二日目
ぴゅーいっ! ぴゅーいっ!
鋭い鳴き声が、開け放った窓から飛び込んできて。それで目が覚める。ああ、もう最初の番が飛んできたのか。ベッドから降りて、ウミスズメの飛翔を見やる。
変わりやすい春の天気。でも、今日、明日は雲の流れや風向きを見る限り、安定していそうだ。少しもやっているけど、空も海も青い。波頭が見えないから、海原も落ち着いているんだろう。旅立ちの日は、嵐に見舞われずに済みそうだ。僕はほっと胸をなでおろす。
窓枠に手を掛けて、ぼんやり考え込む。メイオが来て、順番を告げられて。でも、その前から僕が僕でなくなることは分かってる。僕にとって、この島はどういう意味があったんだろう? いくら考えても仕方ないことなんだけど。
ペーターほどじゃないけど、僕も結構長く島にいたことになるね。ペーターから受け継いだ知識を、僕は生きるために目いっぱい使ってきた。それは、僕に植え付けられている生きる方法とは少し違う。違うけど、目的は同じだ。生きて、生きて、どこまでも生き抜くこと。うん。この島にいても、いなくても。僕の意味が変わることはない。ないんだろう。それは、これから確かめられる。そして、僕はこれからも生きることに死力を尽くす。それが……僕の意味だから。
僕は思わず笑ってしまう。
「ふっふっふ。ふっふっふっふっふ」
ダグは脱出することで、この島の掟に背いた。僕は最後まで変わらないことで、この島に一矢報いるのかも知れない。まあ、僕が変わらないように。この島も、僕らのあがきとは関係なく、変わった島として在り続けるんだろう。そういう意味では、この島と僕とは似ていたのかもしれないね。
さあ、朝飯の支度をしないと。
◇ ◇ ◇
メイオは、かいがいしいトマスのサポートで、すっかり慣れたようだ。まだおどおどしたところは残ってるけど、最初に会った時のような人形のような無表情は消えた。その年頃の女の子らしく、ころころとよく笑う。ただ、口数は多くない。それは、これからリファやトマスと暮らしていく中で少しずつ変わっていくだろう。
朝食が終わって、トマスとメイオを外に放牧する。メイオの気持ちを和らげること。トマスの気分を高揚させること。明日は、勝負の日になる。感傷的になっている暇はないんだ。すっかり手際が良くなったリファが、手を拭きながら僕の向かいに座った。
「筏に積む荷の準備は終わった?」
聞いてみる。
「だいたいね。もう一度確認するけど。あんなもんでしょ」
「そうか」
リファの懸念は僕と違うところにあったようだ。外に遊びに行ってるメイオの姿を思い浮かべるようにして、リファがその懸念を口にした。
「ねえ」
「ん?」
「メイオのあのあざ……」
「ああ、あれね」
僕は、ちょっと悲しくなる。
「この島の住人は、過去の記憶を失う。でも、他の住人の過去の気配は分かるんだよ」
「どういうこと?」
「たとえば、トマス。あいつは多分母親と二人きりで育ってきたんだろう。家事や仕事の手伝いの手際がいい」
「うん、それはわたしも思う」
「その母親を失ったら」
「あ……」
リファが俯いた。
「メイオもそうだ。メイオは親には愛されてなかったか、早くから親を失ってたんだろう。とても、乱暴に扱われてる。愛情を求めることにびくびくしてる」
「じゃあ、ダグは?」
「自分で言ってただろ? 兵士だって。兵士の仕事を考えたら、過去に何があったかは簡単に推測出来る。ダグはそれを心底嫌ってたと思う。だからこそ自分を押さえ付けてたんだ」
「そっか……」
「そういうのがね。僕らには見えちゃう。この島の記憶の消し方は、中途半端なんだよ。ダグが苛ついてたのも分かる」
リファが、上目がちに僕を見た。
「あの……わたし……は?」
「僕やダグが知っていること、推測出来ることはいろいろあるよ。でも、それをリファに話しても意味がない」
「どうして?」
「生きる役には立たないからさ。それは、トマスやメイオもそうだ。完全に自力で思い出した過去なら、それと向き合わないとならないだろうけど、中途半端な憶測だらけの過去を吹き込んでも何の役にも立たないよ」
「うん」
「気をつけてね」
「分かった」
リファはそう返事をした後も、僕を食い入るように見ていた。
「なに?」
「いや、クーベの過去ってどうだったのかなーと。ダグやペーターは何も言わなかったの?」
僕は思わず苦笑する。
「僕の過去の痕跡はないし、それを考える意味はないね」
「そうなの?」
「前にダグが言ったのを覚えてない?」
リファが必死に記憶をたぐってる。
「うーん、どんな話したっけ?」
「ダグは、リロイや僕にはもともと過去の記憶がないんじゃないかって言ったのさ」
「あっ!」
「思い出した?」
「うん……」
僕は椅子を降りて、ゆっくり窓に近付く。そして、その一つを開けて、海原を見る。吹き渡る春風。潮の匂いに混じって、花の匂いがかすかに漂ってくる。予感。恋の予感。僕にとって初めての、そしてこれから営々と続く恋の予感。それは楽しいとか浮き浮きするというのとは違う。生きていくための、どこまでも生きていくための大切な儀式。
「ねえ、クーベ……」
「なに?」
「わたしたち、島を出たら、ここの記憶を無くすのかなあ」
「さあ。島に戻ってきた住人は誰もいないから、確かめようがないね」
「うう」
「でも僕は、この島で暮らしたっていう事実さえ記憶のどっかに残れば、それでいいかなーって思う」
「事実?」
「うん。僕らがここで暮らして、楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと。それが積み重なってできた『僕』という存在。それは、旅に出た後で変わるかもしれないけど、どこかには残るでしょ」
「そっか」
「僕は、それでいい。鮮明な記憶でなくてもいい。それは必ずしも僕には役に立たないから」
「どうして?」
「僕が、僕でなくなるからさ」
リファが首を傾げた。
「ねえ、前から気になってたんだけど、それってどういう意味なの?」
僕も同じセリフを繰り返す。
「今は言いたくない。それは、明日分かるよ」
「ただいまあっ! おなかすいたーっ!」
ばあんと戸が開いて、トマスとメイオが放牧から帰って来たようだ。さ、急いで昼飯の支度をしないと。
「まあ、話は後で。メシの支度をしよう」
「そうね……」
ふうっと大きく息を吐き出したリファが、天井を仰いだ。窓から入り込んだ潮風が、その金髪をふわりと揺らした。
◇ ◇ ◇
前日だからと言って、僕はなにも特別なことはしなかった。いつものように釣りをし、草を摘み、篭罠を見回る。でも、今日は道具を全部塔に引き上げておかないとね。どうせ、次の住人たちはすぐに来るんだろう。今度は、ペーターや僕のようなガイド役はいない。この島で生きるための取り組みは、彼ら自身が工夫してしなければならない。そのためには、道具だけはないとどうにもならないからね。
塔の後ろ側の分かりやすい場所に、薪を積み変えた。よし……と。泉や倉庫は、塔を見回ればすぐに分かるだろう。倉庫の食料の在庫は、リファが作ったリストを参考書の横に置いてあるから、それで確かめられる。これも、よし。それ以外のルールみたいなものは、彼らで考えてくれればいい。どうせ、僕らにはどうにも出来ないことだし。
筏に乗る三人を連れて、最後の練習をする。リファやトマスはもう慣れてるだろうけど、メイオが加わったから。
「メイオ、筏は揺れるから、立って歩かないようにな」
「うん」
「トマス。舵に気を取られすぎないように、ちゃんとメイオを見てやれよ」
「わかったっ!」
よし。
一応、いつものように沖に出る一歩手前まで筏を操作してもらう。そこで無風になって、波で押し戻されるのも同じだ。
「よーし! 戻ってきて」
浜に上がったリファが、僕に弱音を吐いた。
「明日、本当に出られるのかなあ?」
「リファ!」
僕が笑顔を消したことに気付いたリファが、俯いた。
「ダグの残した言葉を思い出して。自分に負けるな! リファが出られないと思ったら、絶対に出られないよ」
「……うん」
トマスがリファの背中を叩く。
「だいじょうぶだよ、おねえちゃん! ぼくがついてる!」
「あ、あたしもっ!」
メイオも、精一杯の気持ちでそう言ったんだろう。
「そうね。わたしが弱気になってちゃ、意味ないね」
僕は、その表情を確かめてから空を仰いだ。すいすいと頭上を横切るいくつもの影。海鳥の渡来が、本格的に始まったな。
◇ ◇ ◇
「最後の夕食なんだね」
リファが、ぽつりと言った。さっきまで賑やかにご飯を食べていたトマスとメイオが、急に黙った。
「いやあ、夕食はこれからもあるさ。そうしないと生きていけないからな」
リファが僕の顔を見る。もう、その頬に涙が光ってる。今からそれじゃ、明日が乗り切れないぞ。僕はどこまでも心配になる。
「なあ、リファ。何度も同じことを言わせてもらう。生きていくのは、楽しいことばかりじゃない。僕らは命をつなぐために、アザラシやカモメを仕留める。それは血なまぐさい、むごたらしいことだ。でも、かわいそうとか、やりたくないと言ったら、僕らはここでは生きていけなかった」
「う……ん」
「それと同じだ。自分の未来を探しに行こうとするなら、代わりに捨てなければならないものがある。それが、今どんなに大切に思えるものでもね」
僕はリファにだけでなく、トマスやメイオにも言った。
「この島は君たちの過去を消してくれる。でも、この島での過去は消してくれないかもしれない。それを乗り越えてね」
三人とも、ぐすぐすと泣きながら頷いた。
◇ ◇ ◇
静かな夜。部屋で、ベッドで横になって。これまでのことを考える。僕は、ユーリって人の代わりにこの島に来たらしい。僕にはその時の記憶がない。ほとんど何も知らない。ほとんど何もできない。でくの坊みたいな僕を辛抱強く育ててくれたのは、ペーターだった。僕にとって、ペーターはまるで父親だった。博識で、冷静沈着。怒りや嘆きを剥き出しにせず、いつも朗らかだった。シエロは男だったけど、僕にとっては母親代わりだったかもしれない。いつも僕を気遣い、フォローし、助けてくれた。僕には、それがまるで両親の記憶のように刷り込まれた。僕は、この島ではとても恵まれていたように思う。
こんこん。扉がノックされる音がした。
「リファか? どうした?」
そっと扉が開いて、リファが入ってきた。
「不安なの。眠れないの」
「うん」
「明日でみんな変わってしまう! わたしたちの暮らしも、クーベも、運命も。わたしは……わたしは……耐えられないっ!」
そうしてベッドの端に倒れ込み。顔を覆って号泣し始めた。僕は、そっとその髪を撫でる。リファが喘ぎながら、僕を問い詰める。
「ね、ねえっ! どうしてクーベは……そんなに……いつも冷静なのっ?! こっ、怖くない……の? ひくっ」
「そうだなあ」
僕は、角灯の灯りを見つめる。
「ねえ、リファ。リファはこれまで、僕に男を感じたことがあった?」
何を聞くんだろうっていう風に、リファが顔を上げて僕を見た。
「そう言えば……」
「リファは、トマスが男、メイオが女に見えるかい?」
「見える……けど」
「僕にはね、トマスもメイオも子供にしか見えない。男女以前なんだよ」
「あ……」
「今、リファが見てる『僕』は仮の姿さ。これは島で与えられたものだ。僕の本来の姿じゃない。それは、僕の見かけがどんどん変わってることからも分かるでしょ?」
「……ええ」
「僕はね」
僕はベッドから降りて、窓を開けた。夜空に星がいっぱい散らばっている。かすかな潮風が頬を撫でる。
「子供、だったんだよ。未成熟だったの」
「こ……ども?」
「僕の中身は、最初は何もなかった。僕を形作ったのは、いろいろ教えてくれたペーターとシエロ。彼らは、僕の両親の代わり。彼らがいなくなったのは、僕の旅立ちの促し。そして、僕は待ってたんだ。ずっと待ってたんだ」
「何を?」
「大人になるのをね。それが、明日なんだよ」
リファは黙って僕を見つめている。
「泉で体を洗っている時、リファは僕に聞いてたでしょ? なぜ、そんなに熱心に洗うのかって」
「……うん」
「あれはね、自分の変化を見落とさないようにするため。大人になるサインをね。僕は、ずっと。ずっと、ずっと待ってたんだよ」
僕はリファに向き直って、上着を脱いで裸の上半身を見せた。
「ほら」
リファが、どすんと腰を抜かした。
「ク、クーベ!」
「もう一度言うね。僕はこれまで男でも女でもなかったの。ただ、子供だった。これでやっとね。旅立てるようになる。自分の意志で、相手を探して。命をつなぐためにね」
呆然としていたリファが、我に返ったように聞いた。
「旅立つって……どうやって?」
僕は上着を着直して、笑顔を見せた。
「それも明日には分かる」
窓から、少し強い風が入ってきた。僕は無意識に両手を真横に広げて、少し顔を上げる。風を。風を探して、受けなければ。
「リファ。明日は、旅立った僕から目を離さないでね。それをトマスにもメイオにも伝えて」
「……どうして?」
「それが、リファたちがこの島を脱出するカギになるからさ。タイミングだけじゃない。最後の最後まで、僕らは力を合わさないと何も出来ないんだよ。それがこの島での暮らしだった。最後まで、そうだったってことだね」
僕は窓を閉めて、へたり込んでるリファの横に座った。
「ねえ、リファ。約束して欲しい」
「……何を?」
「旅立ったところで終わりじゃないんだ。生きて、旅を続けることを諦めたらだめだよ」
「うん」
「ダグが言っただろ? いい旅をって」
「うん。うん。う……」
また、リファが泣き顔になる。まあ、今夜はいいよ。でも、明日は困る。泣いている暇はない。
「さあ、明日は僕が昼まで保たないと思う。忙しくなるから、もう休んで。外洋に出たら、体力がないと自滅するよ」
よろよろと立ち上がったリファの尻を、一つ引っ叩く。ぴしゃっ!
「きゃっ!」
真っ赤になったリファを部屋の外に押し出した。
「お休み、リファ」
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