その325 飢人の力

 とはいえその一発は、死なない程度に。

 常人なら昏倒するくらいの精妙な力加減でした。


「おー! 綺麗なハイキック!」


 ナナミさんの拍手喝采に、「ふふん」とちょっといい気になったりして。


「こりゃ、あたしたちが出なくても、”名無し”ちゃん一人で何とかなったりしない?」

「いえ。油断は禁物ですよ」


 私がそう断ずるのは、もちろん根拠があります。

 何せ今の私には、前世の”私”から受け継がれた記憶がありますからね。

 前世の記憶によると、”飢人”に変異してしまった”プレイヤー”は、ほとんどのスキルが弱体化、無効化、場合によっては効果が反転することがわかっていました。

 つまり”飢人”の基礎能力は、我々”プレイヤー”よりも遙かに劣るのです。


 それでも、”飢人”を恐るべき存在たらしめている理由がありました。


 一つ。”飢人”は”ゾンビ”と同等の生命力を有していること。

 二つ。”飢人”の血は”ゾンビ”同様に猛毒であること。

 三つ。人間の心臓を喰うことで、ほぼ人間と変わらない存在に化けること(これは《スキル鑑定》などでも看破不可能)。

 そして、――四つ目は……、


「その、チートスキルっていうの? 使われる前に殺しちゃえばいいじゃん?」


 変異前に取得していたスキルが一つ、超強力な別の能力に変異していること。

 前世の”私”とその仲間たちが、チートスキルと呼んでいたものでした。


「いえ、――もう遅い」


 慎重に浜田さんから距離を置きます。

 いつの間にか、私の向こう脛が黒く炭化していることに気付いたためでした。

 恐らく、先ほどの一撃を浴びせたとき、反撃を受けていたのでしょう。


「げげ。”名無し”っ、あんた、それ……っ」

「ご安心を。《自然治癒》で治る程度のダメージです」


 そして、浜田さんがゆっくりと身体を起こしました。

 その顔つきは、明らかに先ほどまでとは違っていて。


『ああ………。くそ。ずっと……ずっと、あの心地よい時間が続いてくれるものと信じていたのに。……この鏡写しの世界の、停滞した雲空のように』


 赤黒く尖った、鋭い爪。

 血の気の感じられない、蒼白い顔。

 水気のない、泥のように濁った目。

 その変貌ぶりに、私を除く三人は顔色を変えます。


「うわ……なんだ……こいつ……きもちわるッ!」


 ナナミさんが三人を代表して感想を述べました。


「”飢人”って、――始めて見たけど、こんなんなんだ」

「油断しないで下さい」


 《格闘技術(上級)》が変異した場合は、超人じみた身体能力を。

 《皮膚強化》が変異した場合は、あらゆる攻撃を受け付けない丈夫な外皮を。

 《火系魔法Ⅴ》が変異した場合は、ビルを丸ごと焼き尽くす、恐るべき火炎の力を。


 ”飢人”となった者の強さは、予測がつかないところがあります。


「……とりあえず、どのスキルが変異しているかを見極めるんです」


 それが連中の、もっとも基礎的な攻略法。


 相手が、こちらの動きを待っていることは明白でした。

 こういう場合は、――マンガで良くあるやつで。

 この勝負、先に動いた方が負ける……、ってね。


 舞以さん、ナナミさん、蘭ちゃんは、私よりも少し後方の立ち位置。

 場合によっては、私ごと攻撃しても構わないことを伝えています。

 私、防御力にはそこそこ自身がありますもので。


 ちなみに、当初の予定では”勇者”とやらを盾に使うつもりでしたが、何でか彼、遅刻してるみたい。おトイレかな?


『……………………』


 浜田さん、ゆらりと酔っ払いのように立ち、こちらをじっと見つめていました。

 そのこめかみからは、明らかに人のものではありえない、コールタールを思わせるドス黒い血がどろりと流れています。


『…………………ふむ』


 顔の半分がグロテスクに汚れたまま、浜田さんはゆっくりと天を仰ぎました。

 どうもこの人、かなり隙だらけに見えます……が、迂闊に手を出すことはできません。彼が元”守護騎士”などであった場合、強力なカウンター技を使ってくる可能性もあったためです。


『そうか。ナメクジみたいに動かないと思ってたら、俺の出方を待っているのか』

「ええ、まあ」

『それははっきりいって、あまり賢明じゃないな。”ゾンビ”がいま、我先にと迫ってきているから』

「あいつら階段昇るの下手だから、まだ時間ありますよ」


 ちなみにここは、建物の三階。

 ”ゾンビ”の進入路であるエントランスからは、少し離れた位置です。


『いや……』


 浜田さん、少し空を見上げて、


『いま、高速でエスカレーターを動かしているから、思ってるほど時間はかからないぞ』

「え」

『どうせすぐバレるし、フェアプレー精神で応えさせてもらうならば、――俺の変異したスキルは、《雷系》の三つ目。……君が確か、《電源》と名付けていた術だ』

「それって……」


 ほとんど攻撃力がないのでは?

 いや。そんなはずはありません。

 現に私の足は、彼の反撃を受けてダメージを受けているではありませんか。


 逡巡は、数秒ほどでしょうか。

 ふとそこで、”ゾンビ”のうなり声を耳にします。

 しかも、わりとすぐ近くから。


「…………ッ! まずいよ”名無し”ちゃん! さすがに”ゾンビ”と三つ巴になるのは……ッ」


 舞以さんの言葉に、私は歯を食いしばりました。

 確かにその通りです。

 誘いに乗るようで気に入りませんが、この人を始末を急がなくては……。


「やむを得ませんね」


 覚悟を決めかけた、その時でした。

 浜田さんが、よろめくような足取りで、私たちに背を向けたのは。

 

「――?」

 

 私が、その意図を汲みかねていると……。

 彼はそのまま、全速力で走り出します。


「あっ」


 逃げた。ふつうに。

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