その6 伝説の始まり
「はーっ、はーっ、はーっ」
日比谷康介は、息を切らしながら走っている。
もうダメだ、と、思った。死ぬしかないのだ、とも。
彼に迫る者達の数は、四人……いや、四匹、というべきか。
あれはもう、人間ではない。人間であろうはずがない。
内臓を引きずりながら、心臓に穴を開けながら、顎を砕かれながら、腕をもがれながら……それでも平気で歩き回るような存在を、人間とは呼ばない。
奴らは、
四匹の群れは、決して足が早い訳ではなかった。
全力で走れば、逃げきれない相手ではなかった。
だが、彼らには、
――”決して疲れない”
――”決して諦めない”
――”決して容赦しない”
という、恐るべき特性があった。
走っても、走っても。
逃げても逃げても、いくら逃げても。
いずれは奴らに追いつかれるだろう。
それは、子供の頃に見た悪い夢に似ていた。
世界は終わってしまうのだと思った。
▼
世界が壊れたのは、今から三日前のこと。
渋谷の交差点にて。
誰もが、最初に現れた”それ”を酔っぱらいか何かだと思ったらしい。
とことこ歩いて、近くにいたおじさんをガブリ。
二人を引き離そうとした勇気ある若者もガブリ。
アウトブレイクの始まりだ。
それから世界中、あちこちの都市で感染者が現れた。
単純に“ゾンビ病”と呼ばれているその病は、いつ、どこで、どのように生まれたのか、詳しいことは誰も知らない。
神が人類を滅ぼすために作った、なんて言う人もいる。終末のラッパが吹かれたのだと。
仏教徒であるところの康介はまったく信じていないが、ラッパを吹いたのが誰にせよ、世界が”終末”へ向かっているのだという実感はあった。
そして、世界の”終末”より一足お先に、自分の命の終焉が1メートルほど背後に迫っている。
右足首をくじいていた。
まさしく、致命的な不覚である。
自分の後ろ髪を、”奴ら”の指が掠めたことに気づく。
「……ひっ!」
彼らに殺られている人を、数多く見てきた。
生きたまま喰われる、ということ。
その、本能的な恐怖。
ゾンビ映画は好きではない。前に一度、テレビでやっているのをワンシーンだけ流し見して、すぐにチャンネルを変えた覚えがある。
“ゾンビ”に囲まれた人が、ピストルで自分の頭をズドン。自殺するシーンだった。
何を馬鹿な、と思った記憶がある。
銃があるのだ。最後まで、生きるための努力をすべきだ。抵抗すべきだ。
そう思った。
今なら、それが大きな間違いだとわかる。
他の生物に生きたまま喰われるくらいなら、痛みを認識する前に、自分の頭へ向けて人生のリセットボタンを押したほうが、よほど気楽だ。
手元に拳銃さえあれば、自分も大喜びで引き金を引いたことだろう。
残念ながら、銃社会でない日本において、拳銃など手に入る訳もなく。
康介は、涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、運動場の地面に派手にすっころんだ。
じわりと、股間に温かいものが広がっていく。
失禁していた。
「せめて、楽に殺してくれ」
そう願った、次の瞬間。
「ほいしょっと」
と、気楽な口調でつぶやきながら、一人の少女が現れた。
赤のジャージ姿。三年生。
その胸には、我が『雅ヶ丘高校』の校章が見える。
彼女の戦う姿は。
…………うまくいえないが。
なんかこう、「駆除業者が来ました」という感じで。
ほとんど機械的な動きで、彼女は”ゾンビ”の頭部に日本刀の切っ先を差し込んでいった。
たったそれだけだった。
それだけで”ゾンビ”たちは、虫けらのように息絶えていく。
「……へ、あ?」
口から漏れるのは、間の抜けた声。
こちらに向けて、真っ直ぐに手が差し出される。
少女は微笑んで、
「危なかったですねぇー。あなた、大丈夫ですか?」
それが伝説の始まりだった。
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