翌日、俺は学校に行けなかった。

 行けなくなっていた、と言うべきかもしれない。


 俺は消えてしまった。


 文字通り、誰の目にも映らない、幽霊のような存在になっていた。


 昨日の放課後、部室を出てからのことだ。

 家に帰って、いつもと同じように夕食を済ませ、寝ようとした。


 そのとき、ふいに────。

 いきなり、何ら前触れもなく、押し潰されそうなほどの不安が押し寄せてきた。

 同時に、すさまじい後悔の念が湧いた。


 枕に顔を押しつけて足をバタつかせたくらいでは、どうにもならない。

 そのくらい、強い感情だった。


 果てしなく続く坂道の先に、ばっくりと口を開けた、暗い穴が見えたような気がした。それは────るる子が感じていた不安の正体。

 女にしか、理解できない感情だった。


 どこか、誰も知らない遠くに行きたい。

 自分がいなくなっても、誰も困らない。


 そんな気持ちをわかることができた理由は、ひとつだけ。

 やはり俺が、体だけでも女になっていたからかもしれない。


 彼女を理解した俺は、いつのまにか消えていた。

 こんなときでも手を抜かない、便利すぎる能力がうらめしい。

 この世界から、俺という存在がきれいさっぱり消し去られていた。


 かくして俺は実体を持たず、なんら意志らしいものを持たない存在となった。


 風に吹かれて、ふわふわと漂う、かつて俺であったちりのようなもの。

 誰の目にも見えない、空気としか言えないもの。

 できることと言えば、目の前で起きていることをただ見るだけであった。


 そんな状態になっても、以前の記憶に引きずられるものがあるらしい。

 ときおり、意識が明瞭めいりょうになると、そこに彼女がいるのだった。


 ────るる子だ。


 俺がいなくなったところで、彼女は何も困らないはず。

 今まで通り、普通の生活を送るに違いない。


 ところが、そんなことはなかった。

 それもそのはずで、るる子には俺の能力が効いていなかったのだ。


 教室の中で、彼女だけがかつてそこにいた俺を知っていた。

 るる子は、まるで思い出にすがるように、まわりの連中に問いかけた。


「ここに、いたんだよ。久垣くん、久垣守くんって人が。クラスメイトでしょ。どうして、みんな覚えていないの?」


 みんなに覚えられないようにしていたからだ。

 もちろん、るる子だってそのことは知っているはずだった。

 でも、どうしようもない不安のせいで、そう聞くことしかできなったのだろう。


 るる子は見えない友達と話す、変人あつかいされるようになった。

 最初はそんなふうに、ただの不思議ちゃんで済んだ。

 けれど、それが何度も続くと、誰もが彼女の相手をしたがらなくなった。


 たくさんいたはずの友達が一人減り、二人減り──。

 最後には、誰もいなくなった。


 教室の中で、るる子は孤立した存在になった。


 孤独から逃れるためか、るる子は学校内を歩き回った。

 ほんのわずかでも、俺がいたことを示す証拠がほしかったのだろう。


 るる子は部室に行った。

 でも、そこには何もなくなっていた。


 部室ごと夕日が消えたわけではない。

 おそらく俺という接点が、この世界からなくなったせいだ。

 それが原因で、次元のトンネルと部室をつなぐことができなくなったに違いない。

 それは、るる子がナナと会えなくなった、ということにもなる。


 白羽と黒羽も、るる子の前に姿を見せなくなった。

 二人がこの世界にやってきた原因。

 龍宮ナツメが姿を現さなくなったからだ。


 その理由は、俺にはわからない。

 何かきっかけがなければ、出てくることができないのかもしれない。

 たとえば、俺がるる子に能力を使ったときのように────。


 それから、二年と半年あまりが過ぎて、るる子の卒業が目前に迫った。


 彼女は進学しなかった。

 勉強どころではなかったのだ。


 時間があれば、校内を歩き回るだけの日々を送っていた。

 いるはずもない、俺の姿を探し続けていたのだ。


 そんなるる子に声をかけたのは、キル先生だけだった。


「久垣のことは忘れろ」

「先生は……っ。先生は、守くんのことを覚えているんですか!?」

「久垣のことは、忘れろ」

「答えてくださいっ!! 答えて、くださいっ……」


 彼女の必死な問いかけに、先生は何度も同じ言葉を返した。

 まるで呪文をとなえて、魔法でもかけようとしているみたいだった。

 もしかすると、本当に仙人の使う方術というやつだったのかもしれない。


「年頃の娘に効く術なんて、ありゃしないか」


 るる子が去ったあと、先生が苦い表情で呟いていた。


 彼女は高校を卒業した。

 その後、何をするわけでもなく、家でただ日々を過ごしていた。


 そんな娘のことが心配だったのだろう。

 卒業してから半年ほどして、るる子は親の勧めで就職することになった。


 親が知り合いから、つてを頼っての入社だった。

 そんな彼女に同僚や先輩たちは、あまりいい目を向けなかった。


 孤独な学生生活を送っていたるる子は、人付き合いがすっかり苦手になっていた。

 そのせいで、愛想のない新人に見えたのかもしれない。


 最初のうちは冷たい対応や、不幸な偶然がたびたび起きるぐらいだった。

 彼女が先輩に命じられ、備品や、郵便物を取りに行く。

 ところが、るる子は行った先で、すでに引き渡しが終わったと告げられるのだ。


 戻って先輩にそのことを報告すると、同じことを言われる。

 とっくに他の人間から受け取った、と。


 そのうえ、彼女の仕事を横取りした相手は、これみよがしに言う。

 先輩がるる子に頼んでいたことなど知らなかった、と臆面おくめんもなく口にする。

 最後はとどめとばかりに、周囲から刺さるような視線が飛んでくるのだった。


「あの子、しゃべらないんだよね」

「こっちがちょっと言うと、すぐ黙りこくってさ。生意気なんだよね」

「無口すぎるんだよなあ……」

「なんか薄気味悪いの。ずっと黙ったままでさ」

「友達少なそう」


 ささいな評価が人の口を伝って、悪い評判ばかりが広がっていく。

 世間にありがちな、まわりくどい嫌がらせというやつだった。


 そんな日々が続いた、ある日のこと。

 それまで特にうるさいことを言わなかった上司が、るる子を呼んだ。

 彼女が作った書類に不備があると、必要以上に指摘してくるようになった。


 同僚の一人が自分と親しい上司に、あることないことを吹き込んだらしい。

 その頃には、るる子の方も、会社の中では必要以上に口を開かなくなっていた。


 長時間にわたる上司からの無意味な説教。

 加えて、同僚からは冷淡にあしらわれる日々。


 そうした社内イジメが半年ほど続いたあと、彼女は会社を辞めた。

 明るく社交的だった頃のるる子であれば、そうはならなかったかもしれない。


 るる子は二十歳になった。


 仕事を辞めたあとも定職にはつかず、ずっと家にいた。

 家にいても、両親とはほとんど会話がない。


 かつては明るく、笑顔の絶えない家庭であった。

 今では家族が顔をあわせても、声をかけあうことすらなくなっていた。


 娘が新しい仕事を探す様子もなかったせいだろうか。

 両親は、彼女に一人暮らしを命じた。


 実家を出て、アパートで暮らすことになったるる子。


 最初のうちは生活費という名目で、いくらかの仕送りが送られてきた。

 だが、一年を過ぎる頃、唐突に金銭的な援助は打ち切られた。


 娘がもう普通の生活を送れない、と両親は判断したのだろう。

 事実上の絶縁であった。


 るる子は生活のために、アルバイトを始めた。

 運よく見つかった仕事は、工場の軽作業だった。


 すっかり無口になっていたせいで、人間関係は希薄であった。

 精神的には、会社勤めをしていた頃よりも楽であったかもしれない。


 けれども、やはりここでも彼女は冷たく扱われた。

 以前から長く勤めているパートのまとめ役が、るる子に目をつけたのだ。


 自分よりも若い、という理由だけで敵意を抱かれた。

 その感情は、日毎に膨らみ、毒のような悪意に育っていった。


 理不尽な命令をされても、るる子は逆らわなかった。

 それが一度通ると、さらに無理を押しつけてくるようになった。


 力仕事があれば、それが強引にるる子の役目にされた。

 男でもつらいと思うような、重い荷物を運ばなければならないこともあった。


 るる子は何も言わなかった。

 その無言が、かえって事態を悪化させていった。


 誰にも理解されないまま、彼女は日々の苦行に耐えるしかなかった。

 他人との溝を埋めるすべもなく、ただ毎日、沈黙とともに過ごした。


 誰もいないアパートに帰り、疲労困憊しきったるる子は泥のように眠る。

 からっぽの部屋には、家具どころかテレビすらない。

 生活に必要な、最低限の物しかなかった。


 働いて、眠り────ただそれだけの日々。


 そんな生活が二年も続いた。

 俺とるる子が最初に出会ってから、七年が過ぎていた。


 その日、彼女はアルバイトから帰るなり、自宅の玄関先で倒れた。


 真冬の夜のことだった。

 暖房器具すらろくにないアパートの一室で、るる子は倒れたきり動かない。


 安普請のせいで、どこかから風が吹き込んでくる。

 日中の日当たりもよくないせいか、建物そのものが冷えきっていた。

 室温は外気温とほとんど変わらない。


「うぅ……」


 るる子が短く息をもらした。


 体調を崩しているらしい。

 発熱のせいで、顔が赤くなっている。

 それなのに、手のひらからは血の気が失せて、雪みたいに真っ白だ。


 おい。起きろって。


 この時期に、布団もかけずにこんなところで寝転がるな。

 風邪ひくぐらいじゃ済まないぞ。


「……まも、る……くん」


 ささやくような、小さな声。


「守、くん……ごめんなさい……」


 どうして謝っているのだろう。


 俺に、何か伝えたいことがあるのか。


「……つらいこと、思い出させちゃって……ごめんね」


 彼女の時間は、七年前から止まったままだった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る