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 女性は針のように尖った影の攻撃を、細身の剣で次々に退けた。

 流れるような動きは舞踏のようで、軽々とあしらっているように見える。それは、彼女の動きのひとつひとつに、余計な力みや無駄な部分がないためだ。それだけで、彼女の力量の高さが窺えた。

 影を自在に操っていたウィオラは、鋭い目で女性の動きを追っていた。彼女の登場と同時に、さっきまで浮かべていた余裕の表情は掻き消えている。

「赤金色の髪に狼の目。そして、その腕前。貴女、“死火しか”ですね」

 攻撃を払う手を止めないまま、女性は美しいのにどこか凄絶な笑みを浮かべた。

「これはこれは、光栄だ。魔族にまでこの名が通っていたとはね」

「魔族?」

 思わず声に出して、夏妃は呆気にとられた。ウィオラを見ると、女性を睨む彼女の目が、見る見るうちに変化した。光彩の薄い青色が、金属のような光沢を持つ銀色へと。

 異様な変化に息を呑む夏妃とユウに教えるように、王妃が淡々と言った。

「魔族は、魔術で姿形を変えて身を隠すのよ。けれど、正体を言い当てられると魔術は破れる。魔族にとって魔術は鎧。暴かれれば力も半減するわ」

 その言葉通り、目に見えて影の動きが鈍った。ウィオラは射殺しそうな目つきで女性を睨み、冷たい笑みを浮かべた。

「城を去ったはずの伝説の龍騎士に相対することになるとは。どうにも、分が悪いようですね」

「おや、逃げるつもり?」

 女性が剣を持たないほうの手で指をぱちりと鳴らすと、部屋の壁に備え付けられたランプが一斉に灯った。さらに彼女が手のひらを向けると、炎が大きくなってランプが音を立てて割れた。急激に強まった炎の勢いに耐えきれなくなったのだ。

「すみませんね、妃殿下。済んだらちゃんと直しますんで」

 呑気に言って、くるりと剣先をまわす。すると炎同士が次々にくっついて部屋全体を輪のように囲み、退路を断った。

 炎に触れた影が崩れ、数を減らしていく。その一方で、炎で生じた風が部屋の調度品や夏妃たちの服を揺らしたけれど、ほとんど熱さを感じないし焦げ付くこともない。

 それこそ、魔術を見ているようだった。一体、何者なんだろう、このひと。

「お見事ですね。さすが、“死火”の通り名は伊達ではない。魔術で作ったものではない自然の火をここまで操るのは、魔族にも無理です」

 ウィオラの賞賛と言っていい言葉に、女性は油断なく目を細めた。

「それはどうも。観念してくれた?」

「いいえ、残念ながら」

 銀色の目を光らせて、ウィオラが笑う。

「ここで捕らわれては我が君に合わせる顔がありません。どうあっても、通していただきます」

 一瞬で全ての影が消え、同時に彼女の背後の影に集約するように大きくなった。天井に達したそれが、一気に夏妃たちを目がけて落ちてくる。

 舌打ちが聞こえた。女性が影との間に割って入り影を切り払う間に、女性が操っていた炎が揺らいだ。その隙をついて、ウィオラが顔を庇いながら、薄くなった炎の壁を強引に突破する。ガラスが割れる音と同時に強風が吹き込んできた。

 逃げられてしまう。とっさに夏妃が壊れた大窓に手を掛けて押し開けると、広いバルコニーの真ん中にウィオラの背中が見えた。だが、彼女は雨に打たれながらも微動だにしない。

 バルコニーの向こうは断崖絶壁。岩肌に生えた樹木もまばらで、視界に広がるのは重く垂れこめた雷雲ばかり。そのはずだったのだけれど。

 叩きつける風と雨の音の合間に、「何故」という彼女の愕然とした声が聞こえた。夏妃も同じ気持ちで、彼女と同じ光景を見つめた。

 黒い雲の下、虚空からバルコニーを睥睨しているのは、恐ろしく巨大な生き物だった。ときおり稲光に照らされる翡翠色の鱗は、雨に濡れて黒光りして見える。鋭く光る角や爪は見る者に恐怖を与え、広げた翼は無慈悲な悪魔のよう。

 まさに夏妃が抱いていたイメージ通りの『ドラゴン』が、そこにいた。

「これは、どういうことだ?」

 困惑した声がして、ユウが夏妃に並ぶ。すると気が付いたように、鋭くウィオラを見下ろしていた焦げ茶の瞳が、夏妃を捉えた。

「やあ、ナツキ。無事王妃様に会えたみたいだね。良かったよ」

 見た目にそぐわない親しげな口調に、やっと現実感が戻ってきた。

「ウィル、なんで……。お城で変化へんげしちゃいけないんじゃなかったの?」

 変化はこの場所での絶対的な禁忌だったはずだ。ユウからもそう聞いている。

 しかし、変化しているのは彼だけではない。バルコニーを包囲するように、いくつもの影がこちらを窺っている。そのシルエットはどう見ても変化した龍族だ。

 困惑する夏妃をなだめるように、ウィルが答えた。

「大丈夫、心配しなくていいよ。俺たちは龍の王の許可を得ているから」

「父上の?」

 声を上げるユウの背後で、王妃がバルコニーに進み出てきた。

「貴方も独自に陛下に辿り着いていたようね。うまくやっているつもりだったのだけれど、どこかに穴があったのかしら」

 責める風ではなく、ただ純粋に疑問に思っている様子の王妃に、ウィルが大きな体を低くして一礼した。

「私は王子と行動を共にしていたナツキの伝言を受けて、村長の指示のもと動いただけです。妃殿下」

「……なるほど」

 王妃の視線が夏妃に向けられ、彼女は嘆息交じりに微笑んだ。

「やっぱり、貴女は私たちの予想の外にいるみたいね」

 王妃を守るように寄り添い立っていた女性がウィオラに近づき、静かにその首元に剣を突き付けた。抵抗の様子もなく、ウィオラは立ち尽くしている。

「私は任を退いた身だが、ここにいらっしゃる王妃殿下の名のもとに、お前を捕縛する。理解していると思うが、抵抗はお前のためにはならない」

 淡々と告げ、駆けつけてきた衛士にウィオラの身柄を引き渡す。三人がかりで厳重に戒められた彼女の姿が見えなくなると、空中にいた龍たちもどこかへ姿を消した。役目を終えて、変化を解くのだろう。

 最後まで残ったウィルに歩み寄り、その巨躯を仰ぐ。彼は夏妃に覆いかぶさるようにして背中の翼を広げた。何をしているだろうかと思い、すぐに気が付く。

 一番ひどいときに比べれば弱まってきているとはいえ、目を開けているのが困難なほど顔にぶつかってきていた雨が、和らいでいる。姿が変わろうと、彼のこういうところは変わらないらしい。

「ナツキ、中に戻りなよ。すっかり濡れてるし、風邪をひいてしまう」

「わかってる。ウィルは? 戻らないの?」

 遠のいてはいるが、雷鳴はまだ近くで聞こえる。万が一にも直撃すれば、いくら丈夫な龍族でも無事では済まないだろう。

 彼は瞳に困ったような色を浮かべて、ちらちらと夏妃の背後を窺った。

「戻りたいのはやまやまなんだけどさ。ちょっと、今戻ると障りがあるっていうか」

 元の姿だったら、苦笑を浮かべていそうな口調だ。同時に、どこか緊張感もはらんでいるような気がする。

 訳が分からず振り向くと、笑みを浮かべた王妃と目が合った。彼女は夏妃を手招きしながら、なんだか楽しげに言う。

「こちらにいらっしゃい、ナツキ。ここは親子水入らず、ふたりにしておいてあげましょう。随分久しぶりの再会のようだから」

 親子? と目を丸くする夏妃を尻目に、王妃は傍らに立つ赤金色の髪の女性に目配せした。

「ねえ、コルナリナ?」

 その名を聞いて、一気にいろいろな記憶が結びついた。

 武者修行をしているというウィルの母親。城を離れていた龍騎士。そして、初めて聞いたはずなのに、なぜか親しみを感じた強い響きの声。

 彼女を見上げて、まさか、という思いで呟く。

「ウィルの、お母さん?」

 女性――コルナリナは応えて微笑し、ウィルに視線を転じた。

「四十年ぶりだな、馬鹿息子。あんた、女の子を泣かせたんだって?」

 その台詞に、ウィルが大きな体を引いて耳を伏せる。ここまで体格が違うのに、力関係の差は歴然だった。

 コルナリナが追い打ちをかけるように、笑っているのに有無を言わせない、強烈な目力で彼を見据えた。

「いろいろと、シルエラから聞いてるよ。久しぶりのいい機会だ、じっくり話そうか」

「…………了解です」

 逃げられないと悟ってか、弱々しくウィルが呟く。なんだか、ドンマイと肩を叩いて慰めたくなった。

 近づきがたい雰囲気を放つ親子から離れて室内に戻ると、なにやら衛士に囲まれていたユウが近づいてきて、乾いたタオルを放ってよこした。

 彼はすでに肩にかけたタオルで拭いた後らしく、つややかなプラチナブロンドが今は鳥の巣のようにくしゃくしゃになっていた。

 彼は王妃に目を向けて、硬い表情で言った。

「……母上。父上と共に、話を聞かせていただきたい」

「ええ。着替えたら執務室へ行くわ。貴方も着替えて来なさい」

 ごく普通に答える彼女から視線を外して、ユウは夏妃を見た。

「ナツキ。お前にも立ち会ってほしい」

 もちろん、そのつもりだった。頷いて応えると、彼は僅かに笑みを見せて、そのまま背を向け部屋を出て行った。その後ろ姿はやはり、傷ついているように見える。

 彼のために何ができるかわからないし、自信もない。それでも、なにがあっても絶対に彼の味方でいよう、と自分に誓う。

 その夏妃の手を、隣にいた王妃が引いた。彼女に向き直り、ふと気が付いてユウから受け取ったタオルを差し出す。

「使ってください」

 彼女は少し目を大きくして瞬き、次いで小さく噴き出した。

「ふふ、ありがとう。でもそれは貴女が使って。私の部屋はここからすぐ近くだから」

 夏妃の手をやんわりと押し戻し、王妃はほっそりとした手を逆に差し出してきた。夏妃の開いている方の手を取って、小さな何かを握らせる。

 戸惑いつつ、ランプの光に手のひらを照らすと、小さな指輪が乗っていた。素材は金属ではなさそうで、つやつやとして軽い不思議な感触がする。白っぽい指輪の表面には、掘り込まれた繊細な模様が見えた。シンプルだが、手の込んだ品のようだ。

 問うように王妃を見ると、彼女は夏妃の手を両手で包み込んで微笑んだ。

「これは、貴女にご褒美。それと、お詫びの意味も込めて。これは貴女の好きに使ってちょうだい」

 最後に夏妃の目を覗き込み、彼女はほんの少し悲しそうに言った。

「私が言うことではないのでしょうけれど。どうか、ユウェルをお願いね」

 真摯な表情を見て、彼女に託されたものをなんとなく察する。

 夏妃は指輪を握りしめて、はっきりと頷いた。

「……はい。できる限りのことはするつもりです」

「ありがとう」

 王妃の顔には憂いが浮かんでいたが、毅然とした瞳に迷いはない。王妃として、彼女にも譲れないものがある。今回のこともきっとそうだ。

 けれど、それだけでもない。この指輪がその証になる。

 戸口から衛士に呼ばれ、夏妃は歩きながら取り出したハンカチで、指輪を大事に包み込んだ。

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