三日目

 ダグが……行っちゃった。心にぽっかりと大きな穴が開いた。悲しくて、悲しくて、悲しくて。何もする気が起きない。わたしの面倒を細かく見てくれるのはクーベなのに。ダグは、わたしに何かしてくれたわけじゃないのに。なんで、ダグがいなくなったことがこんなに悲しいんだろう? 潮騒の音がわたしの頭を掻き回す。今日は、それに雨音まで混じってわたしをなぶる。

 ふう……。窓を開けて、鉛色にくすんだ海と空を見やる。秋なんて名ばかりで、もう冬の気配が辺り一面を支配してる。顔に当たる雨粒が冷たい。また一筋。涙が頬を伝って落ちた。


「ダグ……」


 ががん! がん! がんがんがん! わたしの感傷を木っ端微塵に打ち砕くように、階段で派手な音が響いた。びっくりして階段に飛び出す。クーベが手に何かいろいろなものを持って、階段を下りかけているところだった。さっきの派手な音は、持ちきれずに何か落としたからかな。


「おはよう、クーベ。それ、なに?」

「ダグの部屋のがらくたさ。あいつがこの島で見つかった時に近くに落ちてたものを、あいつが回収して木箱に放り込んでたらしい。忘れたのか、持って行く気がなかったのか知らんが。邪魔だ」


 最初は、それ見て何か思い出せると思ったのかしら。でも興味なくしたんだね、きっと。


「それ、どうするの?」

「何に使うものか分かんないから、捨てようと思ったんだけど」

「どこに?」


 クーベは、時々そういうところがぽっかり抜けている。


「もともと物はそんなに多くないんだし、何かに使えるかも知れないんだから、地下倉庫に入れといたら?」

「おお! それは名案だ!」


 足取り軽く、クーベが地下に降りていった。なんとなく気が削がれたというか、紛れたというか。まあ、いいや。泉で顔を洗って来よう。


◇ ◇ ◇


 ダイニングで、わたしとクーベが朝ご飯の支度をしている間。トマスは、不安そうに周りを見回していた。わたしも最初の何日かは、不安で不安でしょうがなかったんだよね。子供だともっと辛いだろうなあ。退屈なのか、テーブルの上のラジオに手を伸ばした。壊されたらいやだなあと思うけど、クーベには咎めるつもりはないみたいだ。


「トマス。ちょい手伝ってくれ」


 クーベがトマスに声を掛ける。


「うん……」


 ラジオに触ろうとした手は慌てて引っ込められ、わたしは少しほっとした。クーベはトマスに皿を渡して、それをテーブルに並べるように命じた。そうか。もう訓練は始まってるのね。鍋を持ったクーベが、それをテーブルの真ん中にどすんと置いて。


「さあ、食べようか」


 素っ気なく言った。


 お腹が空いていたらしいトマスは、見ていて気持ちがいいくらい、がつがつと食べた。トマスの食べっぷりを、クーベは目を細めて見ている。ダグは大食漢だったけど、トマスも変わらなそうね。


「腹が膨れたかい?」

「うん!」


 トマスは、わたしやクーベの雰囲気に慣れてきたらしい。昨日よりは少し落ち着いてる感じがする。


「さてと。じゃあ、トマス。僕らが自己紹介するから、名前を覚えて」

「うん」

「僕はクーベだ。この島にはもう四年くらい住んでる」

「ふうん」

「わたしはリファよ。この島に来て、もうすぐ一年ね」

「ええと、クーベと、リファおねえちゃん」


 指を差して、確認する。なんでわたしは『おねえちゃん』付きなの? なんとなく、違和感があって苦笑する。クーベが、柔らかい笑みを浮かべてトマスに話し掛けた。


「なあ、トマス。この島には一つしか決まりがない」

「え? それはなに?」

「島には三人しかいられないんだ」

「ええと、いま三人だよね?」

「そう。今はぴったりさ。だけど誰かが来たら、この三人の誰かが島を出ないとならない」


 トマスが泣きそうな顔になった。そうか。考えてみたら、ダグの代わりに来たということで、最初の免除はもう受けられないんだ。次に誰か来たら、トマスが島を出ることもありえるのか。


「トマスが来るまで、この島にはダグっていうおっさんがいた。ダグは昨日島を出た。君はその代わりにこの島に来たんだよ」

「あのう。ぼくはここにいられるの?」

「いられるよ。ただし、自分のことは自分でしないとならない。僕もリファも、そうやってここで暮らしてきた。何をしたらいいかは教えてあげる。分からなかったら、なんでも聞いて」

「うん!」


 トマスは必死の形相だ。


「まあ、そんなに緊張しないで。これからしばらく冬支度が忙しくなるから、それを手伝ってね」

「うん、わかった」


 わたしとクーベの顔をかわりばんこに見ていたトマスが、とんでもないことをわたしに聞いた。


「ねえ、おねえちゃんは、クーベのおくさんなの?」


 どてっ! クーベがずっこける。


「違うよ」

「じゃあ、おねえちゃんは、クーベのこども?」

「それも違う」

「じゃあ、おねえちゃんは、クーベのなに?」

「うーん。友達なのかなー」

「ともだち?」


 わたしが説明しようとしたのを遮って、クーベが答えた。


「そう。トマスだって、僕にとっては友達だよ。僕はトマスのお父さんでも、お兄さんでもない」


 トマスが急に萎れて俯いた。クーベはこういうところがダイレクトで、デリカシーがない。


「でもさ。そうでなくても、仲良くすれば一緒に暮らせるだろ?」


 クーベの穏やかな語りかけに、トマスはほっとしたんだろう。ちょっとはにかんだ様子で顔を上げて、かぶりを振った。


「うん!」


 わたしは……ぼんやりと想像する。もしダグじゃなくて、クーベがここを出て行っていたら。この子はおかしくなってしまうかもしれない。ダグは、自分自身のことで頭がいっぱいだったから、人の心の中にまで入り込むことは決してなかったし、自分がそうされることも嫌がってたように思う。

 リロイが感じ続けていた強い孤独感。その原因の一端は、実はダグにあったのかもしれない。じゃあ、なぜわたしは平気だったんだろう? クーベの姿勢は一貫して変わらない。親切だけど、ドライ。ダグは、わたしをほとんど構ってくれなかった。わたしとリロイとの間に、何も条件の違いはない。男と女の違いも関係してないだろう。だって、ダグもクーベもわたしを女扱いしなかったから。


 しばらく考えて。わたしは一つの結論に行き着いた。そうか。眼だ。リロイは自分しか見ていなかった。ダグやクーベに、寂しい自分を慰めて欲しいとすり寄った。そして、それを拒絶された。甘えるな、と。リロイの居場所はなかったんじゃない。リロイが自分の居場所を作らなかったんだ。そういう努力をしなかったんだ。

 わたしは。二人に受け入れて欲しかった。だから自分のことは後回しで、クーベやダグの視線を追った。クーベの今を見つめる眼。ダグの未来を追う眼。それがわたしの意識を外に引っ張り出し、新しいわたしが出来てきたんだと思う。


 そうよね。ダグがいなくなったことを、ぐちぐち嘆いている場合じゃなかったね。わたしがクーベやダグに助けてもらったように、今度はわたしがこの子をしっかり導いてあげないとならない。それは、この島での暮らし方を教えるってことだけじゃない。ダグに最後に言われたこと。自分の生き方は自分で決めろ! そう、自分のことだけじゃないんだ。トマスの分もある。それを……手伝ってあげないと、ね。


 わたしは、トマスに話し掛けた。


「トマス。これからね、いろんなことがあると思う。でも一緒に乗り越えて行こうね。手伝ってあげるから」


 トマスは弾けそうな笑顔でわたしを見て、大きく頷いた。


「うん! ありがとう、リファおねえちゃん!」


 うわ。かっわいいーっ!


◇ ◇ ◇


 トマスに塔の中の部屋を見せて回り、この島でどうやって食べ物や日用品を確保してるかを説明した。説明されたって、すぐには分からない。わたしだってそうだったもの。とりあえず、着るものはダグの残したのを仕立て直して、トマスに合わせてあげないとね。ダグの服のサイズなら、もしかすると二着分作れるかもしれないな。


 昼ご飯を済ませてから、早速三人での最初の共同作業になった。


「薪が乏しくなって来てる。そのうち難破船は出ると思うけど、今からそれをあてにするわけにはいかない。島に打ち上げられてる流木や難破船の破片は、残らず回収するから手伝ってくれ」

「うん!」


 トマスは子供で非力だけど、とても目が良かった。遠くにある木片、半分埋もれて隠れている木片でも見つけ出す。機動力のあるクーベが、それをすかさず回収する。わたしは、それを束ねて薪の束を作る。


「おい、トマス。おまえ、いい目してるなあ」

「えへへ」


 クーベにほめられたトマスは、すごく嬉しそうだ。

 トマスを見ていると、とても好奇心が強いってことがよく分かる。草も、虫も、鳥も。目につくもの全てに顔を寄せて、それがなにか知ろうとする。それはトマスの個性なんだろうか? それとも、子供はみんなそうなんだろうか? 走り回ってじっとしていないトマスを見ながら、わたしは思わず苦笑いした。そうよね。考えてみたら、ダグとトマスは見事に正反対だ。大人と子供ってだけじゃない。座ったら動かないものぐさなダグと、超活動的なトマス。気難しいダグと、人なつこいトマス。


 たくさんのものを抱え込んで、それを出さずにじっと我慢して、でも最後は自力で島を出たダグ。過去の記憶は無くしていても、その重みにいつも喘いでいた感じがした。それに、リロイほど極端じゃないけど、ダグは最後まで自分がどうするかを考え続け実行に移した。そこにわたしたちが入り込む余地はなかった。

 でもトマスは、まるっきり白紙だ。たぶんわたしと同じで、あまり思い出したくない過去があるんだろうけど、それは表には出てこない。好奇心旺盛で、素直で、寂しがりやで、何も持っていないし、何も定まってない。目は自分にではなくて、いつも外に向いている。これからわたしやクーベの与えるものを、疑うことなく全て吸収して、どんどん形作られて行くんだろう。だけど、自分の意志で自分の未来を考えられるようになるまではまだまだ時間がかかりそう。


 固まってしまったダグ。まだ形のないトマス。ダグはこの島のものは何も持って行かなかった。トマスはこの島で自分を作って持って行く。ああ。でもそれはわたしも同じだ。この島に来た時。わたしも、名前以外何も持っていなかった。でも、わたしは日々作られていく。三人の暮らしの中で、少しずつ……作られて行く。


◇ ◇ ◇


 夕食の後。わたしは、トマスに添い寝をせがまれた。


「怖いの?」

「うん。だってぼくはまだなにもわかんないもの。母さんがいないってことしかわかんない」


 そう言って、またぽろぽろ涙をこぼし始めた。ふう。しょうがないわね。


「そうね。わたしもこの島に来たばかりの頃は、本当に怖くて、寂しかった。でもね……」


 トマスがわたしの顔を見上げる。その頭にそっと手を置いた。


「わたしには、一緒に寝てくれる人は誰もいなかったのよ」

「……うん」

「今日は特別。一緒に寝てあげる。でも、明日からは」


 ぽん。トマスの頭を軽くはたいて。


「一人で寝ましょうね。約束よ」

「わかった」


 まだダグの匂いが残る大きなベッドで、わたしの胸元で丸くなるようにして、トマスは眠った。昼間、張り切って走り回っていたから疲れたんだろう。無邪気な寝顔を見ながら、わたしはふと切なくなる。もし、わたしもクーベもこの島を離れることになったら、トマスはここで生きていけるんだろうか、と。トマスがすっかり寝付いたのを確認して。わたしはそっと部屋を出た。まだダイニングの灯りが点いてる。


「まだ起きてたの?」


 まるでダグがしていたような格好で、クーベがテーブルに肘をついて何事か考え込んでいた。


「ちょっと眠れなくてね」


 クーベにしては珍しい。


「悩み事?」

「まあ、そうだね」


 ふうっと大きな息を吐いて、クーベが背筋を伸ばした。


「最初から分かってたことなんだけどさ。ダグの後に誰が来ても、これから難しくなるだろうなーと」

「難しくなるって?」

「僕は、ダグの後に、男でも女でも大人が来ると思ってた」

「うん」

「男の大人が来れば、リファとの間でリロイの時のような騒動が起きる心配をしなければならない。女の大人が来れば。生活のための労働力は大幅に目減りして、ここでの暮らしを維持するのがすごく辛くなる」

「そ……か」

「それでも、大人は自分の体力と意思を調整して、なんとかやっていけるだろう。でも」

「そうね。トマスはまだ子供」

「うん。リファが来て以来、これまで考えられなかったことが次々起きてる。ペーターやシエロがいた時の仕組みが、もう役に立たないんだよ」


 その後。クーベは、しばらくじっと角灯の火を見つめ続けた。それから、虚空に投げつけるようにぽつりと漏らした。


「リファ。今のうちから言っておく。次は僕だ」


 わたしは、何も考えられなくなるくらいのショックを受けた。


「ど、どういうことっ?」

「しっ! 静かに」


 クーベが指を口に当てて、注意した。


「その時が来れば分かる。それはこの島のルールとは、たぶん関係がない。純粋に、僕の事情だ」


 ああ、なんでこんなにいっぺんにわたしを悩ませることが押し寄せるんだろう。頭を抱えて、髪をかきむしる。ダグが去って、何も知らないこどものトマスが来て。頼りになるクーベが去る? そんな……そんなことっ! クーベは、激しく狼狽してるわたしを見ずに淡々と言った。


「僕は、ダグみたいないきなりって言うのは嫌なんだ。僕自身も含めて、ちゃんと心の準備をしたい。だから、今言っておきたいんだよ」

「いつ……なの?」

「たぶん、来春」


 クーベはそう言って、静かに立ち上がった。


「ねえ、リファ。僕らがずっと見ていた星が、昨日一つ見えなくなった。ダグという星が」

「うん……」

「僕らは、自分の道を示してくれる代わりの星があればいいなと思う。でも、そんな星はない。僕が星になったら、僕がいなくなることでリファもトマスもまた星を失う」

「う……」


 涙が。落ちて来る。角灯の光が。滲んで歪む。


「だからね……」


 クーベがわたしに背を向けて、静かに言い残した。


「リファ自身が星になるように、努力して欲しい。トマスは、まだ星にはなれないんだから」


 クーベは真横に両手を伸ばし、少し顔を上げるような姿勢で静止した。わたしは、それをどこかで見たような気がした。それがすごく気になった。手を下ろしたクーベが、振り返ってわたしに微笑みかけた。


「お休み、リファ」


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