あのときのこと……ですか?


 ええ。今でもよく覚えていますよ。

 正直、生きていられたのが不思議でなりません。


 女の子って着ている服を消されると、あんなに怒るんですね。


「はぁ……」


 人生始まって以来の最悪な気分が、このたび更新された。


 昨日の放課後。

 るる子の制服を消してしまって以降、俺たちの関係は最悪な状態に突入した。


 朝から完全に無視されている。

 教室では、認識阻害がるる子に通じるようになったのかと思うぐらい、相手にしてもらえなかった。

 おかげで俺は、部室にも顔を出せず、こうして中庭でため息。


 あれは運が悪かった、としか言いようがない。

 これが質量をともなう攻撃なら時間の流れを遅くして、その間にどうにかすることもできただろう。

 でも、あのときは相手が悪かった。

 たやすく止められる可能性のある攻撃など、通じる様子ではなかった。 


 あのときばかりはナナがいてくれてなかったら、どうなっていたかわからない。

 被害が最小限で済んだのは妹のおかげだ。

 ナナは俺に的確な指示を出し、るる子を落ち着かせてくれた。

 妹勲章でもあれば、くれてやったに違いない活躍ぶりだった。


 もうお兄ちゃんとしては頭が上がらないよ。

 そんなわけで、ベンチに座って落ち込みまくり。


 たぶん、このまま部室に行っても気まずいだけだろう。

 しばらく顔を出さないほうがよさそうだ。


 それよりも、目下の厄介事がある。

 あの龍宮ナツメとかいう、いけすかない野郎をどうするかだ。

 次に会ったときは俺より強くなる、みたいなことを言っていた気がする。


 あの野郎、どういう理屈でパワーアップしやがるんだ。

 それがわからんことには、手の打ちようがない。


 頭を悩ませている俺の前に、また新たなトラブルの予感が迫ってきた。


 女だった。

 背筋がえらくピンと伸びて、いかにも優等生っぽい。


 彼女は俺の前までやってくるなり、ピタリと足を止めた。


「こんにちは。久垣守」

「はじめまして。華汐菊音はなしおきくね先輩」


 俺と先輩は初対面だ。


 まあ、認識阻害を気にせず近づいてくるのだから、普通の人ではないのだろう。

 しかし、今まで学校内で見たこともないし、会ったこともない。

 そういうやつは、たいがい厄介事を運んでくるものだ。


「猫を探しているの」

「はあ」

「あなたは猫を見ていないかしら」

「見ていません」


 先輩の手が、スカートの中に入った。

 一枚の布が下がってきた。

 右足をスルリと抜き、続けて左。


 先輩は俺の頭に、白い布をかぶせた。


「あの、せんぱ……これは、何を……」


 なぜ俺の頭に、脱ぎたてのパンツが被せられているだろうか。


 氷解しない疑問に悩まされている途中で、やっと気がついた。

 あきらかに蔑んだ目で、先輩が俺を見下ろしている。

 なんで、どうして、そこで俺の方が悪いみたいな態度なの。


 先輩がポケットからスマホを取り出した。


 あ。


 やめて。


 写真撮らないで。


 お願い。


「……っていうか、なんの理由があって、こんなことしてんだよ!! いきなりすぎて、わけわかんねえよ!」

「あなたは女に愛される資格のない男だわ」

「俺にその資格がないとしたら、先輩が奪ったんだよ! たった今!!」

「最低のクズね……」

「最低は先輩だろっ!! 少年の心に、過剰なドキドキとワクワクを感じさせちゃう、法律を守らないお姉さんかよ!」


 何がしたいんだ、この人。


「と、とってくださいよ。この、ぱっ、ぱぱ……パンツを」

「そんな汚らわしいことはできないわ。なぜなら、あなたの体に触れたものだから。久垣守菌」

「雑菌扱いするくらいなら、なんで被せたの!? しなけりゃいいだろ、そんなこと!」

「下着ではなく、体を要求するつもりだった。そう言いたいのね」

「言わないし!! 言うつもりもないし! だいたい、なぜ俺が見返りを求める前提で会話が進んでいるわけ!?」


 まるで話が通じない。


「わかりました。最初の質問に戻りましょう。先輩は、どうして俺に、こんなことしたんですか?」

「あなたは猫を見ていないかしら」

「見てませんから! っていうか、戻りすぎですから!!」

「もっと戻りたいのかしら?」


 なんか、ぞわっと寒気がした。


 なんだ今の。

 気のせいだろうか。


 どうして、手の震えが止まらないんだろう。


「いえ、いいです……話、続けてください。どうぞ」

「では、猫を探しに行きます。ついてきなさい」


 なぜ、そんな面倒なことしなきゃならんのだ。


 ぶっちゃけ、この人にこれ以上かかわりたくないぞ。

 トラブルとか悪い予感だなんて、甘い言葉では済まない状況に、今すでになっている。それ以外に言うことがない。


「報酬はその下着です。ちゃらららっちゃちゃーん。エロ垣守は、華汐菊音の下着を手に入れた」

「なにそのRPGみたいなの!? もらってどうしろっていうの、こういうの! 男がもらって使い道のあるものじゃないでしょ! あと名前でいじるのやめて!!」

「その言われ方は、多少なりとも傷つくというものね。女としての自信を打ち砕かれた気分だわ」

「俺もいろいろ打ち砕かれているよ! 常識とか、常識とか、常識とか!! あとプライドも!」


 ここ数日の出来事のせいで、俺の心はズタボロになっていた。


 そのうえ、この仕打ちはどういうことなんだ。


 なにゆえに、こんなひどい目にあわなければならないのだろうか。

 この世に神はいないのか。


「ふふっ。ちょっとは元気が出てきたみたいね。落ち込んでいるキミのこと、見ていられなくってさ」

「なんでそこ良い事したみたいなふうに言ってるんだ!! しかもスマホのメモに書かれたカンペ見ながらだし! せめて棒読み口調なのは、どうにかしてよ! というか、まったく元気じゃないから!! あとそれからお願いなんですけど、さっき撮った写真は消しておいてください」

「これが探している猫よ」


 液晶画面が、目の前にグイとつき出された。


「この猫、どこかで見たような……?」


 ふと思い出した。


 るる子が車に轢かれそうだったとき、助けようとしていた猫とそっくりだ。


「先輩、この猫は……」

「ついてくるのなら、まず頭にかぶった下着をどうにかしてもらえないかしら。一緒に歩いていて、誰かに見られたら私まで変態あつかいされそうだわ」

「いやだから、先輩が被せたんだよ。これ! どうしろってのさ!?」

「脳内のお嫁さんに履かせてあげる、というのはどうかしら? これで解決ね」

「何も解決してねえ!! それに俺の脳内嫁は、先輩よりもっとこう、ムッチリ、ぽっちゃりな……なんでもありません」


 先輩の目から、また凍てつく空気を感じて黙り込む。


「つまりあなたは、下着を履いていない生身の私についてくることよりも、脱ぎたての下着で妄想することを選ぶというわけなのね」

「また話そこに戻るの!? もういいじゃん、やめようよ!」

「邪魔なら焼いてもいいわ。火ぐらい出せるはずよ。どうせもう、汚されてしまって使えないわ」


 見えない手を使って頭のパンツをもぎとって、火で焼き払った。


「焼いたよ!! これで満足ですか、履いてない先輩!」


 すると、先輩は両手でスカートの左右の裾をちょんとつまんだ。


 そのままゆっくり、腕を上げていく。


「え、あの……いや、あの待ってください、ごめんなさい。だから……いきなり、そんな!? 俺にはまだ早いよ、そういうの!」


 先輩の動きが、ピタリと止まった。


「じつは、二枚履いていたのよ」

「何のためにしてるんだよ、そんなこと!! 意味わかんねえよ!」

「スパッツを履いていたほうがよかったかしら」

「それはちょっとグッときますね……とか言わせたいのか!? なんの目的があってするんだよ!」

「これは敵の攻撃を打ち破るための特訓」

「絶対、適当なこと言ってるだけでしょ! こんなので何か鍛えられるとか、ありえないから!!」

「あなたが頭に女性の下着を装備して、大はしゃぎをしている写真を見せたら、水取るる子はどういった反応を見せるかしら?」

「ドン引きされるに決まってるだろ!! 今、ただでさえ空気悪いのに、やめてくれよそういうの! ぶちこわしだよ、最悪の展開しか想像できないよ!! 真昼間の渋谷の交差点に、間違えていきなり出てきちゃった吸血鬼みたいな気分だよ! あと一応、言っておくけど大はしゃぎなんてしてないから!!」

「よし」


 胸元で右手をグッと握って、得意げに頷くのやめてください。


「よし、じゃねえですよ!! 何がよしなの!? この際なんでも言うこと聞くから、いやがらせはやめてくれませんかねえ。頼むから!」


 先輩がスマホの画面を見せてくれた。


 パンツをかぶって、鼻の下を伸ばした男がいる。

 とても自分とは思えない、だらしない顔をしていた。


「私、猫を探しているの」


 この人と会話をするのは、あきらめることにした。

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