第七話 のこらない、のこせない

 腰いてー。腰いてー。どっこまでも腰いてー。


 這うようにしてガッコには行ったけど、これはまぢキツいっす。田植機が作られるようになった理由が、よーっく分かる。ビバ! 日本のてくのろじー! やんまー、くぼたー、えらいっ! おコメ一粒にどんだけ汗水が入ってんのかを、自分の体でしんみじみ味わいました。おいしいコメを作ってくれる農家の人に、どっこまでも感謝しまっす。だからお母さん、おねげえだ。コメの飯を食わせてけろ!


 今朝はとんでもないメニューで、わたしゃ目が点になりましたよ。ゼロカロリーゼリーが一個。どででん! いじょー。おしまい。ぎりぎりまで寝てたわたしが、バカだったんだけどさ。赴任先に戻るお父さんが優先で。兄貴が残りをさらって。わたしゃ出がらしだったってことっすね。くすん。しょうがないじゃん。腰が痛くて起きられなかったんだもん。


 ぐーぐー鳴く腹を抱えて。『わたしゃ今日は使いもんにならないっす』宣言をして。机の上にあごを乗せて、白目をむく。せっかくビーバーの引き戻しに成功しても、わたしがこんな状態じゃあ、どうにもならーん。早く回復させちゃらんと、まぢ死活問題だ。期末試験を、なんとかクリアしないとなんない。少しでも、赤点を避けられる教科を増やしとかないとなー。今までぐだぐだだったのに、急におべんきおに立ち向かえるわきゃないじゃん。だから手が付けられそうなものから、一つずつ底上げしてかないと。


 それにしても腰いてー。腹減ったー。下半身から立ち上る湿布の匂いで、目がしみるー。でも、がんがれサロンパス! ほげー。ぐーぐー。


◇ ◇ ◇


 二時間目。昨日はどハードだったから、今日も続けて変なことになったらやだなーと思ってたけど。授業は平和に続いてた。理科総合。鈴木せんせのかったるいしゃべり方が、わたしの睡眠薬に変わり始めたころ。わたしは、ある事実に突然気付いた。あれ? 確かに眠い。眠いのは確かだ。でもね。わたしは小汚い字で、黒板の字を書き写してたはず。でも、わたしの前に置かれてるノート。まるっきり、白紙だ。


 えええーっ!? そんなバカなーっ!? わたしは急にすっぱーんと目が冴えた。あわてて目の前のノートをめくる。わたしが先週とったノート。消えてる……。ノートにはちゃんと折り跡が付いてる。ノートが新品に戻っちゃったってことじゃない。ちょ、ちょっとぉ! 人がこれからまじめにべんきおに取り組もうって決意したとたんにこれっすか? ぐったり。

 いやいやいや、勘違いかもしんない。わたしはもう一度黒板に向かって、そこに書かれてるのを書き写そうと……どえええっ!? 黒板の上は、つるっぴか。鈴木せんせはチョークを持って、何か説明しながらそれを黒板の上に書き出してる……はずなんだよね。でも、チョークの下からは何も出てきまへん。きこきこ言ってる音だけ。そんな風に見えてんのは、わたしだけなんかなあ。いや、教室の中がざわつき出した。いいんちょが、すかさず指摘した。


「鈴木せんせー、黒板の文字が見えないんですけどぉ」


 ほっとした。見えなかったのは、わたしだけじゃなかったのねん。教科書にべったり顔を引っ付けていた鈴木せんせが、ひょっと顔を上げた。


「あ、あれえ!?」


 せんせが、自分が持っているチョークをしげしげと見る。


「濡れちゃったかなあ? それにしても何も付かないってのは……」


 チョークホルダーから新しいチョークを引っ張り出して。それを指に擦って、確かめて。もう一度。きゅっきゅっ。小気味いい音がする。でも、色が出ない。黒板は、まっくろくろすけ。先生は酸素不足の金魚みたいに、それを見上げて口をぱくぱくさせてる。ゆっくりわたしたちの方を振り返って……。


「お、おまえら、何かいたずらしたのか?」


 わたしたちを責めるみたいな言い方。でも、クラスのみんなは一斉に首を横に振った。いいんちょが代弁する。


「せんせー、もうすぐ試験なんです。そんなバカげたことしてる暇なんかありません」

「そうだよなー」


 鈴木せんせはもう一度チョークを黒板に当てて、真横に引っ張った。ききーっ! 耳障りな音がして。でも、その下からは何も現れなかった。腕組みした鈴木せんせが、ぼそっと言った。


「新しいチョークを持って来るから、それまで自習」


 普通は、みんな喜ぶよね。わーい自習だーって。でも、みんなも青くなってた。そう、わたしと同じ。これまで取ってたノートが全部白紙に戻ってる。


「おい、どういうことだよ!」

「こ、これから試験なのにぃ」

「あーん、信じられないーっ!」


 みんながショックを受けてる。わたしだって、めっさショックだよー。でもその一方で、それ聞いてほっとしてる自分がいる。みんながノートなくしちゃったら、きっと試験困るだろなあって。そしたら、わたしだけがバカ扱いされずに済むって。ああ、やだやだ。それって、ビーバーん時と同じやん。そういうの考えんようにしようって、心に決めたばっかなのに。わたしが目をつぶって首をぶんぶん振ってる間に、事態はもっともっと深刻になっていたみたい。


「ええーっ!?」


 叫んだのは、うちのクラスの一番の秀才、竹本くん。とくしんに進むのは間違いない。竹本くんはモテる。しかもフリー。女の子たちがバレンタインに狙ってるエースの一人だ。でも本人は受験に集中したいみたいで、ホモ説が流れるくらいそういうのにタッチしない。ガキっぽい男の子が多い中で、すっごく落ち着いててオトナっぽい雰囲気を持ってる。わたしたちは、竹本くんが慌てたり焦ったりってゆーのを見たことないんよ。その竹本くんがっすよ。口をぱくぱくさせて教科書を指差してる。慌てて、わたしも教科書を見る。


「うっそーーっ!!」


 解説のための絵や写真はあんの。でも……。そこから文字がすっきりこんとなくなってた。


「ちょ、ちょっと、う、う、うそ……でしょー?」


 それだけじゃなかった。胸に付けてるネームプレート。それも名前が抜けてる。教室の黒板の上の時計。文字盤の刻みはあっても、数字がない。わたしたちは……いっきなり文字を取り上げられちゃった。そしてそれは、とことん徹底してた。

 お財布開けたら、中のお札やコインの数字や文字も、まるでそこだけ除去液付けたみたいになくなってる。コンビニのレシートは同じ形の白紙。バスの定期券はパウチされた白紙。シャーペンの横から品番の文字が消えてる。確かめてないけど、ぱんつやブラのサイズ表示まで消えてるんじゃないかな。最初騒然としてた教室の中は、しーんと静まり返った。あまりに不気味なできごとに。


 わたしたち。いろんなことを書いて残す。だって、アタマん中に記憶が全部残るわけないじゃん。どんな天才だって、それは同じでしょ? 文字になってないと、いろんなことが引き継げない。なのに、書いても書いても残らない。残せない。その怖さが、わたしたちの声まで取り上げた。しーん。


 がらっ! 沈黙を破るように、チョークの箱を持った鈴木せんせが戻ってきた。箱から一本取り出して、それで何か書こうとする。でも……まるで魔法でもかかったかのように黒板はつるぴかのまま。先生の怒りが爆発する。


「いったい、どうなってんだっ!」


 ぼきっ! しんとした教室にチョークが折れる音が響いた。板書をあきらめて教科書に目を移した先生が、全力で叫んだ。


「ぎょえーーーっ!!」


 うん。わたしもさっきそう叫んじゃった。真っ赤になってわたしたちをにらみつける先生に向かって。いいんちょが自分の教科書を広げて見せた。まっちろけのけ。


「げ……」


 もう。誰も。どうリアクションしていいか分かんない。鈴木せんせが、教卓の横の椅子にどさっと腰を下ろして頭を抱えた。しーんと静まり返る教室。


 その時。何かがきしむような、いやあな音が聞こえて来た。ぎしっ、ぎししっ。みりっ。みんなが、こわごわその音の方に目をやった。

 教室の窓際に、事務のお姉さんがいつも花を生けてくれてる。元女子校らしい、ちょっとした心遣い。その花が入ってる一輪差しのガラスの花瓶が、ぎしぎし言ってる感じがする。何が起きるんだろう? みんなが息を飲んでそれを見つめている中。すごい音がした。割れるんじゃなくて、爆発する。そんな感じ!


 ぼんっ!!


 でも、ガラスの破片は飛び散らなかった。まるで花瓶が砂糖菓子で出来てて、それが砕けちゃったみたいに。粉砂糖の山みたいな花瓶の跡と、倒れてる花と、ぴちゃぴちゃ音を立てて垂れる水。そして……。


「あっ!」


 文字が元に戻っていた。黒板の上の鈴木せんせの字。わたしのノートの上のミミズみたいな字。あんまり見たくない、教科書のかちんこちんの活字。みんな、何事もなかったかのように元に戻ってた。


◇ ◇ ◇


 ぐったり。空腹と腰痛のダブルパンチにあの騒ぎ。トリプルパンチっす。わたしのガラスのような神経は、もう耐えられまへん。ウソつくなって? ちぇ。


 いつもの40円節約は、今日は出来なかった。コロッケパンのダブルとロイヤルミルクティーの缶。予算はみ出しちゃってるけど、もーいい。


「みゆー、珍しくがっつり行ってるじゃん」

「かなんわ。あんなことあったら、もう食べるしかないっ!」

「どうして、それが食欲に行っちゃうのか理解出来なーい」

「放っといてんかー」

「それにしても変な事件だったねー。なんだったんだろ?」

「知らーん」


 知らにゃい。そう言いながら、わたしは段々ゆううつになってきた。これまでの出来事を並べてみる。まず、しっぽ。次に、メール。声が入れ替わっちゃって。見えない手に引っ張り回されて。昨日はタイムスリップ。今日は文字が消えた。

 一つ一つの出来事は、どんなにおかしなことになっても短時間で元に戻ってる。ただ……関わった人の中には事実としてちゃんと残っちゃってるんだ。それは、なかったことになってない。人生をひっくり返すくらいのひどいことじゃないけど、跡をくっきり残してる。


 さっき取り上げられたのは、文字。なくなったら本当に困る。でも、わたしに起きてるのは逆だよね。そんなん起きなくてもちっとも困らない。めーわくなんだよね。それが心に傷を、深い引っ掻き傷を残す。これって、なんかに似てる。あ、そうだ。いたずら。いたずらだ! 仕掛けた方は軽く考えてて。でもされた方は本当にいやーな気持ちになる。なんで、わたしはこんなに深刻に考えてんだろ。うん、それは……今日のが本当にヤバかったからだ。


 今までのいたずらは、わたしのすぐ近くで、わたしを中心にして起きたこと。声が入れ替わっちゃったのは例外だけど、あれだってうちの家の中だけの話だった。でも今日のは、影響した範囲がうんと広い。わたしよりも、わたしの外に影響が強く出ちゃった。当然いたずらの波紋は、もっと強く、広く、深くまで広がっちゃう。

 今は、誰も。そう誰一人として、それがわたしを中心に起きてるってことを知らない。でもそれがバレたら……わたしは、もうここにいられない気がする。ぶるぶるっ! 寒い。震えが来る。おっかないよう。なんでこんなことに。


 あ、そうか。そういや、それを全然考えてなかったにゃ。


「みゆっ!」

「は、はひぃ!」


 いきなりあずさから耳をぐいっと引っ張られて、心臓が止まるかと思った。


「なに、ぼけっとしてんのよー」

「ううむ、おとめにわな。いろいろと悩みがあるもんじゃて」

「布袋さんみたいな腹して、なにがおとめじゃ」

「おとめなブラインドっていうのも、聞いたことないわよー」

「ごるあ! なんじゃ、そのブラインドってのわ!」

「ん? 肋骨の透け具合が、よーく似てるでそ?」


 二次元キャラに負けるわしではないっ! 3D仕様、飛び出す福の神を甘く見るなよー。びんぼがみめ。わあっはっはっはあ! ま。もそっと様子を見よう。今日の出来事だって、終わってしまえば花瓶いっこ割れただけ。こんなことあったんだよーって、知らない子に言っても笑われるだけ。ばかこけーって。

 これ以上えげつないことになるようだったら、もうわたし一人じゃどうにもなんない。そしたら、いやでもだれかに相談しないとなんない。そうならなきゃいいんだけどなあ。わたしはコロッケパンのビニール袋をくしゃくしゃっと丸めて、ゴミ箱に捨てに行った。


 ん? 今日はゴミがいっつもより多いなー。わたしはそれ以上気に留めないで、ゴミをぽんと放った。


◇ ◇ ◇


 帰り際、いいんちょから定例の伝言があった。


「ビーバーが補習室で待ってるって」

「あいー、ありあとー」

「試験近いしね。ふぁいっとぉ。がんばってねい」

「さんきゅ」


 うん。いいんちょ、好きさ。わたしをバカ扱いしない。わたしが逃げずに補習に行ってることを、ちゃんと見てくれてる。わたしは、そういうのんをなくしたくない。だから、ぐちゃぐちゃ言い訳しないでがんばろ。


 がららっ! お、今日はわたし一人か。らっきぃ!


「ちーす」

「だから石田さん、ノックくらいしなさいよ」

「へーい、すんませーん」

「ったくぅ」


 いつもの会話。でも、こっから先はおふざけはなしだ。ビーバーは、いつもと違うわたしのクウキを読んだんだろう。ぽんと教科書を景気良く叩いて、すぱっと言った。


「じゃあ、始めましょ!」

「お願いしまーす」


 それからの一時間。わたしは、初めて補習がむっちゃつらいって思った。足んないアタマに、へんちくりんな文字が押し寄せてくる。まるで、英語の泥沼でおぼれてるみたいに。だけど、わたしは今日とっても怖かった。文字という文字を全部取り上げられて。そしたら自分にはなーんにも残らないってのが、ものすごっく怖かった。


 入らないなら押し込むしかない。押し込めないなら、刻み込みしかない。消えないように。絶対に消えないように! 辛抱強く、繰り返し繰り返し教えてくれるビーバーに。わたしは初めて、心の底からありがとうって思った。


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