Ⅲ.雨下の黒、異世界の一秒

1

 今日も夏の日射しは絶好調だ。気温は上がり続け、昼を前に太陽も空の最高点に達しようとしている。

 村の通りには、日差しから逃れて庇や木陰で涼む者たちの姿があった。ご近所同士談笑していたり、民家の軒先のベンチでは婦人たちが冷茶を振る舞っていたり。このまま昼食に移行しそうな雰囲気だった。

 抱えた籠を揺すり上げて右手だけで持ち、目深に被った日除けのフードの縁を少し持ち上げる。雲が少ない空は完全な夏の色で、眼に痛いほどの青さに目を細めた。

 村のはずれに差し掛かると、目的の森が見えてきた。生い茂る木々の枝葉が傘になった森は目に涼しい。もう大丈夫だろうとフードを落としたところで、横手からにぎやかな声がかかった。

「あ、おねえちゃんだ!」

「黒龍さまだー!」

 目を向けると、右手の畑のほうから子どもたちが手を振るのが見えた。手を振り返すと、彼らは不器用に低い木の柵を乗り越え、彼女のもとに走り寄ってきた。その中に見知った顔を見つけ、夏妃は子どもたちと目線を合わせた。

「こんにちは。畑のお手伝い?」

「そうよ!」

「今年は雨が少ないから、お水を上げないと野菜がしおれちゃうんだってー」

 元気に答える女の子たちの後ろに控えめに立つ子どもが、足元の仔犬を抱え上げて夏妃を上目遣いに見た。

「おねえちゃんは、ウィルのところにいくの?」

「そう。ティリオのおばあちゃんのお使いだよ」

 答えると、彼は目を輝かせて身を乗り出した。

「ぼくもいきたい!」

 すぐに、彼より年嵩の女の子たちが目を吊り上げる。

「だめだよティリオ! 森に入っちゃいけないって言われてるじゃない」

「森には子どもを食べるけものがすんでるんだよ。お母さんが言ってたもん」

 ティリオと幼馴染だという家がパン屋の姉妹は、いかにもお姉さんらしく彼をたしなめる。詰め寄られてたじたじとなったティリオは、眉を下げて反論した。

「でも、おねえちゃんははいれるんだよ。ぼくだって……」

「おねえちゃんはウィルや村長さまのお許しがあるからいいの!」

「それにおねえちゃんは、黒龍さまだもの! 特別なんだよ」

 揃ってきらきらした目を向けてくる女の子たちの勢いに気圧された。あいまいに笑って、ごまかすしかない。

「特別かは、わからないけど。でも、危険なのはほんとだから森には連れていけないよ」

「……つまんない」

 憮然とした表情になったティリオの言葉尻にかぶさるように、鐘の音が鳴りだした。粉ひきの風車塔から響く音は、空に畑に森に、高く渡っていく。

「お昼のかねだ!」

「またね、おねえちゃん」

 村のほうへ踵を返して走っていく女の子たちに、ティリオものろのろと続く。夏妃は彼を呼びとめて、約束した。

「夕方にまた村長さんの家に行くから、待ってて。その時に遊ぼう」

「……うん!」

 途端に機嫌を直したティリオは、元気に村へ走って行った。

 言いそびれたが、炎天下を連れまわされた仔犬がぐったりしていた。まあ、家に帰るならシルエラあたりが気づいてくれるだろう、と希望的観測に任せた。頑張れ仔犬。

 そういえば、ティリオが名前を付けると言っていたがどうなったのだろうか。夕方に会った時に訊こうと決める。

「さて、お使いを済ませますか」

 ひとりごちて、夏妃は森の中に分け入った。




 夏妃がこの緑龍の村に暮らし始めてひと月と少しが経った。

 本格的な夏の色に様変わりした空や山々の色は日本とそう変わりないが、湿気が少なく過ごしやすい気候なのはかなりありがたかった。冬は雪の日が多いというから、緯度が高い地域に似た気候なのかもしれない。

 他にも、このひと月で学んだことは多い。

 例えばこの地域には日本と同じように四季があること。キルシェはサクランボに似た果物であること。そして、本当に龍の中で「黒色」は特別視されているらしいこと。

 誰もが知る「黒龍さま」と同じ色を持つ夏妃は、あっという間に村に受け入れられた。

 親しげに接してくれる大人たちは優しいし、慕ってくる子どもたちは可愛いが、実際のところ龍族ではない夏妃には居心地が悪い。他人の名前を借りて、成りすましているみたいな後ろめたさがある。

 考えながら歩いていたら、木の根につまずいて転びかけた。慌てて籠を抱えなおし、真っ直ぐ前を向く。

 他に気を取られていなければ、森の中はとても歩きやすかった。下生えも一定以下の長さになっているし、枝葉の間からは適度な陽の光が届く。青々と活発な夏の森の様子はそのままなのに、荒れ放題にならないのが不思議だ。

 赤い花をつける低木を右手に見て傾斜を慎重に降りると、開けた窪地に出た。窪地の真ん中には朽ちて横たわる太い倒木があり、その根元から細い若木が枝を伸ばしている。

 少し大きく覗く空から射す木漏れ日が、柔らかいスポットライトのように当たる様は幻想的だった。ここに来るたび、夏妃はしんと胸の奥がはりつめるような、厳かな気持ちになる。

 その倒木に腰かけた待ち合わせ相手が、夏妃に向かって軽く手を挙げた。不思議な色合いの髪が、光の粒子を纏うようにきらきらと輝いている。

「お疲れさま、ウィル。ごめんね、ちょっと遅れちゃった」

 傾斜を下りきって彼に近づいていくと、彼はいつもの柔らかい笑みで応えた。

「大丈夫。待つのは結構好きなんだ。気にしないで」

 その感覚は、わかるような気がする。しかし、待たせる側にはできればなりたくはない。

「でも、お腹空いたでしょう。これ、シルエラさんから」

「お、今日は厚切り肉とチーズのサンドイッチか。なんだか、ナツキが来てからやたらはりきってるなあ、シルエラは」

 ウィルは、受け取った籠の日除けになっていた布を広げて自分のとなりに敷き、どうぞと夏妃に示した。最近は彼のこうした振る舞いにもいい加減慣れて、お礼を言って座らせてもらった。

 差し出された籠から夏妃もひとつもらう。彼はサンドイッチを頬張りながら、じっと夏妃を見て言った。

「朝からちょっと思ってたんだけどさ、なんだか顔色が悪い気がするよ。具合が悪かったりする?」

 ……やっぱり彼は優しいのだなと思う。気づいてほしくないことにも気づいてしまうほど、よくこちらを気にかけてくれている。

 苦笑しながら首を振った。

「暑いから、ちょっと寝苦しくて。そのせいかな」

「ああ。確かにこの頃、夜になっても気温が下がらないな」

 頷くウィルの目が見れず、俯く。

 本当は、そんなことが理由なのではなかった。確かに暑いことは暑いけれど、日本に比べたら格段に快適な部類に入る。

「具合が悪い時は、無理せず言ってよ。俺にじゃなくてもいいからさ」

「うん。ありがとう」

 本当の理由は言えずに、彼に質問することで話を逸らした。

「ねえ、ウィルはいつも森で何をしているの?」

 この森は広大で、遠くに見える山脈のふもとまでずっと続いているらしかった。中で迷子にでもなれば大変なことになるのは想像がつく。だからこそ、村では子どもたちが森に入ることを禁じているのだろう。

 彼はそんな森に、龍の姿に変化して早朝から夕方近くまで入ったきりだ。いったい何をしているのかずっと気になっていた。

「何ってこともないんだけどね。巡回っていうのが一番近いかな」

「巡回?」

 ウィルはサンドイッチを呑みこんで、籠の中の水筒を取り出した。一緒に入っていたカップにお茶を注ぐと、夏妃に渡してくれる。自分の分を注ぎながら、のんびりと彼女に尋ねた。

「この森さ、あんまり荒れてないだろ?」

 まさにさっき考えていたことだったので、大げさなほど大きく頷いてしまう。彼はお茶を一口飲んで、熱かったらしく小さく眉をしかめた。

「どうもそういうのが緑龍の力の一部らしいんだよ。変化した状態で近くにいると、弱った植物が持ちかえす。余分な成長を抑えて一番いい状態に森をとどめる。寿命を延ばせるわけでも操れるわけでもないけど、ほんの少しだけお互いの力を借りて共存できる。その程度のことなんだけどね」

 なんでもないことのように言うが、夏妃は飲みかけたお茶のことも忘れて彼を凝視した。

「その程度なんてことない。私は十分すごいと思うけど」

「そうかな。労を惜しまなければ誰にでもできることだよ」

 肩をすくめてお茶を吹き冷ます彼は、頓着しない。

「この森を全部、ウィルひとりで見回っているの?」

「昼間は俺だけだけど、夜間は村の若い奴らが組んで回ってるよ。厄介なのは夜だからね。獣が活発になるし、たまに凶暴なのも出る。そういうのを村に近づけないのも務めなんだ」

「大変なんだ……」

「この土地に生きてるのは龍族だけじゃない。このくらいは仕方ないよ」

 やがて食事を終えると、ウィルは手についたパンくずを払い、立ち上がって伸びをした。

「さて、食後の運動といこうか。今日のシルエラのお使い内容は?」

「あ、うん」

 飲み終えたカップを倒木に置いて、肩掛けかばんから小さな紙片を取り出した。開くと、蔦模様のような複雑な走り書きが三つ並んでいる。夏妃は英単語の意味を思い出す時のようにその走り書きを睨んだ。

「ええと。ル、ブ、ス。これがブ……ヴィレンス。3つ目が、ブレ、ヤン?」

「どれ」

 差し出された手にメモを渡す。ウィルは惜しい、と片眉を上げて見せた。

「正解はルブス、ヴィレンス、ブレヤーナ。ルブスは野イチゴの一種で、ヴィレンスとブレヤーナはスパイスとして使う香草だよ」

「うー、そっか。伸ばす音は逆さ文字になるから……」

 眉間にしわを寄せて記憶に刻もうとする夏妃に笑って、ウィルが頭を軽く撫でた。

「焦らなくて大丈夫だよ。ずいぶん読めるようになったじゃないか」

「単語だけね。昨日もティリオと一緒に、オレアさんに習ったのになあ」

「仲良しでいいことだね。さあ、お使いを早く済ませよう」

 宿題代わりのメモをたたんで、ウィルがカップや水筒を手早く片付ける。夏妃も手伝い、少し軽くなった籠を抱えた。

「確かこっちに、ちょうどいい出来のルブスの茂みがあったな」

 勝手知ったる庭のように迷いなく歩くウィルに続いて、夏妃も歩き出した。

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