その6 伝説の始まり

「はーっ、はーっ、はーっ」


 日比谷康介は、息を切らしながら走っている。

 もうダメだ、と、思った。死ぬしかないのだ、とも。

 彼に迫る者達の数は、四人……いや、四匹、というべきか。

 あれはもう、人間ではない。人間であろうはずがない。

 内臓を引きずりながら、心臓に穴を開けながら、顎を砕かれながら、腕をもがれながら……それでも平気で歩き回るような存在を、人間とは呼ばない。


 奴らは、のだ。


 四匹の群れは、決して足が早い訳ではなかった。

 全力で走れば、逃げきれない相手ではなかった。


 だが、彼らには、

――”決して疲れない”

――”決して諦めない”

――”決して容赦しない”

 という、恐るべき特性があった。


 走っても、走っても。

 逃げても逃げても、いくら逃げても。

 いずれは奴らに追いつかれるだろう。

 それは、子供の頃に見た悪い夢に似ていた。


 世界は終わってしまうのだと思った。



 世界が壊れたのは、今から三日前のこと。

 渋谷の交差点にて。

 誰もが、最初に現れた”それ”を酔っぱらいか何かだと思ったらしい。

 とことこ歩いて、近くにいたおじさんをガブリ。

 二人を引き離そうとした勇気ある若者もガブリ。


 アウトブレイクの始まりだ。


 それから世界中、あちこちの都市で感染者が現れた。

 単純に“ゾンビ病”と呼ばれているその病は、いつ、どこで、どのように生まれたのか、詳しいことは誰も知らない。

 神が人類を滅ぼすために作った、なんて言う人もいる。終末のラッパが吹かれたのだと。

 仏教徒であるところの康介はまったく信じていないが、ラッパを吹いたのが誰にせよ、世界が”終末”へ向かっているのだという実感はあった。

 そして、世界の”終末”より一足お先に、自分の命の終焉が1メートルほど背後に迫っている。


 右足首をくじいていた。


 まさしく、致命的な不覚である。


 自分の後ろ髪を、”奴ら”の指が掠めたことに気づく。


「……ひっ!」


 彼らに殺られている人を、数多く見てきた。

 生きたまま喰われる、ということ。

 その、本能的な恐怖。


 ゾンビ映画は好きではない。前に一度、テレビでやっているのをワンシーンだけ流し見して、すぐにチャンネルを変えた覚えがある。

 “ゾンビ”に囲まれた人が、ピストルで自分の頭をズドン。自殺するシーンだった。

 何を馬鹿な、と思った記憶がある。

 銃があるのだ。最後まで、生きるための努力をすべきだ。抵抗すべきだ。

 そう思った。

 今なら、それが大きな間違いだとわかる。

 他の生物に生きたまま喰われるくらいなら、痛みを認識する前に、自分の頭へ向けて人生のリセットボタンを押したほうが、よほど気楽だ。

 手元に拳銃さえあれば、自分も大喜びで引き金を引いたことだろう。

 残念ながら、銃社会でない日本において、拳銃など手に入る訳もなく。

 康介は、涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、運動場の地面に派手にすっころんだ。

 じわりと、股間に温かいものが広がっていく。

 失禁していた。


「せめて、楽に殺してくれ」


 そう願った、次の瞬間。


「ほいしょっと」


 と、気楽な口調でつぶやきながら、一人の少女が現れた。

 赤のジャージ姿。三年生。

 その胸には、我が『雅ヶ丘高校』の校章が見える。

 彼女の戦う姿は。

 …………うまくいえないが。


 なんかこう、「駆除業者が来ました」という感じで。


 ほとんど機械的な動きで、彼女は”ゾンビ”の頭部に日本刀の切っ先を差し込んでいった。

 たったそれだけだった。

 それだけで”ゾンビ”たちは、虫けらのように息絶えていく。


「……へ、あ?」


 口から漏れるのは、間の抜けた声。

 こちらに向けて、真っ直ぐに手が差し出される。

 少女は微笑んで、


「危なかったですねぇー。あなた、大丈夫ですか?」




 それが伝説の始まりだった。



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