第四季 秋 星替わる
一日目
短い夏は、あっという間に終わった。草はどんどん枯れて、クーベとリファがハマムギやエンバクを刈って、せっせと粉にしている。あれほど賑やかだった海鳥たちも次々に旅立ち、枯れ草や潅木を抜ける風の音だけが、ざわざわといつまでも耳に残るようになった。
ダイニングの椅子に座って、いつものように海を見る。ここのところ、少しずつ荒れる日が増えてきた。急いだ方がいいだろう。
「お、ダグ、おはよう。今日は早いな」
「ああ、静かになると目が冴えちまうんだよ」
「それもまた変な話だ」
「そう言うない」
クーベがゆっくりと台所に入る。入れ替わって、大欠伸をしながらリファが入ってきた。
「ふわあああっ。ダグぅ、おはよーう」
「なんだ、ぐだぐだだな」
「ちょっと夜遅くまで根詰めちゃった」
「なんか作業でもしてたのか?」
「倉庫にあるものの一覧を作ってたの」
「ほう」
「クーベはものすごく記憶力がいいけど、わたしはそんなに覚えていられないもの」
「はははっ。確かにな」
俺がばかにしたと思ったのか、リファが横を向いて膨れる。
「そりゃあ、悪いことじゃないよ」
「え? わたしの頭が悪いのが?」
「違うよ。覚えていられないことさ」
リファが口をつぐんで俯いた。
「俺らの頭の中に入れられるものなんて、ほんのわずかなことだ。それも後から入れようと思えば、最初に詰め込んであるのをどっかにやらないとならない。まるで、この島の俺らのようだな」
「止めてよっ!」
リファが苛々した様子で、がたっと椅子を鳴らして立ち上がった。それをなだめるように、クーベが鍋を持って来た。
「リファ、朝食にするから皿を持って来てくれ」
ぷいっと後ろを向いたリファが、靴音高く台所へ歩いて行った。
「ダグ。朝っぱらから、なにリファを怒らせてるんだよ」
「あの日なんだろ」
クーベが首を捻っている。こいつは、こういうところが時々人並みはずれて鈍い。
「まあ、深く考えるな」
「いいけど」
乱暴に、投げ出すように皿を置いて回ったリファが椅子に座るのを待つ。クーベが肉挟みを掴んで、鍋に手を伸ばそうとしたのを制して、俺は話を切り出した。
「ああ、ちょっと聞いてくれ」
「なに?」
「俺は明日島を出る」
からんっ! クーベの取り落とした肉挟みが床で跳ね返って、甲高い音を立てた。二人が立ち上がって、俺を凝視した。リファは青ざめて、口をわななかせている。唐突で済まんな。
クーベに聞かれる。
「そんな……いきなりだな」
「こんなの、いつ話したところでいきなりさ」
「それにしたって……。準備は出来たのか?」
「いや。あの船を見つけた頃と、何も事情は変わってないよ」
「じゃあ、どうしてっ!」
いきりたったリファが詰め寄ってくる。
「思い出す鍵が……ここを出ること、だからさ」
クーベもリファも、全身の力が抜けたように椅子に倒れ込んだ。
「そいつに気付くのに、こんなにかかっちまったんだよ」
クーベが長い長い溜息をついた。
「ここにいる以上、失くした記憶を充分取り戻すことはどうやってもできない。いろいろ条件を変えて試してみたが、肝心なところがどうしても取り戻せないんだ」
「肝心なところって?」
「行き先さ。そいつさえ設定してやれば、あとは船が勝手に俺を運んでくれる。それは思いだした。だが、船のことは分かっても、俺の過去が分からない限り行き先は設定しようがない」
「……そうか」
「八方塞がりだったんだよ」
俺は立ち上がって窓際に行く。ぎしぎしぎしっ! 騒々しく軋む床。開け放たれている窓の一つに手をかけて。ざわめく海面を見下ろす。
「だが、船を出すならもうそんなに猶予はない。これから天候が崩れやすくなるからな。それで思い切ることにしたんだ。この島の影響圏さえ抜ければなんとかなるだろう、とな」
「どういう……意味?」
「記憶を取り戻せるか、島のルールから逃れられる。そのどちらかで、俺にとっては充分だ」
クーベが下を向いたままで、問い返す。
「でも、それは約束されてないんだろ?」
……。クーベの言う通りだ。不安ばかりで、思い切れない。だから、こんなに時間がかかっちまったんだ。何も約束されてない。どこにも俺の未来を導く星はない。
「そうだな。でも、それは俺が諦めてここに残っていても同じことだ。だから、もう行くことにしたんだよ」
リファが、目尻に涙をにじませて俺を見上げた。
「行けるの? 辿り着けるの?」
「分からん。でも、俺は信じている」
「何を?」
「どこかに辿り着けることを、さ」
俺は開け放たれた窓から、雲が流れ始めた空を見上げる。
不安。未来が保証されていないことの不安。でも、考えてみろ。俺が、どこで、何をしていたところで、それはついて回る。俺がここを出る決心をしたのは、俺の未来を誰かが勝手にいじっていることに耐えられなかったからだ。この先何があっても、それは俺が選んだ未来だ。俺が決め、俺が挑んで掴み取った未来だ。俺にはそれだけあればいい。それが保証されていないのなら挑むしかない。その覚悟が、やっと固まった。俺はなんとか間に合いそうだ。
心配顔のクーベやリファ。でも、俺はやっと安心できそうだよ。これでいつ来るか分からないその時を、怯えながら待たずに済む。
「明日は、天気はよさそうだ。風も穏やかそうだし、見通しが利く。手動で船を動かすなら、その方がありがたいからな」
クーベが俺をじっと見据えて、ずけずけと突っ込んだ。それは、もういつもの口調だった。
「ダグ、なんで今日じゃないんだ? 今日だって、天気は安定してると思うぞ」
思わず苦笑いが浮かぶ。
「きつい皮肉だな。俺はそこまで野暮じゃないよ」
「立派に野暮だと思うけどなー」
笑うしかない。
「はははははっ」
「明日はいつ頃出発するの?」
リファが慎重に尋ねた。
「昼に出る。太陽が高いところにあった方が、視界が広くて楽だからな」
俺たちは、そのあと無言で朝食を済ませた。
◇ ◇ ◇
午後。俺は船に食料と水を運び込んだ。数日分あればいい。あとは着いた先でどうにかなるだろう。クーベやリファから準備を手伝うと言われたが、断った。手伝ってもらうほどのことは何もない。
俺は、船を出て海原を見渡す。この島以外は、何もない一面の海原。だが、それも俺にとっては最初から奇妙なことだった。難破船が度々流れ着くほどの海の要所。それならば、他の島影や船の往来が見えてもいいはずだ。まるっきりの孤島という風情なぞありえないだろう。つまり、外からはこの島が見え、この島からは外が見えないということ。
外から見えることの意味。聖域の顕示。中から外が見えないことの意味。秘密の保持。
この島の住人は、神官という扱いなのかもしれない。穢れを避けるために全ての過去の記憶は封印され、聖なる『三』という数を維持するために、ここで飼われる。なぜ住民を入れ替えるか? 人である以上、ここで暮らす間に過去の記憶が作られ、それが穢れを呼ぶから。
俺は、足元の石を思い切り蹴飛ばした。かんっ! かんかん、かん……。斜面を転がり落ちていく石を見ながら、俺はでかい溜息をつく。まあ。こんな風にいろいろ想像力を逞しくして考えたところで、それが何を変えられるわけでもない。俺のこんな見立てをクーベやリファに話さなかったのも、それが俺たちの生き方を変えられないからだ。俺にとっての、島での二年ちょっとの生活の意味。一つ一つ考えてみれば、それは俺にとっては悪くないことばかりだった。だが、それが俺を変えたかと言えば、それには否と言わざるを得ない。失ったものを取り戻せない喪失感は、最後まで俺の足を引っ張った。そして、それは今でも変わっていないし、これからも変わらないのかもしれない。
一つだけ言えること。俺は、この島で休ませてもらった。失ったものを取り戻すことはできなかったが、それ以上に失うことはなかった。だから、俺は崩れずに前を向いてこの島を去ることができる。シエロ、リロイ、クーベ、リファ。俺が俺でいることを認めてくれた住人たち全てに、俺は感謝したい。深く、深く。
◇ ◇ ◇
結局、いつも通りの作業を済ませて、少し早めにクーベとリファが戻って来た。二人ですぐ夕食の支度にかかる。ちょっとは豪華な晩飯になるかと思ったが、いつも通りだった。そういや、リロイの時もそうだったな。このあたりは、クーベのドライさが垣間見えておもしろい。
何か言おうとしても、言葉が見つからない。そんな感じで、静かに、淡々と夕食が終わった。リファが台所で皿を片付けている間。クーベが俺の隣に座った。
「なあ」
「ん?」
「ちょっと教えてくれるか?」
「なにをだ?」
「ダグが行った後、補充はあるんだろうか?」
「補充されると言ったのは、お前だぞ?」
「そうだけどさ」
クーベが腕組みして首を捻る。
「記録を見る限り、これまで一度も欠員がないってのが引っかかるんだよ」
「はっはー」
珍しく、クーベが苛立った様子を見せた。
「笑えることか!」
「まあまあ、落ち着け」
リファも来て、俺のもう一方の横に座った。
「補充は、たぶんあるだろうよ。俺がルールを決めてるわけじゃないから、絶対とは言えないだろうけどな」
クーベがむっすりと黙る。
「クーベ、おまえが心配してるのは、リファのことだろ?」
クーベが下を向いたままゆっくり頷いた。リファがうろたえる。
「え? わ、わたしのこと……って? わたしは大丈夫よ。ちゃんと生活出来るように、クーベにしっかり教えてもらってるから」
「そういうことじゃないさ」
「は?」
俺の顔をしげしげと見るリファ。
「おまえは女だ。俺もクーベも、おまえを年頃の女としては扱わなかった。だが、これからそれが保証されるとは限らない」
リファがしょんぼりと俯いた。
「リロイの時は、リファの拒絶が怖くてリロイが思い切れなかったんだろう。時間も限られていたし。でも、ああいうのが今後ないとは限らない。補充があろうがなかろうが、これからは住人の意味が変わる。それは……仕方ない。新たな覚悟が要る」
リファがゆっくり顔を上げて、俺を見つめた。
「ダグは……その……わたしに、そういうのを感じなかったの?」
俺はでかい声で笑った。
「はっはっはっはっはあ! おまえはがりがりだからなあ」
リファがぷうっと膨れた。
「冗談だよ。おまえに魅力がないってことじゃない。俺の事情さ」
「事情って?」
首を傾げるリファ。
「今まで誰にも言ってなかったが、俺はここに来る前は、たぶん兵士だったんだろう」
「兵士?」
「そう、殺し合いが仕事だ」
リファが驚く。
「そ、そんな……」
「俺には兵士としての記憶はないよ。だが、体は傷だらけ。思い出す事実としての記憶は気象や船の特徴。そして、俺だけがラジオの言葉を理解出来る。船や機械を操れる。客観的な事実が全て、兵士としての俺を裏付けてる」
俺は一度口をつぐんで、リファを見た。リファが俺に向ける、穢れのない真っ直ぐな視線。俺は……それに溜息が出る。
「兵士は心が弱いと役に立たん。俺は、たぶん徹底的にそういう訓練をされてきたんだろう。気安く女を抱く。気を許す友人を安易に作る。それは自分に隙を作ること。兵士にあるまじきことだ。だから記憶は封印されても、体に染み付いたものがそれを拒絶させてきたんだよ」
クーベとリファが、黙って俺の顔を見ている。
「クーベ。おまえ、リファが来た時に、俺がなんと言ったか覚えているか?」
「ああ、なぜ女かって」
「そう。実は、俺が自力で島を出るって以前に、すでに慣例は崩れてるんだよ」
「確かにな。それまでは全員男だった」
「なぜ女を入れなかったか。俺が思うに、島の中で家庭が出来ることを避けるためだ。定員三名の入れ替わりの時、それを淡々と運命として受け入れられるようなやつはいない。他人同士の寄せ集めであっても、だ」
「ああ」
「それが血の繋がった家族になったら、そこに悲劇が生まれちまう。住人が耐えられん」
「なるほどな」
「だから、この島では本来女性は禁忌だったんだろう」
「じゃあ、なぜわたしがいるわけっ!?」
リファが叫んだ。俺は思わずあざ笑った。
「はっはっは。島の考えることなんか、俺たちには分かんないよ。だがな……」
リファを指差す。
「おまえにはチャンスが出来た。おまえ自身が例外だし、俺も慣例をぶっ壊して行く。俺は人の生き方に指図したくない。だから今まで黙っていたが……。リファ、おまえも自分の生き方は自分で決めろ。その方が後悔しなくて済む。俺の数少ない置き土産だ」
じっと何事か考え込んでいたリファが顔を上げて、俺の頬にキスをした。
「ありがとう。お休み」
「ああ、よく口を洗っておけよ。俺の面は汚いからな」
俺に向かって思い切りのしかめ面を見せたリファが、階段を上がっていった。
「まあ、素っ気ない置き土産だ」
クーベが嫌みを言う。
「何もないよりゃ、マシだろ」
「そんなもんかね」
「そんなもんだ」
「僕にはないのか?」
「俺がクーベに言えることなんか、何もないよ。俺はクーベには最後までもらってばかりだ。感謝しか置いていけるものはないな」
「ははっ。そりゃあ、食いでがないな」
クーベらしい言い回しだ。俺は、クーベに手を差し出した。クーベが俺の手をがっちり握る。
「世話になったな。俺がここを出た後で、ここのことを覚えていられるかどうかは分からない。だが……俺が島のことを忘れたとしても、クーベやシエロ、リロイやリファがくれた暖かい気持ちは、必ず俺の中に残るだろう。それが、明日以降俺が生きていく力になる。約束するよ」
クーベは、それに何も答えなかった。でも、じっと俺を見つめたまま笑みを浮かべ。しばらくして、そっと手を離した。
「じゃあな、ダグ。お休み」
「お休み、クーベ」
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