二日目

 夜が明ける前から目が冴える。今日……か。


 ペーターの時も、シエロの時も。そしてリロイの時も。別れはいつも、心に傷を付ける。笑顔で別れるなんてことは、絶対にない。絶対に出来ない。出て行く人が納得出来ない突然の出立。なぜこの島は、こんな過酷な別れを僕らに強いるんだろうか?


 ペーターは。あれだけ穏やかで、冷静な人だったのに。三日目に海に飛び込んだ。服を全て脱ぎ捨て。裸で。大声でわけの分からないことをわめきながら。荒れ狂う海は、あっと言う間にペーターを飲み込んだ。僕とシエロは、ペーターがどうなったかを考えたくなかった。ダグは見つかった時に怪我をしてたから、塔で寝ていてそれを見ていない。それは……本当に幸運だったと思う。僕はダグに、ペーターは旅立ったとしか伝えていない。

 シエロは旅立つ直前まで、僕とダグ、そして来たばかりのリロイの心配をしていた。自分の未来は、何も考えていなかったのかもしれない。海に漕ぎ出されたカヤックは、こちらを何度も振り返るシエロを乗せて、少しずつ遠ざかっていった。シエロは、僕らを思いやることでしか自分の置き場を作れなかったんだろう。自分自身の未来を考える心の余裕は、なかったのだと思う。

 リロイは言うまでもない。最後まで孤立を貫いたリロイは、最後は僕らとは違うものになった。もう会話することも、触れ合うことも出来ないものに。僕は、そこに未来を見いだすことはできなかった。


 僕が知る限り。ダグは、初めて未来に挑んでいる。追い出されるのではなく、自ら出るという勇気を絞り出して、誰もなし得なかった島からの脱出に挑もうとしている。だから、僕はその挑戦が実を結んでくれればいいなと思う。別れはいつも僕らに何も残して来なかった。今度ばかりは。今度ばかりは。旅立つダグにとっても、残される僕やリファにとっても。悲しみ以上の何かが残るような別れであって欲しい。僕は、明けてくる赤い空を見やりながら。そう祈る。


◇ ◇ ◇


 台所で朝飯を作り始める。昨日収穫したハマムギを挽いた粉。カモメの卵と塩と水。混ぜて、練って、小さく円く伸ばす。暖炉で焼いた石。その上に伸ばした生地を置いて焼く。ぼこぼこと膨れたのをひっくり返して、反対側も焼いて。ダイニングに香ばしい匂いが立ちこめた。

 ある程度焼いたのが溜まったところで、具を用意する。茹でたエビ、ニナ貝、イカ。それにノビルの刻んだのをたっぷりかけて。準備があらかた済んだところで、ダグが鼻をひくつかせながら入ってきた。


「おはよう、ダグ」

「おう、クーベ。めっちゃめちゃいい匂いがしてるじゃないか」

「ははは、階段まで匂ってるか? 昨日粉に挽いたハマムギでこんなのを作ってみた」

「おっ! 旨そうじゃないか」

「さあね。味は食べてのお楽しみだな」

「リファは?」

「まだ寝てるんだろ。朝飯だ。起こしてきてくれ」

「分かった」


 上機嫌のダグが階段を上がっていった。結局あいつは最後まで痩せなかったな。船は大丈夫なのか? ダグはすぐに戻って来た。


「すぐ来るとさ」

「じゃあ、席に着いててくれ」

「おう」


 椅子に座ったダグは、船に通うようになってしばらくつけられていなかったラジオのスイッチを入れた。ぱちん。すぐに、僕の知らない言葉が静かに流れ始める。ダグが眉根にしわを寄せて、それにじっと聞き入る。長いこと見慣れた光景。ああ、これも今日で見納めか。

 かたん……。小さな音がして、リファが入ってきた。目が真っ赤だ。相当ベッドで泣いたんだろう。今からこんなに泣いていたら、実際の別れの時にはどんなことになるんだか。


「リファ、おはよう。早速で悪いけど、皿を出してくれ」

「うん……」


 とぼとぼと、皿を並べ始める。あーあ、こりゃあしばらく大変だなあ。

 真ん中に置いた大皿に、さっき焼いたのをどさっと乗せて。茹でた具を入れた深皿をその横に置いた。


「おい、クーベ。これはどうやって食べるんだ?」

「ああ、その平べったいやつの上に、茹でたのを乗せて食べてくれ」

「へえ。初めての料理だな」

「僕も初めて作ったよ」

「ペーターから聞いていたのか?」

「いやあ、自分で適当に考えてみた」


 ダグが呆れてる。


「相変わらず、行き当たりばったりだな」

「それが僕だ」

「ははは」


 元気のないリファを気にせず、ダグが薄焼きを一枚手にとって、それに茹でエビを乗せて口に放り込んだ。ばりっ! ばりっ! ばりっ! 景気のいい音がして、ダグが顔をほころばせた。


「うーむ、こりゃあうまいっ!」

「いけるか?」

「俺の知る限り、今まで食った中では一番だ」


 どれ。僕も同じように茹でイカを乗せて頬張る。ばりばりばりっ!


「うん、いけるな。うまくできた」


 野郎二人のばりばり音に釣られるように、リファも薄焼きに手を伸ばした。乗せるのはエビか。用心するように、端っこに乗せて齧る。ぱりん。こっちは、かわいらしい音がした。


「あっ! おいっしーっ!」

「昨日挽いたやつだよ」

「あれが、こうなったわけぇ? すっごーい!」


 リファも、少しだけ気分が持ち上がったようだ。三人で、景気良くばりばりと音を立てながら腹いっぱい食べた。苦しそうに腹を押さえたダグが、盛大にげっぷをしてから僕の方を向いた。


「クーベ。ありがとよ。おまえのメシは適当だが、どれもうまかった。最後のが特に傑作だったな」

「最後?」

「ああ、昼飯前に出る。船を少しでも軽くしたい」


 もう飯抜きの意味はないと思うよ。ダグのとんちんかんな言い方に、思わず笑いがこみ上げる。


「わーっはっはっはあっ!」


 ダグも愉快そうに腹を押さえながら笑った。


「はっはっはっはっはーっ!」


 悲しそうに顔を伏せていたリファも、しょうがないわねという感じで、わずかだけど笑顔を浮かべた。ああ。最後が笑顔で本当に良かったと思う。これから何があっても、最後に見たのがダグの笑顔だったことが、僕には力になるだろう。


「さてと」


 のそっとダグが立ち上がった。


「あれ? 昼に行くんじゃないのか?」


 ダグは手で髭面をぞりっとなで回して、素っ気なく答えた。


「昼に出るには、今から船で準備しなきゃならないんだよ。これでお別れだ」


 リファが、怯えたようにダグを引き留めようとする。


「な、なんで、そんなに急ぐの?」


 ダグは、笑顔のままリファの慰留をあっさりかわした。


「急いでなんかいないさ。予定通りだ」


 リファは、二の句が継げなくなってしまった。助け舟を出そうか。


「僕たちは見送りに行っちゃだめか?」


 ダグは、窓から船を見やりながら僕の提案を遮った。


「俺の作業中は、クーベやリファの位置からは俺が見えないんだよ。意味ないだろ?」

「じ、じゃあ、出発の時は?」


 ダグが、強い口調でリファに警告した。


「絶対に船に近付くな! 船の燃料が炎となって広範囲に噴き出す。とても危険なんだ。爆発の恐れもある。いいか? もう一度言う。絶対に船に近付くな! 塔に留まって、そこから見ていてくれ」


 ダグは笑顔に戻ってリファの頭にぽんと手を乗せると、金髪をわしわしとかき回した。


「リファ。負けるなよ。自分に。そして運命に。いい旅を。俺はそう祈ってるからな」


 もうリファはまともにダグを見られないようだ。下を向いて、あえぐように泣き続ける。床にぱたぱたと涙が落ちた。ダグが、顔を上げて僕を見た。


「クーベ、世話になった。俺はおまえの心配はしていない。だが、やはり同じことを言わせてくれ。いい旅を」

「ああ」

「それから」

「ん?」

「ラジオは俺が出発するまではつけておいてくれ」

「分かった」

「じゃあな」


 肩を震わせて泣くリファの頭を、もう一度ぽんと叩いて。ダグは体を揺すりながら階段を降りていった。そして窓から、ゆっくりと船に向かって歩くダグの大きな背中が見えた。一度もこちらを振り返らず。真っ直ぐに船に向かって歩いてゆく。その周りで、枯れ草が柔らかく海風になびく。海は凪いで、日差しを映している。きらきらと。


◇ ◇ ◇


 僕らは、ダグが塔を出て船に行っても何をするわけではなく、ぼんやりと椅子に座り込んでいた。開け放った窓から時々風が迷い込んでは、呆然としているリファの金髪を揺らす。太陽が、一番天空高く上り詰める頃。いきなりラジオが野太い声を出した。


「おーい、クーベ! リファ!」


 ああっ! ダグの声だ。思わずラジオを引き寄せる。リファもすっ飛んできた。


「出る! 元気でな。あばよ!」


 その声が終わるか終わらないうちに。

 どんっ! 大きな音が外で響いた。


 今度は慌てて窓に駆け寄る。窓枠に手をかけ、身を乗り出し、今にも飛び降りそうな格好で、リファが絶叫した。


「ダグーっ!! ダグーーーーーーーーーーっ!!!」


 僕はリファの肩に手をかけて引っ張り戻す。窓の外では、船が銀色の船体を光らせ、下から真っ赤な炎を吹き上げていた。そして。その船体が徐々に宙に浮き始めた。


「空を飛ぶ……船……だったのか……」


 赤い炎は徐々に鋭く輝く白い炎に変わり、やがて船体は少し斜めに傾いて。

 どおーーーーんっ!!! 激しい音とともに島の彼方へと飛んで行った……。


 空に残る一筋の煙。それだけを残して。ダグは僕らの前から消えた。他には何も。何一つ残さずに……。僕が残された白煙の筋をじっと見つめている間。リファは床に突っ伏して泣き崩れていた。たぶん。リファにとって、ダグは父だったんだろう。ダグにはそのつもりはなかったかもしれないが。大きな心の拠り所を失った喪失感。リファだけではない。僕も、これからそれと戦っていかなくてはならない。


 握りしめていた窓枠から手を離して、僕はふと気付いた。涙を流していることに。ペーターの時も、シエロの時も、リロイの時も。別れは悲しかったけど、僕は泣いたことはなかった。ここへ来て。初めて僕は泣いた。そうして、泣ける自分に驚き、泣ける自分にほっとしている。


 ダグ。ありがとう。僕は、そいつをもらった。それで充分だ。ありがとう。


◇ ◇ ◇


 リファがひどくショックを受けていることは分かる。本当だったら、少しそっとしておいてあげたい。でも僕には気になることがあった。そう、ダグの後に誰かが補充されるかどうか。僕はペーターの口伝をそのまま覚えている。


 『島の定員は三名。それ以上増えれば誰かがいなくなり、定員を割れば補充される』


 記録上今まで欠員が出たことがないとは言え、口伝にそう残されている限り間違いなく補充されるだろう。あくまでも勘だけど、二人しかいないという状態が長期間続くとは思えないんだ。船のあった場所の状態を確認した後で、島を見回った方がいいな。昼飯も食べずに、部屋に引きこもっていたリファを無理に引きずり出す。


「なによっ! 今日くらいそっとしといてよっ!」

「そうもいかん。船が出た後に火が残っている」


 リファの顔が、さあっと青ざめた。


「延焼すると死活問題になる。きちんと見回って消しとかないと」

「……分かった」


 ダグがいなくなっても、僕らのすること出来ることは変わらない。それをきちんとこなしていかないと、僕らの明日を考えることも出来ないんだ。落ち込んだ様子のリファを急き立てるようにして、船の発った跡を見回った。まだ、そこここに火が残っていたが、幸い延焼の危険はなさそうだ。くすぶっているところを踏んで完全に火を消し、水をかける。

 作業が済んだところで、篭罠を見回りに行った。海から吹き付ける風がすっかり冷たくなった。これから、一雨ごとに海が荒れるようになるだろう。今年の冬は、難破船が出るのか出ないのか。一喜一憂する日々がすぐ近くまでやってきている。篭罠にかかっていたカニや魚をリファに渡して、僕は湾まで足を伸ばした。塔の外に積み上げてある薪がだいぶ残り少なくなっている。暖炉やかまどの燃料を確保しないとならない。普段ものぐさなダグも、こういう力仕事の時には本当によくやってくれた。リファはその点、まめではあるけど力仕事には向いてない。これからきつくなりそうだな。


 湾内を漂っている流木を回収して、束ねて背負う。篭罠の中身を処理したんだろう。リファが走り寄ってくるのが見えた。リファにも流木を拾わせようと思って、湾の取っ付きまで戻る。


「ああ、リファ。薪がだいぶ減ってきたから、流木の回収を手伝って」


 僕の方を見たリファが、左手で口を押さえ、震える指で僕の背後を指差した。


「なに?」


 何気に振り返る。と、そこに。不安そうな顔をした男の子が一人。僕の服の裾を掴むようにして立っていた。年は十歳前後だろうか。黒い髪、黒い瞳、浅黒い肌。服装は整っている。ああ。やっぱりね。補充はあったわけだ。それにしても……よりにもよって子供、か。


「ああ、ここだと足元が危ないから、塔まで戻ろう。着いておいで」


 僕の話しかけに、男の子は素直に頷いた。


「あ、名前を聞いておこうか。思い出せるかい?」


 首を傾げてもごもご言ってた男の子が、顔を上げてはっきりと言った。


「トマス」

「トマスか。いい名前だ。さあ、行こう。リファ、何をぐずぐずしてる。行くぞ」


◇ ◇ ◇


 トマスは、これまでの住人と同じように記憶を完全に失っていた。違うのは、母親を探そうとしたことだ。でも、自分の母親の名前も顔も思い出せない。トマスは大混乱して激しく泣いた。まあ、泣きたい気持ちは分かる。でも、僕らも泣きたいよ。

 この島の住人は、独立した大人の集団だった。少なくとも僕が知る限り。リファは女だけど、僕らは大人だと思っていたし、そう扱ってきた。リファもちゃんとそれに応えている。だけど……トマスは大人じゃない。体もまだ小さいし、知識も、精神力も、まだまだ発展途上だろう。子供がこの島にいる意味なんかない。なんでそんなことをするんだろう? でも、ダグならきっと言うんだろうな。このくそったれの島に、もともと意味なんかないよ、と。


 とりあえずトマスに夕飯を食べさせて。ダグの部屋で眠るまでリファに付き添ってもらって、トマスを休ませた。

 明日。全ては明日だ。僕は自分の部屋の窓を開けて、漆黒の闇に向かって呟いた。


「ダグ。やっぱり三人で暮らせとさ。厄介なことだな」


 顔に水滴がぱたりと当たった。これから、雨か……。


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