教室。


 たぶん、教室。


 たぶんというのは、なんとなくおかしな感覚があったからだ。

 いつもと同じ、見慣れた場所のはずなのに、何かが違う。


 時間移動の影響なのだろうか。

 それとも、いつのまにか体が男に戻っているせいなのか。


 そもそも指定した時間に、きちんと移動できたがわからない。

 確認しようにも、黒板に書かれているはずの日付は消されていて読めない。


 電灯のスイッチが入っていないためか、教室内は薄暗い。

 窓の外には青い空が広がっていた。

 時刻は今、何時だろうか。

 壁にかかった時計に目をやると────。


 教室の扉が開いて、るる子が現れた。


「……守くん!! 昨日はごめんなさいっ」


 いきなり謝られた。


「いや。俺のほうこそ、昨日は悪かった。つまらないグチを言っちまって……なんて言うか、ごめんな」


 おたがいに謝ったあと、照れくさくなって笑みが自然に浮かぶ。

 そんな俺を見て、るる子がクスッと微笑む。


「つまらないことじゃないよ。大事なことだと思う」

「そうかな」

「守くんは両親を消せたんだから、同じ方法で龍宮ナツメを消しておけば良かったんだよ。そうすれば、きっとうまく行ってたはずだもん」

「そうか。そうすれば……」


 なんだ、これ。


 るる子は今、なんて言ったんだ。


 視界がグラリと傾いた。


 壁にかかった時計が見えた。

 文字盤には、針がついていなかった。


「うぐっ……」


 このままでは、まずい。

 もはや何かがおかしい、なんてものじゃない。

 はっきりとした違和感がある。


 彼女は、るる子ではない。


 頼りにならない視覚を封じるため、目を閉じた。

 能力を全開にして、五感と知覚のすべてを制御する。


 ここはどこだ。

 そこにいるのは誰だ。


 ぼんやりとした暗闇の中に、立っている人影。

 そいつは俺の姿になった。


 いや、なったのは一瞬だ。

 まるで鏡を見ているような気がして、自分を見たと錯覚した。

 人間の感覚ではとらえられない、不可思議な存在を見てしまった。

 そうとしか言いようのないものが、そこにいる。


 通常の感覚はあてにならない。

 別の方法で相手をさぐろうとした瞬間、耳が音をとらえた。


「こんにちは。久垣守」


 先輩の声が聞こえた。


「はじめまして。華汐菊音先輩」


 口から勝手に、言葉がすべり出た。


 俺と先輩は初対面だ。


 ────違う。


 初対面であるはずがない。

 白羽と黒羽に追われて走った、夜の校舎。


 そこで俺と先輩は会っている。

 その記憶だけは、やたらと鮮明に残っていた。


「俺の記憶を操作したのは、先輩ですか?」


 最初に思い浮かんだのは、そのことだ。

 俺と同等か、それ以上に強い力の持ち主が、記憶を書き換えた。


 それ以外にはありえない。


「違うわ。それは、あなた自身がやっていることよ」

「どういうことなんです。俺が自分でわざと忘れているとでも?」

「私は、あなたが私を忘れたくなるようなことをしただけだわ。目を開けて、こちらを見なさい。久垣守」


 おそるおそる目を開く。


 目の前に先輩がいた。


 場所はやはり、教室のままだった。

 けれども窓から見える空の色は、絵の具のセットを全部まとめてぶちまけたような、奇怪なまだら模様になっている。

 どう考えたって、まともな場所じゃない。


「俺が忘れたくなるようなことって……なんですか」

「私はあなたの防御機能を利用して、私に関する記憶を思い出さないようにしただけ。その封印を解くために、あなたは私が今から黒板に書くものを見続けなさい。決して目をそらしてはいけないわ」


 ピンと背筋を伸ばした先輩が、教室の前に歩いていく。

 チョークを手にすると、黒板に文字を書きだした。


『大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き』


 黒板の半分が埋まった。


『大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き愛してる私だけを見てあの女は誰なの』


 最後の文字を書き込んだところで、ベキャッとチョークが折れた。


 気がつくと、足が勝手に黒板から遠ざかろうとしている。

 体の震えが止まらない。


 先輩がやってきた。身をすり合わせるほどの距離に。


「記憶の封鎖を解除したわ」


 必要以上に顔を近づけられている。


 今、気がついたんだけど、この人どうして瞬きしないんだろう。こわい。


「これであなたが望めば、いつでも過去の記憶が見れるようになったわ」

「そうすか……じゃあ今度、ヒマなときにでも見ておきますよ」

「なぜ今、見ないのかしら?」


 こきりと音をたてながら、先輩の首が変な角度に曲がった。


「見なさい」

「見たくねえよ!! やめろよ! ヤンデレとか苦手なんだよ俺」


 なるほど、これはたしかに忘れたい。


 精神面の防御機能が脳に働いて、忘却という選択をしたのだろう。

 俺の無意識、よくやったとホメてやりたい。


「見てもらわないと、これ以上の説明がしにくいわ」

「いい。いらない! 説明しなくていいからっ!!」

「そういうわけにはいかないわ。私の目的ために、話を聞いてもらう必要があるの」


 目的だって?


「それって……」

「私の目的は龍宮ナツメが神としての力を得る前に消去すること。龍宮ナツメは、水取るる子の無意識下、抑圧されたES、あるいはイドの領域から生み出される存在。日常的に善人であることを演じ続けなければならかった水取るる子は、いずれさらなる多数の民意にさらされる存在となる。そのような個人の能力で解決不可能な問題を与えられ続けた人間の精神は、超越的な解決手段を持つ存在を求めるようになり、心に理想の人格を描き出す。そう遠くはない数年後の時点で、水取るる子が向き合う問題は、すでに一個人の精神と能力では、対処が可能な限界を超えていた。そして彼女は、みずからの理想を神に求めるしかなくなった。無意識下の願望から生み出された神という存在は、発生した時点で己が全能者たる定義を満たすため、あらゆる生物、無機物、時間、空間までをも破壊する。そのため、神が生まれる前にその存在を消去しなくてはならない。私は水取るる子と、神に対して有効な消去能力を持った久垣守をアトラクター構造体の内部に送り込んだ。時空間上における一定範囲の中で、特定の事象を発生させるための行動を繰り返させた。残念ながら、これまでは龍宮ナツメの消去に成功した例はない。私は久垣守の前に、幾度か姿を現し、龍宮ナツメを消去するための助言を行った。それなのに……もう、何をやっているのよ、あなたは。しっかりしなさいよね。守くんのばかばかっ。次回、うっかり超越能力者、守くん。また助けるところからやりなおし、にレッツジャンプ、アンド、ゴー」

「ちょっと待って!! 一気に言わないで! あと何、最後に次回予告みたいになるのは、なんでなの!?」

「飽きられないように工夫してみたわ」


 そんな工夫いらない。

 っていうか、ひどいネタバレを見た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る