ようするに俺は、ループしてすでに何度もこの世界を経験済みらしい。

 意外と本人は気がつかないものなんだな、そういうのって。


 それはともかく、はっきり言って先輩と会話を続ける自信がない。


 この人は、あれだ。自分にしか理解できない論理を駆使して、他人からはまったく共感されることのないタイプの人だ。


 いや待て。

 もしかすると、先輩は人間ではないのかも。


「先輩は何者なんですか?」


 予想外に疲れきった声が出てしまった。


「ワレワレハ、うちゅうじん、ダ」

「ああ、そうですか。じゃ」


 背を向けたら、襟がグイと引かれた。


「冗談よ」

「わかってました! わかってますから、もう放してください!!」

「放しません」


 先輩が、俺の右手首を取った。


「手を開きなさい。そこに、こうして……私の左手をくっつけると……」


 二人の手のひらが、神社でお参りでもするような形で重なった。


 そのあと、先輩は自分の手をくるりと裏返した。

 今度は俺の手が、先輩の手の甲にかぶさる。


「これで理解できたわね」

「さっぱりわかんねえよ!」

「説明するわ。これは異性体いせいたい

「異性体……?」


 耳慣れない単語を口に出して繰り返す。


「立体異性体や光学異性体などとも言うわ。あなたたちの言葉を借りれば、構造異性体といったところかしら。私たちの種族は、一定の時間と空間を占める生物の姿を借りる。見た目は同じように見えるけれど、決して人間たちとは重ならない。それが私たち」

「姿を借りる……? どうして、そんなことをするんですか」

「そうしないと、生きられないからよ。そして、ある種の生物の生存圏、そこに寄りそって生きることが、私たちにとって自然なことだから」


 すごくシンプルな理由だった。


 つまりは影のようなものなのかもしれない。


 あるいは鏡の中に映った、もう一人の自分。

 それで、さっきは先輩の正体を見抜こうとしたとき、自分を見たと錯覚したのか。


「私たちの本質は、時間や空間といったものとの共生関係にある生命体。私たちと、あなたたち人類の共通点も、そこにあると言っていい」

「でも、先輩は七年後の世界で会ったときも、その姿のままだったじゃないですか」

「皮肉なことに、この不自然な姿でいるときには、時間の流れも空間的な距離も無視することができるの。でも、それは私たち種族にとって、あなたたちには想像もできないほど、生理的な苦痛をともなう状態だわ。劣悪な有機体である、あなたに対して汚らわしいと言ったことがあるけれど、あれは本心からの言葉よ」

「平然とひどいこと言うな」

「あなたはカルネアデスの舟板という話を知っているかしら?」


 また流れを無視して、新しい話題がきた。


「それはこういうお話よ。船が難破し、乗組員たちはすべて海に落ちた。一人の男が船の破片、今にも沈みそうな木の板にすがりつく。ところがそこで、もう一人、板につかまろうとする者が泳いでくる」

「二人でつかまると沈みそうだから、どうする? ……っていう話でしたっけ」

「そうね。その通りだわ」


 めずらしく、普通に同意してもらえた。


「私たち種族の間では、答はひとつしかない。種族的に有用な、若く力のある者がその板を得る。たったそれだけの問いよ」

「いや、でも先にいたほうにだって権利があるとか考えたり、あとから来たのが自分にとって大事な人だったりする場合も……」

「権利、という概念は私たちにはないわ。私たちの種族は、広義の意味であらゆるものを共有し、おたがいの生命すらも種族的資産であるとして認識している」


 ちょっと理解しにくい考え方だ。


 主義主張というものもあるのだろうが、俺は俺。

 そこのところだけは、誰だって譲れないものではなかろうか。


「ところが人間は違う。あなたが今言ったように、権利、あるいは生命倫理や法益、さらには愛情といった、複雑な価値観で物事を判断しようとする。先ほどのあなたの例に似た言葉を使えば、強い男性が弱い子供や女性に板を譲る行いは尊いとされる。俺はおまえの上司だからその板をよこせと言う者がいれば、それは醜い行いと判断される」

「それは……まあ、そうなるけど……」

「良識を盾として、他者から善意の見返りを必要以上に要求する。そのような行為が人間の世界では、あたりまえのように繰り返されている。人間の言葉で言えば、これもひとつのシンギュラリティに類する現象」

「すみません。人間だけど、そんな言葉は知りません」


 そんな怪獣の鳴き声みたいなの知らねえよ


「シンギュラリティとは、技術的特異点のことよ。本来は人工知能のもたらす、人類の意識や感性を超越した、高度すぎる優先意識性に対する危惧。人とは異なる価値観によって、人間の理想から逸脱する解答が導かれ、人に良くない影響を受ける可能性があるとする考えから生まれた言葉だわ。けれど、そういうことは人類の歴史上にこれまで幾度もあったの。火を手に入れ、車輪を作り、政治や思想、哲学という考え方が生まれ、武器や通信、原子力でもインターネットでもいいわ。ひとつの技術が生まれるたびに、人の生活様式は大きく変わっていった。そのことは人間である、あなたの方がよく知っているはず」

「それ、進化ってもんじゃないんですかね……?」

「進化ではなく、進歩と言うべきね。そして、そういった技術の進歩の影にはかならず犠牲がつきまとっている。水取るる子は近い将来、高度に発達した言論技術によって、日常生活の中で精神を追いつめられていく。良識、しがらみ、常識、優しさに欠けた言葉、無責任な応援の声……そんな他愛もない記号の積み重ねで、身動きがとれなくなっていくの。ある種の集合精神の場とも言える空間が、論理の正当性をもって個人の精神の脆弱さにつけこんでいく光景は、人の世界ではめずらしくもないわ」

「よく知らないんですけど、それって、インターネットの掲示板とかSNSソーシャルネットワークサービスとか、そういうのですか」

「心の重みに耐えられなくなった人は、やすらぎを求める。その行きつく先は、薬物による緩慢な自死か、宗教しかないわ。けれど、他人と共有できない神性を心に抱く者は、その重みをますます悪化させていくしかなくなる。やがてそこから生まれるのは、同族殺しを目的とした神────いいえ。相手は同じ人間であるはずなのに自分の言葉を理解しない、もはや種族が異なるもの。そういう考え方をする人が望む神は、異教徒を裁くだけの殺戮機械となるのよ」


 先輩が何を言っているのか、もうよくわからない。


 けれど、何気なく放った言葉が、いかに他人を追いつめていくか。

 そんな曖昧で、漠然とした不安のようなものだけが胸に広がっていった。


「社会的には、ただのいい人とされる水取るる子が、いびつな神を生み出す原因は、まさにあなたたちが人間であるからに他ならないわ」

「う……そんなんで、神……できちゃうんだ」

「マイクロビキニを着た幼い少女の絵を描いて、画像投稿掲示板やSNSにアップロードすると、信者が集まって神と呼ばれる」

「わかる」


 俺でも多少は理解できるレベルの話になった。


「マイクロビキニを着た少女の絵はセクシーすぎる、と批判を述べる異教徒が現れて、信者と異教徒が、たがいに自己を正当化する言葉で争う」

「それな」

「争う人の姿を見て、その不毛さに思い悩んだ神が、アカウントを消して人々の前から姿を消す」

「そこまでがデフォ」

「ぬるぽ」

「ガッ」


 先輩がまた、脈絡もなく話題を変えた。


「飢えた子供がいれば、食事を与えることが当然と、私たちの種族は考える。けれど人間は、金銭の見返りがなければ援助は行わない、と言う。この子供に必要な栄養は野菜であって、パンを与えるのは不適切だ、とも言う。あるいは、この子供は私たちと肌の色が違うから援助はしない、またある者は、この子供を助けないものは人道的はないと言う。そうして、みずからの感情を正当化しようとする不必要な理屈ばかりを繰り返し、どこまでもいさかいの火種を拡散させていく」

「そりゃまあ、誰でも……何かひと言ぐらいは意見したいとき、っていうのもあるだろうし……」

「そして、その論理の広がりは、結果的に当事者とは関係のない同胞の精神をむしばむ行為となる。いずれの場合も、理屈としては正しい。けれど、結果的に相手の行動を抑制することしかできない。ある種の問題にかかわる当事者ではないにもかかわらず、論理の鎖につながれる。そして、それは偏った大局観ばかりを肥大させ、個人に対する判断の目をくもらせ、社会の活力を失わせしめる────個体の内側に飼われる、ほんの小さな同族殺しの神。ひいては、それが全時空を滅ぼす、ひとつの大きな願いに変質する」


 そんなことまで気にしていたら、誰も何か言うことさえできなくなる。


 そう言ってやりたかったけれど、その言葉はまさに先輩が言っている、相手の発言を封じることだけが目的の正しい論理、というやつではないだろうか。


「私たちの種族は、それを閉鎖論理クローズド・ロジックと呼んでいるわ」

「聞いたことない言葉ですね」

「同胞を殺める結果につながる論理。それを対話の中で使ったものは、種族に対する裏切りを行ったとして、もっとも重い罪に問われる」

「俺には、よくわからない……というか、理解できません」

「あなたは人間だから、仕方のないことだわ。けれど、人倫じんりんにもとる問いを投げつけられた水取るる子が、やがて神を生みだす仕組みは理解してもらえたかしら」

「それは、まあ……実際に、神になりかけてたやつと対面しましたからね」


 ナツメと言葉を交わした瞬間に生じた敵意。


 あれはたしかに俺個人としての怒りもあったが、もっと人間の根っこの部分で怒っていたような気もする。

 それがたぶん先輩の言う、同族殺しを目的とした神と出会ったときに生じる、人間の自然な感情というものなのだろう。


「あれこそが人工的に生み出された神というものよ。本来の神とは異なる、人の論理を越えられない、不完全な存在。矛盾を抱えたまま、あやまった行為でみずからの完全性を証明しようとする危険なものだわ」

「えぇと……それがさっき言ってた、己が全能者たる定義を満たす、ってのですか」

「その通りよ。種族的に、他生命体との共存を宿命づけられている私たちであっても、決して受け入れることのできない、時空の破壊者。あなたたち生身をもった人間以上に、私たちにとってはおぞましいものだわ」

「そんなに嫌ならナツメだろうが神だろうが、ほっとけばいいじゃないですか」

「そうはいかないわ。龍宮ナツメを消去することは、私たちにとっての種族的な利益につながることだから」

「だったら、自分たちでやればいい! わざわざ俺を使う必要はないでしょう」


 利益、利益とうるさいので、つい怒鳴ってしまった。


「私たちの種族には、闘争という概念がないの。だから、あなたを利用した」


 先輩は、俺の感情など気にかけてくれない。

 うん。知ってた。


「消したものを二度と元には戻せない、そういうあなたの欠陥を龍宮ナツメに対して使わせようとしたわ」

「でも……うまくいかなかった?」

「そうね」


 フォローは、まるでなかった。

 このあと、「でも、あなたはよくがんばってくれたわ」とか「あなたなりに一生懸命だったわね」などど、ちょっとぐらい言ってくれてもいいじゃないか。

 なにしろ先輩の助言とやらが、俺にはまるで理解できないものだったんだから。

 こうしてすべてを知った今ですら、どこで何をアドバイスしようとしてくれていたのか、さっぱりわからない。思い出せないってのもあるけどさ。


 何か不満をぶちまけてやろうとしたら、一匹の猫がどこからともなくやってきた。


 るる子が助けようとした、例の猫だった。

 先輩が椅子に座ると、その膝の上に、ひょいと乗った猫が丸くなる。


「あなたにその役目を繰り返させるには、これを使うしかなかったわ」


 先輩が、猫を軽く撫でた。


 たちまちその形が変わっていく。

 毛がゆらめき、耳と手足がほぐれ、全体の輪郭がくにゃりと曲がる。

 四本足の動物だったものが、七色に光り輝く無数の曲線で構成された、複雑きわまりない立体図形に変わっていった。


「それが、その……アトラクターなんちゃら、とかいう……」

「これは私たちの世界では、本来はただの工芸品」


 先輩の瞳に、今まで見たことのない輝きが宿った。


「美しく、愛しい時の流れを閉じ込めて、慈しむべき情景を見せてくれるもの。はやく今の役目を終えて、本来の機能を全うさせてあげたいわ」


 そのとき俺に、ただひとつだけ理解できたことがある。


 先輩にも、愛情を感じる心があるらしい。


「んじゃ、話はもういいですかね」


 難しい話なんてものは、俺には似合わない。


 目の前で女が一人、困っているんだ。

 それだけわかれば何をしたらいいかなんて、決まってるだろ。


「ちょいとまた、神様退治に行かせてください」

「久垣守。あなたに与えられた役目は、あなた自身の意志によるものではないわ。私を恨んではいないのかしら」

「先輩の種族にも、恨みっていう概念はあるんですか」

「いいえ。存在しないわ。けれども、理解は可能よ」

「先輩に対して俺にも、わかるところがあるっていうか……うまくは言えないんですけれどね。先輩の、その、猫。そいつを本来の役目に戻したい、って言ってたときの気持ちは、なんかわかる気がします」

「ありがとう」

「へへっ。素直な先輩は、ちょっとかわいいですね」

「私はあなたに、生殖を目的とした求愛行動は要求していません」

「そっ、そそそ、そんな意味じゃねえよ!!」


 なんですぐ、そういうこと言うかな。この人は。


「俺は、なんて言うかなあ……先輩が作ってくれた、この世界がそう嫌いじゃないんだと思いますよ」

「その価値観は、まったく理解できないわ」

「そうすか」

「でも、あれね。そう。これがツンデレのデレ、という概念ね」

「なんで、そういう俗っぽいことは、すぐわかっちゃうわけ!?」


 そこ共感しなくてもいいところだから。

 種族が違うと、これだけ理解力が違うものかよ。


「それじゃあ、もう行きますよ」

「そこの扉を出れば、あなたにとっての現実に戻れるわ」

「へいへい……ああ。そうだ。もうひとつだけ、教えてもらってもいいですか」


 帰る直前に、ひとつだけ聞いておきたいことを思い出した。


「どうして、俺の記憶の封鎖を解除してくれたんですか」

「今は別の時間軸となった世界で、あなたがひとつの可能性を見せてくれたからよ」


 別の時間軸と言うと、あれだろうか。

 俺的には、ついさっきまでいたところかな。


「過去に戻る前に、あなたがいた世界。そこでは別のあなたとして、久垣守は龍宮ナツメを非活性化し、一切の外的な干渉を行えないまでに無力化した。同時に、水取るる子の命を救ったわ」

「そいつは良かった」


 七年後の世界での俺は、どうやらうまくやってくれたようだ。


「これは私の本来の目的と、完全に合致した状況ではないわ。けれど、望んだ結果に近いケースと考えられる事象ね」

「ナツメを無力にした、ってことですか」

「これまでの繰り返しの中で、そこにたどりついたのははじめてだわ。記憶の封鎖を、もはや必要がないと判断したのは、それが理由よ」

「次はもっとうまくやりますよ。期待しといてください」


 先輩は何も言わなかった。

 でも、かすかに微笑んでくれた気がした。

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