、いままでの話。あなた以上の人に巡り逢うことは、今後僕はないと思っている」
「それはわからないでしょう。でも、それまでは、わたしだけのあなたでいてよね」
瑠璃子さんは、ペットボトルのウーロン茶をひと呑みすると、それを隆一の口にも向けた。
曲は、スコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』に変わっていたが、すぐにノイズに邪魔された。隆一は、惜しむようにカーラジオのスイッチを切った。
急勾配の坂を上り終えると、視界が明るくなった。緩やかな勾配に変わった道の両側には、文字通り赤い樹皮を剥き出しにした赤松の林が続いていた。路肩にはススキが迫り出すように生い茂り、僅かに白い花を残した忍冬(すいかずら)が絡んだ雑木も見えた。
その根元の葉の隙間から覗いている薄紅色の可憐な球状の花は、含羞草(おじぎそう)だろうか。なにかに触れられたのか葉柄は下垂し、羽状複葉の緑の葉は閉じていた。
数10年ぶりに見る野の花に懐かしさを覚えながら、隆一はパワーウインドーのスイッチを押した。草いきれを含んだ風が、入り込んできた。煙草を咥えると、瑠璃子さんがすかさずライターで火を点けた。隆一は、吸い込んだ煙を大きく吐き出すと、カーラジオのスイッチに手を伸ばした。
ノイズ交じりではあったが、P・F・スローンの『孤独の世界』が流れてきた。これは、彼が1966年に出した初めてのソロ・アルバムの「Twelve More Times」に収録された自作曲だった。シングル作品は日本だけのもので、ビクターから発売されたことを隆一は憶えている。
その後、レコードの発売権利を得た東芝が、1969年9月にシングルカットしてリバイバルで発売したところ、またまた大ヒットした。異なるふたつのレコード会社から発売された同一の曲が、3年もの間に2度ヒットしたというのは後にも先にもこの曲だけだろう。
隆一が手に入れたドーナツ盤は、あとから発売された東芝のものだった。隆一は、煙草を瑠璃子さんに渡すと、うろ覚えのサビの部分を口ずさんだ。
隆一の喫いかけのクールを吹かしていた瑠璃子さんは、曲が終わるとそれを灰皿で揉み消し、小さく手を叩いた。
「この頃は高校生で、鹿児島にいたんでしょう。失礼だけど、田舎にしては進んでいたのね」
隆一を覗き込みながら、瑠璃子さんはいった。
「ポップスを聴いたり、ライヴを見にいくぐらいは、田舎の高校生だってしますよ。ほかに愉しいことがないからって、さっきも話したじゃない」
「ふーん……。田舎のプレスリーを気取っていたというわけね」
「田舎だけ、余計だよ、このー……」
「ごめんなさい、プレスリー様」
瑠璃子さんは、いって笑った。
その、美貌からは想像できないお茶目のところが可愛いと隆一は思い、瑠璃子さんの右手を取ると口に入れ、甘噛みした。
「こういう音楽が好きだということは、ギターとかもやってた?」
その手を頬に当てながら、瑠璃子さんはいった。
「エレキバンドの同好会があってね。時々もぐりでメンバーに加わっていたよ」
「なんでもぐりなの?」
「僕には担任が許可してくれないんだもの。クラブ活動もアルバイトも……」
「それはおかしいわね。なんでなの?」
「お前は、そんなことよりほかにやることがあるだろうって……」
「ほかにやることって?」
「女の子の尻を追っかけることでしょう」
「まさかそんな……」
「だって、そのときはそれしか思いつかなかったもの……。それで、わかりました、そのようにします――とこたえたら、『やっとわかったか、頑張れよ――』だって……。ちゃんちゃらおかしくて……。以来、ギターの練習時間は、女子高生漁りに振り替えることになった」
「まぁ~……。その頃からおませでエッチだったのね」
「それは、年頃の健康な男の本能でしょうよ……。瑠璃子さんだって、その頃は東京で男に乳首を吸われていたんじゃないの?」
瑠璃子さんは、頬を染めて黙り込んだ。
「僕は、いまは手をケガしていて五体不満足だけど、普段は健康体で、当然、健全な欲望はある」
「健全な欲望って、そんな言い方ある? それは本能でしょう……。本能に、健全も不健全もないでしょう」
「そうですか。それを認めてくれると嬉しいね」
「下半身に人格はない……というじゃないの」
「意外にいうね、あなたも……。それは、経験から悟ったこと?」
「違うわよ……。これは神様が人間に授けた唯一の快楽だから、みんなそうに決まっている。ニーチェだってキルケゴールだってサルトルだってそうだったはずよ……」
「へぇ、凄い人の名が出てきますね。実存主義というのは、下半身に端を発した思想なんだ。そういえば “実存 ”という言葉は実演に近いし、意外にそうだったりして……」
「あなたにかかると、偉大な哲学者も下ネタに使われるのね」
「なにいってるんですか。水を向けたのは瑠璃子さんでしょう」
「そうだったかしら……。でも、あなたって、遠回しにいわないところが清々しいわね。エッチなんだけど、不思議と厭らしさがない」
「美人の前では “実存 ”に徹していますから……」
隆一はそういって、繃帯を巻いた手をまた瑠璃子さんの膝の上に載せた。瑠璃子さんが微笑んでいるのを見て、さらに言葉を次いだ。
「いまは、運転していても傷も痛まないし、今夜は思いっきり健全な本能を発揮できそうです。いいですか、瑠璃子さん」
瑠璃子さんは、横目で隆一を一瞥すると、両手で顔を蔽った。
いつしか赤松の林は途切れ、雑木林が続いていた。瑠璃子さんが、カーラジオのボリュームを上げた。聞こえてきたのはフランス・ギャルの『夢見るシャンソン人形』で、ノイズはなかった。
道はほぼ平坦になり、えびの高原方面から霧島に向うらしいクルマと断続的に擦れ違った。宮崎や熊本、大分、福岡などのナンバーだった。道なりにゆっくりいくと、大浪池(おおなみのいけ)への登山道を示す古ぼけた板切れの案内板があった。さらに走ると、右手に高い山が見えてきて、道の両側には低い松の林が広がった。木々の間には、緑の色鮮やかなススキが茂っており、鋭い葉先が風にそよいでいた。
「もうすぐ、目的地のえびの高原ですよ。ここは我が国で最初に国立公園に指定されたんだって……」
隆一は説明した。
「ほんとう。意外に近かったわね」と、瑠璃子さんは微笑んだ。
道を、野生らしい2頭の鹿が塞いでいた。徐行すると、彼らはウインドーに鼻を寄せてきた。瑠璃子さんが板チョコを千切って差し出すと、鹿はそれを口に咥えて道の脇へ逸れていった。ゆっくりクルマを走らせると、ほどなく大きな赤松の木々の間に、数棟の赤い屋根の建物が見えてきた。
すごーく綺麗な水の色ね。エメラルドグリーンというのかな……」
人が連なるガードレールに、両手を付きながら不動池(ふどういけ)を見下ろしていた瑠璃子さんは、嬌声を上げた。
道路の10数㍍下にある、周囲700㍍の丸い池が湛える水の色は、隆一が昔にいった、タヒチ領ソシエテ諸島のひとつの、ボラボラ島周辺の海のようで、瑠璃子さんの言葉のように鮮やかに燦(きら)めいていた。
向こう側の、岸の周りの木々を映した水面は幻想的な趣を湛え、手前の岸の白い砂が造った三日月状の帯と、美しいコントラストを見せていた。じっと見つめていると、その水を両手で掬(すく)ってみたいような衝動に駆られた。
その近くの展望台への道すがら、「あんな水に浸かったら、さぞ気持ちいいでしょうね」と、池の方を振り返りながら瑠璃子さんはいった。
ここからは、なだらかな勾配を描くえびの高原が一望された。それを、上下に分断するように貫いているのが、隆一達が走ってきた牧園・丸尾から小林市を結ぶ「1号線」と呼ばれる曲がりくねった県道だった。
その上部のススキの原には、火山岩が剥き出しになった荒涼とした『韓国岳(からくにだけ)』の裾野が続き、それと対照的な、ススキと丈の低い松が生えた原野が、道路の下から手前一帯に広がっていた。そこの数箇所に、湯気が噴き上がっているのが見え、風に運ばれてきた硫黄の匂いが鼻を突いた。
ゆっくり歩いて、『韓国岳登山道入口』の立札のあたりまで戻る頃には、霧が濃くなっていた。
先ほどまで雄大な山稜を覗かせていた韓国岳をはじめとする霧島連峰は、すでに霧の向こうに消え、あたり一面も白いベールに包まれつつあった。
登山道から、次々に多くの人が下りてきた。待避所に停めてあった数台のクルマも、見る間に走り去っていった。
ゆるやかな坂になっている道を下り切ったところに、えびの高原を象徴する赤い屋根のビジターセンターや国民宿舎など、数棟の宿泊施設が点在していた。それらはいずれも、大きな赤松に囲まれるように建っており、森閑とした佇まいを見せていた。
今日の宿である『からくに荘』はそこより幾分離れた不動池に寄った位置にあり、ふたりはそこから不動池まで歩いてきたのだった。いまは、それらはすべて霧の向こうに霞み、きたときよりは距離があるように感じられた。
「寒くなってきたわ」と、瑠璃子さんはクロッシュを目深に冠ると、捲っていたシャツの袖を下ろしはじめた。
「ごめんなさい。夕方は寒くなるのはわかっていたのに、いわなくて……。なにせ、ここは標高1,300㍍の高原だからね……」
隆一は、寒くなるのを見越して着ていたジャケットを脱いで、瑠璃子さんの肩にかけた。
「だって、ここは南九州でしょう。まして、真夏なのにこんなに寒くなるなんて……」
信じられない……といった顔で、瑠璃子さんは隆一に寄り添ってきた。
「山の天気って変わりやすいし、高いところは寒いのが当たり前でしょう。富士山もキリマンジャロもマッキンリーも、頂上は1年中雪を被っている。『世界地理』で習わなかった?」
「そりゃ、習った憶えはあるわよ……。でも、ここがそうだとは、初めてのわたしにわかるわけないじゃない。あなたって、いつでも理詰めで説き伏せようとするけど、それは、TPOに依るのよ」
「そんなつもりでいったんじゃない」
「でも、さっきの言い方はそうよ。でも、それはちょっと違うと思う。必ずしも、理詰めでいかないのが女なのよ」
「気持ちよくないといかないんでしょう」
「いやーっ……もー。どうして次から次にそんな言葉が出てくるの。口から先に生まれたの」
「きっと、勃起させて生まれてきたのかもしれない」
「もう、知らない……」
「知らないことないじゃない。この前の夜、確かめたでしょう」
「…………」
「寒いなら、混浴の露天風呂に一緒に入ろうよ。干上がるまで……」
「いやよ……わたしは入らない」
瑠璃子さんは、頬を染めて首を横に振った。
「そういうと思ったよ。でも、安心して……。宮崎県は、県の条例で混浴は認可されていないんだって……。お役所が、要らぬお節介をやくから、年々観光客は減ってきちゃうんだよね――なんて批判は措いといて、宮崎は有数の温泉王国なんだから、みんなで知事に陳情すればいいのにね」
瑠璃子さんは、安堵の色を浮かべて頷いた。
隆一は続けた。
「タレント時代に、いくつか身の下スキャンダルを起こした人が、宮崎県知事をやっていたことがあったが、そういう人なら、その辺には理解を示したに違いないのにね。まさか『そのまんまでいい』――とはいわなかったと思う。それはともかく、部屋の風呂には一緒に入ろうよ。ケガも治ったようだし、今夜は僕が奉仕するから……」
瑠璃子さんは、上目遣いで隆一を見つめた。その顔は、下戸が初めて酒を呑んだように、赤らんでいた。
「どうしますか、おねえ様?」
隆一は、揶揄するように次いだ。
「好きにしたら……」
霧の中でも、瑠璃子さんの顔がさらに赤くなるのがわかった。
小雨がちらついてきた。隆一は立ち止まり、『韓国岳』の反対側の霧の向こうに霞む山並を眺めた。
左手の、最も高い山の頂は、不規則に漂う大小の積乱雲に蔽われていたが、なだらかな稜線は、それと対照的な雲間を抜けた穏やかな夕陽に染められていた。その色は、徐々に目の前を流れる霧にも及んできて、さながらオレンジフィルターつけた、一眼レフのファインダーを覗いているような観があった。
色付いた山々は、観光マップで見た限りでは右が白紫池(びゃくしいけ)を抱く『白鳥山(しらとりやま)』で、左が鹿児島県に位置する『栗野岳(くりのだけ)』ではないかという気がしたが、確証はなかった。
あとで、詳細な日本地図で調べてみようと思いながら足を踏み出すと、前方の道端の大きな岩の上に佇み、霧の彼方に浮かんだ虹を眺めている瑠璃子さんの後姿があった。
絵に描いたような自然の景観を、澄んだ双眸で堪能しているだろう瑠璃子さんの凛々しい容貌を、隆一は想像した。いつしか、その華奢(きゃしゃ)な後姿も、7色の曲線の帯に負けないほどの輝きを放っているように見えてきた。
隆一は、抱きしめたい衝動に駆られ、その距離を縮めていった。
窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。それは、浴衣を纏った湯上がりの火照った躰を、一気に冷ましてくれた。
松籟(しょうらい)とともに聞こえてくるホトトギスやウグイスの鳴き声が、弥(いや)が上にも高原らしい興趣を盛り上げていた。
瑠璃子さんは、まだ浴室のなかだった。
「とうとう、きたか……」
隆一は、小さくつぶやくと、田上達と呑んだ夜から、羽田を飛び立った今日までの2日間を振り返った。
一昨日は、新宿ゴールデン街を最後に田上たちと別れた。田上に逢いにいったのは、九州に帰るという報告を兼ねて、その費用の一部をこれから手伝う予定の仕事の前金として借りるのが目的だった。
だが、途中からみゆきが合流したことで、いいそびれてしまったのだった。
やむなく向丘の自分の部屋に戻って、それをみゆきに相談しようという気になってタクシーに乗ったのだが、みゆきはホテルに泊まりたい、と譲らなかった。
それにこたえて明治通りを飛ばして、飛鳥山へ向った。音無橋の袂の路地を川沿いに入った、寺の手前のラブホが目当てだった。
みゆきが、新大久保や池袋、大塚はなぜか厭だといったからだった。その頃には、みゆきへの相談事など、頭からは消滅していた。
姚子と初めての夜を過ごしたのもここだった。JR王子駅に近い割には閑静な場所で、人目に付かないのが気に入っていた。以後、同棲するまでの姚子はもとより、違う相手とも幾度か利用したこともあった。
また、飛鳥山グループとお手合わせする雀荘からも近く、徹夜麻雀明けにはしばしばひとりでいって休憩するという、顔が利くところでもあった。それだけに、みゆきといくには若干の抵抗があったが、ホテルを探し回ってタクシーを走らせるという無駄はしたくなかった。また、同伴を見られたところで、いまさら気にするほどのこともないという開き直りもあった。午前2時を過ぎていたことに加え、左手の傷が疼いていたこともその思いに拍車をかけた。
朝の9時半にそこを出たふたりは、王子駅まで歩いた。そこから、通勤客で混雑する都電で終点の三ノ輪橋までいき、さらにタクシーでみゆきの部屋へ。
「今日は火曜日で、会社にいく日だけど、わたし休むから……。大してスキルも活かせないところだし、辞めると決めたんだから気にしなくていいからね」
珍しく、みゆきは投げ遣りにいった。しばらくして、みゆきはその旨を電話で連絡した。
電話の前に隆一は、もし俺のために休むんだったら、そんな気遣いは無用だといったのだが、みゆきは首を振った。みゆきの作ったスクランブルエッグと、ピザトーストを食べながら、隆一はバドワイザーを呑んだ。
そのあと、ふたりでベッドに向った。
午後の1時頃に目が醒めた隆一は、再びみゆきに挑んだ。出前の天ざる食べて寛ぎ、主人のところを訪ねたのは夕方だった。
「おや、その手、どうしたのかね……。ケガしてるんだったら無理しなくてもよかったのに……」
主人は、隆一の繃帯を見ていった。
隆一は、ケガのことは適当に誤魔化し、前に交わした約束について持ちかけた。
「急に決めたことですが、明後日あたり鹿児島へ発とうと思っています。ご主人の都合はいかがでしょう?」
「そうか……。わたしもいきたいのは山々なんだけどなあ……。でも、今回は無理だ……。約束を反故にして悪いね。勘弁してよ。今度の正月には大丈夫だろうから、それまで愉しみは残しておくよ」
そういうと、主人は眉を曇らせた。
複雑な思いが隆一の胸を過った。主人が約束を履行したなら、瑠璃子さんとの計画は潰れたわけだ。主人の言葉でやっとそれに気付いた隆一は、動揺を禁じ得なかった。
背筋を汗が流れた。後先を考えずに、調子に乗って瑠璃子さんに誘いをかけた自分に、いまさらながら嫌気が差した。しばらく、主人の顔を見られなかった。
主人は、そんな隆一には構わず笑顔に戻ると、「九州へいくなら、頼みがあるんだが……」と、その主旨を話しはじめた。
それを訊いた隆一は、付き合いの短い自分に、どうして主人はこんな大事なことを頼むのだろうか、と思った。この結果如何で主人の今後の対応が決まるのだ。そのために主人は、隆一と同行することを取り止めたのではないだろうか。これはひとつの試金石だ――と、隆一は思った。
一方で、瑠璃子さんと一緒の旅だということを知って、主人は辞退したのではないか、という思いも擡げてきた。
「わたしの野暮用を終えたら、のんびり温泉にでも入って、療養してくるといい」という主人の補足で隆一は吹っ切れて、「そういうことでしたら、喜んでお受け致します。お任せください」と、必要以上に大きな声で応えたのだった。
その夜も隆一はみゆきの部屋にいき、瑠璃子さん抜きのその日程を話した。
「小山内社長の頼み事も引き受けているし、いかないわけにいかないんだ。よかったら、みゆきも一緒にいく?」
一か八か、隆一はいった。いってから、後ろめたさを覚えた。
「ありがとう。でも、わたしは塾があるし、いかれない。これからいくらでもその機会はあるでしょう。そのときはぜひお供したいわ」
みゆきは、しおらしくこたえた。
その、澄んだ目を見ているうちに隆一は、すべてを打ち明けようかという思いに囚われたが、瑠璃子さんの面影が浮かんできて自重した。
「先週の土曜日は、『菖蒲』で、偶然逢ったよね。あのときは悪いことをしたね。でも、みゆきもお客さんと一緒だったから、声をかけるのは遠慮したんだ」
みゆきが、あの日のことをどう思っているのか気になって、訊かれる前に隆一は自ら切り出した。
お店辞めることにしたから、同僚と常連客がささやかな送別会を開いてくれたの、とみゆきはいった。
「みゆきに付き纏った、あの局長とやらもいたじゃないか」
「最後だから、好意を受けたわ。ほかの人も一緒だったし……」
「優しいんだね。どうせなら、とことん面倒見てもらえばいいじゃない。あの人は、それを望んでいるんだろう?」
「なんで……。どうして、そういうことをいうの。りゅうさんは、もっと配慮ある言い方ができる人でしょう。それが本心だったらわたしは哀しい……。もしかしたら、この前一緒にいた人のほうがよくなったの? だったらいいのよ」
心にもないことを口走ったことを隆一は悔いた。なぜ、みゆきに対してはこういう言い方しかできないのだろうか。隆一は詫びようと思ったが、的確な言葉は浮かんでこなかった。
「あの人は、小山内社長の娘さんなんだ」
出逢った経緯を説明し、特別な関係を打ち消すような話しでその場を繕った。
「どういう関係でもわたしは構わなくてよ。でも、わたしの部屋にきていながら、さっきの言い分はないでしょう。その気があったら、とっくにそうしてるわ……」
にっと睨んでみゆきはいった。その目は涙ぐんでいた。
「悪かった。ちょっと口が滑っちゃった。東京に戻ってきたら、これからのこと真剣に話し合おうか」
みゆきは頷くと、嗚咽を洩らしながら隆一に凭れてきた。
次の日の午後、みゆきの部屋を出た隆一は、そのまま航空会社の八重洲支店に向った。盆休み前でどこの航空会社の便も満席だったのを、伝手を駆使して確保しくれた相手より直接受け取るためにだ。
復路はオープンの、ふたり分のチケットを受け取った隆一は、西川からもらった取材費で代金を払い、部屋に急いだ。そして、旅支度を調えると、瑠璃子さんのところに向ったのだった。
雨は止んで、爽やかな風が吹いていた。別棟の、クアハウスのほうから、ギターの音色と歌声が聞こえてきた。
隆一は、窓から身を乗り出すようにして、その方向に目を遣った。
特設らしい篝火(かがりび)の明かりのなかで、男女6人のグループが、本館との間の芝生の上に敷いたブルーシートの上に円居(まどい)して、ひとりが爪弾くギターに合わせて『BEGIN』の曲を歌っていた。ジーンズに揃いの淡いオレンジのトレーナー姿で、学生らしかった。
それを聴きつけた同年代と思しき宿泊客が、ひとりふたりと集まってきた。
時期的に部屋は予約でいっぱいで、隆一が今日ここに投宿できたのは、鹿屋の幼馴染みの好意によるものだった。市役所に籍を置く彼は、家族旅行のためにこの『からくに荘』に2日間の予約を入れていた。東京から電話で事情を話した隆一のために、彼は快くその一日を譲ってくれたのだ。
「哀しいくらいひっそりとしているのね。他所の温泉宿では味わえない情緒があるわ。こんなに澄んだ夜空を眺めるの、わたし初めて……」
いつの間にきたのか、隆一の後ろで瑠璃子さんがいった。
薄い化粧の湯上がりの頬は上気し、その目は輝きを増していた。散歩にでもいくつもりなのか、浴衣ではなかった。
「山に籠る生活に憧れたこともあったけど、ここのこの静けさは寂しくてやり切れないね。いまは瑠璃子さんがいるからいいけど……」
「あの人達の歌声があって、ちょうどいいって感じね」
窓から入り込む風は、一段と冷たくなっているように感じられた。隆一は、開いた浴衣の襟を調えると窓を閉めた。
「瑠璃子さん、ちょっと……。じつは、話しておきたいことがあるんだ」
窓際の板の間の、小さなテーブルを挟んでいる椅子の一方に瑠璃子さんを促すと、隆一はいった。そして、向き合って腰を下ろし、煙草に火を点けた。
少し、緊張した面持ちの瑠璃子さんを見ると、本題は後回しにせざるを得なかった。
「食事はどうだった? 瑠璃子さんが贔屓にしているホテルのディナーに比べれば、見劣りしたでしょう」
「そんなことないわよ。とっても美味しかった」
「それはよかった」
「地酒と地料理が味わえる、というのが旅の愉しみでしょう。猪(しし)鍋や鹿の刺身といった、この地ならではのメニューで満足したわ。もちろん、お酒も美味しかった」
瑠璃子さんは、とりわけオプションの肉料理がお気に入りのようだった。それは、チェックインするや否や、ロビーにあったリーフレットを見て瑠璃子さんが頼んだものだった。
どちらかというと隆一は、新鮮な魚介類がメインの海辺の宿の料理が好きで、これまで1度として個人で山の宿に泊まったことはなかった。だが、ここまできてそんな我儘が通るわけもなく、半ば諦めて瑠璃子さんに任せた。
確か、20歳になった頃だった。偏食は母親の責任だ――と誰かにいわれて以来、早くに他界した母に自分はそっくりだという嫌悪感を抱いて、隆一は今日まで生きてきた。厭な点だけを受け継がされたという恨めしさだけを引き摺ってきたのだ。それを断ち切りたくて、偏食だけは直そうと事あるごとに努めたのだが、嫌いなものは目にしただけで躰が拒否反応を示した。
瑠璃子さんが、特別メニューの猪鍋をオーダーしたときも、そうだった。辛いひとときを過ごすことを覚悟したのだが、それは、瑠璃子さんと料理に向き合うと同時に払拭された。
「美味しそうね」と、笑顔で装ってくれた瑠璃子さんの前では、不思議なことに躰の変調は表れなかった。『日向夏ワイン』や、焼酎『霧島』が、ほどよいアペリチフだったことも功を奏したのだろう。
偏食も、心惹かれた相手といると直せる――隆一は初めてそういう気になった。
「僕は、肉類は嫌いで、バンバーグ以外は食べたことがなかったよ。肉を口にしたのは、ほんとに今日が初めてなの。でも、美味しいと思った」
瑠璃子さんの目を見て、隆一はいった。「瑠璃子さんと一緒だから食べられたんだね」と、さらに付け加えることを忘れなかった。
「偏食するのは、料理の仕方だと思うの。初めて口にしたものを不味いと思ったら、2度と食べないでしょう」
瑠璃子さんが応じた。
「僕の場合は、好き嫌いというより食わず嫌いなんだね。自分の好きなものしか食べさせない母親で、嫌いなものは目にしただけで顔を顰めるような人だったから、それをそっくり受け継いでいる」
いってから、いつも、無意識ながら女性に甘えているという癖は、そんな母だったがゆえの反動ではないだろうか、と隆一は思った。
「そうだったの。でも、それはわたしが直してあげる。なんでも食べられるようにしてあげるから……ね」
自信たっぷりに瑠璃子さんはいった。
「もう少し、呑みたいね。呑みながら話したいことがあるんだけど……」
隆一は、頷きながらいった。
「では、あのワインと焼酎を頼んでくるわね」
瑠璃子さんは、席を立った。
「このワイン、少し炭酸が入っているんじゃない。呑みやすくていいわね」
ワイングラスに口をつけながら、瑠璃子さんはボトルのレッテルを見た。
「そうだね。ワイン通にいわせると邪道だろうけど、シャンパンみたいで僕は好きだね。要するに、酔えばなんでもいいという卑しい酒呑みなのよ」
「そんなに卑下しなくてもいいわよ。仕事柄、物識りだということはもうわかっているから……。ほんとうは、ワインにも造詣が深いのでしょう?」
「いやー、瑠璃子さんほどじゃないですよ」
微笑み合って、ふたりは再度グラスを合わせた。
食事のあとの入浴が、ほどよい腹熟(はらごな)しになったようで、ふたりとも思ったより捗がいった。ワインのボトルが底を突く頃には、エアコンを入れてもいないのに肌寒くなっていた。
「寒くない?」
「わたしは平気……。あなた寒いの? だったら、焼酎のお湯割りにする。ワインも、もう1本冷やしてあるけど……」
「焼酎にしよう」
瑠璃子さんは、1・8㍑入りの紙パックの『黒霧島』とポットを持ってきた。乾き物の袋と高菜の入った小鉢もあった。
「これは、サービスしてくれたの。美味しそうね」
小鉢を指して瑠璃子さんはいうと、それを箸で挟んで隆一の口許に持ってきた。
隆一は、それを受けると、湯気が立つグラスのお湯割りをひと呑みした。
芋焼酎独特の匂いが鼻を突き、喉が熱く潤された。隆一は、さらに残りを呑み干すと、瑠璃子さんのグラスにもそれを注ぎ、湯を足した。
「一緒に呑もうよ……」
隆一は、そのグラスを瑠璃子さんに手渡しながら、声をかけた。
瑠璃子さんは、潤んだ目を向けて頷いた。
そこで隆一は、おもむろに口を切った。
「いいですか、瑠璃子さん。これから話すことは、瑠璃子さんにとっては聞きたくないことかもしれませんが、呑みながらでいいですから耳を貸してください。それについて、あなたがどういう結論を出しても僕はなにもいわないし強要もしない。そして、これに関しては、今後2度と口にしないことを約束します。だから、それに対するあなたのほんとうの気持ちを聞かせてくださいね」
隆一は、主人から聞かされていた瑠璃子さんの母親のことを話した。さらに、いまは霧島の老人ホームに入っている、その母親を訪ねるよう一昨日主人に頼まれたことも……。
「じつは、前にあんたに話したわたしの前の妻は、霧島の老人ホームにいるんだよ。要介護度4の身障者らしいんだ。若い頃から、病弱だったからね」
主人はそう前置きし、鹿屋へ旅行した平成3年に、その奥方に逢ったことを話してくれた。そして、その1年後に彼女が老人ホームに入ったということも……。さらに、最後の面会と心に期して、この盆休みに隆一と鹿児島へいき、そこを訪ねようと決めていた……ことも。
黙って俯いている瑠璃子さんを見つめているうちに主人の顔が重なってきて、隆一はうしろめたさを覚えた。そのときは、瑠璃子さんといくことだけが頭にあり、主人の話しは半ば上の空で訊いていたような気がする。
主人が、隆一との約束を断念した理由は定かではないが、心のどこかでそれを喜んでいたのではないだろうか。
止むに止まれぬ思いだったに違いない主人の胸中を忖度(そんたく)してしかるべきなのに、不純な思いにばかり気がいっていた。
急に、恩ある主人とその愛娘を騙したという思いに囚われきて、胸が絞めつけられる思いがした。隆一は、それを紛らすように、宙を仰いでグラスを干した。
グラスを両手で捏ね回しながら俯いていた瑠璃子さんが、そっと顔を上げた。その目は、涙で滲んでいた。
「ねえ、中園さん……」
そういうと、瑠璃子さんは焼酎をグラスに注ぎ、生(き)で呑んだ。そして、嘆息すると続けた。
「あなたの気遣いを無視するようで悪いけど、わたしはいまさら母に逢う気はない。離れ離れになったのは誰のせいでもないし、そういう運命だったのだと、とっくの昔に諦めたの。40数年も逢っていない母娘(おやこ)が、いまさら逢ったところでどうにもならないでしょう。むしろ、じつの母娘だから、逢わないほうがいいともいえる……。こんな考えしかできないわたしは、冷たい女かしら……。ねえ、教えて……」
溢れた涙が、瑠璃子さんの頬を伝った。
「そんなことはないですよ。僕だって瑠璃子さんの立場だったら、同じ結論を出したと思う。なのに、お節介なことをいってすみません。もう、この話しは止めましょう」
隆一は、詫びるようにいった。
「あなたは、ご両親いるの?」
瑠璃子さんは、自ら焼酎を注ぎ足したグラスを呷るといった。
「ふたりともいません」
「それは寂しいわね」
「死んだ歳が寿命なのだから仕方ないでしょう」
瑠璃子さんは、潤んだ目で隆一を見つめ、首を小さく左右に振った。
「わたしが生みの母を思い出したのは、4年前の義母が亡くなった日だった。死化粧された義母の顔を見ているうちに、そういえばわたしにはもうひとり母がいたんだな……と……。その夜に夢を見たの。わたしの手を引いて、砂浜を歩いている若いじつの母の夢を……。靄に霞む対岸の山を、夕焼けがくっきり染めていて、とっても綺麗だった……」
グラスを置くと、瑠璃子さんは隆一を見つめた。
「小学校に入ってからは、今日はお母さんに逢えるかな……なんて思いながら眠りに就いた日も少なくなかったわ。そんなときは、大概母は夢に現われてきたような気がするけど、いつしかそれも思わなくなっていた。最後に逢えたのは、いつだったか思い出せないぐらい遠い昔のことだから、数10年経っているわね……。まだ生きているのだろうかとそのときは思ったけど、それは義母の納骨を機に断ち切ることにしたの」
いった瑠璃子さんの目から、また雫が落ちた。
「別れてから、1度も逢っていないんですか?」
瑠璃子さんは、隆一の目を見て頷いた。
「よく耐えられたね」
「父がわたしを連れて婿入りしたときは、子供ながら厭だという思いが強く、ほんとうのお母さんに逢いたいと思ったわよ。でも義母は、わたしを猫可愛がりし、なんでもいうことを聞いてくれた。それで、さっき話したように、夢にも現れなくなってしまったの」
「…………」
「その理由は、いま思えば、父と義母の間に子供ができなかったからなのね。わたしを溺愛したのはその反動で、ほんとうの母を忘れさせるための義母の計略だったという気がする。もし、子供が生まれていたなら、義母はその子ばかりを可愛がり、継子(ままこ)のわたしは苛められたに違いない。きっと、わたしは泣きながら『ほんとうのお母さんのところへ帰りたい』と、父を困らせたと思う。そうさせないために、義母は知恵を働かせたのよ」
自分が育ててもらった義母さんのことを、瑠璃子さんは他人事みたいに平然といってのけた。
隆一は思った――。子供が生まれようが生まれまいが、主人が選んだ人がそんな奸計を廻らすわけがない、と……。まして、人を峻別することにおいては卓抜な嗅覚を有する主人が、それぐらい見抜けぬわけがない。
「瑠璃子さんは、義母さんのことをその程度にしか思っていないの? そういうことに関係なく、子供好きな心優しい人だったんだよ、お義母さんは……。この人なら瑠璃子を安心して任せられる。きっと可愛がってくれる――そう確信したから婿に入ったんだよ、お父さんは……。そうに決まってるじゃないの」
じつの子供以上の、舐犢(しとく)の愛を注がれたはずなのに、それを非難めいた言葉で片づけようとする瑠璃子さんに、隆一は怒りを覚え語気を強めた。焼酎を一気に呑み干した。
「だって、そうとしか考えられないもの」
「仮に、そうだとしても、それはあなたのためにしたことでしょう。お義母さんが、あなたをほんとうに煙たがっていたのなら、虐め抜いて鹿屋のお母さんのところへ追い返したはずだ。子供が生まれようが生まれまいが、関係なく……。それをしなかったのは、あなたが可愛かったからだよ。あなたの本当の母親になりたかったからだよ。そんなこともわからないで、甘ったれたことばっかりいって……。あなたみたいなエゴイストは、僕は嫌いだ。一時的でも、そういう人に好意を抱いた自分が情けない」
隆一は、怒る理由がわからないまま、また語気を荒げていた。
「どうしたのよ、急に? あなたみたいに、論理的ではないけれど、わたしは自分の気持ちを話しただけで、それが正しいとはいってないでしょう。なのに、どうして怒られなきゃならないの。確かに、甘ったれた世間知らずかもしれないけど、あなたにはわたしのありのままを知って欲しかった。あなたは、優しくて包容力がある人だと思ったから……。わたしの歪んだ心も非常識なところも、補ってくれると密かに思っていたの……。でも、それはわたしの思い違いだったようね」
瑠璃子さんは、頬を濡らしながら腰を上げた。そして、バッグを手にドアに向った。
「どうしたのよ?」
隆一は、慌てて駈け寄った。
「もういいの。これ以上、話すことはないから……」
「ちょっと待ちなよ。とりあえず、掛けなさいよ……」
そういいながら、隆一は肩に手をかけた。
それを振り払うと、瑠璃子さんは続けた。
「嫌いだといわれたから、帰るわ……。あなたを情けなくさせたこと、謝ります」
隆一を虜にした顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
「なにいってるの……。帰れるわけないでしょう。ここをどこだと思ってるの。東京じゃないんだよ。バスもタクシーもないんだよ」
「そんなこと、わかってるわよ。フロントで、タクシーを呼んでもらうから、いいの……」
「タクシーを呼ぶったって、町から30㌔以上あるんだよ。頼んだとしてもきてくれないよ」
隆一は、宥めるようにいい、再び瑠璃子さんの肩に手を置いた。
瑠璃子さんは、駄々を捏ねる子供のように上体を捩らせると、「じゃ、父に電話するわ」と、バッグから携帯電話を取り出した。
父――といわれて、隆一は焦った。酔いが、一気に覚めた気がした。
「馬鹿なこと考えちゃ駄目でしょう。なんて電話するのよ?」
「中園さんに嫌われたから、迎えにきてって……」
そんなこといわれては、一大事だ。せっかく築いた主人との信頼関係が、一瞬にして瓦解する。ここは、平謝りするのみだ。
「瑠璃子さん、ゴメン。僕が悪かった。冷静に、もう少し話しをしましょう。素敵なあなたを嫌いになるわけないじゃない……ねっ」
隆一はそういって、瑠璃子さんの手を取り、椅子にエスコートした。そして、カーテンを捲り少しだけ窓を開けた。
冷たい夜気が、勢いよく入り込んできた。ホトトギスもウグイスもすでに眠りに就いたらしく、赤松の枝を撫でる小さな風の音だけが聞こえていた。闇を裂くように聳える韓国岳の峰が、星空にシルエットを描いていた。
「瑠璃子さん、きてごらん。星がとっても綺麗だよ。『韓国岳』も影絵のように浮かんでいる」
カーテンの裾を大きく捲り上げた隆一は、瑠璃子さんを請じ入れた。そして、ピッタリと躰を合わせ、それに包まった。
ひとつになったふたりの姿が、ガラス窓に映っていた。それを眺めながら隆一は瑠璃子さんを抱き寄せると、そっと唇を重ねていった。
乾き切っていない瑠璃子さんの涙の粒が、隆一の右の頬に触れた。
「寒くない? お腹は空いてない?」
耳許で囁いた。
「ううん、大丈夫」
瑠璃子さんは首を降り、笑みを見せた。
「悪かったね」
「わたしがいけなかったんだから、いいの……」
「いや……いけないのは僕だ。ごめん……謝る…」
「いいのよ……もう、わかったから……」
「ほんと……」
「ほんとよ……。でも中園さんって、怒りんぼのくせして、弱虫なのね」
「な・ん・で……」
「わたしが、父――といったら、子供のように慌てるんだもの。あーおかしい」
涙の乾いていない目を細くして、瑠璃子さんは笑った。
隆一は頭を掻きながら、「いま泣いたカラスがもう笑った」と、茶化した。
「いいーだ」と瑠璃子さんは、おどけてみせた。でも、すぐに真顔に戻ると、「もし、あなたお腹が空いてるなら、おにぎりあるわよ。お酒と一緒に頼んでおいたの」と、気配りを見せた。
「そう、とっても気が利くんだね。じゃ、少し戴くかな」
瑠璃子さんが、ラッピングされた大皿を持ってきた。ふたりは、椅子に戻った。
ふたつのグラスに、隆一は焼酎を注いだ。すかさず、瑠璃子さんが湯を足した。
目で頷き合って、ふたりはグラスを口に運んだ。
「瑠璃子さんは、僕と九州にいくって、お父さんに話した?」
おにぎりを一口頬張ったあと、囁くように隆一は訊いた。
「それについては、ノーコメントよ……。話そうが話すまいが、父に信頼されている中園さんには、なんら影響ないでしょう」
優位に立ったといったニュアンスで、瑠璃子さんはいった。
やぶへびだった、と隆一は悔いた。
「お父さんは、瑠璃子さんに仕事を継いで欲しいと思ってるんじゃないの」
焼酎を呷ると、隆一は話題を変えた。
「父が、そういったの? 」
「そうじゃないけど、なんとなくそんな気がしたから……」
「わたしは厭だわ。あの商売が嫌いなの。嫌いだから、スナックをやってるのよ」
「嫌いだっていったって、そのお陰で自由気儘に生きてこられたわけでしょう、あなたは……。仕事に貴賎はないんだし、そんな言い方はお父さんに悪いよ」
隆一は諭すようにいって、瑠璃子さんの目を見た。
「仕事に貴賎がないというなら、どうして父は水商売を馬鹿にするの。人を泣かせる金貸しよりよっぽどいいじゃないの」
「わからない人だね、あなたも……。なに子供みたいなことをいってるの。法外な金利を貪(むさぼ)って人を泣かす暴力金融とは違い、法に則(のっと)った健全な営業活動をしているでしょうよ、お父さんは……。社会的に認知された正業じゃないの。そのために助かっている人はいっぱいいるのよ。それは、あなたのほうが僕よりわかっているはずだ。『人を泣かせる』といっても、それはそこを利用する人の器量に起因するもので、お父さんにしてみれば与(あず)かり知らぬことでしょう。それを、スナックと同列で批判するのは短絡的だよ」
「だいぶ、父に感化されたようね。あなたって、意外にコンサバティブなんだ」
「冗談は止めてよ。これでも若い頃からプログレッシブで通ってきてるんだよ」
オクターブを上げて、隆一は反論した。
「ごめんなさい。言葉の選択を誤りました。取り消します。でも、嫌いなものは仕方ないでしょう」
「好きか嫌いかを問うてるんじゃないの。もっと、お父さんのいうことに耳を傾けなさいといってるの。反抗期の生娘(きむすめ)でもあるまいし、少しは素直になったらどうですか」
「生娘でなくて悪かったわね。自分から誘ったくせして、よくいうわ……。もしかして、あなたは、ほんとうは少女趣味じゃないの。ロリコンだったりして……」
瑠璃子さんは、揶揄した。
「なにいってるんだ、この瑠璃子は……。そういうところは生娘、いや、小学生以下だよ」
「すぐ、そうやって怒る……。さっき、謝ったばかりでしょう。今度そんな態度を取ったら、ほんとうに父に電話するわよ」
「なにかというと、すぐ『父――』なんだから……。縛って電話できないようにするよ」
「おやおや、ロリコンだけでは飽き足らないとみえて、そっちの趣味もあるんだ」
「ああ、そうだよ……。お望みなら、縛ってあげるよ。こうなったら、泣いて飛び出そうが、お父さんに電話しようが構わないよ……。さあ、どっちにする? 縛られる前に電話するか、縛られてからにするか……」
隆一は逆手に取り、浴衣の帯を解いて輪を作った。
「そんな……。電話なんかできるわけないでしょう」
空(から)のグラスを、両手で弄(もてあそ)びながら瑠璃子さんはいった。
「遠慮しなくていいよ」
「あなたって、面白い人ね……。でも、もう、よくわかったから、争うのは止めましょう。あなたには負けました。だから、ねっ、わたしの話を訊いて……」
少女のような笑顔に隆一は頷き、おにぎりを口にした。
「じつは、子供の頃わたしは父のせいで、随分虐められたのよ。その引鉄(ひきがね)になったのは小学校6年のときの出来事で、未だに忘れられないわ。それは、寒い雪の日だった……」
おもむろに、瑠璃子さんは切り出した。
「同じクラスの女の子の顔見知りのお母さんが、父のところにその子のセーラー服を預けていたらしいのね。その流れる期限が卒業式間近の3月下旬だったらしく、その子のお母さんがお金はあとで持ってくるから、セーラー服を引き取らせてくださいと相談にこられたの。わたしは、それを偶然見たんだけど、父は頑として首を縦に振らなかった。それなら、卒業式の日だけ貸して欲しいと、さらに泣いて頼んでいるのに、父は駄目だ――の一点張り。自分の親ながら、なんてひどい人なんだろうと思ったわよ。結局、その子は卒業式にはこなかった」
そこまで話すと瑠璃子さんは、溢れた涙を隠すように俯いた。
浴衣がはだけたままでいたせいか、それを訊いているうちに隆一は、薄ら寒くなっていた。暖房が欲しいと思うほどだった。傷のある左手も、絆創膏を貼っているとはいえ湯に浸したことが災いしたようで、いまになって痛みがぶり返していた。
それを察したように、瑠璃子さんは隆一の身なりを調えてやってから丁寧に帯を締めてくれた。そして、持ってきたジャケットを、隆一の肩にかけると本題に戻った。
「そういうことがあったせいか、中学校に入学すると、それまで仲良しだったクラスメートは誰も口を利いてくれなくなったの。男の子は、『おめぇーのおやじは銭ゲバだ』といっては足蹴にするし、それを誰も止めてくれないの。わたしがなにをしたというの、といいたかったけどいえなくて、ひとり泣いていた。もちろん、父にも黙っていた」
啜り泣きが洩れた。
「辛い思いをしたんだね。僕が、同じ学校だったら、そんな奴は袋叩きにしてやったのにね。僕は、これでも高校までは番長を張ってたんだよ」
そういうと隆一は、浴衣の袂で瑠璃子さんの頬を拭ってやった。
瑠璃子さんは、目で礼をすると、優しいのね……と泣き崩れた。隆一が髪を撫でると顔を上げ、さらに続きを語りはじめた。
「そのうちに、学校中の不良が、休み時間になるとわたしのところへやってきて、へんな歌を歌うようになったの。
♪質屋の娘とやるときにゃ、入れたり出したり――って。そして、俺たちが入れたり出したりしてやるから金持ってこいと脅すの。わたしは最初のうちはその歌の意味が呑み込めなかったんだけど、あとになってそれを知ったときは口惜しくて、泣いて家に帰ったわ。それで、初めて父に転校させてっていったの……。させてくれなきゃ、学校にはいかないって……」
学年の途中から、中学から大学まで一貫教育の私学に移った、と瑠璃子さんは明かした。
そこは、良家の子女が多いことで勇名を馳せているところで、もちろん隆一もその名は知っていた。
学生集会のあと徘徊した新宿で、夜を明かそうと思って入った歌舞伎町の深夜喫茶で出逢ったひとりが、そこの学生だった。意気投合し酒を酌み交わし、参宮橋の山手通り沿いの彼女の部屋で朝を迎えた。そのまま、3ヵ月ぐらい、そこに住みついたことを隆一は憶えている。
瑠璃子さんは、エスカレーター式に大学まで進み、卒業したのだという。中学、高校はその近くに下宿し、大学は、「父親が購入したマンションから通った」そうだ。
「深窓(しんそう)の令嬢とは、あなたみたいな人のことをいうんだろうね」
虐めに端を発したこととはいえ、それは経済的な裏付けがある人だけに許されることだと思い、隆一は皮肉を込めていった。
その裏付けとは、瑠璃子さんが忌み嫌う仕事で、瑠璃子さんの父親が構築したことは、紛れもない事実だった。そんな恩恵に浴しながら、いまもなお父の仕事を批判する瑠璃子さんの気持ちが、隆一には理解できなかった。
「田舎だと、不細工な子供が虐められたように記憶しているけど、都会はそうじゃないんだ。お金持ちの家の子に対する一種の妬(ねた)みなんだろうね」
隆一は、気持ちとは裏腹の言葉を次いだ。
瑠璃子さんは、そのあと家業を手伝うのが厭で中堅商社に就職したこと、親が勧める見合いをことごとく断り、社内結婚をしたことなど打ち明けた。
「父は、婿を迎えて家を継がせたかったんでしょうけどね。わたしは忌まわしい記憶しかなかったので、それだけは頑として拒否したの。結婚なんてしないと思っていたのに結婚したのは、相手がサラリーマンで商売は嫌いだという人だったから……。父から逃れるために、渡りに船だと思ったのね、そのときは……。そんな不純な動機の結婚だったから、10年も保たずに破綻した」
隆一は、瑠璃子さんの発言に、どこか引っかかるものがあった。自分の一生を左右しかねない大事な決断さえ、すべて外的事由によって選択させられた、といっているように取れたのだ。私学への転入もそうだし結婚もそうである。端的にいえば、すべて父親の仕事にその因果を擦(なす)りつけている。
この人は、なにか事が起きると、それを解決すべく立ち向かうのではなく、いつも弥縫(びほう)し逃避してきたのではないだろうか。そして、その収拾はすべて父親に押しつけてきた。それが、父親への腹癒せだったのではないだろうか――。そう思えてならなかった。
「瑠璃子さん……。僕はあなたを大切にしたいと思っている。だから敢えていわせてもらうけど、あなたには自分の意思というものはなかったんですか。話しを訊いた限りでは、転校も就職も結婚も、自分の意思ではなかった、といっているように取れる。すべてが受身で、こういう理由でああしなければならなかった――という言い訳がすべてに介在している。これは、どういうことだろうか。僕が思うに、あなたは事あるごとになんらかの理由をつけて、いつも自分を悲劇のヒロインに仕立ててきたんだ。自分を正当化し、責任を回避するために……。違いますか?」
瑠璃子さんを凝視して、隆一はいった。
「それは、あなたの考え過ぎだわよ。わたしはそこまで計算高くない」
瑠璃子さんは、言下に否定した。
「最初の虐めの件はそうではなかっただろうけど、お父さんに対する反抗心から、あなたは変わったんだ。それを、あなたが意図したかどうかは別にして……。それはあなたたち父娘(おやこ)のことだから、僕にはどうでもいいことなの。ただ、いつも反抗していながら、なにかあるとその相手に頼り甘えるというのは僕はおかしいと思うし、他人事ながら腹が立つんだ。関係ないでしょうというかもしれないが、僕の前でそういう態度を取るのは止めて欲しい」
「わたしは父を頼っていないし、甘えてもいない。ひとりで、仕事しているのを見ればわかるでしょう。父の嫌いなスナックではあるけれど……」
「ほんとにそう思ってるの、瑠璃子さん? じゃーいうけど、あなたのあの店はお父さんの所有物件で、あなたは家賃も払っていないでしょう。それで、頼っていない、甘えていないなんてよくいえるね……。開いた口が塞がらないとは、このことだよ。巷のテナントに入っているスナックのママの大半は、客の入りが悪ければ、どうやって家賃を払おうかと毎月金繰りに奔走しているんだよ。それぐらい、素人の僕にだってわかる。あなたは、そんな心配をすることもなく、のほほんと麻雀三昧じゃないの。少しは反省しなさいよ」
瑠璃子さんは、なにかいいたげに顔を上げたが、すぐにまた俯いて、グラスを弄(もてあそ)びはじめた。
「僕だって好き放題をやっているよ。だけど、あなたと違うところは、すべて自分の器量の範囲でやっているし、自分で責任取っているということ。あなたは、頼って甘えるけど、口は出さないで――暗にそういっている。いくら父娘でも、それは通らないよ……。ゴメンね。あなたが好きだから、敢えて苦言を呈した。嫌われてもいいという覚悟で……」
「嫌いになるわけないでしょう。わたしのためにいってくれているんだから……。いままで、そんな人はひとりもいなかったし、わたし素直に受け止めているわ」
目に涙を滲ませながら、瑠璃子さんは微笑んだ。
「僕は、お金より自由を取る人間だから、人は頼らない。頼ると、それを犠牲にしなければならないからね。もちろん、仕事だって選ぶ。結果、貧乏でも構わないんだ。知ってのとおり、僕は勝負事が好きだし、そのために仕事をしているといってもいい。こんな考えだからずっとひとりなのだけど、頼れるのは自分だけだという信念は持っている。気障な言い方だけど、人生は結果じゃなく、経緯が大切だというのが僕の持論だし、ここぞという時に命懸けで勝負に出ればいい。負けた奴は裸になる――この覚悟でね」
「負けた奴は裸になる――か。これって、ドサ健の台詞だっけ……」
「よくご存知で……。さすが女雀士」
ふたりは、顔を見合わせて笑った。
そのあと瑠璃子さんは、高校1年のとき、東京に修学旅行にきた兄に逢ったことにも触れた。
「宿泊先の本郷の旅館に父が連れていったの。お互いに、一目で血の繋がりを感じたんだけど、なぜか口も利けなかったことを憶えているわ。それ以来、逢っていないから、どこかで擦れ違ったとしても、いまはもうわからないでしょうね」
俯いた瑠璃子さんの睫が、また涙で濡れた。
「いつか逢えるといいね」
隆一はいうと、腰を上げた。そして、アタッシュケースから取り出してきた茶封筒の中身を、テーブルの上で抜き出した。それは、霧島の老人ホームに届けるよう、主人が隆一に託したもので、小山内商事振り出しの額面300万円の小切手だった。
「これを、老人ホームに届けるよう、あなたのお父さんに頼まれたの」
それに視線を落としながら、隆一はいった。
「わざわざ、そんなことをあなたに頼むとは、父は我が子のように信頼しているのね」
瑠璃子さんはそういうと、潤んだ目で隆一を見つめた。
そこで隆一は、彼女の父親が一緒にくる予定だったこと、なんらかの事情でこられなくなったことを伝え、「遠い昔に別れた奥さんなのに、ずっと面倒見てきたんだね」と本心をいった。
瑠璃子さんは天を仰いだあと、「父が自分の判断でしてきたことだから、いいんじゃないの。できるんだったら、これからも続ければいいと思う」とこたえた。
「優しいお父さんじゃないの」
「優しいというより、母を捨てて義母を選んだのだから当然でしょう」
視線を逸らして、瑠璃子さんはいった。
隆一は、初めて見せた瑠璃子さんのその表情に戸惑いを覚えながら、言葉を選んだ。
「そうだろうけど、なかなかできることじゃないよ。まして、お義母さんがそばにいたわけだから……」
「義母もそれは承知のうえだったんでしょう。腹のなかではどう思っていたかは知らないけど……」
瑠璃子さんは、突き放すようないいかたをした。
それは、瑠璃子さんの胸でずっと燻っていた、育ての親に対する心の蟠(わだかま)りを表わしているように、隆一には感じられた。いまは泉下で眠る、1度も逢ったことのないありし日のその人の姿を隆一は想像した。瞼に浮かんできたのは、瑠璃子さんが胸に秘めているだろう思いとは違う、気品のある皺を刻んだ笑顔の人だった。
それは、早くに他界した隆一の母とは違う、慈悲を垂れた顔だった。血は繋がっていなくても、血の繋がった母子以上の愛情を注いでくれる人に育てられた瑠璃子さんを、隆一は羨ましく思った。
「いろんな出逢いと別れがこの世にはあるけれど、できるなら別れはないほうがいいよね。それは、天に召されるときの1度だけでいいと僕は思う」
「わたしもそう思う。でも、それは、中園さんとならそうしたいということよ……。わたしの過去を忘れさせてくれるのは、あなた以外にいない」
瑠璃子さんはそういうと、隆一の胸に顔を埋めてきた。
すでに、午前1時になろうとしていた。隆一は、瑠璃子さんの髪を撫でながら、「そろそろ寝(やす)もうか。着替えれば……」と囁いた。
「あなた、脱がせてください……」
潤んだ目で隆一を見上げながら、瑠璃子さんは科(しな)を作った。
「お父さんに、電話しないだろうね?」
「えっ……なんで……」
「中園さんに脱がされちゃいそうって……」
「いやーん、意地悪っ……」
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