一難去って、また一難どころじゃない。


 助けてくれるはずだと思っていたキル先生が、真っ向から反対してきた。


「待ってください、先生!」


 このまま黙って、引き下がることはできない。


 なにしろ、るる子の命がかかっているんだ。

 並行世界から来た俺は頼りにならないし、自力で先生を説得するしかない。


「人の命がかかっているんです。それを助けたいって、ただそれだけなんですよ。何がダメだっていうんですか」

「そのこと自体は、まったく問題ない」

「だったら見逃してくださいよ!」


 先生が首を振った。


「問題は、貴様だ」


 俺の何が悪いって言うんだ。


「生きた人間の世界に、死者がかかわってはならぬ」

「俺まだ死んでないよ!」

「何を言うか。貴様が生きていたことを示す記録は、すべて消え去っておる。まっとうな人間で、おぼえているものは誰もおらん。貴様自身とて、みずから人に声をかけることすらできまい」


 先生の目に、冷たい光が宿った。


「そういうものを世間では、死んでいると言うのだ」

「先生は、るる子のこと見捨てるってのかよ!!」

「捨てる捨てないの話ではない。あの娘がいつ死ぬかは、あの娘の問題だ。それとも、貴様は水取るる子が死にかけるたびに、私にどうにかしろでも言うつもりか? 自分では何もできないくせに、そんなことを人に命じていい道理がないことぐらいは、貴様にもよくわかっておるだろう」

「だったら、誰でもいいよ! 誰か、るる子のために救急車でもなんでもいいから、呼んでやってくれよ。電話するぐらい誰でもできるだろ」


 すぐさま動こうとしたナナを制したのは、並行世界の俺だった。


「ダメだ。ナナ」

「どうして!? なんでなのっ、お兄ちゃん!」

「おまえが部活をできるのは、先生のおかげなんだろ。その先生がダメだ、って言っているんだ」

「でも……るる子さんが」

「俺としても、反対だ。おまえの兄として許さない。並行世界の出来事にかかわるなんてことをしたら、何が起きるかわからないんだぞ。おまえがもし万が一、元の世界に戻れなくなったりしたら父さんも母さんも悲しむって、わかるだろ」

「うぅ……」


 ナナは黙った。

 そこでたたみかけるように、俺ではない俺が声を大きくした。


「俺は兄として、もう一度言っておく。俺の妹に手を汚させておいて、自分だけは何もせず、のうのうとしてるようなやつなんざ、生かしておくつもりはない」


 こっちを見ながら、きっぱり言いやがった。


 我ながら頭の固いやつだ。

 でも、俺に妹がいたら、やはり同じことを言ったに違いない。


 誰かにすがりたい気持ちがいっぱいで、視線をめぐらせる。


 いつもと同じ────いや、いつもよりさびしそうな笑みを浮かべた夕日がいた。


「夕日……」


 名前を呼ぶと、彼女の顔にかすかな困惑。


「マモちゃん、ごめんなさいです」


 普段と変わらない、優しい口調だった。


「私は、何もできないです。部室の外……」


 と、言いながらキル先生が立っているあたりを指す。

 そこはちょうど空間を広げる前、本来は廊下の行き止まりがあったところだ。


「あそこから、むこう側にいる人には、話しかけることができないです」

「ああ……いいんだ。おまえは……何も、悪くない」


 頼るつもりではなかったが、夕日なりに誠意を見せてくれたのだろう。

 そのことがわかって、情けない気分になった。

 こいつは人間ではないけれど、とてもいいやつだ。


 心のどこかで彼女を疑う気持ちを抱いていた、自分がふがいない。

 けれども、今はもっと恥知らずなことまで考えているのだ。


「やめとけ」


 白羽と黒羽に目をやる俺。

 その視界をさえぎったのは、やはりまた俺だった。


「おまえは俺なんだろ。子供を利用しようだなんて、汚いことはするなよ」

「おじさん……」

「お姉様……」

「……わかってるよ!! そんなこと!」


 やり場のない感情をぶつけたくて壁を殴った俺に、二人が声をかけてきた。


「おじさん。ごめんだぞ」

「すみません、お姉様。力になってあげたいですの。でも、今のお姉様は……」


 黒羽の言葉を継いだのは、ナツメだった。


「そこから先は言わなくていいよ、お嬢さん。キミたちの国から魔力を盗んだのは、この僕だ。だから、キミが僕を助ける道理はない」


 こんな事態だというのに、ひどく落ち着いた口調。


「僕の計画は失敗した。あの先生に目をつけられた段階でね。彼女の目を逃れ、並行世界のキミを利用することで、水取るる子を助けようとした。だが、しくじった。もうできることはない」

「何を勝手に!! 物わかりのいいこと言ってるんじゃねえよ!」


 こんなところで、あきらめるわけにはいかない。


 まだ何か、きっと────何かいい手があるはずだ。


 考えろ。

 考えろ。

 考えろ。


 頭の中はまっ白のままだった。


 答えは、誰にも与えてもらえない。

 能力を失っていなかったとしても、それが俺の限界であることに違いはない。


「……なんだよ。こんな……なんでだよ!」


 これだけ人間離れした連中が、ぞろぞろと顔を並べているのに。


 なんで女を一人、助けるぐらいのことができないんだ。


 どう考えたって、おかしいだろ。


 何か。なんでもいい。

 この状況を打開する手が、きっとあるはずなんだ。


「無様なことしてんなよ」


 もう一人の俺が、低い声で言った。


「もう打つ手はない。あきらめろ」

「でも、おまえだってわかるだろ! おまえは俺なんだから……るる子を助けたいだけだって、わかってくれよ……」

「わからねえな」


 驚くぐらい、感情のこもらない声だった。


「俺の世界に、水取るる子なんて女はいない」

「なん、だって……?」


 並行世界に、るる子がいない。

 それは他の世界にならいる、ということだろうか。

 それとも逆に、るる子はこの世界にしかいないのか。


 今となっては、どちらが正しいか知る方法はない。


「俺の人生で、一度もかかわったことない女だ。俺には、大事な妹と天秤にかけるなんてマネはできないな」

「そんな……」

「本音を言えば、助けてやりたいさ。自分はなんの力もないのに、あの先生を敵に回してでも、女のために命をかけようってんだ。さすが俺、って言ってやりたいくらいだぜ」


 そんなにホメるなよ。

 と思っていたら、決定的なことを言われた。


「けどよ、ハッキリ言ってやる。俺がここにいられるってことは、おまえはもう、俺じゃあないんだよ」

「…………」

「時間とか空間とか……なんだ。ああいう、俺の能力に制約を加えている絶対不変のものから、おまえは俺だって識別されていないんだろうよ。理屈はわからんが、きっとそういうことだと思うぜ。俺が並行世界から、この世界に来ることができた時点で、おまえにだって本当は……わかっていたんだろ」


 そんなことは理解している。


 わかっていたんだ。

 でも────。


「おまえは、失敗したんだ」


 そんなこと言うな。


「ナナから聞いたぞ。こっちじゃ、オヤジとオフクロがいないんだってな。おまえが消した。まったく、えらいことしてくれたもんだぜ」


 やめろ。


 それ以上、言うな。


「そういう過去の失敗もひっくるめて、おまえは自分の歩んできた道のどこかで、しくじっていたんだ。そいつはもう、やりなおせないことぐらい理解できるよな」


 やめてくれ。

 わかっているんだから。


 それでも、あきらめたくないんだ。


「たとえ能力が戻ったとしても、過去は変えられん」

「ぐ……まだ、何か……方法が、あるはずなんだ」

「もしかしたら、その女と出会ったことが、おまえの失敗かもしれないんだ」


 そんなひどい言い方をするな。


「最後ぐらい、潔くしろ。元、俺だったやつに俺からできる、最後のアドバイスだ」

「どんだけ正論でも……いや、正しくなかったとしても……」


 俺は、あきらめるわけにはいかないんだ。


「……自分に説教されると、本当にムカつくなぁっ!!」

「だから、違う。もう、おまえは俺じゃない」


 その通りだ。

 だから、きっと────おまえとは、違う答えが出せるに違いない。


 けれど俺にはもう、その時間さえなかった。


「せめてもの情けだ。俺が引導を渡してやる。先生、かまわないですよね」

「やってよい」


 詰んだ。

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