第11話 乖 離(かい り)

 紅熟した目木(めぎ)の実のように色を変えた両の乳首は、コンパスで描いたような端正な乳暈の頂きで硬直を持続していた。その、それぞれの先端には、男の愛撫を物語るぬめりが残っており、剥きたての茹卵(ゆでたまご)のような白い肌と鮮やかなコントラストを作っていた。男は、それに触発されて、再びその先端に舌を這わせていった。

 女は、熱い吐息を洩らすと薄目を開け、男を見上げた。

 男は小さく頷くと、右の肩に担いでいた女の左足の、膝蓋を摑んでいる右手を緩めた。

 それは男の肩を滑り落ち、汗ばんだ脇腹を撫でるようにフロアに敷かれた花茣蓙に達した。ふと目がいった、両肢が交わる翳りの部分の内果皮の狭間(はざま)には、微かに濁りを帯びた透明の液体が澱んでいた。

 絶頂への序曲と思しき女の喘ぎに合わせるように流れていたニーナ・ロータの曲は、男の律動が激しくなる頃には、フランシス・レイに変わっていた。

  ボーズのスピーカーを震わせ続けている、一世を風靡したスクリーン・ミュージックに同調するかのように欲望を融合させた男と女は、モダンなジャズ風のデュエットがフィナーレを迎えると同時に、共に果てた。

 やがて身を起こした男は、左手でかたわらのティッシュを抜き取ると、おもむろに女の肉の窄(すぼ)みに押し当てた。薄い繊維を濾(す)けた粘液が、男の指先を湿らせた。

 悦びの証しを口許に残した女は、流れはじめたカルロ・ルスティケリに、目を閉じたままで聴き入っていた。ほどなく、その目尻から露が零れた。

 静謐で物悲しいメロディが、クラウヂィア・カルディナーレとジョージ・チャキリスが扮したあの悲恋の映画『ブーべの恋人』の一齣を思い出させたのだろうか。

 テーブルの上の、ガラスの花瓶に挿された青紫の2輪の桔梗(ききょう)が、愛おしい女の顔を見下ろしていた。5裂の釣鐘状の2輪の花は、盛りを過ぎたことを知らしめるように花茎を曲げ、互いに支え合うように寄り添っていた。

 曲が終わると、それを待っていたかのように女はすっくと起き上がり、羞恥の色を浮かべた視線を、膝立ちのままの男に向けてきた。そして、黙って男の左手を取り立ち上がらせると踵を返した。

 女の背中から双臀には、花茣蓙の紋様が刻まれており、その後ろに続く男の膝蓋は赤くなっていた。浴室のドアを開けた女の股間から、白い繊維が落ちた。


 ――羽田に降り立ったのは、午後1時過ぎだった。主人を訪ねるため、そこから単独行動を取ることを、機内で瑠璃子さんに伝えていたのだが、その必要はなくなった。連絡した先はあいにく留守電だったのだ。

「連絡つかないのならそれは明日にしたら……。久しぶりの東京の夜を愉しみましょうよ」

 その気になって羽田で瑠璃子さんとタクシーに乗って、首都高の上野ランプを目指すよう、ドライバーに伝えた。だが、上野出口に差しかかる頃には、その気持ちは変わっていた。留守電の主人のことが気になってきたのだ。

  浅草・松屋の前まできたところで、隆一は瑠璃子さんを車内に残して下車した。拗(す)ね気味の瑠璃子さんに、用事を終えたら連絡する旨を告げて……。

 そのあと隆一は、仲見世通りの喫茶店に入った。オーダーする前にリダイヤルした先は、羽田でかけた時と同じ音声が流れるのみだった。

 瑠璃子さんの言葉にしたがわなかったことを隆一は悔いながら、呑みたくもないドリンクを追加して時間を潰した。その間、幾度もリダイヤルを繰り返したのだが、いずれも結果は同じだった。

 行き場が見つからない隆一は、水面(みなも)が西陽に光る隅田川べりを歩いていた。土産物が入った紙袋とゼロのアタッシュケースを提げて……。額から滴る汗を拭いながら、小1時間ほど歩いただろうか。気がついたときは、京成曳舟駅の近くだった。

「九州へ着いたら連絡するね」

 みゆきと約したことは、1度も実行していなかった。加えて、ほとんど毎日、携帯電話の電源を切っていたのだ。それだけに、みゆきからかかってきたか否かも知る由がなかった。しかるに、ここでみゆきに連絡するには迷いがあった。なのに、肌を焦がすような陽射しを浴びながらここまで歩いてきたということは、みゆきに逢いにきたということに他ならない。

 くるべくしてきたわけではないことに後ろめたさを覚えたが、早かれ遅かれ顔を出さねばならない相手であると思っているうちに、それは消えていた。隆一は、半ば開き直ってエントランスを潜った。

 数日ぶりのみゆきは、汗だくのままいきなり抱きしめた隆一を、浴室へ誘った。

 シャワーのあと、ムード音楽に欲望を乗せて互いを貪りあった。

 ビールを呑みながら出前の鮨の夕食をすますと、みゆきは予期せぬ言葉を浴びせてきた。

「九州には、誰かと一緒にいったの?」

 隆一はどきりとした。左手に持った、氷を入れたばかりのグラスが小さな音を発てた。引いていた汗が、また全身の毛穴を塞いだ気がした。目を逸らし、漆黒のボトルの液体を注ぐ動作に入りながら、隆一はいった。

「そんな人、いるわけないよ。唯一、声をかけたキミが辞退したんだから……」

「だから、その代わりに誰かを誘ったの、と訊いているんですけど……」

 みゆきは畳み掛けてきた。

 素顔も、タンクトップの首筋も、浴室から出てきたときより紅潮していた。

 隆一は、返す言葉に詰った。もしかしたら、みゆきはすべてを知っているのではないだろうか。

 そんな思いを胸に抱きながら、隆一は焼酎を入れたグラスに、アイスペールの氷を加え、さらにボトルを傾けた。

 気持ちが逸っていたのだろう。ミネラルだと思っていたそのボトルは、ブランデーだった。

 べつに呑むのは何でもよかったのだが、さすがに焼酎にブランデーをミックスしたものは呑めない。だが、この場を取り繕うための時間稼ぎが目的なのだから、どうでもいいやと隆一は心でまた開き直り、マドラーで緩慢にかき回しながら、この場を凌ぐための言葉を頭で模索した。

 その矢先、隆一を凝視していた相手が先に口を開いた。

「ひとりでいったのでしょう? そうでしょう」

 助かった――。隆一は心のなかでつぶやくと、「そうだよ」ときっぱりといった。

「だったら、素直にそうこたえればいいのに……。どうして、黙り込んじゃうの」

 不服そうに、みゆきはいった。

 なぜに女は、快感を貪り合ったあとに苦言を呈するのだろうか……。みゆきの言動は、その行為をも否定しているかのように思えてきて、隆一は不快を露に反撃した。

「そういわれればそうだけど、みゆきの訊き方もちょっとおかしかったよ。誰々といったと、俺がこたえることを期待しているような口振りだったじゃない」

「あら、そう……。そう取られたのなら謝りますけど……」

「だから、みゆきが納得するような、当たり障りのない架空の人物といったことにしようと思い、それを誰にするか考えていたのさ」

 隆一は、出任せをいった。

「それで、誰にしようと思ったんですか、その架空の人は……」

 いつになく、みゆきは執拗だった。

「いっぱいいるから、選びきれなくてね」

 隆一は拗ねてこたえた。

「ああ、そうですか。だったら、初めからわたしになんか声かけないで、その人を誘えばよかったじゃない」

 みゆきは、声を荒げた。

 なにをほざいているんだ、こいつは……と隆一は思ったが、口には出せなかった。いったら最後、ここを出ていかねばならなくなる。今夜はひとりになりたくない。瑠璃子さんの誘いに乗らなかったことが、また悔やまれてきた。

 配慮を欠いた台詞を吐いたことを反省しながら、隆一はみゆきの髪に手を遣り、「誘うとすれば、キミを除けばタガさんか小山内社長かシマゴローしかいないだろうよ」と取り繕った。そして、唯一一緒にいくはずだった小山内社長が、なんらかの事情でそれを取り止めたことや、その代理として主人の元奥方が入っている霧島の介護施設を訪ねてきたことなど、掻(か)い摘(つま)んで伝えた。

 それが功を奏したようで、みゆきはいつもの笑顔に戻ると、その奥方の動静について事細かく訊いてきた。

 隆一の話が終わると、みゆきは涙を湛えた目を向けて、「この次は、絶対わたしついていく」と宣言した。さらに、その目を見開いて、「わたしは、九州にはいったことがないし、寒い東北で育ったせいか、暖かい南国に憧れているの。できたら毬江も連れていきたい。ねぇ、いいですか、連れていっても……」と続けた。

 この次って、いつになるのだろうと隆一は思った。みゆきは、娘が中学に上がるまでに、東京を引き払うと話したではないか。それまで、1年半しかないのだ。ぞの間に、九州にいくことができるだろうか、と思いつつ隆一は、みゆきに頬を寄せてこたえた。

「もちろん、いいとも」

「ありがとう」

 みゆきは、濡れた頬を綻ばせた。


 みゆきが出かけていったのは、西の空が茜色に変わりかけた6時頃だった。講師をしている塾が、夏休みだけの短期の受講生を募集したので休めない――という理由で。

 隆一が瑠璃子さんと九州へいっていた間も、講師の誰ひとり休めなかったのだそうだ。

「いってらっしゃい」

 2つほど紙袋に忍ばせておいた軽羹(かるかん)の箱詰めのひとつを、仕事先に持っていくようみゆきに渡すと、隆一は明るい声で送り出した。

 ひとりになって、隆一は思った。遊び盛りの小学生から盆休みまで取り上げて、英会話なんぞを習わす親はなにを考えているのだ……と。その前に、正しい日本語を覚えさせろ……と。

 さらに、それをいいことに、商魂を剥き出しにして金を吸い上げる塾の経営者とは、どんなヤツだ……と。

 だが、みゆきがその恩恵に浴していることを思えば、面と向かって批判することはできなかった。

 そんなことを考えているうちに酔いが回ったらしく、微睡んでしまっていた。目が覚めたのは9時に近かったが、みゆきの姿はなかった。それから30分近く待っただろうか。でも、みゆきは帰ってこなかった。

 携帯を手に、指先が覚えている番号を押しはじめたが、途中で止めた。電話したところで、どうなるというのだ。帰ってこないものは、こないのだ。もしかしたら、覚えの悪いガキに好意で補習をしているのかもしれないし、同僚となにやら歓談しているのかもしれない。

 べつに、どっちでもよかったが、予定の時刻に帰ってこないというのはなにかに時間を取られているわけだ。その言い訳を電話までして訊く必要はない。連絡してこないのは、相手はその必要がないと考えているのだろう。ならば、ここを出るのみだ。

 隆一は、荷物を置いたまま、ドアを閉め施錠した。

 足は、無意識に地蔵坂通りに向いていた。だが、開いていると思った『瑠璃』は閉まっており、一縷の望みを託してかけた瑠璃子さんの部屋の電話も携帯も、呼び出し音が続くばかりだった。

 連絡が遅くなったことを拗ねているのだろうかと思いつつ、もしかしたら、『緑一荘』にいるかもしれないと気を取り直して隆一は電話をかけてみた。だが、期待は裏切られた。頼みの綱の主人のところも留守電のままだった。

 ひとつが狂ったおかげで、すべてが狂ってしまった。どうして、いつもこうなのだろうかと、隆一は自分に怒りを向けながら煙草を咥え、さて、どうしたものかと考えた。このまま自分の部屋に帰るには大儀だし、この期に及んで、みゆきの部屋へ戻るというのも抵抗があった。

 飛鳥山の雀荘に電話しても、いつもの仲間はきていないというし、西川の携帯も電源が入っていなかった。田上に逢うには、土産の焼酎は宅配便に委ねたため手ぶらということになる。それを思えば、連絡しづらかった。

 数少ない、構ってくれる女性と、麻雀のメンバーに連絡が取れなければ行き場を失い途方に暮れる自分を、隆一は恨めしく思いながら煙草を踏み潰すと、明治通りへと引き返した。

 排気ガスの匂いを含んだ生暖かい風に全身が包まれて、汗が噴き出していた。点滅をはじめた横断歩道の信号をぼんやり眺めながら、隆一は麻のジャケットの内ポケットから手帳を引っ張り出した。

 電話番号リストを眺めても、いまここで発信キーを押す心境になれる相手はいなかった。それでも、しつこくページを繰っていると、ある走り書きが目に付いた。それは、いつか堀切を徘徊したときに書き留めておいた『侘助』の張り紙のメモだった。暇を潰すには恰好の相手だと思った。藁(わら)をも摑む思いで隆一は携帯電話の番号を押すと、京成曳舟駅に急いだ。


「遠いところ、ようこそ。帰りは送りますから、ゆっくり呑んでいって……」

 到着する時間を見計らって、白い割烹着姿のまま成城学園駅まで黄色のマーチで迎えにきていた女将は、隆一が助手席に乗り込むとそういった。

 和服に割烹着というのは、いままで見た数回と同じ出で立ちだが、今日は夏らしい藍色の矢絣で、髪はアップにしていた。

 長い睫毛の二重の瞼が際立って見えたのは、そのせいだろうか。

 お店閉めてきたの? と訊いた隆一に、若い娘(こ)がいるから……と微笑んだ女将は、すぐにクルマを発進させた。

 行き交うクルマと、ヘッドライトの明かりを交差させながら世田谷通りを横切り、二子玉川(ふたごたまがわ)方向へ少しいって右折した住宅地のなかにあるその店までは、煙草を1本喫い終わる頃には着いた。

 堀切と同じ屋号の『侘助』の黒い文字が、軒先に吊るされた赤い提灯に浮き上がっていた。2階屋の1階を改装したという小ぢんまりとした店だった。

 入って右手に5つの椅子が並んだカウンター、その奥まった位置に小さ目の座卓がひとつ置かれた小上がりがあるという店内には、のちに有線とわかる場違いなスクリーン・ミュージック『シャレード』が流れていた。

『開店祝』の短冊に個人の名が入ったファレノプシスの鉢植えや、酒屋や同業者の店名を連ねた季節の香りが漂う色とりどりの盛り花の数々が、フロアの片隅を占めていた。

 隆一は、客のいないカウンターのなかほどに腰を下ろした。

 正面に、木目を活かした淡い塗り色の欅の食器戸棚が見え、その左にパールホワイトの大きな冷蔵庫が続いていた。いずれも、塗装をし終えて梱包を待つといった、出荷前の新品のような光沢を放っていた。

「てっきり姚子さんと一緒に見えると思っていたの。彼女、お元気ですか?」

 黙りこくって呑んでいた冷酒の2合瓶の、3本目が底をつく頃だった。小上がりに坐っていたふたりの先客が帰り、アルバイトだという女子大生が上がったところで、女将はカウンター越しに言葉を向けてきた。

 隆一は、それにはこたえず、手をつけていなかった突き出しのいたわさを啄んだ。

 なにやら拵えていた女将は、それを盛った皿を冷凍ショーケースの上に置くと、冷酒の2合瓶を手に調理場から出てきた。そして、改めて「いらっしゃいませ」と頭を下げると盛り皿を隆一の前に置き直し、隣に坐った。

 クルマのなかでは感じなかった、いままで嗅いだことがない香水の匂いが鼻をついた。酔いが回ったせいか、口紅の色も、クルマのなかで見たときより艶(あで)やかに感じられた。

「姚子さん、お元気なの?」

 いいつつ2合瓶を傾ける女将の酌を受けると隆一は、一気にグラスを干した。心拍が激しくなったのは、酒のせいか瞼に浮かんできた姚子の面影のせいかわからなかった。

 皿を引き寄せ、盛られた野菜天のなかの衣のない南瓜(かぼちゃ)を口に入れた。すでにその4本目も空(から)に近かった。

 口を開いたかと思えば、姚子さん――と切り出す女将に最初は不快感を抱いた隆一だったが、酔いが回るに連れて、姚子のことを訊いて欲しいという願望が強くなってきているようにも思えてきた。

 上りの小田急電車は、とっくに終わっている時間だった。送る――という女将の好意を心のなかでは辞退していながら、時間に頓着せず呑んでいるということは、それに甘えていることに他ならない。

 笑みを浮かべて覗き込む女将に、思い出したように隆一はいった。

「姚子ね……。元気だと思うよ」

 女将は一瞬、怪訝な表情を浮かべて目を逸らしたが、ほどなく視線を戻すと静かに切り出した。

「姚子さんて一途な性格の人でしょう。愛する人のためならすべてを捨てても悔いはないといった信念を持っている。わたし、彼女の話を訊いているうちにそう思ったわよ。あなたに尽くすことで満たされているのね、彼女は……。いまどきいないタイプだわね。わたしにはとても真似できない」

 女将の口から、そんな台詞が出るほどふたりは親密になっていたのだろうか、と隆一は思いながら、熱くなった頬に両手を当てると、「そうかね」と他人事のように返した。

「あら、いい時計ですね。姚子さんのプレゼント?」

 隆一の右手首に顔を近づけた女将は、羨むようにいった。

 それは、黒いベルトにブルーの文字盤の、瑠璃子さんのクロノグラフだった。九州からの帰りの飛行機のなかでそれを話題にした隆一に、「気に入ったのなら、永久に貸しとくわ」と、瑠璃子さんが嵌めてくれたのだ。着陸の前に返そうと思っていたのだが、その機を逸したのだった。

「違うよ。これは借り物だよ。それに、姚子、姚子というの、いい加減にしてよ。俺は、姚子の飼い犬じゃないんだから……。それとも、姚子が一緒でないとこの店にはきちゃいけないの……」

 すべて、姚子が買い与えたもの――といわれているような気がして、隆一は癇に障った。この女将も、あの商店街の連中と同じく、姚子のヒモといった目で見ているのではないかという思いが、声を荒げさせたのだろう。

「そんなつもりでいったのじゃないの……ごめんなさい」

 女将は、媚びた目で隆一を覗き込みながらそういうと、頭を下げた。

 隆一の言葉を受けて、グラスを持ってきた女将のそれに、隆一は冷酒を満たした。

 1口ほどそれを呑んだ女将は、「あとひとつだけいわせて……」と、また勝手に喋りはじめた。

「堀切の店ではね……あなた方は評判のカップルだったのよ。羨ましいくらい仲睦まじい理想の夫婦だねと、店にくるお客さんの誰もがいうの」

 羨望の色を湛えた目で、女将はいった。

「他人にはそう見えても、いろいろあるもんだよ、男と女には……。ママだって、こんな高級住宅地で商売やれるんだから、しあわせじゃない」

 すでに、女将が羨むようなふたりではないのだ――という思いを込めつつ、話題を変える意図で隆一は返した。

「しあわせっていわれてもね……」

 女将は、頭(かぶり)を左右に振りながらそういうと、隆一を見つめた。そして、「じつはね……堀切の店を畳もうと決めたのは、その1年ほど前に、商売をやめたら面倒見るから……といってくれた人がいたからなの。水商売から足を洗うにはいいチャンスだと思い、その気になってお付き合いしてきたんだけど、その相手が嘘つきでね。それがわかったのは、賃貸契約を解約する日を決めたあとだったのよ。どうしようもないお馬鹿さんでしょう、わたしって……」

 同意を求めるように女将はいうと、隆一を見つめて続けた。

「パートにでもいこうかと職探しもしたけど、なんの取柄もないわたしは、いざ勤めるとなると踏ん切りがつかなくてね。結局、食べていくためには、これしかないと思い直し、親が遺してくれた家を改装してお店を続けることにしたのよ」と、次いだ。

 その目は、涙ぐんでいた。

 隆一は、なぜ女将が自分にそんな話しをするのか不可解だったが、他人事とは思えなかった。

「でも、それに気が付いたお陰で、借り物でないいい店を持てたんだからよしとすべきだよ。これは、きっと、あなたは商売を続けていれば、しあわせになれる――という神の思し召しじゃないかね。隠居するにはその若さと美貌が邪魔をするだろうし、ママは客商売に向いている人だと俺は思う。だから、続けていれば、いくらでもお客さんはつくよ……」

「…………」

「俺も、これからちょくちょく顔を出すからさ」

「本当?……。有難う……。中園さんて、優しぃ……」

 女将は、語尾を詰らせ俯くと、冷酒が半ばほど残ったコップを握り締めて、宙を仰いでいた。目尻には、露が光っていた。

 ほどなく、隆一に視線を戻した女将はコップを呷ると、「ところで、元気なんでしょう、姚子さん?」と、また思い出したように声を上げた。

 返す言葉に詰まり、隆一は目を逸らした。

 女将は、それにはお構いなく続けた。

「姚子さんも連れてくればよかったのに……。逢えなくて残念だわ。それはともかく、元気なんでしょう、姚子さん……」

 一瞬、しつこいな……と隆一は思った。だが、それは女将の目を見ると消滅した。芯から姚子のことを気にかけている、という色をしていたからだ。

 隆一は、事の詳細に触れざるを得なくなった。

「そうだったんですか。あんないい人が、どうしてかしらね」

 女将は、悲しい目をしていうと、隆一のグラスを満たした。

「4月の終わり頃だったかしら……。姚子さんがひとりで店に見えたのは……。わたしは彼女と気が合うし、商売抜きでおつき合いをしてきた人だから、たまには早く店を閉めて一緒にお鮨でも食べにいこうかと思っていたんだけど、その矢先にお客さんがばたばたと入ってきてね……。結局、姚子さんは気を遣ったのか帰ってしまったんだけど、どこか寂しげでね。なにかわたしに話しがあってきたのではと、そのあとずっと気になっていたんだけど……。そのとき、わたしが話しを訊いてあげていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに……。ごめんなさい」

 女将は、自分を責めるように次ぐと、深々と頭を下げた。

「ママのせいじゃない。そういう運命だったんだよ、俺達は……」

 隆一は心にもないことをいった。流れていた『風のささやき』も、ことのほか哀しく感じられた。

「でも、何も告げずに逃げるようなことをする人ではないから、きっと何か理由があると思うの」

 女将は、自分のことのように、自信を込めていった。

「どんな理由があるにせよ、もう、終わったんだ」

 隆一は、強がりをいった。その言葉とは裏腹に、出逢ったときの姚子の笑顔が、脳裏を掠めた。それを掻き消すべく、隆一はグラスを口に運び一気に呑み干した。

 女将は黙ってそれに冷酒を注ぐと、囁くようにいった。

「あの人、あなたにぞっこんだったものね。わたしとふたりっきりになると、いつも彼女はあなたのことを自慢してたのよ。中園は不器用で、舌足らずなところがあるから、周りには誤解されることが多いけど、彼は正直で優しくて才能ある男なのよ……って。他人はともかく、わたしは彼を信じている。わたしがついていれば、彼は近い将来きっと、大きな花を咲かせる……って」

 あの姚子が、女将を前にそんなことを喋ったのだろうか。俄かには信じられなかったが、女将が作り話をしているようには見えないし、ましてその必要もないはずだ。女将が、「気が合う」といった裏には姚子とそんな遣り取りがあったからで、それがふたりの信頼感を深めたに違いないと隆一は思い直した。顔を上げると、隆一の口は自然と開いた。

「元気でいればいいけどね」

「そうあって欲しいわね」

 女将は返すと、

「あなたに、なんにも告げずに出ていったということは、きっとあなたを愛し過ぎたからだとわたしは思うの。それは、これまで姚子さんとわたしが、いろいろ語り合ってきたなかでわかったことだけど……。つまり、自分は重荷を背負っても、愛する人にはそうはさせないというのがあの人の考えなのよ。それが、何か突発的なことが起きて、断念せざるを得なくなった。意志が強く、自分の信念を曲げない性格の姚子さんだから、敢えてそういう手段を選んだのだとわたしは思う……。それだけの、経済力もある人だからね、姚子さんは……」

 と、次いだ。そして、「わたしももっと呑む」と、グラスを手にした。

 隆一は、それに冷酒を満たしてやった。

 一気にグラスを呷った女将は、さらに続けた。

「わたしは姚子さんと性格が似ていると思うし、また、いくつもの修羅場を潜ってきた女の勘としていうんだけど、あの人は戻ってくるような気がするの。だから、待っててあげて……」

 女将は目を潤ませて、自分のことのように哀願口調でいった。

「そういわれてもね。どこにいるのかさえわからないものを、待ちようがないじゃない」

 そうしたいんだと隆一は思いつつ、逆の言葉を向けた。

 いや、逆の言葉ではないと、隆一は即座に胸の内で打ち消した。姚子に抉られた心の瑕疵(かし)は、すでに癒えつつあると思い直した。みゆきと瑠璃子さんによって……。当てのないものを待つより、そばで傅(かしず)くものが大切だという思いが、急に擡げてきた。

 女将は、眉根を寄せて隆一を覗き込むと、「そうなの……」と、つぶやくようにいい、空いたグラスに自ら冷酒を注ぐと、また一気に呑んだ。

「そんな呑みかた、よくないよ」

 隆一は、女将のグラスを持つ手を握り締めていった。

 その手を、わざとらしく振り払った女将は、また自らグラスに冷酒を満たすと、隆一に凭れかかってきた。そして、「今日は、呑みましょうよ。あなたもわたしも、待つ人はいないのだから……」と、薄赤く色づいた頬を隆一に寄せてきた。

 隆一は、手酌でグラスを満たすと一気に呑み、「帰る……」と腰を上げた。

「もう、電車はないから、もっと呑みましょうよ」

 グラスを手にした女将は甘えるようにいうと、「なんだったら、泊まっていっていいのよ」と、さらにいった。

「呑むのは構わないけど、独り身の女性の家に泊まるわけにはいかないよ」

 突き放すように隆一は返すと、腰を上げた。

 それを見計らったように、隆一の携帯電話が鳴った。一瞥した番号は、みゆきのそれだった。隆一は、電源キーを押し続けながら、女将に視線を戻した。

 女将は俯いたままグラスを口に運ぶと一気に呷り、「いまの電話、姚子さん? 姚子さんでなければ、わたし今晩、姚子さんの替わりになってもいいわよ……」と、上目遣いの目を向けた。

「替わりだなんて、そんな……。ママはいろっぽい人だし、俺みたいな男に安売りしなくても、これからいい人がいくらでも現れるよ。悪い冗談は止めて……」

 酒がいわせた言葉だと思って、隆一はいった。

「冗談ではなくってよ……。姚子さんのように綺麗な躰じゃないけど、あなたがよければ、わたしはいいのよ……。思いのまま自由にして……」 

 女将はいうと、立ち上がって割烹着を脱いだ。そして、隆一の手を握り締めると椅子に促し、ジャケットを脱がせた。

 襟元から放たれる芳香が鼻腔を刺激した。ほつれ毛が色づいた項に絡まっていた。濃い目の化粧の横顔が、なぜか若々しく見えてきた。

 隆一が、女将の堀切の店にいったのは数えるほどだが、女将はこんな素振りは一度として見せたことはなかった。もし、先の女将の言葉が真意なら、いつも姚子が一緒だったにせよ、それを隆一に匂わせるぐらいの機会は少なくなかったはずだ。

また、幾度か目にした、それとなく言い寄る客に対しても、女将は商売と割り切ってうまく捌いているように見えた。身持ちの硬い人――と、多くの客の目には映っていたに違いない。それは、そのときは、「面倒見る」といった相手がいたからなのだろうか。

「それは光栄だけど、俺は我儘だし飽きっぽいし、まして女性の愛し方は下手ときてる」

 男に裏切られて、足を洗うつもりだった夜の商売に舞い戻らざるを得なくなった。加えて、場所が変わり、客も変わったことによる先行きの不安感から、女将は心にもない大胆なことを口走っているのではないか。そんな気がして、隆一は敢えて投げ遣りな言葉で様子を見た。

「そんなことないでしょう。姚子さんは、いつも匂い立つような色気に包まれていたじゃない。女は、いい男に抱かれると、より綺麗になっていくものなのよ」

 朱の色が回った耳朶の辺りに手を遣りながら、女将はいった。

「どうだかね。俺はさっき話したようないい加減な男だから、愛しているなんて感情で女性を抱いたことはないんだ。ただ、便利で自分の都合でいつでも抱けるから一緒に暮してきただけ。女性を前にして失礼だけど、もしかしたら俺は、単なる欲望の捌け口としてしか女性を捉えていないのかもしれない。この歪んだ心は、相手が誰であっても、俺は変えられないような気がする。最初は、それでもいいと女性はいうだろうけど、そんなものすぐに破綻するに決まっている。なにより姚子と俺の現実がそれを物語っているじゃない」

 こんな言葉を口にするのは、隆一は初めてだった。でも、それは自分の本心であるような気がしていた。でも、なぜ、それを女将に向かっていったのか、隆一はわからなかった。 

「それは、あなたが愛情を言葉では表現しない性格というだけのことでしょう。姚子さんがいった不器用とは、そういうことだとわたしは受け止めている」

「…………」

「失礼を承知でいわせてもらえば、あなたはプライドが高く、繊細な人のようだから、愛するより愛されることを望んでいるのよ。だからといって、女性に愛情を示さないわけではない。女性に忠実(まめ)で優しいということがその証拠で、ときたま見せる子供のように反抗するところも甘えてみせるところも、あなたなりの愛情表現だとわたしは見ている。その辺を、姚子さんは熟知していたんでしょう。束縛されるのが厭だというあなたの別の一面も……」

「束縛も、愛すればこそ……だろうけどね」

 いうと隆一は、女将を見つめた。

 女将は、潤んだ目で頷いた。

 隆一は続けた。

「正直にいって、愛なんて俺にはよくわからない。でも、わからないなりに得た結論は、それは男と女の美しい誤解の産物だということ。哀しいかな、それは、時間の経過とともにお互いに気が付く。相手が誰であっても、美しい美しくないに関係なく……。それでも、一緒に暮らしたいと思うなら、割り切るしかない。つまり、互いに自分を誤魔化すしかないということだよ。そんな生き方ができるの、ママは……」

「できるわよ……」

 女将はいうと、奥の壁の時計に目を遣り、腰を上げた。そして、そそくさと、引き戸の向こうにいった。

 提灯を抱えて戻った女将は引き戸に鍵をかけると、清ましたような表情で有線を止めた。

「もう、堅い話はほどほどにして、愉しく呑みましょうよ。理屈だけで片づけられないのが男と女の関係でしょう」

 いうなり、女将は隆一の膝の上に伸しかかってきた。

 傅くものを、拒む理由はない。隆一は腹を決めた。


「小山内さんは、ただいま診療中ですから、お部屋でお待ちください」

 ナースステーションから出てきた、白衣姿に初々(ういうい)しさを感じさせる看護師は、隆一の前に立つとそういい、返事を躊躇っている男に構わず先導するように歩きはじめた。

「時間かかりそうですか」

 隆一は背中越しに訊いた。

 徹夜明けの躰は汗臭く、脂ぎった顔は無精髭も伸び放題で、とても病室に入れたものではないと、いまになって気が付いたのだ。

 意外な人からの電話だったこと、そして、その人に主人が入院しているということを知らされた二重の驚きで、後先考えずにここへ飛んできたのだった。それで、時間がかかるようなら、サウナにでも入ってから出直そうと、思いを新たにしたのだ。

 翳した左手の腕時計を見た看護師は、「あと15分ほどで終わると思いますよ」と、あどけさが残る笑顔を向けた。そして、少し歩いて廊下の右側の壁のネームプレートを確かめると、ポケットから取り出した鍵束のひとつを鍵穴に挿し込みドアを開けた。

 その部屋は個室で、かなり広かった。入って右側の一角に皮張りの応接セットがあり、壁際に置かれたホワイトオークのサイドボードの上には、画面の大きい薄型テレビが載っていた。それに続いて並ぶデスクの上のパソコンのディスプレイには、スクリーンセイバーの3Dパイプが蠢(うごめ)いており、小型のファクシミリがその横にあった。

 整然と並べられたそれらは、部屋に備えつけられたもののようで、その左手にある食堂テーブルや冷蔵庫も、特別室ならではの設備であることを窺わせた。窓寄りの天井の、変形のコの字のレールに吊るされたブルーのカーテンが、ベッドを囲っていた。

「ここでおかけになってお待ちください」と看護師はソファーに隆一を促すと、冷蔵庫から缶ジュースを持ってきた。

 斬新な企画のプレゼンを提出されて喜ぶクライアントのような持て成しに隆一は恐縮し、「身内のようなものだから、お構いなく」と声をかけた。

「中園さんですよね……」

 看護師は、念を押すように隆一を見つめるといった。

 隆一が頷くのをみると、看護師は続けた。

「中園という人が訪ねてきたら、部屋で待ってもらうように……と、小山内さんにいわれていますからいいんですよ」

 主人は、隆一がくることを今日か明日かと心待ちにしていたのだろう。看護師に言い付けたその言葉が、それを裏づけていると隆一は思った。きっと、主人専任の看護師なのだろう。それなら、症状についてもよく知っているはずだと隆一は思い、缶ジュースを1口啜ると訊ねた。

「小山内さんは、何科に係っているのかな」

「放射線科で、毎日30分の照射療法を受けています」と反射的にこたえた看護師は、「あっ、いけない……」と小声でつぶやくと、舌を出した。

 そして、「すみませんが詳しいことは、ご本人に訊いてください」と、動揺したような素振りで次いだ。それは、見る間に、患者の守秘義務を洩らしてしまったという、後悔の色を浮かべた表情に変わっていった。

「大丈夫。あなたに訊いたとはいわないから……。それに、小山内さんと僕は親戚みたいなものだから、なにも問題ないよ」

 隆一は、彼女を安心させるような言葉を向けると、さらにいった。

「照射療法とは、コバルトをかけるのよね」

 俯いていた看護師は顔を上げると、「よくご存知で……」といい残し、ドアの外に出ていった。

 コバルト照射が、どんな病気の療法かぐらいは、医学に無知な隆一でも知っている。もしかしたら……と、隆一は思った。

 いつだったか主人は、風邪をひいたといって、この病院に診察にきたことを示す青い角2の封筒を持ち帰ってきた。それを見たとき、風邪ぐらいで、遠方の大病院にいくものだろうか……と隆一は怪訝に思ったものだ。おそらく、躰のどこかに覚えた異常が、ここまで主人の足を運ばせたのだろう。その青い封筒には、再来院を促す診断書が入っていたのではないだろうか。

 いつも血色がよくて、美味しそうに酒を呑む主人の姿を思えば、俄かには信じられなかったが、ここに入院しているということは、それを否定して余りある。九州旅行を取り止めたのも、入院することがわかっていたからなのだ。

 隆一は、複雑な想いに駆られながら、窓際に歩を進めた。

 12階のこの部屋は、見晴らしがよかった。眼下には、茶色の中央線と黄色の総武線の車輌が停発車を繰り返すJR御茶ノ水駅が見え、そこより目を転じた左向こうには東京タワー、右手には新宿の高層ビル群が望めた。さらにそれらふたつの間の彼方には、沈みかけた夕陽に仄かに染まった、雲を突き抜けた富士山の頂が見えた。

 久しぶりに目にした東京を象徴する景色に、九州から戻ってきたということを隆一は改めて実感した。

 澄んだ空、爽やかな風、鮮烈な緑の木々の九州とは明らかに違う色だが、やはり、どこか靄に蔽われたようなぼんやりとしたこの景色が、隆一の心にはいちばん馴染んでいるように思えた。

 そういえば、自然に溢れた地で生きた年月を、この東京で生きた年月が越えているのだった。

 隆一は、窓より離れ、部屋を見回した。病院とは思えぬほどの豪華な部屋だったが、どこか無機質で、寂しい空気が澱んでいるような気がした。

 こんな部屋で、ひとりで夜を過ごしてきた主人のことが偲ばれた。なぜ、もっと早く戻ってこなかったのだろうという思いが込み上げてきた。

 それは無理だったとしても、戻ってきたその日に、なぜ主人の家を訪ねなかったのだろうか、という思いに囚われた。そのとき訪ねていたなら、主人が入院しているという手がかりが得られたはずだし、もっと早く顔を出せたはずだ。

 なのに、留守電をいいことに、気儘に女のところを彷徨っていた。それを主人が知ったら、嘆くに違いない。なにはさて措いて、主人には報告すべき大事なことがあったはずなのに、結果的にそれを放置していた。書き置きで伝えたからいいというものではない。

 僅か、4日間のことではあったが、それはとてつもなく長いことのように感じられた。そのことを、素直に主人に謝らなければならないと思っていると、ドアが開いた。

「やあ、おかえり」

 部屋へ入るなり、主人は右手を挙げていった。涼しげな、白地に青の金通の甚兵衛姿だった。

「4日ほど前に、戻ってきたんですけど、帰るなり、急ぎの仕事を押しつけられて……。それに、徹夜明けのため、こんな汚い恰好です。すみません」

 隆一は、深く頭を下げた。

「いや、構わん、構わん。店を空けっ放しにしておきながら、連絡しなかったわたしのほうが悪い。それに、仕事は大切だから、べつに構わんよ」

 主人は相好を崩し、ソファーに腰を下ろすと、隆一を促した。

 隆一は向き合って腰を下ろし、見るともなしに主人に視線を注いだ。

 その顔は、これまでと変わらず血色がよく艶があった。とても、こんなところに入っている人とは思えなかった。症状について、どう切り出そうかと隆一が思案していると、主人が自ら説明をはじめた。

「胸に違和感があって診察にきたら、検査入院ということになってね。今日で6日目だよ。10日間ぐらいですべての検査を終えるということだから、べつにどうってことないよ。ハハハっ」

 主人は、磊落に笑ってみせた。

 検査入院で、コバルト照射療法を施すものだろうかと、隆一は不可解に思ったが、ここは、下手な憶測より本人の明るい言葉のほうを採りたかった。

「それを訊いて安心しました。では、あと4日間、じっくり調べてもらってください。それが明けたら、呑みましょうね。例の、大隈半島の三大銘柄の焼酎を買ってきましたから……」

「よし、わかった。しばらくぶりに呑もうじゃないの」

 主人は、応じると、

「それはそうと、高千穂苑の件はご苦労だったね。あんたが訪ねてくれた、その日の夜に副所長から電話があったよ。成子も、泣いて喜んだそうじゃないか」

 隆一の目を見据えていった。

「そうでしたか」とこたえてから隆一は、はっとした。思わず、視線を逸らしてしまった。

 ということは、瑠璃子さんが一緒だったということも当然耳に入っているのではないだろうか。入院して今日で6日目ということは、それを訊いた2日後に主人はここへ入ったことになる。

 主人と瑠璃子さんは、互いに意識的に疎遠にしていた節がある。しかし、そうはいっても、じつの父娘だ。いざというとき、やっぱり頼りになるのは身内で、互いにそういう思いやりと優しさはあるはずだ。

 主人は、ここに入るに当たっての準備はもちろん、留守中の店番など、じつの娘の瑠璃子さんに頼みたかったに違いない。なのに、その娘は、父親の意思を裏切るように九州へ旅立っていた。男と一緒に……。しかも、その男とは、自分が一緒にいく約束を交わしていた、いま目の前にいる男だ。

 自分が、療養のため取り止めた旅行に、こっそり自分の娘を連れていっていたと知ったときの心境は、いかばかりだったろうか。その相手に対して、激しい怒りを覚えて不思議はない。なのに、なぜ、主人はそのことに触れないのだろうか。

 主人が沈黙を通していることに、隆一は焦りを覚えた。その裏には、なにか、主人なりの狙いがあるはずだと、隆一は思わずにいられなかった。

 善意に解釈すれば、大人の行動に口出しはしないという主人の鷹揚な性格のゆえといえなくもない。だが、それならばなおのこと、なにか一言ぐらいいって欲しいと、逆に隆一は思った。それをしないということは、なにか理由がある――。そう思えてきて、隆一は落ち着かなくなった。だったら、自分から切り出すべきだと意を決したら、主人が話し出した。

「入院となったら、例の会計事務所の奥さんが気を利かしてね。寝間着や身の周りのものなど揃えてくれた。これからも、なんでもお申し付けくださいといわれているんだが、他所の奥さんだと気兼ねしてね」

 主人は頭を掻きながらいうと、隆一を見つめた。

 瑠璃子がいなかったからね――と、いわれているような気がして、隆一はさらに気持ちが萎縮した。

「あんたの置き手紙のことは、会計事務所の奥さんの連絡で知ったんだ。それで早速、電話口で読んでもらったというわけ。そのついでに、あんたへの言伝も頼んだのさ」

「そうでしたか」

「ここは完全看護だし、そうでなくてもあと4日で出るわけだから、とくに必要なものもないんだが、もしなにかあったら、そのときは気兼ねの要らないあんたに頼もうと思ってね。それで、電話してもらったのさ」

 病院で療養している人とは思えない、いつもの明るい表情と声だった。

 隆一は、そういわれて少し気を取り直した。本当に、大したことはないのかもしれないと思えてきた。

 一方で、やはりあの人だったのだと、先刻受けた電話の声を思い浮かべた。用事を頼まれることに異存はなかったが、あの人に逢うようなことがあったらどうしようというあらぬ想いが擡げてきた。

「忙しくて、無理かね?」

 主人の言葉で我に返った隆一は、「もちろん、いいですよ。なんでもいってください」と、作り笑いで言葉を返した。

「退院したら、じっくりあんたと話しをしたいんだが、そのときは、泊りがけでこないかね」

 隆一は、気が竦んだ。きっと、瑠璃子さんに関することに違いないと閃いた。返答に窮し、俯いてしまった。

 そんな隆一を慮るかのように主人は次いだ。

「ゆっくり呑みながら、九州の土産話でも訊かせてもらいたいのさ。なにも考え込むことはないよ」

「ええ……はい……」

 気のない返事だなと、隆一はこたえてから思った。

 主人の言葉のひとつひとつは普段と変わらないが、そのいずれにも、どこか含みがあるように隆一には取れた。それは、不安となって、隆一の胸のなかで渦を巻きはじめていた。

「あ、それから、3ヵ月分の利子、確かに受け取ったよ。そんなもの、いつでもよかったのに、義理堅いんだね」


「小山内さんの代理のものですが……」

 女性からの電話を隆一が受けたのは、四ッ谷の編プロで夜を徹して仕事を続けていた午後1時過ぎのことだった。東京に戻ってきて丸3日が過ぎていた。

 無理に頼んだ休暇の謝意を伝えるつもりで顔を出したそこは、秋の番組改編の台本の制作に追われているとのことだった。その夜が4回目収録分の決定稿印刷のリミットだという校正を、たまたま居合わせた社長に隆一は頼まれてしまったのだ。

 そのシナリオは、ある在京キー局の月9(月曜夜9時)の連ドラを手がけ、高視聴率を得たという名のある作家の手になるもので、ドラマに低迷しているある別の局がその巻き返しを図るべく、三顧の礼で頼み込んだものだという。

 ミミズが這ったような判読に苦慮する汚い原稿は許せるとしても、ドラマの評判とは裏腹に、決定稿を納めたあとでも平気で改稿の赤を入れる傲岸不遜な人物だということを隆一は訊いており、どちらかというと、請けたくない仕事だった。だが、社長直々の頼みとあらば無下に断るわけにもいかず、前日の夕方からその第2稿の校正に取り掛かったのだった。

 一方で、大家(たいか)と称される人の原稿を読むことが、勉強になるという思いもあったからだが……。

「これで、大丈夫だとは思うけど、万一に備え待機しておいて……」

 社長の言葉にしたがい、早目にゲラが上がっていた受け持ちのレギュラーの台本の校正を進めながら、隆一は待つことにした。

 夜半に生田(いくた)スタジオに納めたそれは、朝になって、第1校の初校と見紛うような赤字が入って戻ってきた。例によって作者が悪い癖を出したのだ。

 電波の世界で生きる人間は、台詞のように口頭で読み上げれば、赤字も直って印刷されるとでも思っているのだろうか。同じ、物書きでも、出版社を相手にしている人間とはどうも人種が違うようだ。

 摂り損なった朝食と昼食を兼ねた、コンビニのおにぎりを頬張りながら、刷り上がったゲラと赤字だらけの決定稿を、首っ引きで突き合わせているときだった。

「――中園さんに是非、きて欲しいとのことでした……」

 経緯を説明したあとそう続けたその女性は、最後に主人がいるところと部屋の番号をいった。

 留守を承知で、隆一はその前日の正午、主人の家を訪ねたのだった。

 共に朝を迎えた『侘助』の女将の「クルマで送る」という言葉にしたがい都心へ出て、その日、店は定休日だという女将とまた夜を共にしたお台場のホテルから、立石まで同行したのだ。

 3日ほど前に東京に戻ってきたこと、主人の依頼は、滞りなくすませたことなどをその場で書き連ねた手帳の切れ端を封筒に入れ、『小山内商事』の郵便受けに入れた。ティッシュに包んだ3ヵ月分の利子も同封して……。そのあと、向丘の部屋に寄るのも四ッ谷のバイト先の編プロにいくのも、女将のクルマだった。

「失礼ですが、お宅様は……」

 艶めかしい声と独特のアクセントに記憶を甦らせた隆一は、恐る恐る相手を確かめた。

「主人がお世話になっております△○会計事務所のものです」

 隆一は、途端に胸が高鳴った。なにか話すべきだと思ったが、言葉が出なかった。しばし、沈黙が流れた。

「では、よろしくお願いします」

 考え込んでいるうちに、締め括りの言葉を最後に電話は切れた。

 そのとき胸の鼓動は、極に達していた。それは、主人がJ医科大学病院に入院していると知らされたことに加え、その相手が、想像したとおりの人だったからに他ならない。また、なにか質入しているということを知られたこともある。

 そのときは徹夜明けでもあり、読んでいたゲラの文字が二重に見えた。急いで読み終えたところで隆一は、担当営業にいった。

「寝不足で、頭が朦朧としてきた。もう、限界だ。一応、赤字は入念にチェックしたけど、うるさい大先生だから念校しておいて……」

 そこを出た隆一は、四ッ谷3丁目駅を目指した。だが、途中で空車のタクシーを見た途端に気が変わり、手を挙げた。


 病室をあとにしたのは、電話のコール音が部屋に響いたときだった。ちょうど、辞去のタイミングを見計らっていたときで、「では、お大事に……。また近いうちに顔を出します」という言葉を残して、隆一はそこを出たのだった。

 ほんのり街灯が照らす路地を、タクシーを拾うつもりで抜けていった本郷通りは、クルマが両方向とも連なっていた。それに交わる不忍(しのばず)通りも、渋滞をきたしていた。

 夕方の、ラッシュがピークのこの時間帯に空車が摑まる確立はかなり低く、隆一は歩くことにした。

 途中のコンビニで、ワンカップ大関と共に2本買った、ヱビスの500㍉㍑のアルミ缶を口に付けながら歩いた。

 風はほとんどなく、流し込んだそれはすぐに汗に変わり、下穿きまで湿ってきた。空(から)にしたその缶を、立ち止まって握りつぶしたところは、東大の赤門の前だった。

 隆一は、ひしゃげたアルミ缶を白いビニール袋に入れると、部屋にストックしておくつもりで買ったワンカップ大関を取り出した。

 すると、そこから出てきた、ゼミを終えたらしい教授然とした白髪の男と6人の男女の学生どもが、汚いものでも見るかのような侮蔑の目で、隆一を睨みながら通り過ぎていった。

 癇に障ったが、こんな最高学府の秀才達に理屈を捏ねるのは、ダービー馬に400万下の8歳馬が勝負を挑むようなもので蟷螂(とうろう)の斧(おの)だ。わかっていても、隆一はなにか一言、いわずにはいられない衝動に駆られた。

「麻雀と呑むことでは、おじさんはキミらに負けないぞ。バカヤロー――」

 隆一は無言の言葉を彼らの背中に浴びせながら、ワンカップを一気呑みした。


 チャイムの音で、目が覚めた。起き上がると足下がふらついた。酔いはとうに覚めているはずなのに、やけに頭が重く感じられた。気のせいだったかと隆一は思いながら、書籍類で埋め尽くされたソファーのアームレストに腰掛けた。すると、またチャイムが鳴った。それは、間を置いて続いた。

 ろくでもないセールスかなにかだろうと思い、出るのを躊躇っていると、次はドアを叩く音に変わった。やむなくドアを開けた。宅配便だった。

 日持ちがする土産物や衣類などを詰め込んだ段ボール箱と、6本の1升瓶が入った木箱が届いたのだ。東京に戻る日の数日後に届くよう、配達日時を指定していたことを忘れていたのだった。

 早速、木箱の『魔性の女』を抜き取ると、氷を入れたグラスにそれを注いだ。荷物で塞がったソファーのアームレストに戻り、半ばほど一気に呑んだ。

 冷たさで倍化された透き通った味が、咽喉を心地よく潤した。

 微睡む前まで、斜向かいの寺の辺りから聞こえていた蝉の声は、宵闇に蔽われたいまは蟋蟀(こおろぎ)の声に代わっていた。それを絶つような、団子坂を上りきったところにある寺の、聴き慣れた鉦の音が風に乗って流れてきた。

10日ぶりの、いまは住まいを兼ねている向丘の仕事場だった。

 季節の花が絶えない、隅々まで掃除が行き届いたみゆきの部屋や、豪華な調度品が並んだ瑠璃子さんのマンション、さらに南九州で泊まった情緒に溢れた宿に比べれば、花の1輪もないむさ苦しい部屋。だが、いまは、そのいずれより落ち着ける場所だった。

 この焼酎は、ロックが美味しいと、隆一は改めて思った。ずるずるいきそうな気持ちを抑えながら、最後の1滴を、ゆっくりと味わった。時計の針は、十時半に近かった。

 呑むのを抑えたせいか、寝不足の割には睡魔は遠かった。シャワーのあとの転寝(うたたね)が影響しているのだろうか。それは、徹夜麻雀のあとのように、疲れ過ぎて眠れないというのに似ている。

 グラスの底に残った僅かの液体を呑み干すと、隆一は煙草を咥え火を点けた。

 音を発てるエアコンから吐き出される冷気に、紫煙が戯れている。それを眺めている瞼の奥に、瑠璃子さんのことが浮かんできた。

 なぜ、瑠璃子さんは電話に出なかったのだろうか。もしかしたら、隆一と別行動を取ってすぐに、父親が入院しているということを誰かに報らされ、J医科大学病院へ直行したのではないだろうか。そして、隆一が訪ねる直前まで病院に留まっていた。

 そうだとすれば、電話に出なかったというのも納得がいく。出なかったのではなく、出られなかったのだ。

 でも……と隆一は思った。出られなかったのなら、あとでかけ直すぐらいの時間はあったはずだ。そういう配慮が、なぜないのだ。それには及ばぬ――と断を下したのだろうか。俺は、その程度の男――なのか。

 いや、違う。別の思いが擡げてきた。

 瑠璃子さんは、隆一と九州へいったことを父親に咎められたのだ。だから、電話にも出なかったし、かけ直すこともしなかった。主人の沈黙は、それを意味している、と思えてきた。

 でも、だからといって、急に変われるものだろうか。

 隆一は、鹿屋の浜田海岸での瑠璃子さんの言葉を振り返った。

「あなたは、正直にわたしを求めてくれた。あんなにいわれたのは、初めてだったから、わたしは嬉しくてあなたにすべてを許したの。これまで、何人もの男の人が言い寄ってきたけど、お金で釣ろうとする人、わたしではなく、商売と父の資産に興味がある人……ばかりだったのよ」

 そう切り出した瑠璃子さんは、その男たちが口にしたという言葉を、口頭で羅列した。

「僕は、いくつもの会社を経営しているから、なんにもしなくていいよ。いまより贅沢な暮しができる」

「お父さんに出資してもらって、ふたりで、なにか新しい事業をやろうか」

「一緒に、お父さんの商売を手伝おうよ」

 云々。

「わたしは結婚に失敗した女だから、わたしを心の底から愛してくれる人を待っていたの。その点、あなたは正直に、わたしを抱きたい女と認めて求めてくれた。そういう人なら、商売なんか止めてそばにいてあげたいとわたしは思ったし、それに父が反対するなら父娘の縁を切ってもいいと思った……」

 心地よい南風(はえ)が吹く錦江湾には、赤や青の鮮やかなスピンネーカーに風を孕ませたクルーザーが、連なって航行していた。ときおり、瑠璃子さんは涙を湛えた目でそれを追っていた。

「子供の頃からわたしは父の仕事を見て育ったし、実際、自分で商売をやってきて、お金に対する人の汚さというものを厭というほど見てきたわ。離婚したのも、平凡なサラリーマンでいいといっていた夫が、結婚したらその舌の根も乾かないうちに父の商売に色気を見せるようになったからなの。綺麗事をいいながら、結局は、父の資産が目当てだったと気付いたとき、わたしは決心したの。麻雀に狂ったのもその頃よ」

 海からの風に、赤い陽を受けた前髪が靡いていた。

「その反動で、お金に執着せず、夢を持って自由に生きている人に憧れるようになった。幸運にも、そんなあなたに出逢えたから、わたしはこれを大切に育んでいきたい、と思っている。あなたは、自分の夢を追い続ければいいし、そのためだったら、わたしはどこかで働くことも厭(いと)わない。とにかく、互いに尊敬し合いながらも、気を遣わず愉しく生きたいというのが私の願いで、お金のために腹を探り合うようなつき合いはもうたくさん」

 いつしか、錦江湾は夕焼けに染まっていた。開聞岳が、シルエットとなって浮かんでいた。「東洋一の夕景色」と、幼馴染みがいっていた言葉が脳裏に甦った。

「きれいな夕焼けね。こんな景色を毎日眺めながら暮すのもいいね」

 瑠璃子さんはいうと、隆一の手を取った。そして、続けた。

「そんな考えのわたしを父は嫌っていると思うのだけど、あなたが父に直訴してくれたら、父はわたしたちのことを許してくれると思うの。あなたとなら、父の意思を継いでもいいとわたしはいまは思っている……」

「…………」

「もし、あなたがそれは厭だというなら、いまの仕事を続ければいい。また、鹿屋に帰ってきて、なにか新しい商売やるのもいいなという思いもある。その資金は、父に出させればいい。いずれを選ぶにしても、お金に抜け目のない父が、あなたに心を許したのは、お金に執着しないあなたの正直なところを認めたからだと、わたしは断言できる。それだけは、そりの合わない父とわたしが唯一一致したことよ。だから、あなたのいうことには父はしたがうはずよ。大丈夫よ、きっと……」

 これを訊いて隆一は、瑠璃子さんへの思いを新たにした。

 主人が思っているほど瑠璃子さんはいい加減な人ではない。自分の性格をよく知っている。その美貌と相まって、心も綺麗な人だ。あの、南九州の海のように……。なにより、地味で質素な生活を望んでいる。これで十分ではないか、女として。

 数日前、えびの高原に泊まったとき、主人の側に立って一方的に瑠璃子さんを責め批判した。いまになって隆一は、そんな思慮の浅い自分が恥ずかしく思えてきた。

「僕も、あなたとならそうしたい。ただ、時間をください」

 べつに、瑠璃子さんの言葉を真に受けて、主人の仕事をふたりで継ぎたいからではないし、夢を追い続けようと思ったからではない。まして、主人の金を引き出して、商売をする気など、さらさらない。

 その言葉は嬉しかったが、それに易々と乗るようでは周りの誰もが唾棄(だき)するだろう。それより、いまの自分を立て直さねばならない。誰も頼らずに、ひとりで瑠璃子さんが望む基盤を確立させる――。それが、焦眉の急だと思った。それには、時間が必要だった。

 だが、瑠璃子さんを前にしては、それ以上はいえなかった。

「そう……わかったわ……わたし待てるわよ……」

「ありがとう。これからは、それを目標に努力することを誓います」

 隆一は、瑠璃子さんを抱き締めた。

 それまでは、呑むのを抑えていた瑠璃子さんは、その夜予約しておいた『霧島ホテル』に入ると狂ったように焼酎を呑みはじめた。そのあと、フケが来た牝馬のように大胆に乱れた。

「わたし、女の悦びというものを知らなかったの。あなたによって、初めて知った。これ、本当よ……。愛するということは、言葉じゃなく、こういうことなのかと、やっと、わかった。前の夫の求めは拒否し続けたからね……。彼の狙いがわかってからは……。それが、離婚を決定づけたのね」

 あの瑠璃子さんが、どうして……。隆一は、いてもたってもいられなくなった。


『瑠璃』の看板の明かりは消えていたが、全面スモークのガラスの開き戸に鍵はかかっていなかった。隆一は、エントランスの赤いカーペットを踏みしめながら、同じ文字が書かれた突き当たりの黒い扉の前にいき、ノブを回した。その指先は、微かに慄えていた。

 手前のテーブル席は仄暗く、奥のカウンターの辺りだけが、スポットライトに照らされていた。そこには、瑠璃子さんと向き合っている、ひとりの男の後姿があった。奥へ入るのを躊躇っていると、人の気配に気付いたらしい瑠璃子さんが駆け寄ってきた。

 オフホワイトのフリルシャツと、グリーン系のチェックのプリーツスカートで、カジュアルに決めていた。少し、頬がこけているように見えるのは、ストレートにした髪を真中で分け、肩に流しているからだろうか。

「あなたがくるような気がしてたの……。どうぞ」

 瑠璃子さんはそういうと、隆一を促した。

 隆一は、無言でしたがい、男の正面からの視界には入りにくい、カウンターの左端に腰を下ろした。

 すると、後姿だけ見せていた男がいきなりそばにやってきた。そして、「この前は迷惑をおかけしてすみませんでした」と、深く頭を下げた。

 その顔を見て、隆一は驚いた。なんと、あの男だったのだ。隆一が、ここで左手をケガする原因を作ったあの男。割れたビール瓶を翳して隆一が追い出したあの男――。

 それが、なぜいま、ここにいるのか。ここにいるということは、瑠璃子さんが請じ入れたことは明白だ。

 きてはいけない場所にきてしまったという思いに囚われた。

 この前とは、男と隆一の立場は逆だ。ここに割り込んで呑もうものなら、男の逆鱗(げきりん)に触れ兼ねない。瑠璃子さんを巡って、そのうち喧嘩になるかもしれない。そうなったとしても負けない自信はあったが、窮鼠(きゅうそ)猫を噛むということだってある。いずれにしても瑠璃子さんを悲しくさせることは自明の理。

 いや、それ以前に、瑠璃子さんを泣かせて、自分に傷を負わせた男のそばに一刻もいたくはなかった。また、そんな男に、どういう事情であれ酒を出して相手している瑠璃子さんに、もはや話すことはない――。そう思った。

 隆一は、カウンターにビールを出した瑠璃子さんにいった。

「邪魔したね……」

「待って……。これには理由があるの」

 背中に聞こえる瑠璃子さんの声を無視して、隆一はドアに向って駆け出した。

「待って……。誤解しないで……」

 瑠璃子さんの呼ぶ絶叫にも似た声が、背中を超えてきた。でも、無視した。

 地蔵坂通り出た隆一は、どこへいったらいいのか、わからず立ち止まった。よっぽど、『瑠璃』へ戻ろうか――と思った。男は、紳士的に詫びたのだし、瑠璃子さんも呼び止めたのだから……。だが、止めた。

 女と男が、こっそり話し込んでいる席に舞い戻るのは、嫉妬以外のなにものでもない。男の沽券(こけん)に係わる――。

 なにが、「あなたがくるような気がしてたの……」だ……。胸の鼓動は激しく、背中を汗が伝うのがわかった。

 以前にみゆきを呼び寄せたスナックに向った。だが、その前までいくと、気が変わった。みゆきのところへ、このままいこうと決めた。『侘助』に呑みにいった日、みゆきからの電話には出なかったし、それから連絡していないから、逡巡はあった。怒っているだろうことは容易に想像できた。でも、最悪、置きっぱなしの荷物を引き取りにきたと取り繕えばいいと決めた。

 開き直って、ドアをノックした。しばらく間があった。隆一はノックを繰り返した。その音の大きさが、怒りを示していた。

「どうしたんですか。こんな遅くに……」

 ドアを開けるなり、みゆきはいった。黒いタンクトップにチノパンだった。寝んでいたことを、その眠気眼(まなこ)が示していた。

「ごめんね。連絡しようと思ったけで、しづらかったんだ。だけど、置きっ放しの荷物が気になったから取りにきたんだ」

「とにかく入って……」

 促されるまま隆一はあとにしたがい、カウチチェアーに腰を下ろした。

「お食事は? なにか作る」

「ありがとう。でも、食べるのはいい。ブランデーを頂戴」

 みゆきが淹れたロックグラスのヘネシーをひと口呑んでから、隆一はまた謝罪の言葉を向けた。

「ごめんね。あの日、キミのところを出ていってからいろいろあって……、電話しづらくなったんだ」

「そんなことはいいんだけど、このところなんだかりゅうさん変よ。九州へいって、なにか心境の変化があったんじゃないの」

 敏感なみゆきには、そう見えて当然だと隆一は思いながら否定した。

「べつに、なにもないよ」

「そう……、だったらいいんだけど……」

 みゆきは、少し首を傾げて続けた。

「でもね、電話がしづらいとか、そんな遠慮しなくてもいいでしょう。、鍵は持っているんだし、きたい時にはきて部屋で待ってればいいじゃない……。いままでは、そうしてたでしょう」

「それはそうだけど……。でも、あまり迷惑をかけてはいけないと、いまさらながら気が付いたんだよ」

 これは、隆一のいまの本当の気持ちだった。深入りして痛手を負うのは他ならぬ自分だと、『瑠璃』の光景を見て思ったのだ。まして、いわば期限つきのみゆきに、その日がきたからといって、笑顔でサヨナラをいえるほど、隆一は強い心を持ち合わせてはいない。それがわかっていたから、ある距離を保ちつつ付き合うことを念頭に置いていたはずなのに、いつの間にかそれを見失っていた。

「じつは、わたしもりゅうさんに話したいことがあってね……。ずっと待っていたのよ」

 みゆきは、隆一の顔を窺うようにいうと、本題に入った。

 それは、講師をしている学習塾が、全国にフランチャイズ展開している大手に加盟するということだった。個人の塾では、塾生を集めるのに限界があり、大手には太刀打ちできないのだという。

 中学、高校、大学を問わず、一流校に入れるような優秀な塾生を輩出しない限り、この少子化のなかでは存続は難しくなっていく――。

 みゆきは、そう説明した。

 それは、数年前、西川のところに出入りしているライターに訊いたことがあった。塾の名を高めるために、優秀な生徒を引き抜いてきて、特待生扱いにするのだと、塾でバイトしている彼はいった。『当塾から○○校に合格』といった名声が欲しいために。

「だったら、なにも東京でなくてもいいわけで、娘と暮すということを第一に考えて、故郷のその傘下の塾に勤めることに決めたの。その意を汲んで、いまの塾長が本部に掛け合い、仙台近郊に新たに開設する予定の名取(なとり)校に推薦してくれたの。この前の夜、帰りが遅くなったのは、この件を塾長と話し合っていたからなの。運よく、一昨日、その内定をもらったのよ」

 話すみゆきの目は、輝いていた。

「それはおめでとう」

 みゆきは、口許を綻ばせた。

「それで、その名取校にはいつ移るの」

 みゆきは、少し躊躇うような素振りを見せたあと、「開校は来年1月だけど、その準備に10月から加わることになったの。だから、9月いっぱいで東京を引き払う」とこたえた。

 ちょっと待て……と隆一は出かかった言葉を呑み込んだ。隆一が九州から戻ってきた日に、「この次は、絶対わたしついていく……」といったのは、みゆきではなかったのか。それから、まだ、3日しか経っていないのだ。そんなに急に変われるものだろうか。それとも、あの時は、心にもないことを口走ったのか。

 それでも隆一は気持ちを抑え、「随分急な話だね」とだけいった。

「そうなの。ごめんなさい」

 みゆきは俯いた。

「それを取り止めることはできないの。できたら、もっと、東京にいてよ。最初の計画どおり、毬江ちゃんが中学に上がるまででいいからさ」

 隆一は、みゆきの目に訴えるようにいった。

 心では納得したはずなのに、そんな台詞を吐く自分が、隆一はわからなかった。

「いつもクールなりゅうさんにしては珍しいね。そんな未練がましい言い方」

 みゆきは微笑むと、さらにいった。

「わたしも、できたらそうしたいし、りゅうさんのそばにいたい。でも、わたしには、毬江という娘がいるのよ。いつまでも我儘を通していられないでしょう。早かれ遅かれ、いずれは帰らなかればならない身の上だということ、わかって……」

 隆一は、じっとみゆきの目を見た。

「実家に帰っても、わたしは娘とふたりきりだし、いつでも訪ねてきてください。南九州に劣らない、仙台の奥座敷といわれるくらい静かなところですから、原稿を書く人にはいい環境よ」

 みゆきの目は潤んでいた。

 その、優しい思い遣りの言葉が、隆一の寂寥感を募らせた。

 それに反するように隆一を見つめて浮かべた笑みが、さらに隆一をやるせなくさせた。

「ありがとうね、みゆき。その気持ち、本当に嬉しい……。俺に、もっと甲斐性があれば、毬江ちゃんを呼んで、東京で新しい生活を築くこともできたのにね」

 隆一はいうと、みゆきの手を取った。

「もっと東京にいて欲しいといったのは、毬江ちゃんをディズニー・シーへ連れていくといった約束のひとつも果たせていないからなんだ。でも、これが終りではないよね。その機会は、キミが向こうへいっても作れるよね」

 相手の気持ちを確かめるように、隆一は握った手に力を込めた。

「もちろんよ……。なんなら、りゅうさんもわたしと一緒にいく。小さな旅館だけど従業員向けの離れがあるし、りゅうさんひとりを住まわせるぐらいなんでもないから、わたし、面倒見ちゃう。そこで、じっくりシナリオに取り組めばいいわ。きっと、いいモノが書けるわよ」

 初めて青戸で見た時の、隆一をときめかせた目鼻立ちのいい顔を近づけて、みゆきはいった。

 それに、素直な言葉が返せない自分が隆一は口惜しくて、目頭が熱くなった。ブランデーをラッパ呑みして、それを紛らせた。

「なーんていっても、急には無理でしょう。でも、その気になったら、いつでもきてくださいね。優しいりゅうさんには毬江も懐(なつ)くと思うわ、きっと……」

「…………」

「男と女は、友達のままではいられないというけど、わたしはりゅうさんとは永遠に友達でいられるわ。さっきもいったように、わたしは毬江とふたりで生きていくと決めているし、再婚なんてしないから……。だけど、万が一したとしても、りゅうさんなら大切な友達として、堂々と紹介できるという自信がある」

 その言葉を訊いて、みゆきの話しが気まぐれな心変わりと思ったことを隆一は恥じた。

 瑠璃子さんに対してもそうだった。相手の事情を思い遣ることなく、自分の甘い感情に酔い、短絡的に女の心変わりと決めつけたような気がする。救いようがないな、と隆一は思った。

 この、心を糜爛(びらん)させる宿疴(しゅくあ)を摘出しない限り、誰と付き合ったとしても、姚子と同じ結末を招くことは必至だと思えてきた。これ以上話しても、惨めな自分を露呈するだけだと隆一は思い、またブランデーを注ぐと一気に呑み干した。そして、おもむろに腰を上げた。

「帰るの? 泊まっていきなさいよ」

 制するみゆきに、明日締め切りの仕事を徹夜で仕上げなければならないから……と、隆一は言い訳し、荷物を手にした。

 呆然と見送るみゆきに、隆一は心で詫びてドアを閉めた。

 明治通りに出た隆一は、当てもなく歩き出した。持ち慣れているゼロのアタッシュケースも、やけに重く感じられた。強烈な夏の陽に暖められた歩道は未だ冷め切っておらず、熱を放っていた。

 シャツは濡れて躰に貼りつき、額から流れ落ちる雫が涙で滲んだ目に入った。

 横断歩道の点滅する信号が、ぼやけて見えた。


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