第10話 慈 母(じ ぼ)
空は高く澄み切っていた。どこからともなく渡ってくる風は、初秋のような爽籟(そうらい)を奏でながら、ふたりの頬を撫でていった。
柔らかい光を受けた韓国岳の山稜は、青空を突くように聳え、色とりどりの絵の具を塗り終えたばかりのカンバスの風景画のように鮮やかだった。
「これで、この高原も見納めだ。この次は、真冬にきてみたいね。向こうの白鳥山の頂上では樹氷が見られるというから……」
隆一はいい、瑠璃子さんをクルマに促した。
「樹氷ねぇ……。南国の山が樹氷で蔽われるなんて、想像しただけで胸がときめいちゃう。わたし、大雪山の樹氷を見たことあるけど、南の山のそれって、また一味違った趣きがあるでしょうね」
名残り惜しむように、瑠璃子さんは周りを見回しながらいった。
助手席に坐っても、瑠璃子さんは遠ざかる山のほうに目を遣っていたが、クルマを発信させると、「また、一緒にきましょう。くるなら、早いほうがいいんじゃない」と、返事を求めてきた。
「そうだね」と隆一は返し、徐々にスピードを上げた。
アスファルトの片側1車線の道の両側はススキに埋め尽くされており、峰から吹き降ろしてくる風に、頭(こうべ)を垂れた尾花の数々が揺れていた。
全開にしたウインドーから、音を発てて流れ込んでくる風に、瑠璃子さんの前髪が靡(なび)いていた。
さりげなく首筋の後ろに添えた、右手の指先のシェルピンクのマニキュアが、ゴールドの変形クロスのチェーンが光る白い項(うなじ)に映えていた。
彫りの深いシルエットの横顔を一瞥したあと火を点けた煙草の煙が、風に紛れていった。
間もなく、曲がりくねった急な勾配の、下りに差しかかった。カーブミラーを頼りに、大きくステアリングを回す。10㍍も進まないうちに、また次のカーブミラーが目に入るという、難コースの連続だった。咥えっ放しの煙草を瑠璃子さんが手に取り、灰皿で揉み消した。
ヘアピンカーブが、さらに続いた。所々凹んだ部分に錆が浮き出た白いガードレールが、道の左右に途切れ途切れに続いていた。
ゆっくりと上ってくる3台のクルマが見えた。その真中のクルマは年季の入った軽ワゴン車で、唸りとともに黒っぽい煙を吐きながら擦れ違っていった。伸ばしたそれぞれのアンテナには、真っ赤なリボンが括り付けてあり、同じツアーらしいことが窺えた。
隆一は、シフトレバーをDから2に落とし、軽快にステアリングを操った。道路を睥睨するような見事な枝振りの赤松が連なり、その1本には真っ赤に色付いた数個のカラスウリが絡まっていた。それら赤松の根元を蔽うように広がったススキのなかに、黒っぽい斑点が疎(まば)らな、橙色の花を付けた山百合があった。
さらに、そこから少し下ったところのススキの葉陰に、鮮やかな紫色の一輪があるのに気が付いた。植物図鑑でしか見たことがないが、深山苧環(みやまおだまき)ではなかろうか――。そんな気がして隆一は、クルマを停めた。
近寄って見たそれは写真で見るより華麗で、隆一は確信を深めながらしばらく見蕩れていた。
しかし、それは、中部以北から北海道に自生する花だと、植物図鑑には書いてあったことを思い出した。併せて、自生しているそれを園芸化したものもあると解説していたことも頭に浮かんできた。もしかしたら、これはその一種かもしれない、最近は生態系が壊れてきているからなどと、勝手な理屈で自分を納得させた。
隆一の脇にきて屈(かが)んだ瑠璃子さんも、紫色の一輪に見入りながら、「優雅な色ね」と声を上げた。
艶やかさに似合わず、しおらしく花頂を下に向けて咲いている野の花を、泣き顔で俯いたときの愛(いと)おしい瑠璃子さんに重ねながら、隆一は見つめていた。
瑠璃子さんが立ち上げるのを待ってクルマに促すと、隆一はゆっくりとアクセルを踏んだ。
開けたウインドーに、交互に入り込んでくるホトトギスとウグイスの声は、ほどよいBGMとなって、ドライブ気分を盛り上げてくれた。首都圏ほどではないにしても旧盆前のこの時期は、ある程度の混雑を予想していた隆一だったが、意外にも後続車はなく、擦れ違うクルマも疎らだった。
いつしか、道の両側は雑木林に変わっていた。
下っていくに連れて、喧(かまび)すしくなる鳥の囀りに割り込むように這い上がってくるのは蜩(ひぐらし)の声音(こわね)だろうか。
すでに、7合目辺りまで下りてきたようで、流れ込んでくる風は、生暖かさを含
んだものに変わっていた。
標高の違いが如実に気温に現われる山特有の現象だと思いながら、隆一はパワーウインドーのスイッチに触れたあと、エアコンを入れた。
さらに下っていくと、右へうねった小さな橋が架かったその向うの左側に、『七折れの滝』と書かれた立札があるのが目に入った。
「少し休憩しよう……」といって、隆一は橋の手前左の待避所にクルマを停めた。
エンジンをかけたままでクルマから降りて、ガードレールが手摺り代わりの短い橋の上にふたり並んで立った。
そこから眺めた流れは、橋の長さが示すように、幅の狭い渓流といった感じだった。
迫り出した雑木の枝の間から覗く岩の上を、微かなせせらぎとともに滑り落ちてくる水。その量は、意外にも畦道の農業用水路を流れるそれと変わらなかった。
想像を裏切られたような気がして、隆一はクルマに戻ると煙草に火を点けた。ハンドルに胸を凭せかけて吹かす煙草の煙が、エアコンの風に戯れた。隆一は、助手席側のウインドーを全開にした。
そんな隆一をよそに、橋の下へ降りていった瑠璃子さんは、腰を落として流れに手を浸していた。ミントグリーンのキャミソールから覗いた白い胸元や、木洩れ陽が当たった細い腕が隆一の目を射た。
「冷たくて、とっても気持ちいいわよ……」
立ち上がった瑠璃子さんは、手招きしながらいった。アイスブルーのベルボトムパンツと、腰に巻いた黒地にゴールドのストライプの、深いフリンジのストールが、木々の緑のなかに浮かび上がっていた。
招きにしたがい、瑠璃子さんのそばに屈んだ隆一は、流れくる水の頂へと目を這わせていった。
ジグザグに折れ曲がった急な勾配の岩が抉られた水路が、木々の枝に蔽われるように上に続いていた。その途中の数箇所に、白い飛沫(しぶき)を作っている1㍍前後の落差の、瀑布と呼ぶには頼りない滝が見えた。なにも、華厳(けごん)の滝みたいなものだけが滝ではない、こんな小ぶりな滝があってもいい――。
隆一は、そう思い直しながら流れの折れ曲がりを数えてみた。そこからは、3つだけしか確認できなかったが、剥き出した大きな岩の、さらに上のほうに残りの4つがあるだろうことは容易に想像できた。だから『七折れの滝』なんだ……と隆一は独り合点し、右手を清冽な水に浸けた。凍りつくような冷たさに、宿酔い気味の躰は生気を取り戻したような気がした。
急に渇きを覚えた。隆一は、左手の繃帯を解くと絆創膏を剥がした。掌全体が、長湯をしたあとのように、蒼白くふやけていた。中央に走る長い傷は、ぱっくりと開いたままの生々しさだったが、その周りの裂傷や一方の手背の擦過傷は、瘡痂(かさぶた)になっていた。力むと痛みを覚えた昨夜と違い、いまは指を折り曲げても痛みはなかった。隆一は両手で水を掬(すく)おうとした。
すると、背中で瑠璃子さんが声を上げた。
「駄目よ。濡らしたら……。ゆうべも風呂に入ったあと痛がってたでしょう。水ならわたしが呑ませてあげる」
瑠璃子さんが白い両手に掬った水を、隆一は喉を鳴らして呑んだ。それは、空腹に流し込んだ冷たいビールのように胃に沁みた。隆一は、朝の食事は味噌汁を呑んだだけだったことを思い出した。
「もっと呑む?」と、瑠璃子さんが訊いた。
「呑みたい……。昨夜の瑠璃子みたいに、お替わり頂戴っ」
瑠璃子――と、呼び捨てにしたことに幾許(いくばく)か羞恥を覚えたが、瑠璃子さんは含羞(がんしゅう)の笑みを浮かべているだけだった。
陽は、ほぼ真上に近い位置にあった。風は爽やかだったが、木々の間から洩れてくる陽射しは、真夏のそれに戻っていた。じわりと汗が滲んできた。クルマに戻るとエアコンを最強にした。微かな音を発てて吹き出す冷気に胸を当てた。
『FREE ZONE』の横文字が並ぶガムを、瑠璃子さんが掲げて見せた。
隆一が頷くと瑠璃子さんはそれを剥き、口に入れてくれた。ミント系の味を愉しみながら、隆一はクルマを走らせた。
ガードレールに仕切られた緩やかなカーブをいくつか過ぎると林が途切れ、一面に青空が広がった。
「ここが、地図にある『えびのスカイライン』かしら……」
ダッシュボードの上に広げた観光マップを指して、瑠璃子さんはいった。それは、えびの市や小林市の観光パンフレットと一緒に、1泊した宿に置いてあったものだった。
シートベルトを外し腰を捩らせて覗くと、道路を示す緑色の縺れた糸のような曲線の脇に、『えびのスカイライン』の、赤地に白く抜かれた文字があるのが目に入った。
「そうみたいだね」と隆一はガムを噛みながらこたえ、クルマを停めるとマップを見直した。
実際に走ってきた限りでは、その区間は不明だったが、かつてこの道は有料道路で、当時の名称がこのマップには掲載されているということを、あとで知った。
深呼吸をしてから隆一は、マップを指して、「この、生駒(いこま)高原の辺りまでノンストップでいこうね」と瑠璃子さんに告げ、クルマを走らせた。
すぐにまた、カーブミラーが頼りの、ヘアピンカーブが続く急な下りに入った。コーナーを通過するごとに瑠璃子さんは、歓声を上げた。
「疲れたでしょう」
緩やかなカーブに変わったところで瑠璃子さんはいった。
「そうね。昨夜、久々に頑張ったから……」
隆一が冗談を交えていうと、「そうだったわね」と瑠璃子さんは朱を浮かべた笑顔で応じ、ステアリングを摑んだ隆一の左の肩を、ゆっくりと右手で揉みはじめた。
「もっと、強くして……」
甘えた声でいうと、瑠璃子さんはわざとらしく指に力を込めた。少し痛みを覚えたそこは、やがて快感に変わっていった。
「すごーく気持ちいい」
隆一は本音をいった。
「こっちも揉んであげるわね」
瑠璃子さんは、上体を隆一のほうに寄せ、その手を隆一の右肩に移した。キャミソールの胸の膨らみが、隆一の左の二の腕に触れた。隆一は、ハンドル操作にかこつけて、肘をそこに押しつけた。
瑠璃子さんは素知らぬ顔で、肩を揉む手に力を込めていた。
指先を軽く這わせただけで、躰を仰け反らせながら反応した昨夜の瑠璃子さんの乳房は、そのときの感触をいまもそのまま布越しに伝えてきた。
隆一は、右肩と左肘の心地よさに浸りながら、痴戯に耽溺した昨夜を思い出していた。
「あなた、脱がせてください……」
その言葉に隆一は、瑠璃子さんを抱き寄せ、唇を重ねていった。そして舌を挿し入れ、絆創膏を貼った不自由な左手で、ミモザイエローのフリルシャツ越しに乳房を揉みしだいた。そのあと瑠璃子さんの前に跪(ひざまず)き、アシンメトリーのシルクスカートを引き下ろした。
立ち上がってフリルシャツのボタンに手をかけると、焦れったいといった素振りで、瑠璃子さんは自らの手でボタンを外していった。さらにフロントホックのブラを外すと、隆一に抱きついてきて、「下はあなた取って……」といった。
隆一は、屹立した瑠璃子さんの両の乳首を指で撫でると再び腰を落とし、息を弾ませながマタドールレッドのスキャンティーを抜き取った。
中指で触れた漆黒の下の陰裂は、朝露が降りた野牡丹の花弁のように濡れそぼっていた。
「これからは瑠璃子……と呼んで。そして、なんでも命令して……。あなたの悦ぶことわたし、したい……」
そんな瑠璃子さんを、隆一は激しく攻め立てた──。
「どう、気持ちいい?」
不意にいった瑠璃子さんの言葉で、隆一は我に返った。
坂は幾分緩やかになった感じで、直線に近い道の両側には杉林が続いていた。
「だいぶ楽になったよ」と隆一はこたえ、さらに「煙草……」と次ぐと、口の中のガムを唇で挟んで見せた。
瑠璃子さんは笑みを浮かべ、隆一の口許に掌を出した。
隆一は、そこに噛んだガムを吐き出した。
それをテイッシュで包むと瑠璃子さんは、自分で咥えて火を点けた煙草を隆一の口に宛てがった。
煙をくゆらせながら走っているうちに、『北きりしまコスモドーム』と書かれた標識が道の左に見えた。『生駒高原』は、ここからは目と鼻の先だということは、マップで見てわかっていた。
胃が正常に機能しはじめたようで、急に腹が鳴った。腹拵えをしなければと思って見た腕時計の針は、12時20分を示していた。いつの間にか、『生駒高原』の入口は通り過ぎていた。
折れ曲がった道の両側には、塀のように高い、綺麗に剪定されたみやまきりしまの植え込みが続いていた。真っ赤な花を咲かせた、春の季節のこの道を隆一は想像した。それに重なるように、小学校5年の時分から高校まで育ててくれた叔母のことが脳裏に浮かんできた。
叔母は、小林市に隣接する野尻町(のじりちょう)に嫁いだ娘のもとに、15年前より移り住んでいるはずだった。その当時、叔母は『えびの高原』や『生駒高原』の絵葉書で近況を報(しら)せてくれていた。
なかでも、叔母は1年中季節の花に埋もれている『生駒高原』がお気に入りだったようで、春には菜の花の、初夏にはアイスランドポピーの、そして秋には一面に咲き誇ったコスモスに彩られた絵葉書をくれ、隆一の心を癒してくれた。
「花を盗るのは泥棒にはならんとよ」と、小学校2年のときに遊びにいった隆一を、駅まで迎えにきたその帰りに、他所の家の垣根に咲いたバラを失敬してみせた、花好きな叔母を思い出しながら、隆一はひとり感慨に浸ったものだ。
その頃はいまと違って、隆一も忠実(まめ)に返事を出していたのだが、落魄していくにしたがい、疎遠になっていった。
耳は遠くなったけど、元気で暮しています――という叔母の手紙を読んだのは、年賀状も出さなくなって、すでに10年余りの歳月が流れていた4年前の秋のことで、姚子と暮しはじめて間もない頃だった。
叔母が母親代わり――と隆一に打ち明けられていた姚子は、傘寿を迎えた叔母に隆一に内緒でお祝いの金員を送っていたのだった。そのお返しにと叔母が送ってくれた、小林産の『新高(にいたか)』という銘柄の梨の宅配便のなかにそれは入っていた。
その手紙で、隆一は初めて姚子の好意を知ったのだった。「余計なことをするんじゃない」と口ではいったものの、姚子の慈愛に目頭は熱くなっていた。
いい人と巡り逢えたようで、わたしの目の黒いうちに連れてきてください――と、それは結ばれていた。
その礼状を出したのも姚子で、「来年か再来年の夏には、必ず一緒に伺います」と書いたということを、あとで姚子は明かした。
それに対する叔母からの電話を取ったのは、偶然にも隆一だった。「隆一さんのことなら心配無用です。わたしがついていますからご安心ください」と認めてあったと、叔母は電話の向うで嬉し涙に咽せていた。
そのうち、連れて帰るよ……とこたえて電話を切ったきり、あと数ヵ月で5年になる。その当時の暮しが続いていたなら、隣に乗っているのは姚子だったはずだと、突然姿を晦ました姚子の面影を隆一は偲んだ。それは、やがて、皺を浮かべた叔母の笑顔に変わっていった。
擡げてきていた叔母に逢いたいという思いは、観光パンフレットに見入っている瑠璃子さんの横顔を見ているうちにぼやけていった。
「生駒高原はもう過ぎたわよ……。考え事をしてたのね」
瑠璃子さんが覗き込んだ。
「えっ、うん」と、隆一は気のない言葉を返した。
緩やかな坂の道の両側は、燃え盛る炎のような、真っ赤なサルビアの花に変わっていた。左右ともに、とうもろこしやサツマイモ、キャベツなどの畑地が、その赤い花に続いて広がっていた。所々に杉の木立が見え、土手には薄紅色の花をつけた木槿(むくげ)が彩りを添えていた。
ビニールハウスのそばに瓦葺の民家が見え、下っていくにしたがいその数は増えていった。
頂上に雲を冠った小高い山を右手に望みながら道なりに下っていった。それが、夷守岳(ひなもりだけ)だということを、あとで知った。T字路を、勘にしたがって左に折れていった道の左側には、ブドウ狩りや梨狩りの文字が躍る幟がはためいていた。
すぐに、信号のある四つ角が見えてきた。その手前でクルマを停めると隆一は、白い鉄の柱の支柱に提がった標識に目を遣った。そこから左右に延びた道路が『みやまきりしまロード』らしく、御池(みいけ)や皇子原(おうじばる)公園、夷守台などの文字が、右の矢印で示されていた。
真っ直ぐいくと、宮崎自動車道の小林インターチェンジがあり、さらにそこを下っていくと小林の市街地だとわかった。だが、隆一は、信号が変わるのに合わせてクルマを発進させると右折した。
このままいけば高原町に出て昨日、牧園丸尾で分れた国道223号線に合流するはずだ。さらに、それを上っていけば目指すところにいき着く――。
隆一は、頭に浮かべた目的地までのルートに独り合点しながら、スピードを上げた。途中で、ドライブ・インにでも入って食事しよう、と思いながら……。
だが、進む道の両側には、雑木林と畑と牧場らしい建物が見えてくるだけで、その手の店はありそうになかった。右手に、『都城(みやこのじょう)林産物流センター・小林出張所』という看板を目にしたところで緩い下り坂になった。すぐに、左の角地に小さなグランドがある四つ角があった。隆一は、目指すものがなければUターンするつもりで、それを右に入った。
その道は、舗装はされているものの狭い農道で、道の両側は畑地ばかりだった。左手に、杉木立に囲まれた牧草地が見えたところで、隆一はクルマを停めた。
「食事するようなところはないね……」と力なくいうと、隆一はクルマから降りて深呼吸をした。そして、その場にしゃがみ込み、煙草に火を点けた。
「ねえ、ここって、甲府盆地に似てると思わない?」
そばに立った瑠璃子さんが、雑草が繁るなだらかな斜面を見下ろしながらいった。手には、ピンクのコスモスのソフトフォーカスの写真が表紙の『小林ガイドプレス』という観光パンフレットを持っていた。『からくに荘』のフロントに、誰かが置いていったものを失敬してきたのだという。
隆一は立ち上がると、レンタカーにあったB4判の『九州道路地図』を引っ張り出した。すぐに、えびの・小林のページを開き、その観光パンフレットに載っている小林ロードマップと突き合わせてみた。
朧げに、脳裏に甲府盆地が浮かんできた。確かに瑠璃子さんの言葉どおりに、後ろの夷守岳の向こうに控える霧島連峰が富士山、左手のえびの市の向うの熊本県人吉(ひとよし)市に跨(またが)る国見山系が、清里を抱く八ガ岳に当るという気がした。
一方、国道265号線で結ばれている旧・須木村(すきむら)の向うで、右手に稜線を延ばしながら重なり合っている山々は、いまは甲州市となった旧・塩山(えんざん)市から大月市にかけて、空をな舐めるように仰臥する、大菩薩峠(だいぼさつとうげ)のように見えた。
隆一は、改めてその眺望に目を凝らした。なだらかな草原を区割りするような、杉木立が見えた。その向うの、視界いっぱいに広がった凹凸を描いている山並の中腹に、不規則に列を成している高圧線の鉄塔が見えた。その裾野の左右には、白やレンガ色の建物が切り紙細工のように続いていた。小林市の街並だということは、容易に想像できた。
スケールは小さいものの、四方を山に囲まれた盆地で、その中心部が市街地だというこの街の構図は、甲州市勝沼町付近から俯瞰した甲府盆地を想起させた。
勝沼に桃狩りにいった、遠い昔を思い浮かべながら隆一はいった。
「よく気が付いたね。瑠璃子も、たまにはまともなことをいうんだ」
「なによ、もう」と、瑠璃子さんは口を尖らせたが、すぐに「わたし、甲府には何度もいったから……」と笑みを浮かべながら、後ろの山を振り返った。そして、すぐに観光パンフレットに目を移すと、「ねぇ……これなんと読むの?」と問うてきた。指先は、『夷守岳』の文字を指していた。
「ひ・な・も・り・だ・け、と読む。いま見上げた山がそうだよ」
「お見逸れしました」と、瑠璃子さんは微笑んだ。
確かに、ルビが振ってなければ読めなくても不思議はない。隆一は、標識にあったHINAMORIの横文字を憶えていたのだった。
「地方にいくと、読めない字が多いよね。観光パンフレットは、他所からきた人が見るんだから、もっとわかりやすくしてくれるといいのにね」
確かに、この国のお役所が創った観光パンフレットの類には、こういう不親切なものが少なくない。地元の人は読めても、他所からくる観光客が読めなければ用を成さない、と隆一も瑠璃子さんの発言に同意した。
「わからないことは、これからなんでも素直に訊くようにしたらいいね。そうすれば、もっと愛してあげる。もちろん、僕も訊くから……」
隆一は、臆面もなくいった。
「わかりました」と頷くと、瑠璃子さんは隆一の腕を取った。
えびの高原とは打って変わって、生暖かい風が吹いていた。強い陽射しと、アスファルトが放つ熱気が全身に纏わり付いて、ふたりの額には、汗が滲んでいた。
「腹が減ったろう。なにか食べなくちゃね……。インターのほうに引き返していけば、ドライブ・インぐらいあるだろう」
隆一は、瑠璃子さんの手を取って、助手席のドアを開けた。
瑠璃子さんに運転を押し付けることを決め、生ビールを呑んでいるうちに、鯉のあらいがテーブルに並べられた。白身の中に僅かに赤味が走ったそれは桜の花びらのようで、綺麗に扇状に盛りつけられていた。ひと目見ただけで、それは隆一の味蕾(みらい)を刺激した。
「美味しそうね」と、声を張り上げて、瑠璃子さんは箸を伸ばした。
「それは、美味しかですよ、お姐さん。いままで、そこの池で泳ぎよったとですから……」
隣のテーブルに坐っている、4人組の中年の男性のひとりが笑顔を向けた。4人とも、酔いのせいか、日焼けのせいかわからないような赤い顔をしていた。そのテーブルの中央には、30㌢を優に超える丸のままの鯉のから揚げがあった。その、香ばしい匂いに交じって、焼酎の匂いが漂ってきた。
瑠璃子さんが照れたように頷くのを見て、「そうですよね」と隆一も笑みを返し、負けじとあらいを口に入れた。
左手の傷は、もうなんともなかった。コリコリとした歯ごたえが、活きのよさを雄弁に物語っていた。
さして広くない座敷だが、午後2時に近いいまも、4つのテーブルが2列に並んだ席は、家族連れや若者のグループらしい客で埋まっていた。隆一たちが、池に面した真中寄りの席に坐れたのは、たまたま入れ違いに帰っていった客がいたからで、そのあとに続いた幾組かは並ぶ羽目となった。
市街地までは5㌔有余の、小林インター・チェンジの近くの目立たぬ場所にある店にしては驚異的な集客力で、隆一は感心した。そんな悪条件はものともしない、顧客を振り向かせるだけの特色を打ち出しているだろうことは、この光景が物語っていた。
この店に入ったのは、市街地に向って走っているうちに、偶然看板を見かけたから。それに気付いたのは瑠璃子さんだった。
「あそこに入ろう」と、小林インターの案内表示板を通り過ぎた辺りで、突然瑠璃子さんはいった。
隆一は、途中で目にした道路の左側の、ふたつ並んだけばけばしい外観のモーテルしか頭になく、「あなたも好きね。モーテルより腹拵えが先でしょう」と茶化したのだ。
すると、瑠璃子さんは、「鯉料理と書いた看板があったのよ」とむくれ、隆一の腕を抓った。イタッという間もなく下っていくと、またその看板が目に入ったらしく、瑠璃子さんがいった。
「ほら、あったわよ。よく見て……」
そのとおり、『霧島養魚センター』と躍る屋号の右肩に、「鯉料理」という小さな文字がある看板だった。
「よく確かめましたか。モーテルにしか目がいかないあなたこそ好きものよ」
苦笑しながら隆一は、瑠璃子さんの言葉にしたがったのだった。
「全然クセがないのね。噛んでいるうちに独特の甘味が広がってくるという感じ。海の魚とは違った深みがあるわね」
大きな目を細めて瑠璃子さんはいった。
「ほんとだね。おかげでビールも進むよ。僕だけ呑んで悪いけど」
隆一は、頭を低くしていった。
瑠璃子さんは首を左右に振ると、
「わたしは、鯉を食べるのは初めてだけど、こんなに美味しいものとは思わなかった。淡水魚は、どちらかというと淡白だから、鯉もそうじゃないかなって……。あなたは初めてじゃないの?」
と、隆一に問うてきた。
「初めてじゃないけど、僕は鯉には偏見を持っていたんだ。子供の頃、川で獲ったばかりのナマの鯉を食べさせられたんだけど、なんだか味気なくて馴染めなかったのよ。そのとき、2度と鯉は食べないぞと決めたんだ」
「そうだったの」
「そう……。ところで話しは変わるけど、長野県が鯉料理で有名なのは知ってるよね。僕は、それは昔から知っていた。なぜかというと、東京へ出てきたときに初めて仲良くなった奴が、長野県の白樺湖畔の旅館の甥っ子だったのね。それで、彼に誘われて遊びにいったんだが、料理はすべて鯉づくしでね。なんにも食べられなくて、カップラーメンで腹を満たした苦い思い出がある」
「ふ―ん……。そんなことがあったの」
「もう、鯉なんていやっ……と思った」
「でも……いまは、恋してる……とでも、いいたいの」
「わかる……」
「わかるわよ……。あなたのいわんとすること、大体読めるわよ」
「さすがー……。感度がいいだけに、読みも鋭い」
声を出して、ふたりは笑った。
「そういえば、佐久の鯉太郎で知られる佐久市は鯉の養殖で有名だもんね。それで、鯉料理といえば長野県といわれるようになったのね」
「そういうこと。鯉の養殖がはじまったのは江戸時代だというから、佐久は鯉料理の発祥の地といえるだろうね。でも、長野県だけでなく、いまや鯉料理は九州各地で食べられる。とくに、ここの小林の鯉は、有名らしいよ」
「あなたは、鯉は2度と食べないと決めていたのでしょう。それなのに、なぜ、いまは食べる気になったの?」
「素敵な女性と一緒だからさ……。それに、多くの人が舌鼓を打つものに、不味いものがあるわけがないと、昨夜考えを改めたんだよ。食わず嫌いで終わるのは、自分が損するだけだなと……」
隆一は、本心を明かした。
「わたしと一緒なのが幸いしたようね」
「さようでございます、お姐様」
その言葉に瑠璃子さんは、照れたような笑みを浮かべた。
「焼酎を呑みたくなった。呑んでいい? 運転は任せたんだから、いいよね」
「いいですよ……。どうぞ、好きなだけお呑みになって……」
ひときわ高い声で瑠璃子さんはこたえ、仲居を呼んだ。周りの客の視線が瑠璃子さんに集まっていた。
愛嬌のある若い仲居は、『明月』と『霧島』の銘柄を上げた。隆一は、呑んだことがない「名月」を呑んでみることにした。昨夜口にした「霧島」より、マイルドに感じられたのは酔っていないからだろうか。
あらいを肴に焼酎を呷っているうちに、定食のメニューの鯉の切り身のから揚げ、鱒(ます)の塩焼き、鯉こくなどが並べられた。焼酎をお替わりすると隆一は、次々にそれらを平らげていった。
瑠璃子さんも、美味しい――を連発しながら、アルコール類が呑めない分、忙しなく箸を動かせていた。
見回すと、客で埋まっていたテーブルは、大半が空席になっていた。酔いと満腹感で、隆一は急に眠気に襲われた。それを覚まそうと、瑠璃子さんに目配せして表に出ると、池の畔(ほとり)に立った。
20㍍四方はあろうかと思われる池には、雑木も疎らな右手の斜面から、二条の水が流れ落ちていた。それは150㍍もの地下からの湧水だということを、あとで店長が教えてくれた。
鏡のような水面に映り込んだ木々が、跳ねる鯉が作る波紋で揺れて見えた。その上を飛んでいる数匹のトンボと、どこからか聞こえてくる蝉の声が、山間(やまあい)ならではの夏の情感を盛り上げていた。
座敷に戻ると、瑠璃子さんは、板前らしい白衣の男性と話し込んでいた。会釈のあと差し出された名刺の名前の上には、「店長」の肩書きがあった。
「この池には、どれぐらいの鯉がいるんですか?」と、隆一は声をかけた。
「500から600尾はいるでしょうね」と店長は微笑み、鯉は水が命だということ、小林市は水が綺麗なところだということ、近くには名水百選に選ばれた『出の山(いでのやま)公園』があるということなど教えてくれた。さらに、鯉の育て方や料理方法などの、専門的なことも……。
目尻を下げて訥々と話す店長に、隆一は幼馴染みにも似た親近感を覚え、訊かれもしないふたりの出身地や、昨日東京からきてえびの高原に泊まったことなどを話した。
「おふたりとも鹿児島県人ですか。宮崎とは兄弟みたいなものですね」と鷹揚に笑った店長は、東京に旅行した昔のことや、小林近辺の名所旧跡などについて話を持っていった。
それに気をよくした隆一は、今回の旅の目的である『高千穂苑(たかちほえん)』までのルートについて訊ねた。
「えびの高原からこられたのなら、みやまきりしまロードからルート223に出て、霧島を目指す逆のコースがいいでしょう。途中に御池や高千穂牧場などがあるし、いいドライブコースですよ。それは確か、霧島神宮の手前の県道を右に入っていった、高千穂河原を過ぎた辺りにあったと思います。ここからは、のんびり走って小1時間ですかね」
自分がドライブを愉しむかのように、店長は目を輝かせながら教えてくれた。
頭に描いていたとおりのルートを勧められたことが隆一はことのほか嬉しく、丁重に礼を述べた。
すでに、酔いは極に達していた。運転は瑠璃子さんに任せるとしても、どこかで酔いを醒まさねばならないと思い、隆一はさらに訊いた。
「この近くに、ゆっくり休めるようなところはないですか?」
「モーテルならすぐそこにありますけど、まだ陽が高いですね」と冗談を向けた店長は、タイミングよくこれから休憩で、馴染みの喫茶店にいくところだといった。彼の、黒っぽいハイラックスのあとに、瑠璃子さんの運転するレンタカーは続いた。
寒気がして目が覚めた。それもそのはず冷房は入ったままだし、躰にかけていたはずの毛布はフロアで丸まっていた。
仄暗い明かりに照らされた、真向かいのソファーベッドに横たわっている瑠璃子さんは、数時間前のめくるめく陶酔を、夢のなかで反芻しているかのような、妖しい響きを帯びた寝息を発てていた。
隆一は、枕元にあったリモコンでエアコンをオフにするとフロアスタンドの紐を引き、玄関脇の椅子に腰を下ろした。
緑のギンガムチェックのビニールを、天板で押さえた正方形のテーブルは、流行りの全自動の麻雀台だった。
夷守岳の麓の、『宮崎小林ゴルフコース』のログハウス風のコテージのここは、鯉料理屋の店長が連れていった喫茶店の、常連客の伝手で確保してもらったものだった。詳しくは訊かなかったが、ここのメンバーでなければ、一見では宿泊は不可能だろうという気がした。
ふたりが媾合う頃までは聞こえていたホトトギスの鳴き声もいまは途絶え、闇のなかの木々を揺らす、簫々(しょうしょう)とした風の音だけが微かに耳に届いていた。
テーブルの上の、グラスに呑み残していた焼酎の水割りの匂いが、まだ酔いが抜け切っていない隆一の重い頭を刺激した。壁にかかった時計の針は、2時15分を指していた。
昨夜に続いて、またかなりの量の焼酎を呑んでいた。宮崎ならではの、初めて目にする銘柄ばかりだったせいもあるのだろう。通常ならなんの影響もない量だったが、東京を発つ数日前から連続していることに加え、瑠璃子さんと一緒の旅だということで緊張しているのか、肝臓が不調をきたしているようだった。
それが証拠に、眠りは浅く、寝就いても数時間で目が覚めるという、呑み過ぎたときのいつもの兆候が現れていた。このまま、また仏暁(ふつぎょう)まで寝就かれないのではと隆一は不安になり、また焼酎に手を伸ばした。それは、最初口にしたときと違い、ストレートで流し込んだテキーラのように喉を熱くした。
その焼酎は、「限定焼酎」「名水仕込」と謳われた1升瓶の『魔性の女(ましょうのひと)』という銘柄で、途中の酒屋で手に入れたもの。コテージに着いてから口を切ったのだった。その名に魅了され、味見のつもりで、生(き)で呑んだのが尾を引く羽目になった。
途中で、瑠璃子さんに注意され水で割ったものの、それは、気持ちだけの微量の水だった。それを、ぐいぐい空けていったのだから、やはり呑みやすく旨い焼酎だったのだ。それが、いまになって利いてきたのだ。
「魔性の女」とは、どういう女性をいうのか隆一は知らなかったが、これを呑んでみて、漠然とわかったような気がした。最初はしとやかだが、ジワジワ攻めてきて最後は骨抜きにする――。それが魔性の女だと――。
半分を割った量の1升瓶を翳して、隆一はそのレッテルを再度確かめた。臙脂の右4分の1を、女性の横顔の黄抜きのシルエットが占めており、その中央部に『魔性の女』という白抜き文字が縦に躍っていた。この部分だけ見れば、およそ焼酎のレッテルとは思えない。この、意表を突いたデザインとネーミングが、強烈なインパクトを醸し出しているのだろうと思いながら隆一は瓶を置いた。代わりに、ミネラルウォーターのペットボトルを手にすると、直に口を付け流し込んだ。
焼酎のロックでも睡魔は遠く、隆一は咥え煙草で表に出た。星が燦めく群青色の空に、コテージの裏の斜面の木々が影絵のように浮かんでいた。それを揺らすように、虫の音を載せた冷んやりとした風が流れていた。4つの鹿の目が、それらの木の間で光っていた。とうに深更を過ぎた丘陵地の風は晩秋のそれに似て、Tシャツにジャージ姿の隆一を、1本の煙草も喫い終えぬうちに震えさせた。
堪らずに部屋に戻った隆一は、グラスに注いだ焼酎をポットの湯で割った。喉に一気に流し込んだそれは、吹きっ晒しの真冬の路上の屋台で呑む熱燗のように芳醇で、すぐに躰の隅々に沁みていった。
隆一は、少し空腹を覚え、テーブルの上の鮮やかな色のラッピングに手を伸ばした。2段に重ねられた経木の上段の折箱には、赤、青、黄の細切りのピーマンや大根下ろしに魚介類をまぶしたサラダと帆立貝のカルパッチョに加え、チキンのから揚げとたこ焼きが、大小のカラフルなダイヤケースにそれぞれ盛り付けられて並んでいた。
さらに青紫蘇(あおじそ)が食欲をそそる、小エビとスイートバジルを合わせたペペロンチーノが、緑の熊笹に仕切られて入っていた。
中央の、ハート型のデコレーションのミニハンバーグが、さりげない愛嬌を添えていた。その下段の器には、デリシャスなカナッペとノリ巻が中央に盛られ、それを囲むようにメロンの角切りとオレンジのスライスが並んでいた。
鯉料理店の店長が連れていってくれた『ハート』という喫茶店で調達したものだった。特注したオードブルのように豪華に装われたそれは、どれから箸をつけたらいいのか迷うほどで、隆一はまたグラスに焼酎を注いだ。
湯を足すと、白い気体とともに、匂いが漂った。
魅せられたようにグラスに口を付けると、箸を摑んだ左手は自然にミニハンバーグに伸びていた。スパイシーな主張を持った味のそれと焼酎の熱さに、肌寒さは幾分和らいでいた。
「まだ、起きていたの?」
目を覚ました瑠璃子さんが、寄ってきた。無造作に直に羽織ったブラウスから、色付く前の桃のようなふたつの膨らみが見え隠れし、その裾の下より、股間を蔽った鮮やかな色の布が透けていた。
「さっき目が覚めたっきり、眠れないんだ」
淫靡な思いを隠すように隆一はいうと、もうひとつのグラスに焼酎を注ぎ、瑠璃子さんの前に置いた。
瑠璃子さんは、それに自分で湯を足すと、隆一の右側の椅子に腰掛けた。
「あの喫茶店のママさん、美人でお料理も上手だわね。もしかして、あなたのタイプじゃない」
突如、嫣然とした面持ちで、テーブルの上の器に視線を落としながら、瑠璃子さんはいった。
隆一は、なぜか頬がかっと熱くなり、それを悟られないようにグラスに口を付けた。そして、カルパッチョを口に入れると、折箱を瑠璃子さんのほうに押した。
空いた隆一のグラスを、瑠璃子さんが焼酎と湯で満たした。
「そんなに呑んで大丈夫?」といいながら、瑠璃子さんは自らのグラスをも満たしていった。
そして、「あんなに親切にされたの、わたし初めて……。親兄弟姉妹以上に、気を遣ってくれたでしょう」と、喫茶店でのひとときを振り返った。
「都会では、下手に親切にすると、なにか裏があるのでは、といった猜疑心(さいぎしん)で見られることが多いでしょう。だから、親切にするのもされるのも、わたしは厭だと思っていたんだけど、あの人たちの前ではそんなことは微塵も感じなかったの。どうしてかしら……」
「純朴で、心にゆとりがある人たちゆえに、素直になれたんだよ」
グラスを合わせると、隆一はいった。
「心にゆとりがあるとは?」
「一言でいえば、都会人みたいにこせこせしていないということ」
「…………」
「上手くいえないけど、田舎は通勤地獄もクルマの渋滞もないし、歪(いびつ)な競争心など持つ必要がない。つまり、人を押し退けてまで急ぐ必要はないというわけで、期せずして余裕が生まれるのではないかな。だから、誰にも親切にできる。たとえば、枯野にひっそりと咲く、名もない花にも水をやる……といったような優しさを持っているんだと思う。そんな、旧来の友達のような駆け引きのない素直な人たちにに触れられたから、瑠璃子もいままで閉じていた胸襟を開く気になったんじゃないの」
頭に浮かんだままを隆一はいい、お湯割りを呑んだ。
「都会に住んでいると、ゆとりもなくなっちゃうのかな」
問いかけるように、瑠璃子さんはいった。
「都会はなんでも競争で、人のことなんか構っちゃいられないといった風潮があるからね。僕には、二流の商社に勤めるサラリーマンの知り合いがいるけど、話を訊くとそれは凄まじいものがあるよ。ノルマを達成するためには家族を犠牲にしなけりゃならないし、机を並べている同僚だって平気で欺(あざむ)くという。そんな殺伐とした世界で生きていると人間の本質も忘れ、他人を貶(おとし)めることぐらいへっちゃらになるんだろうね。もっとも、二流といえど商社ともなれば、それぐらいでなければ熾烈な企業競争に打ち勝てないという厳しい現実があるから、一概に非難はできないけど……」
瑠璃子さんは、下を向いて訊いていた。
「そんな人間が大勢を占める都会で、他人に親切にするなんてことは至難の業だし、ましてゆとりを持つことなどできない。だから、みんな孤立していく。口惜しいけど、僕も瑠璃子も長く都会に住んでいるから、そんな悪しき色に染まっちゃったんだよ」
自嘲を込めて隆一はいった。
「でも、今日、あの人たちに親切にされて感激したということは、まだ人間としての良心が残っていたということでしょう。それがせめてもの救いね」
「そういうこと……。でも、親切なんてものは本来、見返りを期待してやるものじゃないからね。ところが、都会人のなかにはそうじゃない人が多いから、関わりたくなくなっちゃうんだよね」
「さっき、わたしがいったのもそういうことよ」
「ところが、あの人たちは違った。おそらく、親切にしてやったなんて、誰も思っていないはずだよ。ごく当たり前のことをしただけです、と口を揃えていうと思う。僕が、感激したというのもそこなんだ」
「おまけにママは綺麗だったし……ねっ。ほんとは、それをいいたいんじゃなくて?」
瑠璃子さんは揶揄した。
「もちろん、それもあるけど……。でも、それは偶然で、いきがけの駄賃みたいなものだろう」
「ふふふ……。やっと、白状したわね。わたし、あの店に入ったとき、すぐわかったわよ。あなたの、あのママを見る目は、異様に輝いていたもの」
バツが悪くなり、隆一は「美しいものに反応するのは、純粋で正直な証拠だよ」と嘯(うそぶ)き、「お替わり」とグラスを突き出した。
「わたしにも、そんな意味のこといわなかった?」
瑠璃子さんは清ました顔でいい、お湯割りを作った。
「いったよ。ありのままの男の心情を伝えたかったからさ……。だけど、瑠璃子の美しさには誰も敵わないよ」
苦し紛れの言葉を、隆一は向けた。
含みのある笑いを見せた瑠璃子さんだったが、急に真顔に戻ると話を変えた。
「都会に住んでいる人は、ある意味で競争社会の犠牲者ね。あなたもわたしも含めて……」
「僕は、気儘な1匹狼だから、そう思ったことはないけどね。しがらみの多いサラリーマンは、勤めて数年でバイバイしたしね」
吐き棄てるように、隆一はいった。
「わたしだって好きじゃないわよ……」と、同意した瑠璃子さんは、「さっきいったことと矛盾するけど、どういう世界で生きようが、他人に親切にできる心の広い人っているはずよね」と、次いだ。
「いるだろうけど、それはほんの一握りの恵まれた人だよ。僕だってその気持ちはあるけど、半端者で経済的な裏付けもゼロときてるから実践できずにいる。天は二物を与えず――というけど、僕には一物さえも与えてくれなかったようで……。もっとも、自分の頭の上の蝿も追えない奴が、そんな思いを抱くこと自体『銭無しの市立ち』で、笑止千万だろうけど……。その点、瑠璃子は、人間的資質は別にして経済的余裕はあるんだから、できるはずだよね」
「人間的資質――は余計でしょ。それはともかく、わたしだってそんな余裕はないわよ」
「ないわけないよ。客が入ろうが入るまいが、家賃も生活費も心配することなく旅行していられるんだから。そういう人を余裕があるといわないで、どういう人をいうの」
「もう、そんなに虐めないで……。わたし、あなたに指摘されたことは素直に反省しているのよ。そして、今後はそれを改めて、あなただけに尽くしていこうと決めているの。それじゃ、駄目なの?」
目を潤ませて瑠璃子さんはいった。
咄嗟にはこたえられずに、隆一は宙を仰いだ。
「あの人たちに、わたし教えられたことがあるの。それは、わたしには信頼できる友人がひとりもいなかったということ。時々、投げ遣りになるのも、それが原因だったような気がする。でも、わたしは変われると思う。いや、隆一さんのために、変わってみせる」
瑠璃子さんは、上目遣いの目でいった。
初めて、隆一さんと呼ばれたことにしんみりして、隆一は返した。
「ありがとう。僕も、その気持ちに応えられるよう努力するよ」
間を措いて、瑠璃子さんは、「昔からの気の合う仲間だけ集まったという感じで盛り上がったわね」と、あの喫茶店のパーティに参加させてもらった感想を述べた。
それは、隆一とて同じだった。というより、ひとつの家族の団欒といった趣だと感じていた。それぞれが、思い思いに夢を語り、それにみんながエールを送る。その笑顔が食前酒となって、料理の旨味を引き出した。そこには打算も嫉妬もなく、互いの信頼感はひとつの歌声となって店内を席捲した。
血は繋がっていなくても、固い絆に結ばれた真の家族の姿がそこにある、と隆一は痛感したものだ。なにより、瑠璃子さんがそういうことに目覚めたということが、隆一は嬉しかった。
隆一は、幼少の時分も学生時代ももちろん、社会人になってからもこの年まで、そういう愉しい席に臨んだことはなかった。幼少の頃から、封建的な父の前では、語らず笑わず泣かずを強いられ、のべつ仏頂面の寡黙を通してきた。
それは、叔母のところに里子に出されるまでの、小学校5年までの間だったが、父の偏った矜持に基づく教えが、未熟な心に沁み込むには十分過ぎる歳月だった。
それに疑問さえ抱かなかったのは、比較の対象に接する機会さえ絶たれていたからだろう。それは、人生の折り返しを過ぎたいまも払拭できていない。それを問い質すにも、その相手の父も母もいまはこの世にいないのだ。
顔を上げると、隆一の言葉を待っているといった感じで瑠璃子さんは見つめていた。
「あの人たちみたいな友達が、たくさんいるといいね」
「そうね。長く付き合える友達がいるといいね」
高い声で瑠璃子さんはこたえた。
呑んで歌った、それぞれの顔が、隆一の瞼に浮かんできた。ママと店長、昼間顔を見せていた女性客以外に、店長の友人だという工務店の代表者、10年来の常連だという医療器械の販売会社の社長などがパーティに加わっていた。
隆一たちに気を遣ったのか、秋に予定しているという、生駒高原の近くのコスモホールでのライヴの打ち合わせを、彼等は短時間で済ませて、ふたりの『歓迎パーティ』に切り替えてくれたのだった。
乾杯のあと、男性陣が爪弾くギターに合わせ、『陽水』『拓郎』『こうせつ』をはじめ『チューリップ』や『ふきのとう』などのヒットナンバーを合唱した。
その後、みんなに歌を勧められた瑠璃子さんは、マイクを前にギターを抱えた。静まり返った店内に、個性的な歌声が流れはじめた。
♪野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
帽子にいっぱい摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
学生時代に、瑠璃子さんが心酔したという寺山修司の詞になる、『戦争は知らない』だった。これは、隆一が高校を卒業する年に流行った、フォーク・クルセイダーズのヒットナンバーだった。1度聴いただけで隆一も好きになり、レコード店に急いだものだ。それで、初めて寺山修司の作詞だということを知り、数年後に『空には本』という歌集まで買った記憶がある。東京に出てからは、彼が主宰する『天井桟敷』の芝居を幾度か観にもいった。
二番は隆一がソロで歌い、三番は瑠璃子さんとデュエットした。
♪……………………… ………………………
二十年後のこの故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
最後の2小節に入ると瑠璃子さんは、なぜか瞳を濡らしていた。心なしか音程も狂っていた。それを見ていた隆一も涙が溢れてきて、楽譜を目の前に翳して誤魔化した。「年とともに人は涙脆くなる」ものらしいが、そのせいではないことを隆一はわかっていた。瑠璃子さんも、そうだったろうと思う。
呑んで歌った時間は知らぬ間に過ぎていった。そんな愉しいひとときを、初めて逢った人たちに提供されたのだから、いまもふたりの胸の片隅は、その余韻で占められていた。
「ねえ。お料理食べたら寝(やす)みましょう」
グラスを持ったまま思いを廻らしていた隆一に、瑠璃子さんがいった。
「そうだね。でも、ひとりじゃ食べ切れないから、瑠璃子も食べて。僕は、呑むのが優先だから……」
グラスを手に、隆一はいった。
目を瞬(しばたた)かせながら瑠璃子さんは、カナッペに箸を伸ばした。羽織ったブラウスがずり落ちそうになった。右の乳房が覗いた。そこを押さえた左手の、肩に掛かっていたそれが滑り、今度は左のそれが見えた。
立ち上がると隆一は、瑠璃子さんを抱き寄せた。ブラウスは、フロアに落ちた。唇を合わせたまま椅子に腰を落ろした。そして、瑠璃子さんを後ろ向きで膝に乗せた。
『みやまきりしまロード』は、両方向とも走っているクルマはなかった。陽が真上に昇るまで、1時間に満たないという中途半端な時間帯だからだろうか。ほんの数分の間でも、走っているクルマに1台も出逢わないというのは首都圏ではあり得ないことで、まさに信じ難い光景だった。
『高千穂苑』へいく以外はこれといった予定のない行程で、急ぐ必要はないのだが、昼間近にこんなにガラガラの道路を走るというのは、免許を取ってからの数10年間で初めてのことで、アクセルを踏む足にも、つい力が入っていた。少し開けたウインドーが、風切音を発てていた。
「昨日は、ここを左折してあの喫茶店にいったのよ。コテージにいくときも、ここへ出てきたの」
四つ角の手前の、左側の斜面に立つサイロが見える辺りで、瑠璃子さんはいった。そこを過ぎると、「昨日は、この辺りで引き返して鯉料理屋にいったのよね」と、前方の右側の待避所を指差した。
酔っ払った隆一に、運転を押しつけられた瑠璃子さんは、さすがによく憶えていた。コテージを出てから、この『都城林産物流センター・小林出張所』の入口まで、まだ10数分しか経っていなかった。
道路の右手には、青い空に浮かぶ白い雲を突くように、夷守岳が聳えていた。少しく靄が掛かっていた昨日と違い、重なり合った木々の葉の、それぞれの微妙な色の違いまで、はっきりと識別できるほどだった。
前にも後ろにもクルマの影がない、緩やかなカーブのアップダウンの路面は、ほぼ真っ直ぐに伸びていた。隆一は前方に目を凝らしながら、スピードを上げた。道の左の杉の木立が途切れると、不意に、瑠璃子さんが声を上げた。
「ちょっと停めて……」
「どうしたの?」
訊きながら、隆一はクルマを路肩に寄せて停めた。
瑠璃子さんはウインドーの外を指差すと、クロッシュを手にクルマから降りた。
隆一は、クルマを右側の自販機が並ぶ前のゼブラゾーンまで移動させ、瑠璃子さんのそばに歩を進めた。
なだらかな斜面を埋め尽くしているのは向日葵だった。
「すごーい。こんなにいっぱい咲いている向日葵は初めて見た」
瑠璃子さんは、甲高い声を上げた。
「僕だってそうだよ。瑠璃子の実家の庭に咲いているのは見たけど……」
「ねえ、ちょっと向うへいってみようよ。下のほうから見上げると、もっと綺麗だと思う」
斜面の向うに見える、2棟の3階建ての集合住宅のほうを瑠璃子さんは指差した。
照り返しの強い『みやまきりしまロード』を信号のある四つ角まで進み、その花畑に沿って左に続いている緩やかな坂を下っていった。花畑が終わる土手の角地より一段低いところに、集合住宅へ入る小道があり、その右手には赤や黄色のカンナが咲いた小さな花壇があった。隆一は煙草を吹かしながら、下ってきた道の反対側に渡り、花畑の対角線上に立った。
瑠璃子さんは、犬蓼や力芝が生い茂る土手の上の角に立ち、黄色い斜面を眺めていた。その後姿を見上げて、「ちょっと、こっち向いて……」と隆一は声をかけた。
ワイドスプレッドカラーの白い長袖のフリルシャツと、ホワイトデニムに包まれた瑠璃子さんの肢体が、鮮黄色の絨毯を敷き詰めたかのような斜面を背景に、雅やかなシルエットを描いていた。
振り返りぎわに浮かべた微笑も、クロッシュより零れた栗色の前髪を掻き上げる仕種も、さながら映画のスチールのヒロインを見るようで、隆一は目を瞠った。
その延長線上に見える白壁の民家も、裾野に小高い杉林を抱いた夷守岳も、このシーンを盛り上げるために特設された、書き割りのように思えた。
隆一は咥え煙草で、左右の親指と人差指をそれぞれ合わせて象(かたど)ったフレームより、瑠璃子さんを覗いてみた。その姿は、いかなるフレーミングでも端麗に映え、そのまま部屋の壁に嵌め込みたいような衝動に駆られた。カメラを持ってこなかったことを悔いながらも、隆一の頬は弛んでいた。
短くなった煙草を靴で踏み潰すと、土手から下りてきた瑠璃子さんが、ティッシュで包んで拾い上げた。
「そろそろ、いこう」
隆一は瑠璃子さんを促した。
土手のなかほどにある立札の前まで歩くと瑠璃子さんは立ち止まり、それに見入った。
「なんて、親切な人だろう、ここの地主さんは……。花を愛する人の心がわかるのね」
目尻を下げながら瑠璃子さんはいい、立札の上に手を乗せた。
《一般の方にも開放していますので、自由にお入りください。数本であれば、お持ち返りいただいても結構です》
と、立札には墨文字で書かれていた。
「ちょっと入ってみよう」と、瑠璃子さんは隆一の手を取った。
四方竹を思わせるような茎より伸びた葉が、行く手を阻むように絡み合っていた。ふたりの頭の上で競うように咲き誇っている幾つもの舌状花は、瑠璃子さんの顔より大きなものばかりだった。
それとは対照的に、蔓延(はびこ)った葉の影にある花は、光を求めて藻掻いているのか、花冠も小さく弱々しい感じだった。
撓(しな)った枝に、瑠璃子さんのクロッシュが飛ばされた。
隆一はそれを拾い、頭上の花に冠せた。
「向日葵は、陽の光を追って花の向きを変えていくのよね。名前は、それに由来してるんだって……」
手折った花を顔に近付けながら、瑠璃子さんはいった。葉の影を受けていた顔が、太陽を直視する頭花のように明るくなった。
「ふ―ん、そうなの……。夏の花だということしか知らなかった」
「結構、由緒ある花なのよ……」
16世紀に中央集権的絶対主義を確立し、『太陽王』と呼ばれたルイ十四世がこよなく愛した花で、その名残りでいまもベルサイユ宮殿の正門には毎年向日葵が咲き誇る、と瑠璃子さんは説明した。
それは、大学の卒業旅行にヨーロッパへいった折に、自分の目で確かめたことだという。さらに、「日本に渡来したのもその16世紀の頃だといわれているの。向日葵は舌状花と筒状花の2種類に大別されるけど、この畑にあるのは色から見て舌状花ね。いずれも本来は観賞用だけど、色が褐色の筒状花は食用としても重用され、とくにこれから獲った油は高級品として人気が高いのよ。わたしは食べたことないけど、種も美味しいらしい」と、薀蓄を傾けた。
その、目の輝きは、なにかを咀嚼して説明するときの、主人のそれに相似していると隆一は思わずにいられなかった。
「なるほどね。そういえば、知り合いの家で、ハムスターに向日葵の種を与えているのを見たことがある」
「それは、この舌状花の種だと思う」
そういうと瑠璃子さんは、花を持った右手を掲げた。
陽は、ほぼ真上からふたりを照射していた。その、強い陽射しを満喫するかのように、黄色い毛氈の上をナツアカネや名も知らぬ蝶が入り乱れるように飛んでいた。畑のなかは全くの無風状態で、瑠璃子さんと隆一の額には汗が噴き出していた。
「あなた、『ひまわり』という映画知ってる? ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの……」
急に思い出したように、瑠璃子さんはいった。
知ってるどころではない――それは、生まれて初めてのデートで、天文館まで足を伸ばして観た映画で、隆一のなかでは記念の1作だった。
「観たよ、高校1年の終わりに……。あんなに感動した映画は初めてだった」
垂水までの最終の連絡船に乗り遅れて、通り雨にたたられたあと向かった西鹿児島駅の裏の、旅館の門をふたりでくぐったあの夜を思い起こしながら、隆一はこたえた。その夜、ふたりは結ばれたのだった。
隆一の脳裏には、羞恥に頬を染めながら、夢中で誘った可憐な乙女の顔が甦りはじめていた。
「わたしが観たのは大学に入った年だった。いま、思い出すだけでも泣けてくるわ。それに、あのヘンリー・マンシーニの、哀切な音楽がまた涙を誘うのよね。主題曲の原題は、確か『Loss of Love・Sunflower』だったと記憶しているけど……」
瑠璃子さんは、茎の下方の小さな花を手繰(たぐ)ってくちづけすると、涙を浮かべた目を向けた。そして、「わたしを哀しくさせるようなことを、あなたはしないよね。あの映画のような結末は厭だからね」と、いった。
隆一は、瑠璃子さんのその顔をじっと見た。胸が、早鐘を打ちはじめた。この人にはどこかで逢っている――。初めて『緑一荘』で見かけたときに閃いたその思いは、今日まで隆一の胸で燻っていた。それ自体は思い違いではなかったのだ。ただ、逢ったことがあるのはこの人ではなかった。忘却の彼方に追いやったはずの、あの、安丘洋子に似ているから錯覚していたのだ。
なぜ、いままでそれに気が付かなかったのだろうかと思いながら、隆一は視線を落とした。いや、気付いていたのだ。気付いていたのに、自分を誤魔化していたのだ。固い信念で封印したにも拘らず、いまでもその薫りに触れたなら、翻弄されそうな脆(もろ)い自分を隠蔽するために――。
隆一は、おもむろに瑠璃子さんに視線を戻した。
大きな二重瞼の切れ長な目に、彫像のような綺麗な鼻筋は、まさに卵に目鼻──といった感じで、心持ち口角が上がった小さな唇も、いま隆一の脳裏に甦ったあのときの安丘洋子に瓜二つだった。
とりわけ、涙が乾いたその瞳は、破瓜(はか)のあと輝きを増した、麗しい安丘洋子のそれだった。
「愛する瑠璃子さんを、僕が哀しくさせるわけないでしょう」
20数年前に突然連絡が途絶えた安丘洋子――慟哭で、眠れずに迎えたあの忌まわしい朝を思い浮かべながら隆一はこたえ、花の上のクロッシュを取ると、瑠璃子さんの頭に載せた。
すると、瑠璃子さんは、隆一の首に両手を回して目を閉じた。
隆一は、安丘洋子の面影を瑠璃子さんに重ねながら抱き寄せると、唇を合わせていった。そのあとのふたりの唇からは、汗が混ざり合ったような唾液が、糸を引いた。
瑠璃子さんは、隆一にハンカチを渡すと、花の茎を折りはじめた。1本獲るごとにそれを隆一に預け、反対側の通りへ出る頃には、隆一の手には10数本の大輪の茎があった。
「せっかくだから、ふたり分戴いたの」
そういうと瑠璃子さんは、隆一の腕から花束を取った。
土手に立っていた白い開襟シャツに作業ズボンの男性が、ふたりを出迎えるように微笑みながら会釈した。
「お花戴きました」と、瑠璃子さんは笑顔を返した。
その人は、瑠璃子さんの言葉にまた笑顔で頷くと、ここを管理している家畜改良センター宮崎牧場の関係者だと名乗った。そして、ここの敷地は1,5㌶で、約10万本の向日葵が植えてある――と教えてくれた。さらに、これは伐採して緑肥にするということも……。その予定日は、明日だとつけ加えた。
「今日こられてよかったですね。明日だったら、花は土に還っていたでしょう」
御鉢(おはち)と呼ばれている『高千穂峰(たかちほのみね)』は、鹿児島と宮崎の両県に跨る標高1,574㍍の山である。その頂上には、天孫降臨(てんそんこうりん)伝説の天(あま)の逆鉾(さかほこ)が祀(まつ)ってある。その昔、神の臨在を示す印しとされるそれが、霧島連峰唯一の信仰の山としてお鉢を位置付けたことは、言を俟たない。
以来、多くの人に畏(おそ)れられ、崇(あが)められてきたであろうこの御鉢は、同じ霧島連峰の一角を成す韓国岳とは山容からして大きく異なる。
韓国岳が、男性的な峻烈な山であるのに対して、女性的な緩やかな稜線を描いているのがこの御鉢である。
特別養護老人ホーム『高千穂苑』は、その御鉢を真東に見る、なだらかな丘陵地にあった。ただひとつ、切り開かれた斜面の草原を背景に建っている瀟洒(しょうしゃ)な白亜の3階建てのそれは、木々に埋もれるように周囲に点在する別荘らしき建物とは趣を異にし、さながらリゾート地のコンドミニアムといった様相を呈していた。
30㍍はあろうかと思われる、県道から正門までの坂の道の両側には、階段状に剪定された一つ葉の植え込みが続いていた。その途中の、左右の数カ所に備えられたスプリンクラーの、水を被った長楕円形の葉が、傾きかけた陽を受けて光っていた。
正門とエントランスの間には、川石に囲まれた丸い花壇のロータリーがあり、その中央には根元をレンガで囲われた大きなフェニックスが植わっていた。そこから外周の川石に向かっては、グラジオラスが放射状に列を成し、赤、黄、白といった六弁花が、鮮やかさを競っていた。
また、施設の敷地を囲む薄緑の金網フェンスの内側には、数㍍おきに棕櫚(しゅろ)が植えられており、茎頂の重なり合った深裂のウチワ状の葉が、左側の乾いた地面に短い影を落としていた。
どこからともなく、ホトトギスとウグイスの鳴き声が聞こえていた。真夏のこの時期に、これら野鳥の声が聞けるのは、宮崎県でも霧島連山を擁するこの地域だけではなかろうかと、隆一は思った。
一昨日泊まったえびの高原同様、南国にしては凌ぎやすい丘陵地ということが、鳥達の滞在を長引かせているのかもしれない。
クルマをスレートの屋根の駐車場に入れると、隆一は「すぐ終わるから……」と瑠璃子さんに告げ、アタッシュケースから茶封筒を取り出すと、エンジンはかけたままでクルマを降りた。
寂しそうに俯いた瑠璃子さんが気になったが、預かり物を渡したらすぐに戻るつもりで受付に急ぎ、用向きを伝えた。
事務職員らしい女性に通された応接室で待つと、床を這うスリッパの音とともに、ふたりの男女が入ってきた。
白髪のメガネをかけたネクタイ姿の男性は副所長、中年の化粧っ気のない白衣の女性はケアマネージャーと個々に名乗り、それぞれ名刺を差し出した。
隆一は形だけの挨拶をすますと、「これを預かってきました」と、茶封筒の中身を取り出しテーブルの上に置いた。
「遠いところご苦労様でした。昨日、小山内様より連絡ありました」と、副所長は日向訛りのある言葉でいい、また頭を下げた。さらに、
「中園さんは鹿屋のご出身で、坂口成子(さかぐちなりこ)さんとは遠縁に当たるとか……。きてくださったこと、喜ばれるでしょう」と、首を2、3度縦に振った
主人の前の奥さんは、ずっと「坂口」を名乗っていたのかと、隆一は思った。あわせて、主人がどういう含みで隆一を遠縁だといったのか解せなかったが、敢えて否定することもないと決め、それに頷いた。
副所長が受領証を書く間にケアマネージャーは、坂口成子さんが要介護度4で、自力歩行ができないこと、失語症の兆候が現われてきていることなどを明かしてくれた。そして、それを除けば健康には異常がないといい、毎日リハビリに努めている――ことを付け加えた。
さらに、『高千穂苑』は、この近辺に在宅介護の支援センターやデイサービスの施設を擁していること、ここは設備が整った個室のみで、要介護度4以上を対象とした生活支援ハウスだということなど説明した。
「いま、坂口さんの組は、折り紙細工をしております。是非、覗いてみてください」
隆一が、副所長より受領証を受け取るのを見て、ケアマネージャーはいった。
レクレーション室だというその部屋は、応接室を出て、エントランスを過ぎた最初の部屋だった。
ケアマネージャーが、部屋の引き戸を開けるや否や、後ろで大きな声がした。
「母は……わたしの母はどこ……。ねえ、どこにいるの……」
なんと、その声の主は、瑠璃子さんだった。あの向日葵を、胸に抱えていた。
瑠璃子さんは、きょとんとした表情のケアマネージャーを見つめながら、「母はどこですか?」と再びいって、部屋のなかを覗き込んだ。
どよめきが起こり、10数の瞳が瑠璃子さんに集中した。
隆一は瑠璃子さんの脇に立ち、「僕の連れです」とケアマネージャーに短くいって、誰ともなしに頭を下げた。
無言で頷くケアマネージャーを見て隆一はホッとして、瑠璃子さんの肩に手を添えて彼女のあとに続いた。
部屋は、水を打ったような静けさに変わっていた。
中央に置かれた大きな楕円のテーブルを、男性5名と女性4名が囲んでいた。それぞれ、手にした折り紙を忙しなく折っていたが、奥まったところにあるホワイトボードの脇のオルガンの前より、隆一達を凝視している車椅子の老女の姿があった。
淡いブルーのシュシュをつけたシニヨンの髪は白いものが多く、顔には深い皺を刻んでいたが、大きな目の瓜実顔には若かりし頃を偲ばせる気品を宿していた。
直立不動で、向日葵を抱きしめたままの瑠璃子さんの視線は、その女性に釘づけだった。その人が坂口成子さんに違いないと確信した隆一は、奥に並んで立っているケアマネージャーとヘルパーに確かめるべく足を向けた。
それを阻止するように、瑠璃子さんは隆一の前を駆け抜けた。そして、その女性の前に跪(ひざまず)くと、「お母さん……」と絶叫して、その手を取った。持っていた向日葵が、散乱した。
「あなた坂口成子という名前でしょう。わたしのお母さんよね……。わたし、瑠璃子です、瑠璃子よ……。あなたの娘です。わかるでしょう」
瑠璃子さんは取った手を上下にゆすりながら、絶叫を繰り返した。
嗚咽を洩らしながら、その女性はふらつく足で立ち上がると、放した両手を瑠璃子さんの肩においた。そして、「あううっ、うううっ」と言葉にならない声を上げ、幾度も頷いた。涙の粒が飛び散った。その、坂口成子さんの両脇を、ヘルパーとケアマネージャーが支えた。それでも坂口成子さんは、顔を歪めて車椅子に崩折れた。
隆一は、瑠璃子さんを抱き起こした。その顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
いつかしら、その周りには人の輪ができていた。
隆一は、向日葵を拾い集めて、瑠璃子さんの手に与けた。
それを鼻頭に近づけると瑠璃子さんは、周りの輪の人々に1本ずつ配りはじめた。そして、残りの数本を母親に授けると、「お母さん……」と、その膝に顔を埋めた。
静寂のなかに、再び母娘の啜り泣きが響いた。
隆一は、瑠璃子さんを再び抱き起こし、目配せした。
瑠璃子さんは、ハンカチで口許を押さえながら躰を回転させ、ひとりひとりの前に立つと頭を下げていった。そして、ケアマネージャーになにやら話すと、ホワイトボードの前に立った。
「わたしは、東京より母を尋ねてまいりました、小山内瑠璃子と申します……」と宣言し、幼い頃の別離の理由から、40数年間に及ぶ母親への思いの丈を切々と話しはじめた。
「坂口成子は、わたしの最愛の母です。45年ぶりに逢えた歓びは、とても口ではいい表わせ……」
途中で言葉は途切れ、瑠璃子さんはフロアに泣き崩れた。
両脇を抱えて、隆一は瑠璃子さんを支えた。
大粒の涙を流しながら、瑠璃子さんはそれぞれに訴えるように、再び口を開いた。
「…………優しいみなさんに感謝します。今後とも、母をよ・ろ・し……」
語尾は、またも泣き声で掻き消された。だが、その意思が伝わっていることは、人の輪の笑顔が物語っていた。
「よかったね……」「おめでとう……」「これから、ちょくちょく遊びにきてね……」といった声が次々に上がった。
感極まった、瑠璃子さんの号泣がまた部屋中に響いた。向日葵を抱いた輪のそれぞれが、順に瑠璃子さんの手を取った。嗚咽が続いた。
母娘の数10年ぶりの再会に、ケアマネージャーとヘルパーのふたりも堪え切れなくなったのか、目許をハンカチで押さえながら頻(しき)りに頷き合っていた。
瑠璃子さんが母親に逢えたことが、隆一も自分のことのように嬉しくて、涙が溢れて仕方がなかった。それを隠すように、隆一は窓際に歩を進め、手の甲で目を拭った。
窓の外の、燃えるような深紅のサルビアに囲まれた花壇に、長くなった数本の棕櫚の影が迫っていた。陽が傾いてきていることを実感しながら後ろを振り向くと、母親の口許に耳を寄せている瑠璃子さんがあった。なにやら訊かれているらしく、幾度も頷くと、その視線を隆一に転じた。その目は隆一を招(よ)んでいた。
歩み寄ると、坂口成子さんは言葉にならない声を上げ、隆一の手を握り締めた。そこに、瑠璃子さんの手が重なってきた。また、母娘の嗚咽が洩れはじめた。それが、歓びの証しであることを、母娘の手の握りの固さが示していた。
「それでは、おふたりの再会を祝して、いつもの合唱をしましょうね」
テーブルの上の片付けがすむとヘルパーは高い声を上げ、オルガンを弾きはじめた。伴奏で、『赤とんぼ』だとわかった。童心に戻ったような顔で、みんなが手を繋ぎ再び輪になって歌い出した。
♪夕焼け小焼けの赤とんぼ
終われてみたのはいつの日か
折り紙を折ったり、歌を歌ったり、動物と遊んだりするのが認知症防止になる、と書いてある専門書を、父が養老院に入ったと訊いた昔に隆一は読んでいた。幼少の頃に還してあげる――これがなにより効果的だと、それは結論付けていたように思う。いわば心のリハビリで、ここではそれを励行しているようだった。
こういう施設に頼らなければ、誰も手を差し伸べてくれない高齢者が少なくないという現実を目の当たりにした隆一は、複雑な思いがした。
今後、この国はさらに高齢化が進み、いずれは、紛れもなくそのひとりに自分も含まれるということを思うと、胸が張り裂けそうだった。
身内といえば、数10年も音信を絶っている嫁いだ姉ひとりだけで、誰も頼る人がいない隆一は、おそらく、こういう施設にも入れず、どこかで野垂れ死にするのだろう、と思わずにいられなかった。
いつかしら隆一の脳裏には、32で生涯を閉じた芙紗子のことが浮かんでいた。
――「わたしのところにきて、のんびりするといいわ。そうすれば、創作意欲も湧くかもよ……」
実用書関係の単行本を発行する小さな出版社の編集社員であった2つ上の芙紗子の言葉に甘えて、隆一が高円寺(こうえんじ)の芙紗子の部屋に転がり込んだのは28のときだった。
その言葉に報いようと、仕事を終えると隆一は芙沙子の部屋へ直行した。酒を断ち麻雀の誘いも振り切り机に向い、テレビ局や専門誌の公募に投稿を続けた。それは1年近く続いただろうか。だが、それはことごとく一次選考で落とされた。焦りと苛立ちで、創作意欲が湧くどころか、気が付いたら酒とギャンブルにのめり込んでいた。
「長い目で見れば、決してそれも無駄じゃないでしょう。いいものを紡ぐための肥やしになると思えばいいじゃない。わたしに気兼ねは要らないから、あなたはそれだけを考えていればいいのよ」
芙紗子は笑顔でそういい、稼ぎの大半を毎月隆一のためにつぎ込んでいた。そんな隆一のために、いつしか芙紗子は、夜は銀座の場末のクラブにヘルプとして勤めて糊口を凌ぐという道を選んでいたのだった。
一緒に暮しはじめて2年が過ぎた頃、それまでなにもいわなかった芙紗子が、頻りに入籍を迫り出した。のらりくらりと躱して間もない秋の日の深夜、芙紗子が店で倒れて入院したというクラブのママからの報せを、隆一は池袋の雀荘にかかってきた電話で受けた。
そのときは、不治の病だとは思いもよらず、しばらくひとりの生活をするのもいいだろうと楽観しながら、隆一は次の日の夜まで麻雀を続けたのだった。
天蓋孤独の芙紗子が、東京都の福祉の手で荼毘(だび)に付されたのは、隆一が入院中の芙紗子に内緒で放埓な旅に出ていたときで、それもその2日後に旅から戻ったときに初めて知ったのだった。
入院したときは、すでに病巣は肺にまで転移しており、3ヵ月の余命だったということも、葬儀の世話をしてくれた民生委員にそのとき初めて聞かされたのだった。
「りゅうさん、ごめんなさい……」
今際(いまわ)の際(きわ)まで、芙紗子はそう繰り返していたという。
病院のベッドの枕の下に置いてあったという『りゅうさんへ』と乱れた文字で書かれた病院の白い角封筒には、生命保険の証書が入っていた。
もちろん、隆一はそれを預かることを辞退したが、彼女の友人やママはもとより、労を取ってくれた民生委員の「これでお墓でも建ててやればふーちゃんも喜ぶでしょう」といったその言葉に促され、隆一は生命保険会社に出向いた。
だが、入籍していないという理由で、その支払いを保険会社は拒否した。それでも、「親戚筋の方全員の同意があれば支払うことは不可能ではないですよ」という言葉を信じ、その友人やママに協力してもらい、芙紗子の縁者の調査を開始した。
ひと月余りで、茨城県大洗にいるその近親者を探し当て、事情を話したら同意したはずのその人間は、数日後弁護士を伴って隆一のもとにやってきた。その証書の返却を求めて……。
「こちらで墓も建ててやるし、寺に預けっぱなしの遺骨も引き取ります」ということだった。無論、隆一に断る理由はない。だが、その2ヵ月後に隆一が訪ねた杉並区堀ノ内の寺には、遺骨は預けっぱなしだし、誰もお参りにもこない、ということだった。
それを責める気は隆一は起きなかった。それより隆一は、死に際に芙紗子のそばにいてやらなかった自分が悔やまれて仕方がなかった。
そのときは、とめどなく涙が溢れた。後に、母が他界したときは1滴の涙も流さなかったのに……。
隆一は、住職の制止を振り切って骨壷を抱き、2時間余りもそこで泣き伏していた――。
合唱を聴いている隆一の頬を、涙が伝った。それは、何に対して流れる涙なのか、隆一にはわからなかった。
「ねえ、あなたも一緒に歌って……」
物憂げな隆一に、瑠璃子さんがそっといった。
♪十五で姐やは嫁にゆき~………
3番の小節に入ったところで、ふたりは坂口成子さんを囲んでいる人の輪に加わった。坂口成子さんは、目を閉じたままで両の耳の後ろにそれぞれ右と左の手を添えて、聴き入っていた。その頬には涙の雫が伝っていた。
ハンカチを持った輪のなかの手が、代わる代わるその頬に伸びていった。
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