第12話 友 誼(ゆう ぎ)
台本校正の忙しさは、9月に入ってやっと峠を越した。手がけている連ドラの、11月収録予定の決定稿をすべて納めたからだ。といっても、その第1回目がオンエアされる10月初旬までは、手放しで喜ぶというわけにはいかない。その番組が不評で、途中でカットアウトとなっては一大事だからだ。そうなったら、それを補填するために、歩留まりの悪い単発の急ぎの仕事でも請けざるを得なくなる。この仕事に関わっている者は、経理担当者はもとより、アルバイトのオペレーターから年配の揮豪者(きこうしゃ)、軽オフの職人まで、それを肌で感じているのである。
どうのこうのいっても連ドラは、台本制作会社にとっては美味しい仕事であり、利益を齎してくれるものなのだ。
ここの社長が、局のプロデューサーや番宣以上に、その視聴率に一喜一憂しているというのも頷ける話ではある。
隆一が請け負っているのは、毎週1回昼前にオンエアされる30分のレギュラーの料理番組の台本の校正だが、ひとまずは、これに専任できる態勢になっていた。
これは放映日の4週間前に、その次週の分と合わせ、1度に2冊を仕上げる。局が、1度に2週分を収録するからだ。したがって、通常は1週間に1度制作室に詰めればいいわけだが、第1稿の直しが戻ってくるのは次の日の夜で、正確には、明け方に帰宅したその日の深夜近くにまた出直すという形だ。
連ドラと違い台詞が少なく簡潔で、構成作家が手際よくまとめていることもあり、第1稿の赤字を直して納めれば、大抵はそれが決定稿となるケースが少なくない。
フリーで、ややこしい仕事が苦手の隆一は、手離れのいいそれを選び、その専任となるかたわら、時間を持て余しているときは他のトーク番組やバラエティー番組の台本校正も手伝うという形を取っていた。
それを朝方終えた隆一は、池袋のサウナで仮眠したあと、コインロッカーに入れておいた荷物を取り出し、地下鉄・有楽町線に乗った。
向った先は、目白台で『東海ファニッシング』のカタログ制作のために、田上が確保した部屋だった。その原稿があらかた揃ったということで、打合せをしたいという田上からの連絡を、一昨日受けていたのだ。
そこは、昨年と同じマンションだったが、間取りが多い10階の部屋を今年は押さえたということも訊いていた。
近くにはカテドラル教会や椿山荘(ちんざんそう)があり、有名私大やそれらの付属高校も少なくない。そしてその斜向かいには『日本女子大学』の本部もあるという都心にしては閑静な文教地区で、仕事場としても申し分ないロケーションだった。
交通機関は地下鉄のみで、最寄り駅は『護国寺』(ごこくじ)という点で、フットワークには若干の難があったが、都心のほぼ中央に位置するということでここを選んだというのが、昨年の田上の弁だった。
もっとも、仕事が深夜に及ぶことが少なくないというのはこの種の仕事の宿命で、昨年もタクシーを使う頻度が高かった。その辺を勘案して、田上が再度ここを選んだことは、想像に難くない。
隆一は、ドアを開けると、やあ、しばらく……といって、焼酎『小鹿』の1升瓶を掲げて見せた。
リビングのテーブルには、田上以下3名のクルー、見知った顔の男と女のフリーランスの編集者の2名が揃っており、お疲れ様です……と、それぞれが口にした。
腰を上げた田上は隆一に歩み寄ってきて、「これを期待してたんだ。ありがとう」と受け取りざまにいうと、誰ともなしに顎をしゃくった。
それを察した有川が、田上の手から受けたそれを、テーブルの上に置いた。
「打合せは早く切り上げて、みんなでこれを戴こうよ」
と、次いだ田上は、テーブルに付いたみんなに例のカタログのスケジュール表を配り、説明をはじめた。そのあと、統括マネージャーとして隆一を推挙、そのデスクとして有川を、デリバリー担当として朝野をそれぞれ指名した。
そして、最終入稿日と納本日について念を押したあと、締め括った。
「昨年に続いて中園さんが指揮を執ってくれるので安心しています。当然のことながら、なんらかの問題が生じたときは、わたくし田上が全力で対処していくと同時に、すべてその責任を負いますから、仕事はそれぞれの個性とペースを前面に出して進めていって結構です。要は、最終入稿日を遵守すればいいことで、その経緯は問いません。それら、すべてを中園さんの裁量に任せています。よろしくご協力のほどお願いします」
フリー編集者のふたりが拍手をすると、釣られるようにクルーのみんなも追随した。そのなかで、田上は付け加えた。
「あと、遊軍として岡村君が控えていますが、彼は学参がメインでここには常駐しません。そのために、ここにお越しのお二方以外にも協力してくれる外部の方を数名確保しています。進捗状況に応じて投入しますから、適宜申し出てください」
そのあと、田上は、「りゅうちゃん、それでいいよね」と、小声で隆一に振ってきた。
隆一は、黙って頷いた。
続いて、フリーディスカッションに入り、最後にそれぞれが意欲のほどを述べていった。
無言で臨席していた田上は、それで安堵したようで、いつもの童顔に戻ると、「さて、打ち合わせはこれで切り上げて、みんなの健闘を祈って乾杯といこう」と、高らかに宣言した。
それを見計らったように、予め用意してあったらしいビールやミネラルウォーターを、有川が冷蔵庫から出してきた。
岡村と浅野が、紙コップや乾き物をテーブルの上に並べた。各自が手にした紙コップが、次々にビールで満たされていった。
「かんぱーい」
田上の音頭にそれぞれが唱和し、紙コップを掲げた。
ビールを呑み干した紙コップに、田上は封を切った『小鹿』の1升瓶を順に傾けていった。
「やっぱり、焼酎は芋が美味いね」
ミネラルで割る前の紙コップのそれを、ひと呑みすると田上はいった。
「そうですね」
岡村と朝野が、同じ動作のあと相槌を打った。
「これは、俺の生まれ故郷の鹿屋の焼酎で、全国の焼酎品評会で2位に入賞したことがあるんだよ」
「やっぱり……。同じ芋焼酎でも、独特のコクがあると思ってたんですよ」
いの一番にこたえた有川は一気にその水割りを空けると、次に自ら紙コップに注いだそれを、水で割らずに呑んだ。その、華奢(きゃしゃ)な躰からは、とても想像できないような呑みっぷりだった。
先日みんなで一緒に呑んだとき、なかなかの蠎蛇だということは摑んでいたが、ここまで豪快に呑むとは隆一は予想だにしていなかった。
「強いね、キミは……。女優だけに、呑むのも芸のうちか……。常に磨きをかけているんだね」
隆一は、冷やかした。
「このなかで、彼女がいちばん強いだろうね」
照れ笑いをしている有川を見ながら、田上がいった。
「いやいや……。タガさんところのメンバーはみんな酒豪だよ。類は友を呼ぶ――とはこのことだ」
隆一の茶化しに、みんなが笑い声を上げた。
南九州を旅したことがあるというフリーの、小久保と名乗る女性と南九州に関する雑談に耽っているうちにみんなが加わってきて、あれこれ質問を向けてきた。
得意顔でそれにこたえているうちにそれぞれが打ち解けて、いつしか酔ったときの失敗談に話しが及んでいった。
寝不足で空きっ腹だった隆一は、酔いの回りが速かった。胃に不快感を覚えて裂きイカの袋を開けようとすると、田上がいった。
「そろそろ、場所を変えようか。みんな呑むばっかりで、なんにも食べないから……。もっとも、食べるべきものもないけどね……」
有川と男のふたりが、素早く後片付けしたところで揃って外に出た。
寝苦しくて目を覚ました。偏頭痛があった。古びたブラインドを洩れてくる街灯の明かりさえ、眩しく感じられた。煙草を咥え、火を点けた。じっとり汗ばんだ躰に、さらに汗が噴き出してきた。仄暗いフロアに転がっているエアコンのリモコンを探り当てた。
眠っている間に、止めてしまったらしいそれをオンにすると、隆一は窓際に歩み寄り、ブラインドのなかほどを両手で上下に押し広げた。
寝静まった家並が、咥え煙草の紫煙の向こうに霞んでいた。
眼下の、目白通りを走り抜けていくクルマのエンジンの轟音が、静寂を裂いた。目が慣れた隆一は、壁の照明のスイッチを押した。
トランクス1枚で直(じか)に横たわっていた、ベージュの布張りのソファーに付いた汗染みが目に入った。
キッチンの水切りコーナーで煙草を揉み消した隆一は、大きなスリードアの冷蔵庫のなかほどの扉を開けた。なかには、えびす、スーパードライ、一番絞りの500㍉㍑の缶のハンダース・パックがそれぞれ詰まっており、さらに、ドアポケットは、カップの日本酒や栄養ドリンクで埋め尽くされていた。
「あの冷蔵庫は小さ過ぎるから、大きいのを買ってきたよ。ひと晩で呑むには十分の量が入ってるから適当にやって……」
シンクの下に、小さな冷蔵庫がビルトインされているにも拘わらず大きなそれを調達、その中身も、それぞれの好みを勘案したらしい如才ない田上の言葉を隆一は思い起こしながら、最初に手にしたペットボトルのウーロン茶をえびすの缶に変えて、プルタブを開けた。それは、たちまち空になった。精気が戻り、頭の痛みも薄らいできた。
――打ち合わせのあと、みんなでいったところは、元プロ野球選手がオーナーだという講談社にほど近い居酒屋だった。そこで軽く呑んだあと田上は、フリー編集者ふたりが辞去したところで岡村と朝野、有川を残して場を変えることを隆一に囁いてきた。
「ちょっと付き合ってよ。予約しといた店があるから……」
タクシーに乗るや否や田上は、神楽坂(かぐらざか)へ……といったきり、黙り込んでしまった。神楽坂あたりに、田上が予約するほどの馴染みの店があるとは訊いたことがない。新宿2丁目にでもいくつもりで、その前に所用でもすますのだろうと隆一は決め込み、胸のポケットから煙草を取り出そうとした。だが、ウインドーの『禁煙車』の文字が目に入り、舌打ちをしながらその手を膝に置くと、運転席の後ろに坐っている田上に視線を遣った。
フロントウインドーから射し込んだ対向車のライトの明かりが、無言で腕組みしながらクルマの揺れに身を任せている田上の顔を、一瞬浮かび上がらせた。なにか瞑想しているかのように、その目は閉じていた。
ヘッドライトに照らされた前方に、隆一は視線を戻した。道路は比較的空いており、江戸川橋通りを飛ばしたタクシーは、すでに山吹町に差しかかっていた。隆一は、何気なくドライバーに声をかけた。
「景気はどう……。忙しいですか……」
「いやー、暇ですよ。擦れ違うタクシーのほとんどが空車なのはお気付きでしょう。盆休み以降、ずっとこうですよ。おそらく、12月の声を聞くまではこんな状態じゃないですか」
他人事のように、ドライバーはこたえた。
そうですか……と隆一はつぶやきながら、また胸のポケットに伸ばしそうになった手を、助手席のシートの背凭れに置いた。
タクシーは、早稲田通りを下っていた。地下鉄の『神楽坂』駅の入り口が見えたところで、目を閉じていたはずの田上が声を上げた。
「次の信号を右に入って……」
隆一は前方に目を遣った。坂の上にある新潮社のビルが目に入った。そこを過ぎると、「ふたつ目の路地を入って……」と田上はいった。まさか、あの店ではないだろうな、と思う間もなく、「あ、ここ………ここでいいよ」
田上の声で、タクシーは停まった。
やはり、隆一が思っていたとおりのところだった。田上に押されるようにして隆一はタクシーを降りた。
その店は、小石川にある姚子の勤め先の面々が贔屓にしている小料理屋で、隆一も幾度か姚子に連れてこられていた。そんな店を、なぜ、田上が選んだのか隆一は解せなかった。しかも、予約してまで……。
「ひとりでゆっくり呑める隠れ家が欲しい」といいつつも、気に入ると必ず田上は隆一を呼び寄せた。なのに、これまで1度も一緒にきたことがないこの店に、予約を入れるほど田上は頻繁に通っていたのだろうか。
もしかしたら、ここに姚子がきていて、隆一を連れてくるように頼まれたのではないか……。隆一は、一瞬そう思った。だが即座にそれは打ち消した。そうだとしたら、ここへ着くまでに、なにかそれらしきことを匂わせるぐらいはするのが田上という男だ。やはり、隆一が九州へいっている間に開拓したと考えるほうが自然だ。それが偶然この店だった。
そう思いつつも、田上がなにか意図しているのでは……という疑念は、まだ隆一の胸からは消えてはいなかった。
店に入るとすぐに、空いたカウンターではなく、奥まった床の間のある8畳ほどの和室に慇懃に通されたのも、隆一のその思いに拍車をかけた。これまで、姚子ときた数回は、店が混んでいたこともあったろうが、座敷を勧められたことはなかったのだ。
漆塗りの座卓を挟んで坐ると、田上はいきなり切り出した。
「しばらくぶりに、りゅうちゃんとさしで呑みたかったからさ」
姚子を介して知った店に、敢えて田上が誘ったということ、さらに、普段は相手が誰であれ、一緒に呑みにいったら、中座することはしない田上がそれをしたということで、それだけが目的ではないという思いは、さらに深まっていた。仕事では主従の関係ながら、呑む時は同等の呑み仲間として無礼講を通してきた隆一も、このときばかりは少し身構えずにいられなかった。
「九州はどうだった?」
その雰囲気を察知したかのように田上は、仲居が持ってきたばかりの冷酒を隆一のグラスに注ぎながら、軽い言葉を向けてきた。
隆一は酌を返すと、田上が掲げたグラスに自分のそれを合わせた。そして、軽く咽喉を潤すと、鹿児島空港に着いてから、そこを飛び立つまでの6日間の行動を、大まかに日を追って口にした。
「いい旅をしたね」
口取りと同時に座卓に並べられた鱧(はも)の活きづくりを、隆一に勧めると田上はいった。
いつもと違う悠長な物言いに、まどろっこしくなった隆一は、ただの里帰りではなく、病床に臥せっている世話になっている人の依頼でいったというその経緯と、『高千穂苑』での一部始終を仔細に説明した。
「そうだったの。そんなことも知らずに、軽はずみなことをいって悪かった」
田上は、つぶやくようにいった。
「母子の40年ぶりの再会に一役買うことができたのは大きな収穫で、彼女も喜んでいた。久しぶりに、いいことをしたという達成感を味わったよ」
「いやぁ、さすがりゅうちゃんだ。すべて計画どおりに運んだというわけだ」
「そういわれりゃそうだけど、なんら不自由のないしあわせそうな人でも、他人にはわからない哀しい過去を背負っているという現実を目の当たりにしたときは、複雑な思いに囚われたよ。その点では俺は、お金がなくて貧しいけど、しあわせ者だと思ったね」
「俺もりゅうちゃんも、間違いなくしあわせ者だよ。金の有る無しはべつにして……」
「でも、タガさんは金はともかく、それに代えられない家族がある。俺には、それもないんだよ」
それを皮切りに田上は、隆一がこれまで話したことがない幼少の頃に、話しを向けてきた。
隆一は、訊かれるままにそれにこたえた。
「大なり小なり、哀しい思いは誰でもしてきているよ。もちろん、俺だって……。そのときに俺は思ったんだけど、幸せは買えないけど、不幸は救える……。それが金だと……。金があったら、あれもこれも救ってやれたのにと、口惜しい思いをしたことが俺は何度もある。だから、金は稼げるときに稼いでおかねばならないんだよ」
田上はそう断じた。「金がなくてもしあわせだ……」と、繰り返し開き直った隆一を戒めるように……。
隆一は、しばらく言葉が出なかった。それを訊いて、自分のこれまでが、すべてそうだったように思えてきたからだ。芙沙子が夭折(ようせつ)したのも、姚子が姿を晦(くら)ましたのも……。そして、それは、この前の瑠璃子さんやみゆきの言動にも及んでいるように思えてきた。隆一は、田上を正視することができず、俯いたままだった。
「ところで、その彼女との今後はどうなるの」
思い詰めている隆一に、田上は痺れを切らしたという素振りで切り出してきた。
隆一は、旅の終りの前の夜に、瑠璃子さんが打ち明けたことを、すべてありのままに話した。そして、それに対して自分がこたえた言葉も……。
「でも、彼女の願いにこたえることは、俺には無理だということが、いまになってわかったんだ……」
間髪入れずに、隆一はそれに補足した。そして、その父娘の生い立ちを話したあと、さらに続けた。
「彼女にとってのいちばんのしあわせは、父親の商売を継ぐことだと思う。さっき話したように、その父親はいま入院しているし、大したことはないといいつつも、自分の予後を考えて、早急にすべてを娘に移譲しておきたいと決めているはずなんだ。父親にしてみれば、子供の頃に哀しい思いをさせたという負い目があり、彼女の我儘を放任してきた。そのせいで、腹を割って話し合いたいと思いつつも、そういう機会が作れないまま数10年もの年月が過ぎてしまった。自分から媚びて娘に取り入るということは、厳格な人だけにできなかったんだろうね、きっと……。幸か不幸か、父親は自分が入院したことで、それを払拭する千載一遇のチャンスが巡ってきたと思っていると思う」
田上が注いだ冷酒で、隆一は咽喉の渇きを癒し、鱧を口にした。
田上も倣った。
「一方、娘は娘で、商売上のこととはいえ、父親の客に対する非情なところを目の当たりにして、幼心に瑕を負った。それによる謂(いわ)れのない虐めにも遭った。それが尾を引いて、未だに反抗的な態度を取っているのだろうけど、それは、ある意味で彼女の純真な性格を表わしていると俺は思うし、同時に可愛いところだとも思っている。親のすることはみんな正しいと勘違いして、唯々諾々になる子供に比べたら、よっぽど増しだし理に適っている。それはともかく、父親が入院したことで、和解する絶好の機会が訪れたと、娘も実感しているはずなんだ。だったら、その橋渡しをしてやろう。それが俺の役目だと、気が付いたんだ」
「…………」
「綺麗事をいうようだけど、俺が父親とその娘の双方と付き合いをはじめたのは、それが目的だったような気がするんだ。その父親も、俺のそんな気持ちがわかったからなにかと手助けしてやる気になったんだろうし、俺が彼女を九州に連れていったということを知っても、なにもいわなかったのだと思う。だから、俺が彼女の言葉を鵜呑みにして父親に接すれば、あらぬ誤解を招くだろうし結果的に彼女に累(るい)を及ぼす。それは、父娘の新たな確執の要因にもなり兼ねないし、俺の望むところではないからね。彼女を愛したのは事実だけど、それ以上のものを俺は望んではいない。だから、この際潔く身を引くという結論に達したというわけさ」
冷酒のボトルを摑んだ隆一の手は震えていた。注いだ酒が、グラスを逸れた。
田上は、おしぼりでそれを拭いた。
「話の主旨はわかるけど、それは違うと思う。その父娘のことは、俺は逢ったことがないからよくわからないけど、父親は父親、娘は娘だろうよ。仲がよかろうが悪かろうが、それはりゅうちゃんには関係ないことだし、その仲を取り持つために自分の彼女への想いを犠牲にすることはないよ。それに、親の商売を継ぐのが彼女のしあわせというりゅうちゃんの考えもおかしい。まして、その父親なら、娘が選んだことを認めてやって手助けするというのが娘に対する愛情じゃないのかね……。少なくとも、俺がその親だったらそうするね」
田上は、異を唱えた。
それは、友達に対する田上の優しさから出た異論だと、隆一は思った。
「父娘のことはどうでもいいといっては語弊があるけど、俺が第一に問いたいのは、りゅうちゃんの気持ちなんだ。彼女と交わした約束を、いとも簡単に反故にするというりゅうちゃんの心変わり――。なにがなんでも、約束は果たすというのがりゅうちゃんの男としての矜持じゃなかったの」
「もちろん、その考えはいまも変わっていないよ。だけど、男と女の関係についてはべつだよ。つまり、恋愛の究極は、必ずしも結婚ではないということ。俺は、これまで、好みのタイプの人に出逢うと、なにがなんでも手に入れようと夢中になった。好きなら、なんでも許されると思ったし、できないことはないと思って行動してきた。でも、それが可能なのは、恋愛の進行過程のなかだけのことであって、それを結実させようとすれば、そんな甘い考えは通用しないということに気が付いたんだよ」
「…………」
「愛を結実させる――それは、つまり結婚するということになるが、いうまでもなくそれは相手の生い立ち、仕事、地位、そして家族などいろんなことが関わってくる。愛していれば、なんでも許される、できないことはない――と俺は思っていたが、これは偏向した男気で、やっぱり、できないことはできないのさ……。若い頃いわれた、好きだけでは結婚はできない――という意味が、この歳になってやっとわかったということで、それにはしたがわざるを得ないと決めたのさ」
「りゅうちゃん、それ、本気でいってるの?」
「もちろんだよ。俺がもっと器用で金でもあったら、一度いったことを覆すようなことはしないよ。でも、タガさんが知ってのとおり、俺は器用でも金持ちでもない。マイナーな雑誌の埋め草を書いたり、誰も演じてくれない脚本を書くぐらいが関の山。どうにかできるのは、活字になった人が書いた原稿を、校正するぐらいでしょう。そんな、すべて中途半端な男が、愛を結実させようなんて思うこと自体笑止千万だよ。タガさんだって、心ではそう思っているでしょうよ」
「そんなことないよ」
田上は声を荒げていうと、煙草を咥えた。
「だけど、俺自身は、それで満足しているし、しあわせだと思っている。そして、これからも続けていきたいと思っている。恥ずかしいことだけど、これは、なんの取柄もない俺のコンプレックスが生み出した、独り善がりの価値観なのさ。そんなものを他人に押しつけるわけにはいかないじゃないよ。ましてや、精一杯愛した人には……」
田上は俯いて、灰皿に置いた煙草の先を見つめていた。
隆一は、続けた。
「それは、俺に尽くしながら、なんらいい思いをすることなくあの世にいった芙沙子だけにしておきたいし、また、俺の生き様に一時は共鳴しつつも結果的には見限った姚子だけで、留めておきたい……。そう、決心したんだ」
その、ふたりの笑顔が、隆一の瞼のなかで重なった。目から溢れるものを隠すように、隆一は俯いて煙草を咥えた。
「いつも思うんだけど、りゅうちゃんて、子供の頃の純真さを未だに失っていないよね。俺は、りゅうちゃんのことをいいカッコしいといってきたけど、それは悪い意味ではなく、つまりそういうところを推量していってきたことなんだ。それはわかってくれるよね」
田上はいうと、隆一の咥えたものの先にライターの炎を差し向けた。
煙が沁みた目を、手の甲で擦りながら、隆一は頷いた。
納得したらしい田上は、自分の指の間に挟んでいた新しいものに火を点け直すと、ふーっと煙を吐き出した。そして続けた。
「そういうところに、これまでりゅうちゃんが付き合ってきた女性はみんな惹かれたんだろうね。むしろ、付き合いの長い俺なんかより、よっぽどりゅうちゃんの心のうちを理解していると思う」
「でも、正直なところ、こと恋愛に関してはカッコよさなんて必要ないんだね。できるものなら、俺も愛した人とは離れたくはないし、いかないでくれ、ひとりにしないでくれと、その人の前に跪(ひざまず)きたいよ。でも、口惜しいけれど、それはできないし、してはいけないことなんだよね。さっきもいったように、結婚するのではないのだから……」
「…………」
「でも、矛盾しているようだけど、俺はそれでも愛した人のそばにいたいし、その人を抱きたいと思う。それをタガさんが批判するなら俺は甘んじて受けるしかない。俺は、タガさんと違って学歴もないし愛なんて口にするのはおこがましいけど、人を愛するということは、つまりそういうことでしょう」
また、涙が溢れるのがわかった。
「批判なんかしないよ。だけど、学歴が何だっていうの。学歴があったら、りゅうちゃんはなにができたというの……。いまと変わらないと俺は思う。りゅうちゃんのいってることはわかるけど、学歴があろうがなかろうが、それを理由にする必要はないじゃないの。俺は、そういうのは嫌いだ。精一杯、俺は愛した……それだけで、いいじゃないの」
田上の言葉に隆一はハッとして、見返した。田上の目にも、涙が滲んでいた。言い訳の嫌いな田上の性格に隆一は改めて気付き、姿勢を正した。いかなるときでも、自分の信念に副(そ)わないことには歯に衣着せない田上の物言いは、これまでと違った響きで隆一の心を捉えた。隆一は、忸怩たる思いに駆られた。
田上と議論したことは、枚挙に遑(いとま)がない。それは傍(はた)から見ればたわいのないことに映るだろうが、いつも真剣に本音でぶつかり合った。互いに相容れない部分も多々あり、ときに殴り合いにもなった。それでも最後は、互いに非を認め、互いに詫びた。共に涙を流しながら……。ほかに、こんな付き合いをしてきた男はいない。
いずれはわかるだろうみゆきのことも、すべて田上には話しておくべきだと隆一は思い、みゆきに訊かされたままを話した。
「そうなんだ。りゅうちゃんが九州へいってるときにみゆきさんから電話があって、あれこれ雑談したけど、それについては一言も触れなかったね」
急に決めたことらしいから……と隆一は補足し、私的なことばかりに話が終始したことを詫びた。そして、例のカタログ制作には、全力を傾注することを伝えた。
「ありがとう。もう、大船に乗ったつもりだよ……。でもさ、りゅうちゃん、しつこいようだけど、そのふたりの女性の意に副わないで後悔しないかね」
煙草を揉み消しながら、田上はいった。
「あまり突っ込まないでよ、タガさん……。なにごとも、やらねば後悔、やっても後悔だよ。これは、九州へ一緒にいった彼女――瑠璃子というんだけど、その彼女の父親がいったことだけど、なかなかの箴言(しんげん)だと俺は思う。だからというわけじゃないが、俺は瑠璃子さんとみゆきのことに関しては、その前者のほうを選ぶことにしたんだ。つまり、相手を巻き込まなければ、自分ひとりで悩むのは自由だから、という理由で……」
田上は、なにか考え込んだ素振りでコップを呷ると、険しい表情で隆一を睨みテーブルをバンと叩いた。
「まーた、そんなこといって……。だから、いいカッコしいというんだよ……。いいかね、りゅうちゃん。人を愛するということは、相手に対して、傷つけ悩ませ苦しめるという行為を否応なしに突き付けるということなんだよ。当然、愛される側も、それを受け止める義務がある。それに対する答えはべつとして……。一方だけが悩み傷つき苦しむなんて、そんなのおかしいよ」
そこまでいうと、田上は隆一を凝視した。
「すでに、りゅうちゃんと彼女たちは、それを飛び越えて互いに愛を交わし合ってきた。つまり、互いに傷つき悩み苦しんできたわけだよ。その結果、愛し合っているという結論を得た。なのに、いまさらなんだよ。相手を巻き込まなければ、自分ひとりで悩むのは自由だって……。昔の、陳腐な恋愛小説の主人公のような綺麗事をいって……。それは、現実からの逃避以外のなにものでもないじゃないか。こういう人間は、俺の心の辞書では、偽善者という」
声を荒げた田上は、また酒を呷った。
反射的に、隆一もグラスを口につけた。
「悪かったね、いいカッコしいで、偽善者で……。俺は、訊かれたことの結論を伝えただけだろうよ。もちろん、それに至るまでの細々した理由は省いたよ。それはいわなくても、タガさんならわかるだろうと思ったから………。でも、そうじゃないみたいだから話してやるよ。ちゃんと、訊いといてよ」
「…………」
「まず、瑠璃子に関して。さっきいったように、彼女の父親の商売は金貸し――つまり質屋だけど、おれは金貸し云々ではなく、商売そのものに無知だし、彼女の意に副うことはできない。もし俺が経済学部でも修了していて知識が豊かで商売が好きであったなら、タガさんにいわれるまでもなく、自分を売り込んださ。だけど、哀しいかな俺にはそんなものはない」
「…………」
「一方の、みゆきだけど……。彼女の実家は旅館だが、これも商売に変わりないという点で理由は同じ。それより彼女は、新たに立ち上げられる学習塾に参画するために闘志を燃やしている。その一方で、家業を手伝うかたわら、実家に預けている娘の将来のことも考えてやらねばならないという境遇にある。そんな彼女に、俺がなにをしてやれるというの。なにもできない男が、女に誘われたからといって、のこのこ就いていくわけにはいかないでしょう。まさか、愛しているならできるはずだ――なんてことはいわないよね、たがさん。愛しているからできないんだよ……」
田上は、下を向いていた。
「瑠璃子もみゆきも、情が深く思い遣りのある女性だから、いまはそばにいる俺を立ててくれているのだろうけど、いつまでもそれに甘えていられないじゃない。だから、ここは潔く身を引いて、彼女たちに考える時間を与えてやるべきだという結論に俺は達したのさ。そうすれば、ふたりとも利発な人だけに、早いうちに賢明な方策を見出すと俺は思う。あと、もうひとつ付け加えておきたいのは、瑠璃子とみゆきの二者択一という行為が、俺にはできないということ。なぜなら、ふたりを等しく愛しているから……。以上。これで、わかったかね」
不快を露に話しはじめたはずだったが、話し終えたいまは、それは隆一の胸からは完全に消えていた。
田上は、しばらく俯いていた。なにか思いつめているようで、その理由は自分の物言いにあったのではと隆一は反省した。田上のグラスを満たすと、隆一は黙ってその前に掲げた。
顔を上げた田上は、無言でそれを受け取ると、ごめんよ、ごめんよ……と繰り返し、一気に呷った。その目に新たな涙が溢れていることを、隆一は見逃さなかった。
田上の心境は量り兼ねたが、その涙を見ているうちに隆一の胸には新たな反省の念が沸いてきた。
「謝らなきゃならないのは、事実を突かれて腹を立てた俺のほうだ……。だから、そんなにいわないでよ」
田上は頷くと、再び俯いた。目から雫が滴った。
「でもね、タガさん……。あのふたりの言葉を訊いたときは俺は一時、その気になって胸を躍らせたよ。もしかしたら、商売も面白いんじゃないかなって思ったよ。そしたら、いろんなアイデアが浮かんできてね……。全然知らない分野なのに、おかしいよね」
「…………」
「また、その一方で、瑠璃子と鹿児島に帰って海辺に住んで、のんびり原稿を書く生活というのもいいなと思ったし、みゆきについていって、鄙(ひな)びた山間(やまあい)の旅館で番頭でもやりながら素朴な人たちに接していれば、貧困な創造力も磨けるかなとも思ったよ。一時的ではあったが、ふたりのおかげで、至福の想いに浸れたのは確かだった。最悪、原稿なんて書けなくても、愛する人のそばにいられるならそれでいい……なんて、人並に甘い考えも抱いたよ。それを受けないで、才能のないいまの仕事に拘る理由はなんなんだと、俺は自分に問うたよ。もちろん、その結論は未だに出せずにいるけど……」
いった途端に涙が溢れ、頬を伝った。それは、自分に対する怒りの涙のような気がした。
「それだけ相手を愛しているということだよ、りゅうちゃん。それがゆえに、自分を誤魔化せないんだと思う。その正直さは、俺は素直に評価するよ。なぜなら、俺はその逆で結婚した口だから……」
田上は、首を縦に振りながらいった。そして、続けた。
「それにりゅうちゃんの拘りは、俺と同じでやっぱり活字の世界が好きだということなんだよ。まして、りゅうちゃんは才能もある。たまたま運に恵まれないというだけのこと。でも、それはいいじゃない。結果ではなく、夢を追い続けるということが男には必要だし、そういう生き方をしている人が俺は好きだ。だから、目指すものは違うけど、これからも一緒にやっていこうよ」
「才能はともかく、そういってもらえれば俺は嬉しい。さらに、いいカッコしいのついでにいわせてもらえば、彼女たちは心の底から俺に期待を寄せて誘ってくれたと思っている。そして、それにこたえられない俺に対して、非難ひとつしなかった。それが、もしかしたら、俺に対する愛だったのではと、と俺は思っている。できるものなら俺はタガさんと同じように、一生付き合っていきたい。でも、男と女は、それはできない。結婚という世の掟があるから……」
「結婚という掟か……。俺もそう思う」
「でも、正直にいって、ほかのことにチャレンジするには、歳をとり過ぎたよね。自分の無能を省みず、歳のせいにするのは歳をとった証拠だろうけど……。結果を出せないことは諦めて、その情熱を他に向けろというかもしれないけど、他にできることがないのだから続けるしかないんだ。それを放棄したときは、死ぬときだと俺は覚悟している。といういうわけで、これからもよろしく頼むよ、タガさん」
「いやぁ、こっちこそよろしく。お互いにもう若くはないけど、老いは誰にも等しく訪れることだから仕方ないよ。もうだいぶ経つが、雇用対策法の改正があって、企業の人材募集、採用において年齢制限を謳うことが禁止されたけど、これは表向きだけで実質的な効力はないよね。つまり、人材募集の際に年齢制限を設けなければいいというだけのことで、高齢者を採用しなさいということではない。最近の企業は、どの業種でも年齢で採否を決めるけど、俺なんかの仕事は歳は関係ないし、俺は年齢だけで人を差別するようなことはしない。まして、りゅうちゃんは感覚的には若いし、離すわけにいかないよ」
「嬉しいことをいってくれるじゃない。そこまでいわれりゃ、殴られても蹴られても離れないよ。女性との関係も、こういう具合にまとめられるといいんだけどね」
「まったくだ」
隆一の頬を伝った涙は、乾いていた。田上もそうだった。ふたりは、握手した。
「ところで、りゅうちゃん……東海ファニッシングの仕事を終えたら、みんなで短い旅でもしないかね。姚子ちゃんも誘って……」
田上はいうと、隆一の顔を覗き込むようにして、さらに次いだ。
「ごめん……。機嫌を直したあとに、藪を突(つつ)くようで悪いけど……。怒らないでよ……」
「べつに、怒りはしないけど、すでに姚子は俺のもとにいないのだよ。連絡も取れないんだよ。誘いようがないじゃない」
ここへ誘った目的は、やはりこれだったのかと思いながら、隆一は覚めた言葉を返した。
「そうでもないという気がするけどね」
「その気持ちは嬉しいけど、覆水盆に返らず――でしょう」
「そうかな……。でも、ただ、ふとそう思ったからいったまで……。ごめんね」
「いいよ。気にしてないから」
「でも、俺のいったことは気にしてないだろうけど、姚子ちゃんのことは気にしてるんじゃないの」
「じつは、東京に戻ってきてすぐに、姚子が本音で付き合っていたらしい居酒屋の女将と呑む機会があってね。いろいろ話しているうちに思い出したよ」
『侘助』の女将と、新しいその店で呑んだことを話した。
「あなたに抱かれたからといって、わたしはあなたに付き纏うようなことはしないから心配しないで。姚子さんが戻ってくるまでの替わりだと決めているから……」
女将の言葉に甘え同衾(どうきん)したことが、ふと脳裏を過った。
そんな言葉に絆(ほだ)されて、欲望を満たした自分に隆一は嫌悪を覚え、田上を正視できなかった。
「どうしたの、りゅうちゃん」
田上が覗き込んでいった。
「ううん、なんでもないよ」
隆一は、俯いたままでこたえた。
「りゅうちゃんは、出逢った人を大切にするからね。そこがりゅうちゃんのいいところで、みんな抛っておけなくなるんだよね。」
隆一を見つめて田上はいった。
自分は、そういう他人の好意を弄んできたのではないかという思いが、胸に広がってきた。もう、女将を誘うのは止めなければ……と隆一は思いながら、口を開いた。
「いいところというか、思い切りが悪いというか……。でも、さっき話したふたりの女性から身を引くと決めたのは、姚子のことが引っかかっていたからかもしれないという気がしないでもない」
いってから隆一は、そうなのだろうかと、自分に問うた。それは、心のなかで堂々巡りをするばかりで結論は見出せなかった。
田上が、なにを狙ってここへ誘ったのかは判然としなかったが、いまはそれでよかったのだと、隆一は自分を納得させた。
核心には触れないように話を持っていきながら、気が付いたらその本質に迫っているというのが田上の話術の巧みさで、逆に隆一の胸には、姚子への想いが去来していた。
「いずれにしても、りゅうちゃんの気持ちは昔と変わっていないということが確かめられたし、俺は嬉しいよ。というわけで、呑み直そうよ」
そこで田上は仲居を呼び、ブランデーのボトルと料理を追加した。グラスを合わせるとふたりは呑みはじめ、無礼講な関係に戻った――。
次の睡魔が訪れるまでの暇潰しとして開いたエクセルで、カタログの表紙とトビラの、それぞれ3パターンのラフ・デザインを作成して一息ついていると、チャイムが鳴った。時計の針は午前1時を回っていた。
こんな時間にここにくるのは田上ぐらいだろうと、隆一はのんびり構えたが、その意に反して手と足は、慌ててシャツを羽織りチノパンも穿くという動きに入っていた。
そっと開けたドアの外に立っていたのは有川だった。期せずして、田上以外の誰かを想定したことが、無意識のうちに身形(み なり)を整えるという動作を取らせたのだろうが、それが無駄でなかったことを隆一は悦んだ。
魅惑的な女に醜態を曝さなくてすんだのだ。
もしかしたら隆一は心の隅で、それが有川であることを期待していたのではないかと自問した。その答えが得られぬままに請じ入れ、「なんだ、キミか……」と、その想いを否定するような言葉を向けた。
「こんな時間にゴメンナサーイ」
有川は、蚊の泣くような声でいうと、ぴょこんと頭を下げた。打ち合わせのときとは違うジャスミンイエローのスーツ姿だった。それと対照的な、黒のオフショルダーのカットソーのネックラインから、胸の谷間が覗けた。さり気ない小粒のパールのネックレスも、上品な輝きを見せていた。
短めのスカートより伸びた、白っぽいストッキングに包まれたしなやかな足も煽情的で、隆一の視線を奪った。
さながら、道に外れた男と女の恋を描いた映画の、ワンシーンの主役になったような気がして、隆一の胸は早鐘を打ちはじめていた。それを抑えるように隆一は顔を上げると笑顔を作り、「じつをいうと、キミがきそうな気がしていたんだ。さあ、どうぞ……」と、促した。
自分の白いハイヒールと、隆一の茶色のヨネックスのウオーキングシューズをきちんと揃えると、有川は言葉にしたがった。
テーブルを挟んで向き合って腰を下ろした有川は、改めて詫びの言葉を述べると、ここへきた経緯を話しはじめた。
友達と呑んでいるうちに口論となって、泊まる予定だったそこを飛び出してきたと有川はいい、中園さんに話しておきたいこともあったから……と付け加えた。そして、田上に電話して、隆一がここにいることを教えてもらった――ことを明かした。その額には、うっすらと汗が浮いていた。
隆一と田上が、護国寺の居酒屋から神楽坂へ向かい、膝を突き合わせている間、さらに、隆一がここへ戻ってきて仮眠している間、ずっと有川は友達と呑んでいたのだろうか。
冷蔵庫から取り出した2本の缶ビールの1本を隆一は有川の前に置くと、話しておきたいこととは……と切り出し、プルタブ開けた。
同じ動作を取った有川は、「ちょっと待ってください。それは乾杯してから……」といい、缶を近付けてきた。
隆一が呑むのを見てから缶に口を付けた有川は、「その前に訊きたいんですけど……」と前置きしてから次いだ。
「田上さんに電話したのは、まずかったでしょうか。直接中園さんにかけたかったんですが、わたしは中園さんの携帯番号を訊いてなかったもので……」
呑むと顔に出る隆一と違い、顔色に変化は見られない有川だったが、酔っているのは声音でわかった。本人は意識していないのだろうが、艶やかな表情と巧みな仕種で語るさまは、さすが元劇団員と思わせるものがあった。これでは、男の大半は好意を寄せていると勘違いするのではないか、と隆一は思いながら缶ビールを呷ると、逸る気持ちを抑えて言葉を返した。
「ここはラブホじゃなく仕事場だ。その関係者のキミがきたのだから、まずいことはないよ」
「でも、田上さんに、中園さんの居場所を訊いたということは、ひとりで中園さんがいるところへ、女のわたしがいくと告げたようなものでしょう、しかもこんな真夜中に……。それって、まずくないですか」
「俺と違って、下衆(げす)な勘繰りをするような人じゃないよ、タガさんは……」
「なら、いいんですけどね……。でも、中園さんはどう思いますか」
「どうも思わないよ、いまは至って冷静だから……。でも、呑んだこのあとはわからないね。俺は、自分の欲望には従順だから……」
「…………」
「それに、据え膳と売られた喧嘩は必ず受けなさい、というのが俺の好きだったおばあちゃんの遺言でもあるし……」
「へえ……さばけたおばあちゃんだったんですね」
「そうだよ」
「これまで、そういう局面に遭遇したことは? その、据え膳のほうで……」
「何度もあったよ。あったけど、毎回受けるというわけにはいかなかった。俺は好き嫌いが激しいから……」
「そうなんですか。わたしは女ですからわかりませんけど、それを前にして全く箸をつけない男の人のそのときの心境って、どうなんですか」
「金縛りに遭ったような感じ。気持ちは昂ぶっているのに全然躰が動かないのさ。脳は、早く空腹を満たせという信号を送っているんだけど、身動きできずにいる」
「…………」
「それまで俺は自分のことを、腹ペコだったら、般若(はんにゃ)でも毒饅頭でも食うタイプの男だと思っていたんだけど、まったく違った。それで、家に帰ったら、相手に悪かったかなという思いが込み上げてきて、バイアグラを服(の)んで、マスターベーションするような虚しい思いに囚われた」
「ふふふっ……。さすが元官能小説家……。形容の仕方がユニーク。わたし、初めてお逢いしたときから思っていたんですけど、中園さんてウイットに富んでて頼もしい……。わたし、そういう人に惹かれます」
「それは光栄だ。ますます食欲が湧いてきた」
敢えて冗談っぽく、隆一はいった。
「ところで、今夜のわたしも据え膳ですか? 食べられたゃうのかな………。それでもいいですけど、わたし、グルメの中園さんのお口に合うかしら……」
「口に合うか合わないか……。それは、俺が決めることだ」
そうこたえると、隆一は冷蔵庫に向かい、ふたつのワンカップを取り出した。そして、ひとつを有川の前に置くと、手にしたひとつのその蓋を開けながらいった。
「では、そろそろ話してくれないかね。おいしそうなお膳を前に焦らされると、気が立ってくるから……」
羞恥の笑みを浮かべた有川は、カップに口を付けると芝居がかった媚びた目で隆一を見つめ直し、おもむろに口を開いた。
「じつは、これは田上さんに関することで、誰にもいうなと口止めされているの。だから、口外しないでくださいね……」
それは、田上の知り合いらしい女性が入院していて、その見舞いに同行したということだった。
もったいぶって切り出した割には大したことではなく、隆一は拍子抜けした。なにも、口止めするほどのことではないじゃないか、と隆一は思いながらまたカップを呷ると、言葉を向けた。
「タガさんだって、俺には隠しておきたい彼女のひとりぐらいいるだろうよ。その彼女が運悪く入院した。その見舞いに、たまたま居合わせたキミを連れていった……」
「それは違いますね。続きを訊いてください」
有川は遮った。
「その女性の必需品を買うために、わたしを誘ったのです」
田上に付き合わされて、デパートにいったことを有川は話しはじめた。
「ちょっと、買い物に付き合ってよ……と田上さんがいうから、伊勢丹まで就いていったのです。そしたら、いきなり女性のインナー売場にいって、あなたのサイズに合ったものでいいから、ブラとショーツをそれぞれ3種類買ってよというのです。わたしが戸惑っていると、いいから早くしてと口を尖らせて急かしてね。わたしは、そんなものは欲しくないのに……と思いつつしたがうと、今度はドラッグストアに誘うのです。こんなところでなにを買うのかなと思っていると、ロリエとかチャームナップとかいろいろあるよね……。それを買ってきてと、入り口で大きな声を出すんですよ。わたしが周りを気にしながらサイズを訊くと、あなたのサイズを測ればわかるんだけどその時間がないから、あなたと同サイズのものを多目に、あとは小さ目のものを少し――だって……」
そのときの模様を語る有川の顔には、羞恥の色が浮かんでいた。
「タガさんらしいね」
「恥ずかしいやら、腹立たしいやらで、そのときは、社長はフェチな趣味がある人なのかなと思いましたよ」
社長――といったところに、皮肉が込められていると隆一は思いながら、有川の顔を見た。睫の長い目の下が、酔いとは違う桜の色に染まっていた。
そのあとも田上は、病院に着くまでなにも説明しなかったという。
「ホテルに連れ込むつもりなのかと思ってしまいました」
喜劇のヒロインのように、有川は首を傾げておどけてみせた。
「タガさんは、そんな卑劣な手は使わないよ。その気があれば、単刀直入にいう人だよ」
「着いたところが病院だったので、それを理解しました。そんな思いを抱いた自分が恥ずかしいです」
自戒するように、有川はいった。
「ところで、どんな女性だった? その人……」
「髪型はボブキャットというのかな……。小顔の割に目が大きい綺麗な人でしたよ。元々色の白い人なのでしょうが、場所が病院だけに病的な白さだとわたしは感じました。それに、暑い最中にガウンを羽織ってて、下腹に手を当てて前屈みに歩いておられたから、手術でもされたのではないでしょうか」
自分がその当事者であるかのように、有川は眉宇(びう)に皺を寄せてこたえた。そして、すぐに次いだ。
「それに、田上さんがあんなものを買っていったことから考えると、友達がいないのか身寄りがないのか……ちょっと首を傾げたくなりますよね」
有川は、それを動作で示しながらいった。
「キミは、病室にいったのかい」
「いいえ。一階の外来の椅子に坐って待っていた彼女を、離れたところから見ただけです。そのように、田上さんにいわれていましたから……。でも、彼女は田上さんと病室に向うとき、わたしが連れの者だと感付かれたらしく、笑顔で手招きされましたけどね。わたしのほうが、会釈を返しただけで遠慮したのです」
「では、名前も病室もわからないんだね」
「そうです。近いうちにみんなに紹介できると思うから、それまではなにも訊かないで……と、これも田上さんにいわれていましたから、訊くわけにもいかず……」
特別な事情がある人なのだろうが、それにしても、下着や生理用品を男の田上に頼むだろうか。普通なら、同性の友人に頼むはずだ。そんな友人もいないというのだろうか。
有川の推測は的を射ていると思ったが、すぐに隆一はそれを打ち消した。
田上の知り合いで、しかも有川が瞠目するほど綺麗だという人が、友達がいないとは考えられない。まして、身寄りがないなんて考えにくい。
隆一は、自分で思った特別な事情とは、入院していることを知られたくない事情――と勝手に結論付けた。
「有川クンは、そういうものを男性に頼めるかね」
隆一は訊いた。
「頼めません。例え夫になる人でも……」
「そうだよね。頼めないよね」
「でも、あの人が頼んだというより、田上さんが気を利かしたのではないかと、病院にいってわたしは感じたのですが……。なぜかというと、田上さんは頭を掻きながらその袋のなかを見せていましたし、彼女のほうも恥ずかしそうに笑っていましたから……。もちろん、遠目に見ただけで、その会話についてはわかりませんが、最初から分かっているモノだったら互いに照れることはないはずでしょう」
そうかもしれないと隆一は思った。さりげなく、相手が口にできない欲するものを届けてやる。田上ならできる。いや、日頃からボケ役を気取り、剽軽(ひょうきん)且つ鷹揚でありながら、繊細な心を併せ持つ田上でなければできないことだと隆一は思った。
もしかしたら、親戚縁者に当たる人かもしれないという気もしたが、それも有り得ないと隆一はすぐに否定した。
いずれにしても、訳ありの人には違いなく、田上とその人の親密さが有川の話しでわかった。だが、それが淫靡(いんび)な関係でないことも、なんとなくわかった。その人の立場、入院に至った経緯、そして、その後の影響を考慮したうえで、田上が秘密裡に行動しているだろうことは、十分に理解できた。田上が口止めしたのも、不純な関係を隠蔽するのとは異質の深い意味があるのだろう。
「このことは、タガさんが自分から話すまで、触れずにおくよ。それが、キミとの約束を守ることでもあるから……」
「わたしも、他の人にはいいませんから……」
「ところで、生理用品のサイズはキミのと同じでよかったのかな」
「よかったのでしょう、わたしと背格好も体型も似てましたから……。田上さんもなにもいってなかったし……」
「でも、デリケートゾーンの大小まではわからないだろう。キミのより、小さいのが合ったのかもしれないじゃないか」
「それは、わたしのヴァギナが大きいという意味ですか……」
有川は、どこにでもいる女性のように顔を赤らめながら、そっといった。
「どうも失礼。そんな意味じゃなかったんだけど……」
「それでも、どうしても気になるというなら、あとで本人に確かめてみてください」
有川は、笑みを浮かべていった。
隆一は笑みを返した。その途端に欠伸(あくび)が出た。
有川も、疲れているのではと思い、「そろそろ寝んだらどうだね」と隆一は次に出そうになった欠伸を噛み殺しながらいった。
有川は、無言で俯いていた。
それを見て隆一は、「俺は、自分の部屋が近いし帰るから……」と、すぐに補足した。
「帰らないでください。じつは、もうひとつ話したいことがあるのです」
有川は顔を上げていうと、「じつは、友達と口論して飛び出してきたというのはウソなんです。飛び出してきたことは本当ですが、それは友達ではなく俗にいうパトロンなのです」
意外な言葉で話しを繋いだ。
「…………」
「劇団に入って1年ぐらいの頃から、その人の援助を受けてきました。でも、昨年あたりから、わたしはそれに疑問を抱くようになったのです。なぜなら、芝居というのは、いくら稽古を積んでも舞台に立たなければ自分を表現できないし、相手に与えるものもないから。その機会に恵まれないわたしは、その人に対して申し訳ないと思うようになったのです。それでもそれを続けようとすれば、援助を仰ぐしかない。でも、周りはそれを、援助イコール愛人という目で見る。それが、耐えられなくなったのです。そこで、芝居より自分の感情をありのままに表現できるアフレコやシナリオに転向しようと考えたわけです。それなら、集団で稽古をする劇団員と違い時間的余裕もあるし、援助に頼らずとも自分で働きながら勉強できるから……」
「編集プロダクションのタガさんのところにきたというのは、それが理由か」
有川は、隆一の目を見て頷いた。
「愛人といったら身も蓋もないけど、相手が援助するというのだから素直に受ければいいじゃないか。それは、女優としての自分を確立するためのひとつの過程であって、愛人になることが目的ではないのだから……。その世界のことは俺はよく知らないけど、大なり小なり劇団の研究生はみんなそういうことをしているんだろう」
「みんながみんなというわけではないですけど……」
「だったら、なにも気にすることはないだろう。愛人で結構――と開き直って、最高の愛人を演じながら援助してもらえよ」
「みんながしているから自分もそうするということが厭になったのです」
「そうか。なら、仕方ないね」
「それ以前に、その人が、芝居なんか辞めてうちの会社にこないかと無理な要求をするようになったことが厭になった最大の理由なのです。彼は、名を挙げれば誰でも知っている会社の重役で妻子ある人なのです。それはともかく、学生時代は劇団の主宰者である先生と一緒に演劇研究会に所属していたらしいのです。それで、新人研修生の発表会の日に、先生の友人ということで楽屋を表敬訪問してくれたのが初めての出逢いでした。そんな人だけに芝居には造詣が深く、台詞の言い回しから身のこなしかたまで的確に助言してくれたのです。それは、劇団の先生とは違う観る側の人の意見としてわたしにはとても新鮮で、心に響くものがありました。以来、お付き合いをするようになり、やがて彼の申し出で援助も受けるようになったのです」
「いわゆるタニマチである同時に、よき師でもあったというわけだ」
「はい……。うちの会社にこい――という話しを持ちかけてきたのは今年の初めだったのですが、わたしははっきりお断りしたのです。援助を受けることも併せて……。それでも、芝居を続けている間は、師としてずっと指導して欲しいと頼んだのですが、その意が相手には伝わらなかったようで……。以来、逢わなくなっているうちに、わたし自身期するものがあり、劇団を辞めることを決心したというわけです」
「劇団研修生ではなく、ひとりの女としてのキミに惚れたということかな。キミだったら、男はみんなそうなるだろうね」
「そうですかね? でも、それとはべつに、わたしはお世話になった人だけに、劇団を辞めたことを伝えなければならないと思っていましたし、辞めた以上援助を受けた分もお返ししなければいけないかなと、ずっと考えていたのです。そこへ、しばらくぶりに彼から電話があったので、遅い時間だったのですが、彼がいるという池袋のホテルにいったのです。そしたら、わたしの顔を見るなり一方的に、金ならいくらでもやるからうちの会社へこいと、すでに断ったことを繰り返すのです。わたし情けなくて口惜しくて部屋を飛び出してきちゃったんです」
「なんといわれても、自分の考えをはっきり伝えるべきじゃなかったのかね。そうでないと、また、同じことを繰り返されるよ」
「そのつもりだったのです。でも、強引に、わたしを抱き寄せて……。それまでは、援助はしていても、そういう態度は1度として見せたことのない人だったのです。それが、出逢った頃の、芝居に対して真摯にアドバイスしてくれた師としての顔は微塵もなく、ただのスケベな中年男に成り下がって……。だから……」
有川の目には、涙が滲んでいた。そんな経験は隆一にはなかったが、突き詰めれば所詮男と女である。実質的な別れを宣告されたも同然の、これまで援助してきた側が、欲望剥き出しの獣に豹変するというのは、わからぬでもなかった。
隆一は、咄嗟には慰めるべき言葉が思い浮かばず、冷蔵庫から再びふたつのワンカップを取り出すと、そのひとつを有川の前に差し出し、おもむろに口を開いた。
「キミの気持ちはよくわかる。でも、魅力的なキミを前にして彼は冷静さを失い、欲望が擡げたのだろうよ。俺も男だから、一概にそれを非難はできない。男は、誰でもそういう一面を持っているということを、わからぬほどキミもミーハーではないだろう」
「…………」
「ただ、有無をいわさず強引に思いを遂げようとするのは卑劣だがね。少なくとも、俺はしない。とはいっても、俺だって、その彼の立場にあったら、スケベな中年男に成り下がらないという保証はない」
「えっ、中園さんもですか?」
「そうだよ。だから、キミも1度は女優を志したのだから、相手に夢を見させるように演技を続けていればよかったんだよ」
「どういうことですか」
「ちょっと極論の観は否めないけど、キミが劇団を辞めようと決断する前に、彼はキミの揺れる心に気が付いていたのではないかと思う。だから、自分の会社の社員になるように勧めた。普通の可愛い女として……。彼が援助を申し出たのは、女優としていずれ大輪を咲かせるだろう蕾(つぼみ)のキミを、大事に育てたかったからだと俺は思う。それが、彼の夢だったのさ。それに反して、夢を見させなくなった、ただ可愛いだけの女に戻ったんなら、これまで面倒見てきただけに、身近に置いておきたいと心変わりした。それは、ある意味で、彼の優しさだという気がする。いまさら、過ぎたことをいっても仕方ないけど、キミはどんなときも彼の前では女優であるべきだったのだよ。彼は、それを望んでいたんだよ、きっと……」
「わたしは、そうしてきたつもりです。でも、相手はそうは受け取らなかった」
「ということは、キミの演技がまずかったんだよ。自分では上手に演じたつもりでも、相手にしてみればただの猿芝居にしか見えなかった。なぜなら、すでにキミは女優への道を諦めていたのだから……。それが、期せずしてキミの立ち居振る舞いの端々に出た。そのとき、彼の夢は潰(つい)えたわけで、キミは女優ではない娼婦のような、ただの煽情的な女として彼の目には映ったのさ。抱くにはちょうど都合のいい女にね。だから、欲望を剥き出しにした」
「それは男の狡(ずる)さでしょう。違いますか」
「もちろん、それもある。それはともかく俺がいいたいのは、さっきもいったけど、そういう局面だけに、キミは夢を見させる演技をしなけりゃいけなかったということさ。演技には、振りだけではなく、台詞というものがあるだろう。キミも一時は女優を目指した人なのだから、台詞で相手の欲望を上手く躱すように持っていけたはずだ。なのに、キミは、それを怠った。こじつけというかもしれないけど、俺は、キミにそうして欲しかった。それぐらいの、器量を見せて欲しかった」
「…………」
「この際だから、俺の感じたことをすべていおう。早い話、キミは女優には向いていなかったのだ。だから、途中で厭になった。キミの話しでは、その相手の人は援助はしても指一本触れなかったということだが、それは、繰り返しになるが、キミが女優として大成することを願っていたからなんだよ。大切な卵が温められて、成長して自らその殻を破って雛となるまで、見守っていこう彼は思っていたはずなんだ。だけど、キミは自らそれを放棄した。だったら、見知らぬ他の男に殻を破られる前に、自分が破ろうと彼は思った――。俺は、そう解釈するけど……」
「よくわかりませんけど……。でも、あの人は、そうじゃないという気がします。いろんな分野の人と接触してこられた中園さんだから、そこまで掘り下げて他人を分析できるのでしょうが、あの人はそうじゃないと思います」
「いや、その人の性格がどうのこうのといってるわけじゃないよ。男は誰もそういう真摯な気持ちで女性に接している、ということをいいたいのさ。それはわかってやるべきだろう」
「もちろん、わかっています」
「なら、いい。とにかく、キミは女優になるのを止めて物書きを目指すことにした。俺は、そのほうがよかったと思っている。なぜなら、視覚を通して観る人の心に訴える役者と違い、読む人の心に言葉で直接訴えるというのが物書きだから、あるひとつの事柄を表現するにも、その方法は無限にある。キミが芝居で訴えられなかったことを、これからは文字つまり言葉を駆使して訴えていくということになるわけだ。端的にいうと、演じる側から、演じさせる側に回ったということかな」
「なんとなく、わかります」
有川は、涙の乾いていない目を向けた。
「難しい演劇論なんか俺はわからないから、ただ思ったことをいっただけ。でも、真意が通じたみたいで俺は嬉しいよ。とにかく、その相手の人の件は、すぐには結論を出せるものではないから、これを呑んだら寝もうか。キミが望むなら、俺が酔っていないときにまた話しを訊くよ。時間が経てば、いい考えも浮かぶだろうから……ね」
「はい、そうします」
「いずれにしても、逃げ出してきたとはいえ、キミを支援してきた人なのだから、誠意ある回答を持って、もう1度逢わねばならないだろう。このままで終らすわけにはいかないよ」
「そうですね」
有川は素直にこたえ、蓋を開けたカップを合わせてきた。そして、隆一の目を見つめていった。
「つまらない話しをして、すみませんでした。じつは、いまだから打ち明けますけど、わたしはこれを中園さんに訊いて欲しくて、いつかお誘いしようと思っていたのです。でも、田上さんや他のクルーの前で声をかけるわけにもいかず、かといって、ふたりっきりになれるチャンスもなかったので……」
有川は、そこまで話すと隆一を見つめた。
「べつに、俺は構わないよ」と、隆一はいった。
有川は続けた。
「迷惑も顧みず、こんな時間に押しかけてきたのは、中園さんに相談するのは今夜を措いてないという気がしたからです。さいわい、仕事場にいるということがわかり、タクシーを飛ばしたのです。いえ、今日のわたしだったら、中園さんがいるとわかればどこだろうと訪ねていったと思います。迷惑でしたか」
「そんなことないよ。俺も、キミとふたりで呑めて嬉しい」
「ほんとですか。やっぱり、きてよかったわ」
子供のように、有川は悦んだ。そして、潤んだ目で、隆一を見つめるといった。
「今日のわたしは据え膳でしたね。よかったら、おばあちゃんの遺言をわたしで実践していいですよ」
「俺の前では演技は要らないよ」
「演技ではありません。本気です。ただし、お願いがあります」
「お願いって?」
「今日のわたしは危険日ですから、膣外(そと)に出してください」
毛皮のコートが欲しい季節 島 俊作 @taxxat1460
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