2
翌日、俺は学校に行けなかった。
行けなくなっていた、と言うべきかもしれない。
俺は消えてしまった。
文字通り、誰の目にも映らない、幽霊のような存在になっていた。
昨日の放課後、部室を出てからのことだ。
家に帰って、いつもと同じように夕食を済ませ、寝ようとした。
そのとき、ふいに────。
いきなり、何ら前触れもなく、押し潰されそうなほどの不安が押し寄せてきた。
同時に、すさまじい後悔の念が湧いた。
枕に顔を押しつけて足をバタつかせたくらいでは、どうにもならない。
そのくらい、強い感情だった。
果てしなく続く坂道の先に、ばっくりと口を開けた、暗い穴が見えたような気がした。それは────るる子が感じていた不安の正体。
女にしか、理解できない感情だった。
どこか、誰も知らない遠くに行きたい。
自分がいなくなっても、誰も困らない。
そんな気持ちをわかることができた理由は、ひとつだけ。
やはり俺が、体だけでも女になっていたからかもしれない。
彼女を理解した俺は、いつのまにか消えていた。
こんなときでも手を抜かない、便利すぎる能力がうらめしい。
この世界から、俺という存在がきれいさっぱり消し去られていた。
かくして俺は実体を持たず、なんら意志らしいものを持たない存在となった。
風に吹かれて、ふわふわと漂う、かつて俺であった
誰の目にも見えない、空気としか言えないもの。
できることと言えば、目の前で起きていることをただ見るだけであった。
そんな状態になっても、以前の記憶に引きずられるものがあるらしい。
ときおり、意識が
────るる子だ。
俺がいなくなったところで、彼女は何も困らないはず。
今まで通り、普通の生活を送るに違いない。
ところが、そんなことはなかった。
それもそのはずで、るる子には俺の能力が効いていなかったのだ。
教室の中で、彼女だけがかつてそこにいた俺を知っていた。
るる子は、まるで思い出にすがるように、まわりの連中に問いかけた。
「ここに、いたんだよ。久垣くん、久垣守くんって人が。クラスメイトでしょ。どうして、みんな覚えていないの?」
みんなに覚えられないようにしていたからだ。
もちろん、るる子だってそのことは知っているはずだった。
でも、どうしようもない不安のせいで、そう聞くことしかできなったのだろう。
るる子は見えない友達と話す、変人あつかいされるようになった。
最初はそんなふうに、ただの不思議ちゃんで済んだ。
けれど、それが何度も続くと、誰もが彼女の相手をしたがらなくなった。
たくさんいたはずの友達が一人減り、二人減り──。
最後には、誰もいなくなった。
教室の中で、るる子は孤立した存在になった。
孤独から逃れるためか、るる子は学校内を歩き回った。
ほんのわずかでも、俺がいたことを示す証拠がほしかったのだろう。
るる子は部室に行った。
でも、そこには何もなくなっていた。
部室ごと夕日が消えたわけではない。
おそらく俺という接点が、この世界からなくなったせいだ。
それが原因で、次元のトンネルと部室をつなぐことができなくなったに違いない。
それは、るる子がナナと会えなくなった、ということにもなる。
白羽と黒羽も、るる子の前に姿を見せなくなった。
二人がこの世界にやってきた原因。
龍宮ナツメが姿を現さなくなったからだ。
その理由は、俺にはわからない。
何かきっかけがなければ、出てくることができないのかもしれない。
たとえば、俺がるる子に能力を使ったときのように────。
それから、二年と半年あまりが過ぎて、るる子の卒業が目前に迫った。
彼女は進学しなかった。
勉強どころではなかったのだ。
時間があれば、校内を歩き回るだけの日々を送っていた。
いるはずもない、俺の姿を探し続けていたのだ。
そんなるる子に声をかけたのは、キル先生だけだった。
「久垣のことは忘れろ」
「先生は……っ。先生は、守くんのことを覚えているんですか!?」
「久垣のことは、忘れろ」
「答えてくださいっ!! 答えて、くださいっ……」
彼女の必死な問いかけに、先生は何度も同じ言葉を返した。
まるで呪文をとなえて、魔法でもかけようとしているみたいだった。
もしかすると、本当に仙人の使う方術というやつだったのかもしれない。
「年頃の娘に効く術なんて、ありゃしないか」
るる子が去ったあと、先生が苦い表情で呟いていた。
彼女は高校を卒業した。
その後、何をするわけでもなく、家でただ日々を過ごしていた。
そんな娘のことが心配だったのだろう。
卒業してから半年ほどして、るる子は親の勧めで就職することになった。
親が知り合いから、つてを頼っての入社だった。
そんな彼女に同僚や先輩たちは、あまりいい目を向けなかった。
孤独な学生生活を送っていたるる子は、人付き合いがすっかり苦手になっていた。
そのせいで、愛想のない新人に見えたのかもしれない。
最初のうちは冷たい対応や、不幸な偶然がたびたび起きるぐらいだった。
彼女が先輩に命じられ、備品や、郵便物を取りに行く。
ところが、るる子は行った先で、すでに引き渡しが終わったと告げられるのだ。
戻って先輩にそのことを報告すると、同じことを言われる。
とっくに他の人間から受け取った、と。
そのうえ、彼女の仕事を横取りした相手は、これみよがしに言う。
先輩がるる子に頼んでいたことなど知らなかった、と
最後はとどめとばかりに、周囲から刺さるような視線が飛んでくるのだった。
「あの子、しゃべらないんだよね」
「こっちがちょっと言うと、すぐ黙りこくってさ。生意気なんだよね」
「無口すぎるんだよなあ……」
「なんか薄気味悪いの。ずっと黙ったままでさ」
「友達少なそう」
ささいな評価が人の口を伝って、悪い評判ばかりが広がっていく。
世間にありがちな、まわりくどい嫌がらせというやつだった。
そんな日々が続いた、ある日のこと。
それまで特にうるさいことを言わなかった上司が、るる子を呼んだ。
彼女が作った書類に不備があると、必要以上に指摘してくるようになった。
同僚の一人が自分と親しい上司に、あることないことを吹き込んだらしい。
その頃には、るる子の方も、会社の中では必要以上に口を開かなくなっていた。
長時間にわたる上司からの無意味な説教。
加えて、同僚からは冷淡にあしらわれる日々。
そうした社内イジメが半年ほど続いたあと、彼女は会社を辞めた。
明るく社交的だった頃のるる子であれば、そうはならなかったかもしれない。
るる子は二十歳になった。
仕事を辞めたあとも定職にはつかず、ずっと家にいた。
家にいても、両親とはほとんど会話がない。
かつては明るく、笑顔の絶えない家庭であった。
今では家族が顔をあわせても、声をかけあうことすらなくなっていた。
娘が新しい仕事を探す様子もなかったせいだろうか。
両親は、彼女に一人暮らしを命じた。
実家を出て、アパートで暮らすことになったるる子。
最初のうちは生活費という名目で、いくらかの仕送りが送られてきた。
だが、一年を過ぎる頃、唐突に金銭的な援助は打ち切られた。
娘がもう普通の生活を送れない、と両親は判断したのだろう。
事実上の絶縁であった。
るる子は生活のために、アルバイトを始めた。
運よく見つかった仕事は、工場の軽作業だった。
すっかり無口になっていたせいで、人間関係は希薄であった。
精神的には、会社勤めをしていた頃よりも楽であったかもしれない。
けれども、やはりここでも彼女は冷たく扱われた。
以前から長く勤めているパートのまとめ役が、るる子に目をつけたのだ。
自分よりも若い、という理由だけで敵意を抱かれた。
その感情は、日毎に膨らみ、毒のような悪意に育っていった。
理不尽な命令をされても、るる子は逆らわなかった。
それが一度通ると、さらに無理を押しつけてくるようになった。
力仕事があれば、それが強引にるる子の役目にされた。
男でもつらいと思うような、重い荷物を運ばなければならないこともあった。
るる子は何も言わなかった。
その無言が、かえって事態を悪化させていった。
誰にも理解されないまま、彼女は日々の苦行に耐えるしかなかった。
他人との溝を埋めるすべもなく、ただ毎日、沈黙とともに過ごした。
誰もいないアパートに帰り、疲労困憊しきったるる子は泥のように眠る。
からっぽの部屋には、家具どころかテレビすらない。
生活に必要な、最低限の物しかなかった。
働いて、眠り────ただそれだけの日々。
そんな生活が二年も続いた。
俺とるる子が最初に出会ってから、七年が過ぎていた。
その日、彼女はアルバイトから帰るなり、自宅の玄関先で倒れた。
真冬の夜のことだった。
暖房器具すらろくにないアパートの一室で、るる子は倒れたきり動かない。
安普請のせいで、どこかから風が吹き込んでくる。
日中の日当たりもよくないせいか、建物そのものが冷えきっていた。
室温は外気温とほとんど変わらない。
「うぅ……」
るる子が短く息をもらした。
体調を崩しているらしい。
発熱のせいで、顔が赤くなっている。
それなのに、手のひらからは血の気が失せて、雪みたいに真っ白だ。
おい。起きろって。
この時期に、布団もかけずにこんなところで寝転がるな。
風邪ひくぐらいじゃ済まないぞ。
「……まも、る……くん」
ささやくような、小さな声。
「守、くん……ごめんなさい……」
どうして謝っているのだろう。
俺に、何か伝えたいことがあるのか。
「……つらいこと、思い出させちゃって……ごめんね」
彼女の時間は、七年前から止まったままだった。
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