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遅くならないうちに切り上げ、数冊の本を借りて図書館を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。空に浮かぶ月はまだ細く、夜空にばらまいたような星々がよく見えた。日本のように煌々とした街明かりがないせいか、その光は今まで見たことがないほどくっきりと見える気がする。
「うわー、すごい星だねえ」
「寒くなってきたからかな、すごく綺麗に見える」
「ふたりとも、上ばかり見ていると躓くよ」
「はーい」
窘めるローの声にシュカと一緒に良い返事を返しながらも、夜空を眺めることはやめない。ふたりで手をつなぎ、白い息を吐きながらよろよろ歩く。それが妙に楽しくて、心が浮き立った。呆れ顔だったローもそのうち笑いながら加わって、ぽつぽつと街灯が続く冬の初めの道を、三人で並んで歩いた。
「真上の一番明るい星を含む四辺形がオオカミ座。そこから北に辿ったところにある二つ並んだ星が、牡鹿座の背にあたる」
「え? どれどれ?」
「あ、見つけた。あれでしょ、青い明るい星の左側!」
「そう。青い星はフェネストラ。冬の初めにはあの星の方角から風が吹くから、北の窓と呼ばれてる」
物知りなローの解説を聞きながら星を見るのは楽しくて、シュカと競争しながら星座を探した。
この無数の星の並びが元の世界と異なるのかどうか、夏妃には知るすべがない。知っている星座と言えば北斗七星とオリオン座レベルだ。少なくとも冬の近づくこの空にオリオン座は見当たらないけれど、それを深く考える気はなかった。
この空が元の世界とつながっていなくても構わない。今浮き立つこの気持ちが本物なら、それでいいと思えた。
「ねえ、ふたりともお腹すかない? 今日、というかいつも付き合ってくれるお礼になにかおごるよ」
「いいの?」
「え、でも……」
途端に目をキラキラさせるシュカとは対照的に、いかにも育ちがよさそうなローが戸惑った顔になる。
「もちろん、迷惑じゃなければ。あ、でもお家でご飯の用意してるもんね……」
無理強いすることでもないので少し残念に思いながらも引き下がろうとすると、ローが引き止めた。
「いや、ナツキがいいなら、お言葉に甘えることにする」
「そうそう。内緒にすればわからないよ」
シュカが
果たして、目当ての明かりが灯る小さな屋台を見つけた時には三人ともすっかりお腹をへらしていた。注文してそれほど時間を置くことなく、温かな焼き菓子を渡された時には思わず歓声が漏れた。
残念ながらアルビコッカの砂糖漬けは二つまでしか用意できないとのことだったので、自分の分はカスタードに似た黄色っぽいクリームに木苺の果肉とソースが乗っている種類にした。食べてみると、これも美味しい。シュカと大はしゃぎで交換しながら食べていると、ふとローの様子がおかしいことに気が付いた。じっと焼き菓子を見つめたまま、固まっている。
「ロー? もしかして、食べられないものが入ってた?」
しまった、事前に聞いておくべきだった、と後悔したところで、慌てたように首を振られた。
「いや、そうじゃないんだ。ただ、こういうの、初めて食べるから……」
「初めて? こういう焼き菓子が?」
「というか、こうやって外で食べ歩きみたいなことをしたことがない」
なんと、想像以上にお坊ちゃんだったらしい。落ち着かないなら座って食べよう、ということで、いつかはミカと一緒に腰かけたベンチに三人で並んで座る。ローは少しほっとした様子で、それでも恐る恐る、焼き菓子を口に運んだ。
「美味しい」
びっくりしたように大きく開いた蒼い目と、口の端にくっついたクリームが妙に可愛い。指摘すると、慌てて口元をぬぐった。
気を良くして木苺味も勧めてみたが、さすがにやめておくよ、と苦笑されてしまった。遠慮しなくてもいいのに。やっぱり育ちがいいんだな、と自分の分にかみつく。小腹を満たしてじゃあ解散かなと思ったところで、宿まで送るとかなり真剣な調子で言われてその印象はますます強くなった。
「ローってしっかりしてるよね。お家が厳しい感じなの?」
「まあ、家というより父がね。礼儀や立ち振る舞いにかなり厳格な人だから」
なるほど、と感心する。それでぐれたりひねくれたりせずに、周りにも気を配れるリーダー的存在になれるのだから本当に尊敬する。彼が父親の期待に応えるべく素直に努力を重ねた結果だろう。
「すごいねえ、ローは。私も負けないようにがんばらなきゃ」
「え? なんのこと?」
「ううん、こっちのことだからいいの」
話しているうちに、あっという間に【銀の杯亭】の前に着く。食べて気が抜けたのか、欠伸を連発して眠そうだったシュカが、いつものぽやっとした笑顔を見せて夏妃の両手を掴んだ。
「今日はありがと、ナツキ。楽しかったし、美味しかった」
「うん、僕も」
ふたりに笑みを返して、手を握り返した。
「私も、ふたりに感謝してる。ありがとう。おかげで、演技も何とかなりそうな気がしてきた。明日からもよろしくね」
また明日、と手を振って、二人の姿が見えなくなるまで見送った。
翌日から、歴史考察と合わせての練習が始まった。
さすがにすぐ注意の回数が減るようなことはなかったけれど、時代背景やこの後の展開をいったん頭に入れたことで、考えながら演じる癖が付いた。疑問はローやシュカとともに借りてきた本を見返すことで、相談しながら解消していく。
数日後にはそこに他の役者たちも加わって、話し合いながらの稽古が習慣づいてきた。今までは台本に沿って演じ、その違和感をローが指摘していくだけの形式だったので、これは大きな変化だった。
そして、この練習方法で思わぬ成果が得られることとなる。
歴史考察をしていくと、どうしても簡単な解説書程度ではカバーできない部分が出てくる。そうしたときに助け船を出してくれるのがシュカだ。自分で得意だというだけのことはあり、彼女は本当に驚くほど歴史に詳しい。ときにはローでさえ目を見張るほどだ。
そして役者たちの輪の中で史実を伝え、自分なりの解釈を述べるということを繰り返すことで、どこか自信なさげだった彼女に度胸が備わっていったようだった。顔を真っ赤にして台詞に詰まったり、動きにもたついたりということが極端に減った。彼女のこの変化には、頭を痛めていた役者全員が驚いていた。
「本当に、驚くほど変わったね。シュカを安心してみていられるようになるとは思わなかった」
一番神経をすり減らしていただろうローが笑顔でそんな風に漏らすほど、変化は顕著だった。練習の合間の休憩時間、窓際に寄りかかって話しながら、夏妃も頬を緩める。
「シュカはもともと、個人練習ではちゃんとできていたから。何かきっかけが必要だったんだろうね」
「もちろんナツキも、見違えるほど良くなったよ」
「ほんと? ローが言うなら間違いないね。嬉しいな」
素直に喜んでいると、彼は小さくため息をついた。
「ナツキには、感謝してもしきれないな」
「えっ?」
戸惑って隣を見ると、開いた窓から吹き込む風に髪をそよがせるローの空色の瞳と目が合った。
「君が黒龍さまの歴史をもう一度調べ直したいって言いださなかったら、今の練習の雰囲気も、シュカの変化もなかった。ありがとう」
はっきりとお礼を言われて、驚いてしまう。
「そんなの、偶然だよ。こんなふうになるとは思ってなかったし」
「それでも、ナツキが諦めないで何とかしようとした結果だろう? 僕も、もっと早く気づけていたらなあ」
息を吐く彼は少ししょんぼりして見えて、むしろ呆れてしまう。
「何言ってるの。皆をまとめて、役者だけでなく全体の舵取りまでこなして、そのうえ私みたいな問題児にまで根気よく付き合ってくれて。ローは十分すぎるくらい優秀で、がんばってるよ」
「そうかな……」
「当たり前でしょう! ローが諦めないでくれたから、私も諦めないで済んだの。だからお礼を言うのは私のほうなんだよ。ありがとう、ロー。諦めないでくれて」
真剣に伝えると彼は瞬きして、ふっと微笑んだ。
「どういたしまして。でもそれなら、ナツキも僕のお礼を受け取る必要があると思うよ?」
「ん?」
「諦めないで道を見つけてくれてありがとう、ナツキ」
……ひとりでは何もできないし、自分よりよほど努力したひとがいるはずで、今回は偶然上手くいっただけだという思いもあるけれど。それでも、彼がくれた言葉の分は自分を認めて、褒めてもいいのかもしれない。
「どういたしまして」
一緒に「ありがとう」の気持ちも込めて笑う。久しぶりにすっきりとした気分だった。
窓際でそんな風に笑い合うふたりを見つけた癖のある赤毛の男の子が、はやし立てるように言う。
「あれー、なに良い雰囲気になってんだよお前ら!」
「ふたりきりの世界ってやつですかー?」
「練習中にいちゃつくなよー」
元気の良い彼の仲間も加わって、一気に室内の視線を集めてしまう。……小学生男子か?
呆れつつも注目されている現状をどうしたらいいかわからずまごついている間に、ローがにっこりと、しかし怖い笑みを浮かべて窓枠から背中を離した。
「元気が有り余ってるようだね、良いことだ。じゃあ君たち三人には発声練習を三セット追加しようか」
「は、はあ!?」
「横暴だ!」
「おや、足りない? なら腹筋に加えて走り込みでも……」
ひい、と悲鳴が重なって三人が降参する。
「わわ、わかった! 発声練習の追加やるから!」
「そう。良かった」
爽やかな笑顔の背後に黒いオーラが見えそうな迫力だ。ローを怒らせてはいけない、と全員の胸に教訓が刻みこまれた瞬間だった。
練習再開、と声がかけられ、ばらばらに休んでいた役者たちが部屋の真ん中に集合する。ローに眼前でプレッシャーを与えられながら発声練習後の追加分を半泣きでこなす三人組は、仲間たちの同情の視線を浴びていた。
その日の練習後、図書館で借りた本の返却期限が今日までとなっていたので、廊下でローを呼びとめて立ち話をしていた。
「ローに預けてた分と合わせて、三冊。これで全部だね」
「重くない? ごめん、僕が返しに行くつもりだったのに」
「大丈夫だよ、これくらい。全体会議優先なのは当たり前でしょ?」
「そうだけど……。この前みたいに暗くなる前に帰るんだよ。北区は遠いんだから」
「心配性だなあ。シュカも付き合ってくれるって言うから平気だってば」
「シュカも君も、ぼんやりしたところがあるからなあ」
「失礼な!」
軽口を叩いているうちに、ちょっと、と横から声をかけられた。目の覚めるような華やかなストロベリーブロンドの女の子が、隣の部屋の方を示して言った。
「ロー、他の班の子たち、もう集まっていたわよ。行った方がいいんじゃない?」
「ああ、もうそんな時間か。ありがとう、ディアンナ」
「いいえ」
にこっと応えた彼女はとても可愛らしかったけれど、ローが行ってしまうと途端にきつい目つきになって睨みつけてきた。
「ちょっと。ローに付きまとって迷惑をかけるの、やめてちょうだい」
尖った口調にびっくりする。そんなに長時間引き止めたわけではなかったはずだけれど……。
彼女は王妃役を務める少女で、ガーネットを思わせる鮮やかな瞳の色が示す通り赤龍の少女だ。いつも品の良いワンピースを着て丁寧に髪を巻いているので、お嬢様然とした雰囲気がある。これまでもちくりと苦言を言われることはあったが、正面切って話しかけてきたのは初めてだ。
「ええと、付きまとってるつもりはなかったんだけど。でも、会議前に迷惑だったよね。次から気を付ける」
非があったことを認めて謝ったが、彼女はそれだけでは納得できないようだ。
「会議前じゃなくたって迷惑よ。休憩中のことだって、あなたが彼にひっついているから、からかわれるようなことになったんじゃない。練習中だって何度も流れを止めて、余計な時間をとって。あなた、みんなの邪魔をしている自覚がないの?」
少し前だったら、その言葉はぐさぐさと胸に刺さって何も言い返せなかったかもしれない。でも今は、ローやみんながかけてくれた言葉を信じている。その分くらいは自分を認めていいはずだと思えるようになっていた。
「あなたにそう見えているなら仕方ないけど、私は邪魔するつもりなんてないよ。足りないことだらけだし、何も知らなくって確かに足を引っ張ってた。それは本当のことだよ。でも、どうにか変えなくちゃと思って勉強して、ちょっとはマシになったと思う。邪魔になりたくないから、いい劇にしたいから、今も練習でローやみんなの力を借りているの。それは悪いことかな?」
「悪いわよ。ローに負担をかけてる。無理させてるじゃない」
キッと睨まれ、それは確かに、と思ってしまう。
「一番協力してくれたのはローだし、負担をかけたといえばその通りだね。……だけど彼って、自分の限界も知らないで無理をするようなひとかな?」
「あ、あなたにローの何がわかるって言うのよ!」
「うん、なにも分からないんだけどね。彼は本当に無理だったら無理だって言うし、迷惑ならそう言ってくれると思うの。実際、後ろ向きになった時は叱られたし」
思い返して苦笑いする。言いづらいことでも、必要なことなら彼は躊躇わない。そこは信用している。だからこそ、ローはこれほどに皆に信頼されてリーダーとして認められているのだ。
「だからね。ローのことが心配なら、本人にそう伝えてあげた方がいいよ。今の練習方針もローの許可を得たことだから、なにか問題を感じるなら彼に言って。でも、私に対して彼がどう思っているかはローと私の問題だから。あなたにもみんなにも迷惑はかけないと思う。それともほかに、私に言いたいことがあったりする?」
首を傾げて尋ねると、みるみる顔を真っ赤にした彼女は涙まで浮かべて、今までで一番憎々しげに睨みつけてきた。思わず一歩後退るほどの迫力で。
「あなたなんて、大っ嫌い!」
そう言い捨てて、繊細なレース飾りの付いたスカートを翻して走り去ってしまう。ぽかんとそれを見送っていると、背後から肩を叩かれた。シュカと、他の役者仲間の少女たちがそこにいた。
なんだか笑いをこらえるような顔をした翡翠色の髪の少女が、ディアンナの去った方向を見てもう一度肩を叩く。
「災難だったねえ、ナツキ。完璧に目の敵にされちゃって」
「でも驚いた。ナツキってぼんやりしてるようで、意外に言うことは言うんだねえ。やるじゃない、見直した」
もうひとり、色の淡い山吹色の髪をおさげにした少女にも称賛に似た言葉をかけられる。しかし、ローに続いて彼女にまで。自分はそんなにぼんやりして見えるのだろうか?
納得いかない気分を抱えながら、ちょっと息をついた。
「なんだかわからないけど、あんなに嫌われるようなこと、私何かしちゃったのかな……」
祭りに向けて協力し合わなければならない仲間内で、こんなに悪感情を持たれてしまうなんて。しょんぼりと肩を落とすと、彼女たちは顔を見合わせてもう一度こっちを見つめる。
「ナツキってもしかして……」
「すっごく鈍い?」
「にぶ……っ?」
衝撃を受けるこちらにお構いなしで、「まあ、ナツキだもんねえ……」「ディアンナもかわいそうな気がしてきた」と二人は言い合いながら深々とため息をつく。その視線は、なんだかとても肩身が狭い気分になる。
山吹色の髪の少女がひらひらと手を振って言った。
「気にすることないよ。あの子のただの嫉妬なんだから」
「嫉妬?」
「考えてみなさいよ。なんでディアンナがあれほどローにこだわってると思うの?」
そこまで言われれば、気づかなかったのが恥ずかしくなるほどに明白なことで。
「……えっ!? なに、うそ、もしかしてあの子ってローのこと……」
顔を赤くして慌てだしたナツキの反応に、「鈍すぎる!」と大笑いされてしまう。我ながら、そう言われても仕方ない気がしてきた。
「わー……。そっか、だから休憩のときのことを持ち出してきたのかあ……」
ローとふたりではやし立てられたあの出来事は、確かにディアンナからしてみたらとても面白くなかっただろう。
「そういうこと。まったく、あの子も不器用だよねえ。婚約者なんだからもっとどんと構えてたっていいのに」
「こ、婚約……っ!?」
思わず声が大きくなってしまい、慌てて口を抑える。周りの怪訝そうな視線が散ってから、廊下の隅に寄って顔を突き合わせるようにして問い質す。
「ローと、ディアンナが?」
「そうだよ。どっちも家柄がいいし、家同士で小さい頃から決まってたことなんだって」
あまりに遠い世界の物事に思えて、ぽかんと口が開いてしまう。
「ローはあの通り頼りになるし、外見も涼しげでいかにもモテそうでしょ。ディアンナは昔から彼に近づく女の子を牽制してたって話よ」
「そんなに好きなら素直に伝えたらいいのにねえ」
「そこはほら、フクザツなオンナゴコロってやつじゃない?」
内緒話の大きさの声とはいえ、きゃっきゃと話す少女たちは楽しそうだ。恋愛話が大好きなのはどこでも同じなんだなと妙に納得した。
「そっか。あの子、片思いしてるのか……」
ぽつんと呟く。彼女が浮かべた涙を思い出すと、知らなかったこととはいえ罪悪感が湧いてくる。あなたは関係ない、というようなことを言ってしまった。きっと彼女を傷つけただろう。
難しいなあ、と思いながら顔を上げると、面白そうに一歩引いて会話を聞いていたシュカと目が合った。手招きされ、窓の外を示される。
「ナツキ、そろそろ行った方がいいかも」
「……あ! 図書館!」
すっかり忘れていた。そろそろ陽は傾きつつあって、差し込む光はオレンジ色になっている。少女たちにまた明日、と告げて、シュカと一緒に慌てて外へ飛び出した。
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