戻ってきたとたん、部室の中がどよめきに包まれた。


「うわっ……これ、じゃなかった。あなた、本当に守くんなの?」


 るる子は自分の年収の低さに驚くOLみたいに、顔の下半分を手で隠していた。


「うわははは。どうだ、驚いたか」

「この下品な笑い声……間違いなく、守くんだよ!」


 そんな笑い方、一度もるる子に聞かせたことないぞ。


「すごーい!! お兄ちゃ……お姉ちゃん、美人さんだぁ」

「こら。そんなにひっつくなって、ナナ」


 抱きつくナナの肩をポンポンと軽くはたいて、離れるように促す。

 女になっても、やっぱりまだちょっと、たゆんたゆんとしたこれは苦手だ。


 他の連中、夕日も、白羽と黒羽の二人と一緒になって笑っている。


「おじさんが本当に、女になってしまったんだぞ」

「素敵ですわ、お姉様……」

「マモちゃん。美人さんです」


 なんか一人だけ変な反応をしているやつがいたが、気にしないことにした。


「うーん。なんだか、あやしいもん……」


 るる子が推理中の名探偵みたいな口調で言った。


「何があやしいんだ?」

「守くんのことだから、顔とかスタイルとか……美人になるように、ちょっといじってるかもだよ」

「いや、特にそのへんは変えてない」


 そんなところまで変えると、おそらく遺伝子情報までいじらないといけなくなる。


「図書室で医学書を借りて、体の構造を女にしただけだ。DNAの塩基配列まで変えるなんてことはできなかったから、なんて言えばいいのか……体型だの、骨格だのといった、人間の設計図には手を加えていないぞ」

「そ、そうなんだ……疑ったりして、ごめんね」

「いや。別に謝らなくても」


 なんだか、るる子と話していると変な感じだ。


 うまく言葉にするのは難しいが、フンワリした気分になる。

 これが女の気持ちというやつなのだろうか。


「うむ。このままだと、マズいような気が……」


 ノックもなしに、いきなり扉が開いた。


「あ。先生……」


 口を開きかけたるる子に、先生が左手をサッと振る。


 手の中から飛び出した、一枚の札が額に貼りつく。

 すると、るる子の動きがピタリと止まった。


「ひーさーがぁぁぁきぃ~……!!」


 キルキルの右手に、刃のない剣の柄みたいなものが握られていた。


「きぃーさまーはぁ、何をしとるんだぁ……」


 おっかない声とともに、腕が振り下ろされる。


 ────ジャキン!!


 柄の中から伸縮式の刀身部がすべり出てきた。


 刃のついていない剣先を俺の頭上にかざして、先生が眼光を光らせる。


「何か言いたいことがあったら、言ってみろ」

「や。これは、先生。えっとですね」


 今日の先生はマジだ。

 キレっぷりがハンパじゃない。


「先生、これ……便利そうですねっ! 授業のときに、黒板に書いた内容を解説するときに使う、あの伸びるボールペンみたいな、そういう」

「私は、貴様が、何をしてるのか、と聞いておる」


 激怒しているキル先生にむかって、命知らずのちびっ子コンビが声をかけた。


「おい。おばさん。そんなに怒ることないんだぞ」

「そうですわ。お姉さまは……」


 先生が無言で左手を振ると、銀色に輝く鉄球みたいなものが飛ぶ。


 ……どがっ! ゴツン!!


 奇妙な軌道を描いて飛んだ球体に頭を打たれると、白羽と黒羽がその場でひっくり返った


 謎の玉がキル先生の手に、吸い込まれるみたいに戻ってきた。


「なんですの、ここは!?」

「さっさと出すんだな! 閉じ込めるなんて卑怯だぞ」


 鏡のようにきらめく球面の中で、二人がキーキーとわめいていた。

 体のほうは倒れたまま、魂を抜かれたみたいに微動だにしない。


「こりゃまたお見事な手並みで」

「世辞などいらん。さっさと説明するがよい」


 先生が牙でも剥きそうな顔になっていた。

 こわい。めっちゃこわい。


「あの、先生。私がお兄ちゃんに頼んだんです……」


 夕日の後ろに隠れたナナが、胸だけはみ出させながら震える声を出した。


「お兄ちゃんがお姉ちゃんになったらいいなぁ……って。だから、お兄ちゃんは悪くないんです」

「いや。ナナのせいじゃない」


 血のつながっていない実妹に、かばってもらうわけにはいかない。


 先生の前で、素直に頭を下げた。


「全部、俺がやったことです。先生が何を怒っているかはわかりませんが、責任は俺にあります」


 キル先生の肩が、がっくりと落ちる。


「はぁ。まったく……貴様というやつは、ろくでもないやつだな」

「あの、先生。俺のしたことって、そんなに怒るようなことなんですか?」

「あたりまえだ!! 貴様は陰陽を逆転させてしまったのだ。それがわからんのか」


 黒板の前に移動すると、先生はチョークで五角形を描いた。

 角形の頂点に、真上から順に時計回りで、木、火、土、金、水と一文字ずつ漢字を配置していく。


「よいか。世の万物は、木火土金水という五行ごぎょうの巡りで常に循環しておる。五行は相生相剋そうせいそうこくの関係にあり、その変化は熱力学に通じる。たとえば木が燃えて火を生じる現象は、酸化反応をともなう変化だ。そのようにして五行の関係が絶えず流れ続ける過程は、物理で言えばエントロピーの増大とでも思っておけ」

「テストに出ますか、そこ」


 先生のオーラが攻撃色に変わったので、口を閉じておくことにした。


「そして、その五行の元をたどると、太極から分離した陰陽となる。これらをあわせて陰陽五行という。陰陽において、男は陽、女は陰に相当する。それすなわち、天然自然の運行、世の大本がそこにある、ということなのだ」

「つまり……俺の性別が変わると、何が良くないんですかね?」

「嘆かわしいやつめ」


 疲れきった声で嘆かれてしまった。


「ようするに、生きた人間が住む世間の物事は、たいがい陰か陽かで決まるんだよ!」

「ずいぶん大雑把だなあ!」

「やかましい。それを貴様が勝手に逆転させたから、私は怒っているんだ。いいか? わかりやすく例を出すと、陽電子がなんの前触れもなく電子になったら物理学者だってモニターにコーヒー吹くし、エデンの園からアダムがいなくなってイブとイブになったら、どこの教派に属していても人が増えないだろうが」

「宗教書の登場人物が女だらけになって百合ジャンルの人が大喜び、ってことですかね」


 キル先生が腕で俺の頭を抱え込んで、ゲンコツでグリグリした。


「痛い痛い。ごめんなさい、ごめんなさい」

「茶化すな。この馬鹿者め」

「先生。体罰はよくないですよ。体罰は」

「ぬかせ。貴様は、人間の法で守ってもらえる側ではなかろうが」


 先生が解放してくれたところで、頭をさすりつつ痛覚を麻痺させて、死滅した細胞を再生させる。テロメア伸びろー、伸びろー。


「そんなに怒らないでくださいよ。どうせ、すぐ男に戻れるんですから」


 一度やったので、要領はだいたいわかっている。


 男に戻るのは簡単にできるだろうし、そこからまた性別を変えることもたやすい。

 参考までに言っておくと、男から女になるときは骨盤をうまく分割するのがコツだ。慣れていないとたいへん危険なので、良い子はマネをしないでね。


 ところが先生は、俺の言葉を否定した。


「戻らずとも良い。そのままでいろ」

「どういうことなんですか。戻らなくっていいって?」

「だから前にも言ったろうが。そういう辻褄あわせをすると、よけいにエントロピーが増大するのだと思え。貴様にもわかりやすい言葉で説明すると、宇宙の法則が乱れるんだよ」


 いまいち理屈はわからないのだが、ヤバいということだけはよく伝わってきた。


「そういうわけだから、これ以上はおかしなことをするなよ。わかったな」

「でも俺、日常的に食い物をゼロから作ったりしてますよ。あれはいいんですか?」

「腹に入って消えるものと、人の性別を変えるのを一緒にするな。嘆かわしい」


 それだけ言うと、先生はどこからともなく鉄球を取り出した。

 倒れている白羽と黒羽の頭に一回ずつ、コン、コンと当てていく。

 鏡面の中で騒いでいた二人の姿が見えなくなったので、たぶん元に戻したということなのだろう。


「それから、久垣。いい機会だから、まわりの連中に女らしさを学べ……と言うよりも、あまり面倒事を起さなくなるように教育してもらえ」


 帰る途中で先生が、るる子の額に貼った札をひっぺがす。


「……どうしたんですか。急にいらっしゃったりして」


 るる子は、しゃべりかけていた続きを再開した。


「何か用事でもありましたか?」

「いや、気にするな。用は済んだ。たまに様子を見に来るから、真面目に活動するんだぞ」


 さっきまでの怒りを感じさせない、穏やかな口調で先生がるる子に頷きかけた。


 去っていく先生の背を見送って、途方にくれる。


「女らしくって言われてもなあ。どうすりゃいいんだよ」


 そう口にしたところで、なんとなくるる子と目が合う。


「まずは制服じゃないかな」

「いや、それ女装……俺に女の格好しろってのか!?」


 そんな本格的になってきても、その、あれだ。

 なんていうか、困る。

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