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 必要なものを採取し終えてウィルに森の出口まで送ってもらった頃には、いつの間にか空に雲が増え、山脈の尾根には入道雲が育っていた。天に届くほどの高さのそれは、まるで悠々と地上を見下ろす巨人のようだ。

 とうに昼休憩の時間は終わったらしく、先ほどとは打って変わって村の通りは静かだった。それぞれの畑や工房といった持ち場に戻ったのだろう。遠くから硬い物同士を打ち合わせる高い音や掛け声、手伝う子ども達の元気な声が聞こえてくる。

 村長の家に着くと、玄関ではなく裏口にまわった。正面は来客用で、親しい者や家族は普段そちらを使うのだと言う。誰かしらがいるので、そちらの方が用を済ませやすいというのもある。

 今日もすぐに、見知った姿を見つけることが出来た。

「こんにちは、オレアさん。シルエラさん、お使い行ってきましたよ」

 声をかけながら籠を持ち上げて示す。

「あら、こんにちは」

「お疲れさん、ナツキ。戻ったばかりで悪いけど、こっちを手伝ってくれるかい?」

「はい。なんですか? それ」

 夏妃は籠を裏口の階段に置き、何やら長いものを手繰っている彼女たちに近づいた。糸のように細い紐に、等間隔にいびつな形の鈴がついている。絡まったそれをほどきながら、シルエラが答えた。

「これは獣除けだよ。さっき森に入った若いのが、狼の足跡を見つけたって話でね。念のため警戒するようにって触れが出たのさ」

「狼?」

 固有種が絶滅した日本では縁のない生き物だ。とっさに浮かぶのは赤ずきんちゃんの悪役狼くらいのものだが、さすがに危険な猛獣だというくらいの認識はある。

「それは、怖いですね」

 たいした実感もないままとりあえずそう言うと、シルエラはからりと笑い飛ばした。

「まあ、今夜あたり巡回役を増やすだろうし、心配はいらないよ。ただ、ウィルも出張ることになるかもしれないからね。今日はうちに泊まりなさいな。さすがにナツキをひとりにしておくのは心配だよ」

「そうですね。よろしくお願いします」

 頷いて、ふと今ひとりきりで森にいるはずのウィルを思い、不安になった。

「あの、ウィルは狼のことを知ってるんでしょうか。さっき別れるときは何も言ってなかったけど……」

「ああ。誰かしら知らせに行っただろうし、ウィルなら大丈夫だよ。あの子は若いのの中では一番頭も回るし、引き際も心得てる。滅多な事にはならないだろう」

 なんでもないような口調にはウィルへの信頼が表れていた。それはそういえば、エルヴァや村の子ども達が彼について話すときにも言葉の端々ににじんでいたように思う。

 羨ましい、と思った。

 夏妃に関しては、王城に村長たちが参内して龍の王に報告を行うという、秋の定例会まで保留となっている。この猶予期間の間に自分にできることを探そうと決めたのだが、こちらの文字も分からず力仕事の役にも立てない身だ。とにかく読み書きを身につけるという基本的なところから始めるしかなかった。

 シルエラ達はこうしてこまごました頼みごとを回してくれて、感謝してくれる。それはありがたく嬉しいけれど、情けなさも感じていた。

 気が滅入る前に落ち込む思いを振り切って、夏妃は絡まる紐をほどくのに集中した。




 獣除けを庭に設置し終え、採ってきた野草を使った夕食の下ごしらえがひと段落したころ、ふとオレアが窓の外を見て呟いた。

「ティリオの帰りが遅いわね。いつも陽が落ちる前には、畑の手伝いから帰ってくるのに」

 言われてみれば、遅いかもしれない。夏妃は手の水を払いながらオレアを振り返った。

「そのまま遊んでるのかもしれないですよ。私、迎えに行ってきましょうか」

「でも、入れ違いになるかもしれないし……」

「今日はこちらでお世話になるので、ついでにウィルの家に寄って必要なものを取ってきます。いつもティリオたちが遊んでる路地はその途中だし、平気ですよ」

 借りていたエプロンを外しながら重ねて言うと、オレアはほっとしたように頷いた。

「そう? 助かるわ、ありがとう」

「じゃあ、行ってきますね」

「気を付けて行くんだよ」

 いつも持ち歩いているあさに似た手触りのかばんを斜め掛けして、シルエラの声を背に裏口を出る。この時間帯にしては外が薄暗い気がして空を仰ぐと、真っ黒な雲が空を覆っていた。風が強く、重たそうな雲がのろのろと流れていく。典型的な夕立の前触れだ。急いだ方がよさそうだった。

 空模様に急かされるように、足早に家路に着く村人たちの流れに混じって先を急ぐ。強風にあおられているのか、村中の獣除けの鈴の音が幾重にも重なって聞こえていた。村全体が、不吉な者の訪れに怯えているかのようだ。

 ティリオやパン屋の姉妹の遊び場になっている路地に差しかかり、覗きこんでみた。一応呼びかけてみたが返事はなく、入れ違いになったのかとため息をついた、その時。

 いきなり後ろからフードを引っ張られて息が詰まった。踏まれた猫みたいな声が喉から漏れ、たたらを踏む。振り向く前に、悲愴な声が夏妃を呼んだ。見れば、夏妃のフードをつかんでいるのは件のパン屋の姉妹だった。

「おねえちゃん、大変、大変だよ!」

「はやく、はやく来て!」

 何やら興奮状態で力いっぱいフードを握りしめるので、意識が遠のきかける。落ち着いてくれないとこちらも大変なことになってしまう。とにかく身をよじるようにしてその場にしゃがみ、彼女たちの手を外させた。やっと呼吸を確保して、喉元をさすりながら視線を合わせた。

「どうしたの? フィコちゃんに、ココちゃん」

「わたしたちはちゃんと止めたんだよ!」

 姉のフィコが涙目で訴える。

「でも、ティリオが小さいルヴトを追いかけて行っちゃった!」

 妹のココが必死に夏妃の腕を引っ張る。

 ――嫌な予感がした。

「行っちゃったって、どこへ?」

 二人は声をそろえ、ほとんど叫ぶように訴えた。

「森の中だよ! ティリオが狼に食べられちゃう!」

 ざっと血の気が引く音を聞いた気がした。勢いよく立ちあがり、鋭い声で訊く。

「どこ!?」

「昼間、おねえちゃんと会った畑を入ってすぐのところだよ」

 すぐさま駆け出したいのを堪えて、姉妹の肩に手を置いた。

「わかった、私が行ってみる。二人は村長さんの家に行って、誰かにこのことを伝えて。そしたら大人が動いてくれるから、大丈夫。そのあとは一緒に、真っすぐ家に帰りなさい。いい?」

 真剣に頷くのを見届けて、今度こそ駆け出した。腰で跳ねるかばんが邪魔だが、今は構っている余裕もない。普段からろくに運動などしないので、あっという間に息が上がる。それでも、足は止められなかった。

 畑に辿りつくと、膝下まであるスカートをたくし上げて低い柵を飛び越えた。なるべく苗を踏まないように平行に並ぶ畝を突っ切り、森に近づく。黒々とそびえる森は、風でざわざわと不穏な音を立てていた。

 すばやく目を走らせると、常に設置されている獣除けの紐が不自然にたわみ、茂みにひっかかっていた。ちょうど子どもがくぐれそうな隙間だ。姉妹が言っていたことと合わせて考えてみても、ここから入ったと見てまず間違いなさそうだった。

 森に向かってティリオの名前を何度か呼びかけたが、返事はない。夏妃は、腹を括った。

 大人たちがすぐに駆けつけてくれることを祈り、二重になった獣除けの上の紐をつかんでくぐる。触れた鈴がちりちりと、警告するように音を立てた。




 森に入ったことがあると言っても、決まった道を歩くだけだし、帰りはたいていウィルが外まで送ってくれていた。だから、夏妃にとってもこの森は見知らぬ場所に等しい。ごうごうと枝を揺らし、薄暗く視界の悪い森は、ひどくよそよそしく恐ろしげだった。

 あの気弱なティリオがこの中にいるのかと思うと、怖気おじけている暇さえ惜しい。目につく枝を折って目印にしながら、奥へ進んだ。

 真っすぐ行くと急斜面に出くわした。子どもはおろか夏妃にも登るのは不可能だと思える絶壁で、こちらの可能性は捨てた。分かれ道まで戻り、次は右手に進む。今度は、行く手にトンネルの出口に似た明るい半円が見えた。どうやら開けた場所につながっているらしい。

 屋根のように分厚く茂る枝葉の下から出ると、そこは谷川に面した狭い空間だった。ほとんど「崖っぷち」と呼んでもいい。似たような幅の空間が、頼りない道のように左右に伸びていた。

 覗きこむと水面まではせいぜい十メートルくらいの高さだったが、流れの中にところどころ岩が見える。落ちれば無傷では済まないだろうと思えた。

 まさか足を滑らせて……と嫌な想像に心臓が凍りつきそうになったが、それは杞憂に終わった。谷川を辿って下流に目を向けたところで、そんなに離れていない崖の縁に、見慣れた淡色の髪と空色の上着を着た小さな姿を見つけたのだ。

 無事だったことに安堵しへたり込みそうだった。しかし、谷川を背にした彼の姿はいかにも危なっかしい。夏妃は駆け寄り声をかけようとして、ぎくりと動きを止めた。

 体重の変化を受けて、靴の下の砂利が音を立てる。気づいたティリオが一瞬こちらに顔を向け、泣きそうな顔になった。

 夏妃は、動けない。ティリオの正面の森の中に、金色の対の眼が光るのが見えた。それもひとつやふたつではない。ざわりと背が泡立つ感覚が、無数の生き物の息遣いを伝えた。


 狼。


 伝聞でしか知らなかった生き物が、重い存在感を持って目の前に現れていた。

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