三日目

 わたしは……よく眠れなかった。嵐の風の音がうるさかったからじゃない。昨日のことがいろいろわだかまっちゃったからだ。


 今まではただ漠然と、クーベがいなくなるってことをずっと遠くの出来事みたいに考えてた。だってリロイもダグも、いつの間にかわたしの側からいなくなった。しょうがないじゃない。そういう『決まり』なんだもの。どんなにクーベに急かされても。促されても。わたしの中に、クーベがいなくなる悲しさを先取りしちゃったみたいな虚しさがあって。そこから動けなかったの。それに、昨日のクーベの言い方。


 『僕がどんなに望んでも、僕には定められている以外の未来はない』


 わたしに決断を迫ってるのに、自分のは諦めちゃってるっていうのは納得出来ない。でも、どういう意味だか説明してくれないし。


 ふう……。なんとなく、体が重い。ゆっくりベッドを降りて、窓に近付く。窓枠ががたつく音は聞こえなくなった。嵐は過ぎたのかな。窓を押し開くと、外は快晴だった。空には雲一つない。海との境が分からないほど、どこまでも広がった青空。冬はいつも鉛色の雲がのしかかっていて、どこで機嫌が悪くなるか分からない子供みたいなのに。風はほとんどない。すっごく寒いけど、きっぱりしてる。刃のような太陽の日差しを跳ね散らかして、あちこちで雪溜まりが輝いている。


 久々のいい天気。きっとトマスはもう着替えて、外を跳ね回ってるだろうな。その姿を思い浮かべてて、ふっと脳裏をかすめたものがあった。なんだろう?


 わたしは窓枠に両手を置いて、冷たい空気に頬を強ばらせ、目を細めて海と空を見ていた。


「きゃっほほー……」


 やっぱりー。下から歓声が聞こえてきた。きっとトマスが波打ち際で何か見つけたんだろう。あとで、クーベが質問攻めにされるに違いない。その様子を思い浮かべていて……。分かった。分かっちゃった。


 わたし、最初にトマスに言ったじゃない。一緒に乗り越えて行こうね、手伝ってあげるからって。それは、クーベなら出来る。なんでもよく知ってて、なんでもてきぱきこなせて。落ち着いてて、怒らない。でも……わたしは、クーベのようには出来ない。知ってることは、クーベの受け売りだし。腕力も持久力もないし。器用さや、まめさでは敵わないし。すぐ怒るし、泣くし。でもクーベに出来なくて、わたしに出来ることが一つだけある。

 クーベはいなくなる。もうすぐいなくなる。クーベはトマスに付いててあげることは出来ない。そう。それだけは……わたしにしか出来ないんだ。


◇ ◇ ◇


「おはよー」


 顔を洗ってダイニングに入ったら、唇を紫色にしたトマスが暖炉の前でがたがた震えていた。それをクーベが呆れ顔で見ている。


「おはよう、リファ。トマスのやつ、この寒いのに薄着で浜辺をうろちょろしやがって」

「まあ、元気だこと。じゃあ、後で水浴びする?」

「やあだあ!」

「風邪引くから、ちゃんと着込んでから外に出なさいよ」

「はあい……」


 返事だけはいいんだから。いつものように、クーベが大きな鍋を持ってくる。それをテーブルの真ん中にどすんと置いて。わたしが皿とカトラリーを運んで。トマスがそれをきちんと並べる。


「さあ、食べようか」


 朝早くから外を走り回っていたトマスの食欲はすごかった。ダグは体が大きかったから、ゆっくりたくさんだったけど、トマスはまるでかき込むようにがつがつ食べる。その様子を見ながら、わたしは昨日クーベが言ったことを思い出していた。トマスを養うってこと。それは、とんでもなく大変だってこと。食料確保だけでも一苦労なんだよね。

 それだけじゃない。無謀な好奇心をどうやって丸め込むか。必要な知識をどうやって教えるか。わたしに必要以上に寄り掛からせずに、どうやって独り立ちさせるか。『島』っていう閉じた環境の中で、トマスのもろくて壊れやすい心をどうやって守り、鍛えていくのか。そんなの、わたしに出来る? わたしもあやふやで、全然頼りないのに。新しい住民との信頼関係を探りながら、そんなことが出来るの? クーベの心配は、とても真っ当なものだった。のほーんとして、自分ばかり見ていたことが恥ずかしい。


 でも。島から出たところで、わたしたちに約束されているものは何もない。わたしたちは島に拘束されている代わりに、島に守られている。侵入者も、大きな災害も、病気も何もない。さっき風邪がどうのって言ったけど、今までわたしたちの誰一人として病気になったことはない。


「……」


 もう一度。昨日のクーベのセリフを思い出す。クーベは。どうしろ、とは言っていない。あくまでも、わたしのプランを聞いてるだけだ。選択肢は二つしかない。出るか。残るか。その、どっちか。わたしは食べる手を止めて、じっと考え込んでいたらしい。


「リファ。負けないで食べないと、トマスに食い尽くされるぞ」


 げっ! そりゃあ、困るっ! わたしは、慌てて鍋の中身を皿に取り分けた。


◇ ◇ ◇


 朝食後。わたしは、引き上げられたボートを見に行った。トマスとクーベは湾の先の方を見に行くと言って、さっさと走っていった。さすがに昨日の大嵐の中、船を出す愚か者はいなかったみたい。波に洗われた海岸は、溜まっていたものを全部沖に吐き出して、掃除されたようにきれいだった。何も拾えるものがない海岸。わたしはそれを見回して、ぞっとする。クーベの指摘が頭の中にこだまする。


 『不確定な要素が多すぎる。難破船も、動植物も』


 さっき、わたしたちは島で守られてるなんて考えたけど、とんでもない。そんなの、なんにも約束されていない。用意周到なクーベのお膳立てがあったから、意識しなかっただけ。そうよね。わたしたちを守ってきたのは、島じゃない。クーベだ。クーベという庇護者を失ったわたしたちにとっては、限られた場所である『島』は、本当に住みにくいのかも知れない。


 竜骨とマストだけの、がらんどうのボートを見る。今のわたしは、まさしくこれね。このまま漕ぎ出したら、行き先がここでも外でもわたしは沈む。そう、一番肝心なもの。わたしを海原に浮かせ、前へ進ませるもの。意思、がないんだもの。わたしはどうしたいのか。わたしはどうしなければならないのか。人から言われてそうするのではなく、わたし自身の意思で。決めないとね。


 両手を後ろに回して、輝く海原を見る。島影も船も見えない、どこまでも続く水平線。この向こうのどこかに、わたしやトマスの未来があるんだろうか? ねえ、ダグ。あなたは言ったわよね。


「自分に、運命に負けるな。いい旅を、か……」


 わたしは、旅の途中だ。そして、この島で旅を終えることは出来ない。そうよね……。わたしは後ろ手のまま、ゆっくりと塔に戻った。お昼ご飯の支度をしなくちゃ。


           −=*=−


「湾の方は、なにかいいものがあった?」

「いやあ。まるであのボートを盗まれたからかんしゃく起こしたっていうみたいに、きれいさっぱりお掃除完了という感じだったな」

「やっぱり……」

「でも、いっぱいおさかながきてたから、ぼくにもつれるかも」

「がんばってね。クーベに釣り方聞いたの?」

「うん、れんしゅうもしたんだよ」

「釣れた?」

「筋はいいね。立て続けに大物を三匹釣り上げたよ」

「あらあ、大したもんじゃない!」

「えへへー」


 トマスは終止ご機嫌だ。外に出て新しいものを見つけたり、新しいことを覚えたりするのが、トマスの一番の活力のもとになっている。それを支えているのもクーベだ。うん、分かってる。クーベにはクーベの、わたしにはわたしの出来ることがある。でも、島でわたしが出来ることは、うんと少なくなるね。トマスに対しても。わたし自身にとっても。

 はしゃぎながらご飯をもりもり食べるトマスを見ながら、わたしは静かに決意を固めた。何かを決めるっていうのは、急にではなくて、こういう風に少しずつ少しずつ固まってくるものかも知れない。ふう……。


 ご飯が終わって、席を立とうとした二人を。わたしは押しとどめた。


「あ、ちょっと待って。聞いて欲しいことがあるの」


 二人が、静かに席に戻った。


「わたしね。島を出ることにする」


 それを聞いたクーベが、にっこりと微笑んだ。わたしは。わたしは……。その顔を見て、涙が止まらなくなった。クーベがわたしに、島を出ろと言うことは簡単だっただろう。でも、決してクーベはそうしなかった。わたしが本心からどうするかを決めるまで、クーベは材料だけを揃えて、じっとわたしの決断を待った。


 未来は。わたしの未来だ。クーベの未来じゃない。わたしもクーベの未来に関わることは出来ない。だからこの決心は、決別の決心だ。クーベやダグに寄り掛かって、島での明日はまだまだ続くって甘えてた自分との決別。わたしは、それをじっと待っててくれたクーベに、本当に感謝したい。


 トマスが不安そうに、わたしの顔を見た。


「お姉ちゃん、ぼくは……?」

「一緒に行こう? いや?」

「ううん!」


 トマスが、思いっきり首を横にぶんぶん振った。


「えと、クーべは? いっしょに行くんでしょ?」


 クーベはさっきの微笑をそのままに、トマスに静かに告げた。


「僕は一緒に行けないんだ。次にこの島を出なきゃならないのは僕なんだよ」


 トマスの顔が一気に歪んで、崩れた。


「そんなあ、やだよう、いやだよう! クーベがいないなんてぜったいにいやだよう!」


 しゃくりあげて、テーブルに突っ伏して泣く。わたしも涙が止まらない。誰だって、一度出来た強い心の絆を切らないとならないのは辛い。でも、それを振り切らないと前へ進めないこともある。


 出て来い! わたしの元気! 出て来い! わたしの勇気! ただひたすら自分の未来に手を伸ばすのなら、今わたしがしなければならないのは、立って歩き出すことだ。わたしは泣きながら、空の鍋を持って席を立った。そして……。


「クーベ。筏を作るのはわたしがやる。手伝って」


 そう、宣言した。


「ああ、なんとか間に合いそうだな。ほっとしたよ」


 クーベはいつもと全く変わらない口調で、静かにそう言って立ち上がった。それから、突っ伏して泣いているトマスの頭に手を置いて、少し強い口調で咎めた。


「トマス。おまえは、大人か? 子供か?」


 ぐすぐす言いながら顔を上げたトマスが、無言で俯く。


「いつまでも子供みたいな態度だったら、大人にはなれんぞ。船は一人では動かせない。おまえも船を動かす大事な船員なんだ」

「う……」

「いいか。おまえが失敗したら、おまえもリファも魚のえさだ。失敗は許されん。絶対に!」


 強いクーベの口調に、トマスは身を縮めた。クーベは笑顔を消して、これまで見たことがないような厳しい顔付きになった。


「トマス。良く聞け。僕にはもう時間がない。一緒にゆっくり操船を教えてる時間がない。これからは、時間との競争だ。遊びはこれっぽっちも入らない。食べものや薪を探すのと同じくらい、いやそれ以上に真剣にやってくれ」


 黙っていたトマスに、クーベは返事を強いた。


「トマス。返事は? はい、か? いいえ、か?」


 トマスはまたぐすぐすと泣きながら、蚊の鳴くような声で返事をした。


「……はい」


 クーベは、その顔をわたしに向けて、同じことを言った。


「もちろん、リファもだ。それはリファとトマスの船。自分たちの未来を探しに行く船。他の誰に任せることも出来ない。できるだけ早く船を仕立てて、操作できるようになってくれ」


 わたしは、うんと頷くしかなかった。


◇ ◇ ◇


 夕食のあと。わたしは添い寝してトマスを寝かしつけ、ダイニングに戻った。クーベは自分の部屋に行ったみたいで、わたししかいなかった。わたしは……ダグがよくしていたように椅子に深く座り、ラジオのスイッチを入れた。昨日は潮騒と風の音で騒々しかった部屋の中も、薪が時折はぜる音しか聞こえない。その中に、小さな音でどこかの言葉がこぼれ落ちていく。


 ダグは。ここで、どれほどの孤独と戦ってきたんだろう? わたしやクーベがいることで。その生活に慣れ親しんだことで。船を出す時、捨てなければならないものが増えた。未来よりも今が魅力的に見える時。それを捨て去るには、本当に勇気が要る。ダグは。突然来る終わりの日への恐怖を、島を脱出するエネルギーにした。だから自分は運命を出し抜くのだ、と。

 でも、今から考えるとそれは寂しいなと思う。誰かが、何かが、自分を待っている。そういう期待は、ダグにはなかったように思う。ダグは。とにかく島から脱出したかったんだ。そのことだけが目的だった。じゃあ……脱出を果たした後、ダグは何を目指すんだろう?


 わたしだって、明るいものが未来にあると確信してるわけじゃない。もしかしたら、これまで以上の過酷な運命が待っているのかもしれない。でも、わたしはあえて夢を見たい。わたしとトマスが自分の意志で島を出て、自分の手で未来を探すこと。その形が今分からなくても構わない。だって、今のわたしたちは島しか知らないんだから。島での発想は、島から抜け出せないんだもの。


 きいっと小さな軋み音がして、クーベが静かに入ってきた。


「トマスは寝たのか?」

「うん……。さすがにショックだったみたいで」

「まあ、いつかは言わなければならないことだったから」


 様子はいつもと変わらない。淡々としている。


「よく決心したね」

「時間がないもの。わたしは、リロイの時のような思いは二度としたくない」

「まあ、そうだね」

「部屋で何をしてたの?」

「筏の設計図を書いてたんだよ。これから難破船が出たら、木材を確保しないと」

「そっか……材料が全部あるわけじゃないんだ」

「そういうこと。まだ綱渡りは続いてるんだよ」


 クーベはそう言いながら、ふっと笑った。


「でもね、そういう風に時間に追われている時の方が、余計なことを考えずに済む。リファのこのタイミングでの決心は、ちょうど良かったのかもしれないね」


 わたしは……ラジオを消して、立ち上がった。


「クーベ」

「ん?」

「背中を押してくれてありがとう」


 クーベは、わたしを見ずに静かに答えた。


「どういたしまして」


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