三日目
ああ。とうとうこの日が来てしまった。
わたしは、よく眠れなかった。でも昨日の夜のクーベの警告は、感傷よりも先にわたしの頭に叩き込まれた。最後の最後まで、クーベは自分自身ではなくわたしたちのことを考えてくれたんだ。わたしが、ちっぽけな感傷でそれを踏みにじるわけにはいかない。よし!
泣き腫らした赤い目を、トマスやメイオに見せたくない。顔を洗ってこよう。泉から戻ったら、もうクーベが朝食の支度を済ませていた。筏に積む食料は、もう昨日のうちに用意してある。わたしの後に来たトマスやメイオも目が赤い。わたしと同じで、きっといっぱい泣いたんだろう。でも、それはここまでよ。これからは、自分の力で未来をたぐり寄せないとならない。もう、めそめそしてる暇はない。そう自分自身にも活を入れる。
トマスもメイオも、すっかり変貌してしまったクーベを見てものすごく驚いてる。わたしも、昨日以上にびっくりしたんだけど。
「ねえ、クーベ。いつ女の人になったの?」
トマスが、聞いていいんだろうかって感じで、クーベに聞いた。
「ええと、髪が白くなってきたあたりからかな」
あ、だから泉で裸を見られるのを拒んだんだ。ぎりぎりまで、覚られたくなかったのね。
「まあ、どっちにしても旅に出るから、あんまり関係ないよ」
このあたりのドライさは、最後まで変わらなかったね。思わず笑いがこみ上げる。くくくっ。
「さあ、僕の顔なんか見てないで、さっさと食べて。あまり時間がないんだ」
トマスとメイオの顔に、さっと緊張が走った。そう。これからが本番。やってみないと分からない島からの脱出。もし失敗したら、島での生活はとても厳しいものになる。しかも、自力で生活出来ない幼い二人だけで取り残されたり、島から追い出されてしまう恐れがある。そんなことは絶対に許されない! どんなことをしても。どんなことをしても脱出を成功させないとならない!
わたしはぶるぶると武者震いした。よおおおおおおおしっ!
◇ ◇ ◇
荷物の積み込みが終わった後、わたしは思うところがあって一度塔に戻った。クーベは、最後の最後までクーベだった。わたしは自分のことしか見えてなかったけど、クーベはわたしたちのことだけじゃなくて、次の人たちのことまで考えていた。薪を積んでいる場所を分かりやすいところに移し、漁の道具を全部回収して、倉庫の見やすい位置にしまった。食料の備蓄を確認して、暖炉の横に薪を積んだ。こういう底なしの気配り。それを目の当たりにして、わたしはやっと気付く。
ああ。そうだ。わたしがなぜクーベに男を感じなかったか。クーベはお母さんみたいなんだ。自分の子供たちに尽きることのない愛情を注ぎ続ける、お母さんみたいだったんだ。ダグみたいに、自分の道を切り開く鉄のような意思を見せることなく。ひたすら自分とわたしたちの生きるすべを探り、それを黙々とこなす。まるで、巣で待つ雛にえさを持ってくる母鳥のように。
わたしは子供を産んだことはない。でも、もうすでにトマスとメイオという二人の子供の面倒を見ている。そういうのは、実際に母親にならないと出来ないのかと思ったけど、クーベを見てると思い知らされる。自然にそうなるんだって。クーベは、自分の中の母の部分にどこまでも忠実だったんだろう。わたしはそれを決して忘れたくない。だから。全部クーベに任せるんじゃなくて、わたしの出来ることはしておこう。そう思ったんだ。
ひっそりとしたダイニングテーブルの上に薄い木片を置いて、わたしはペンを走らせた。それは、次の住人へのメッセージ。たいしたことは書いてない。
伝えたいこと。そう、希望を失わないこと。それと、未来は島の外にあるということ。ここはわたしたちを休ませてくれるけど、休息以上のものを与えてくれることはない。そのことに早く気付いて欲しい。それと、非情なルール。これだけは事実としてきちんと伝えなければならない。
小さな木片に書き上げたメッセージ。インクが乾くのを待って、わたしはそれをラジオの端っこで押さえた。
ダイニングを出たら、みんなも戻ってきていた。
「あれ? どうしたの?」
「いや、ちょっと書き忘れてたものがあったのに気付いたんだ。どうせならみんな自分で書いた方がいいかなと思ってさ」
なんのことかな? クーベが首を傾げているみんなを引き連れて、地下倉庫に向かった。角灯で照らし出された倉庫の一方の壁に、これまでの住人の名前がびっしり書き込まれている。名前の下の線の長さは、暮らしていた年数を示してる。ああ、そうか。この記録ね。今までは、残った人が記録してたんだ。でも、わたしたちは一斉に島を離れるから。そういうことね。
最初に、クーベがろう石を持ってその前に立った。その石を壁に当て、手の届く一番上から床まで、縦に一気にぴーっと引いて。それから、そこまで横線を書いた。ぴっ。
自分の書いた線をじっと見つめていたクーベが、静かに自分の名前を書き足す。そして持っていた石をわたしに手渡した。わたしも横線を入れる。リロイの代わりに来て、今まで。そして自分の名前を書いた。ダグのところは、すでにクーベが書いてあったようだ。トマスがそこから短い白線を引いて、自分の名前を書く。最後に、メイオが石を持って振り返った。
「ねえ、あたしのせんは?」
クーベが笑って答えた。
「短くて引けないよ。名前だけでいいよ」
メイオが、がたがたの字で一生懸命自分の名前を書いた。メイオから石を受け取ったクーベが、もう一度その石でがりがりと縦線を書き足して太くした。
「この島のことだから、またすぐに次の住人を呼んでしまうんだろう。それは、はっきり言って不幸なことだと思う。でも、僕はこの白線で。幸運を捕まえるチャンスがあるんだってことを、彼らに伝えたいんだ。がんばって欲しいな」
最後まで。優しい、どこまでも優しいクーベだったね。だめだ、また涙がこみ上げてくる。
「ね、早く行こうよ」
「お、そうだね」
◇ ◇ ◇
塔を出たわたしたち。でもわたしたちは、クーベがどのように旅立つのか聞かされていない。
「ねえ、どういう手はずなの?」
クーベは初めてその方法を明かした。島の一番高い岩の突端を指差す。
「僕は、あそこから旅立つ」
ええーっ? わたしたちは全員絶句する。船、じゃないの? どんな方法か、想像もつかない。
「さあ、時間がない!」
クーベが慌て出した。急かそうとしたクーベに、どうしても一言だけ言いたかった。
「クーベ、今まで本当にありがとう。わたしはクーベを絶対に忘れない! 何があっても!」
クーベが、茶目っ気のある笑顔をわたしたちに向けた。
「なんだ、最後のお別れみたいなことを言わないでくれよ。ダグみたいに、いい旅をだけで充分さ」
え?
「会える形は変わるだろうけど、僕たちはまたきっとどこかで会えるよ。海にいればね」
クーベが、トマスとメイオの頭にぽんと手のひらを置いた。わたしの知ってる大きな暖かい手じゃなくて、わたしみたいな白くて華奢な手。でも、そこから伝わってくるのは、今でも変わらないんだろう。
「それを、トマスもメイオも忘れないでね」
二人は神妙な面持ちで頷いた。でも、意味は分かってないに違いない。わたしにも分からないんだから。言い終わったクーベは、その場で全て服を脱いで、それを畳んで塔の脇に置いた。透けるような白い裸体。わたしとほとんど変わらない、女性の裸体。純白の髪を海風になびかせて、裸足で斜面を駆け上がっていく。でも、その途中で一度だけ振り返って大声で怒鳴った。
「ぐずぐずするなーっ! 沖に一番近いところまで筏を出して待機してろっ!」
その剣幕に弾かれたように、わたしたちは一斉に筏に走った。
練習の時のように帆を上げ、トマスが舵を操って、いつものポイントに出る。やっぱりそこで無風になる。波が筏を押し戻そうとする。でも、今日はいつもと同じじゃだめなんだ。クーベと打ち合わせしたように、ここで波に戻されないように、この場所をキープしとかないとならない。神経を張り詰めて帆を操作し、少しの風でも拾う。トマスは櫂で、少しずつ筏を沖に向ける。メイオが突然大きな声で叫んだ。
「あれ! クーベだーっ!」
切り立った岩の突端で、クーベは両手を真横に広げて、まるでこれから岩礁に飛び込むかのような姿勢を見せていた。これまでも、時々わたしに見せていた姿勢。でも、あんなところで!
自殺? そんなわけない。あれほど生きるということにどこまでもしがみついてたクーベが、そんなことをするはずは絶対にないっ! でも、その危うい姿勢に、わたしたちの心臓は張り裂けそうになる。
あ、いけない!
「トマス! がんばってっ! 筏が戻っちゃう! メイオ! クーベから目を離さないでねっ!」
「うんっ!」
わたしたちは必死に筏を待機位置に戻した。その時だった。
「ああああーーっ!」
メイオが声を限りに叫んだ。
両腕を真横に伸ばしていたクーベの背丈が縮んでいく。その後ろに、体から剥がれた破片のようなものが飛んでいく。伸ばした両手には羽が生え揃い、頭と足はうんと縮んで。そうして。それは。ふわりと空に舞い上がった。
アホウドリ! アホウドリだ! ものすごく大きなアホウドリだ!
そうか。そうだったのね。クーベが待ち望んでいたもの。それは、本来の自分の姿に戻ることだったのね。雛のうちは、卵を産んで子供を育てることはできない。クーベは大人になるのを、何年もかけて待っていたんだろう。
「おねえちゃんっ!」
トマスの大声で我に返った。いけないっ! この時を逃したら、チャンスがなくなるっ! 風は? 風は来ないの? わたしは両腕を筏から出して、力いっぱい水を掻いた。トマスも必死に櫂を動かす。ほんの少しの風でいい! わたしたちをここから押し出す、ほんの少しの風でいいの!
ねえ、お願い! クーベ、お願い、教えて! 教えて! どこに? どこに風があるの?
ふと目を上げたところ。わたしたちのほんの少し前の上空に、さっき海原に飛び出したアホウドリが浮いていた。翼をいっぱいに広げて、顔をわたしたちに向けて、ゆったりと。
「そっかああああっ!」
わたしの叫びに、トマスとメイオがびっくりして振り向いた。
「トマスっ、メイオっ、風はそこよーっ! クーベが教えてくれてる! そこまでがんばろう! 死に物狂いで漕ごう!」
わたしたちは、気が違ったみたいにばしゃばしゃと水面をかき回した。筏が進んでるかどうか、そんなの確かめてる余裕なんかない。負けるもんか! 絶対に負けるもんかーっ!
ダグがくれた勇気。クーベがくれた愛情。リロイが生かせなかった財産を、わたしは絶対に無駄にするわけにはいかないっ!
まるで錨を下ろしたかのようにぴくりとも動かなかった筏が、少しずつ沖に向かって動き出した。
「もう少し、もう少しよーっ!」
わたしがそう叫んだ次の瞬間。
ぱんっ! 小気味いい音がして、帆がいっぱいに膨らんだ!
「トマス、舵についてっ!」
「はいっ!」
「メイオっ、揺れるからしっかりマストにつかまるのよっ!」
「うんっ!」
さっきまでの死闘はなんだったんだろうか、そう思うほどあっけなく。筏はするりと沖に出た。突き出ている岩礁に気をつけなければならないけど、筏は沈んでる部分がほとんどないから、楽だ。クーベが、わたしたちにボートは無理だって言った訳がよく分かった。小さいボートにわたしたち三人と荷物を乗せれば、海中に沈んでるところが多くなる。その船底が岩に当たったら、壊れてすぐに沈没しちゃう。不慣れなわたしたちは、岩礁を抜けられなかっただろう。わたしは、改めてクーベの深い配慮に思いを馳せた。
岩礁地帯を離れたところで、空を見上げる。アホウドリになったクーベは、まだわたしたちを見守るように上空に浮かんでいた。わたしは、それに向かって大声で叫んだ。
「クーベーっ! わたしたちは大丈夫よーっ! なんとかやってくからーっ! 元気でねーっ! また会おうねーっ!」
そうして。トマスとメイオと三人で、大きく手を振った。静かに。ゆったりと空に浮かんでいたクーベは、わたしたちの姿を確かめるように上空を何度か旋回して。徐々に遠ざかっていった……。
クーベの姿が見えなくなったのを寂しそうに見送っていたトマスが、何かを思い切ったようにわたしに尋ねた。
「ねえ、おねえちゃん、これからどうするの?」
「ええと。まずね、この島以外の島か、船を探しなさいって。船の往来の多いところだから、そんなに難しくないだろうって、クーベが言ってた」
「そっかあ」
「それは目のいいトマスの仕事ね」
「うん!」
振り返って島を見る。小さな塔と、斜面を埋め尽くす花。そして……三人の『今』しか与えてくれない島。そして、これまでのことを静かに思い返した。
島で過ごした六つの季節。六季。その季節ごと、わたしは形作られた。辛い別れも、生きるための闘いも、わたしは乗り越えてきた。たくさんの生命に彩られ、たくさんの涙に磨かれて、わたしは強くなった。空っぽで何もなかったわたしが、こんなにも満たされた。
わたしにとって、何ものにも代え難い救いと成長と。そして何より、未来を目指す力をくれたのはあの島じゃない。ダグとクーベだ。
そこにいた、同じ悩みを抱える仲間。同じように過去を失い、心に傷を持ちながら、それで傷つけ合うことなく、互いの旅立ちを支え合った。そう、わたしはどこまでも幸運だった。でも、その幸運を独り占めすることはできない。トマスとメイオが、わたしと同じように悩み、いっぱい泣いて、そこから自分の明日を掴み取るのを、わたしなりに手伝ってあげなければならない。そして、旅立ったクーベがこれから仲間を増やすように。いずれ、わたしも恋をして子供を産み、育て、その子を羽ばたかせないとならない。それがわたしの望む未来であり、夢なのだから。
遠ざかる島をじっと見ていたわたしに、トマスが声をかけてきた。
「ねえ、おねえちゃん」
「なに?」
「ぼくたち、しまを出たけど、しまのことはおぼえてるね」
「そうね」
わたしは、もう一度島を見やる。
「ねえ、トマス。一度島を出るとあの島には二度と戻れない。だから、島のヒミツを知っていても、戻って確かめようがないの。島にとっては、出ちゃった人はどうでもいいんでしょ」
「ふうん、へんなの」
「ふふふ。その変なところにわたしたちはいたのよ。そして、わたしはトマスとメイオに出会えた」
わたしは吹き付ける海風に向かって、ぐいっと思い切り胸を張った。
「これから。これからよ。長い旅はこれから始まるの。がんばろうねっ!」
「うんっ!」
筏の帆は、風をはらんでいっぱいに膨らむ。筏はぐんぐん速度を上げて、海原を滑るように進んで行く。島は、あっと言う間に小さくなっていって……やがて見えなくなった。その代わりに。わたしたちの目に、別の島影と行き交うたくさんの船が。
……飛び込んできた。
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