三日目
たくさんの海鳥が鳴き交わす声。僕は、それに起こされる。きっとその中には僕が知っている声も、混じっているんだろう。僕は、まだそれを聞きたくない。だから、他の生活音があるところに早く行きたくなる。まだ明け切らない空。漏れてくる赤い光を手で遮って。僕は足早に階段を下りて泉に向かう。
リファは、ことのほか香草を喜んでくれた。今まで女がいなかったこの島では、この手の要望が丸っきりなかったんだろう。ペーターがまめでなかったら、僕だって考えもしなかったよ。
服を脱いで、念入りに体を洗う。ごしごしごし。ごしごしごし。見逃さないようにしなければならない、自分の変化。僕は、そのために丁寧に体を洗う。ごしごしごし。ごしごしごし。
いつの間にか、もう一つの水音がしたので、そっちに顔を向ける。リファが跪いて髪を洗っていた。白く、細い裸体。今はいいが、冬は寒そうだな。もう少し太らせないと。野草摘みや、卵取りで、斜面を行き来するようになったから、足の筋力はついた。あとは腕力か。僕の視線に気付いたリファが、首を傾げる。
「おはよう、クーベ。何をじろじろ見てるの?」
「いや、相変わらず細っこいからさ。もう少し太って体力つけないと」
「やーよ、ダグみたいなデブになるのは」
「ひどいなー」
「ねえ」
「ん?」
「なんで、クーベはそんなにいつも熱心に体を磨くの?」
「さあなあ」
何と言ったもんだか。
「癖、だね」
「癖かあ……」
本当は癖ではないんだけど、今はそういう風にしか言いようがないし。
「さあ、風邪引くとあれだ。さっさと朝食の支度にかかろう」
「はあい」
先に服を着て、台所で食事の支度を始める。今日はダグがもう起きてて、椅子にどっかり座ってラジオに聞き入っている。……いや。たぶんラジオの音は、全く耳に入っていないんだろう。ラジオを付けるのは、集中して何かを考える時のダグの癖だ。癖? 本当は癖ではないのかもしれないね。僕の体の洗い方みたいなもので。来るべき時に備えて、自分を研ぎ澄ますためのアクション。
ダグがどのタイミングで鍵を見つけるのか、それは分からない。でも出来れば、僕よりも先に見つけて欲しい。そうしないと、僕の後に誰が来ても三人の関係は保てなくなるだろう。ダグの絶望感がとことん深くなるだけにね。
僕は鍋に湯を沸かしながら、自分の幸運を思い起こす。これまでの島の住人が、それぞれの組み合わせでどう過ごしていたかを遡って知ることはできない。僕らは祈りにも近い気持ちで、それが平穏なものであっただろうと考える。いや、思い込む。でも実際は、ダグにしても、リロイにしても、そしてリファにしても。不確実な明日がもたらす様々な悩みや軋轢は、時として僕らを押し潰してしまうほど強い。
僕は、その辺りが他の住人とは違っていたけれど。それは最初に僕の面倒を見てくれたのが、物知りで思慮深いペーターと、とにかく親切なシエロだったからかもしれない。ここで生き延びるということが、三人で暮らす最低限の意義だ。過去には実際に、生き延びることにしか機能しなかった組み合わせもあったのかもしれない。でも、僕はペーターやシエロにそれ以上のものをもらった。過去を知らないのは同じなのに、僕の欠けている部分を暖かいもので埋めてもらった。だから、ペーターが去った時もシエロが去った時も僕は心底悲しかった。一緒に暮らしていなければよかったと思うほど。
シエロがリロイにかけた最後の言葉……なにも残せなかったことが嬉しい……。あれは。偽らざるシエロの本心だったんだろう。シエロの後ろ髪を引くものが、一つ少なくて済んだのだから。僕は、魚をさばきながらダグを見る。ダグはどうなんだろう? 自分から島を出ると言う固い決意。その意図するところはよーく分かる。だけど置いて行かれる僕やリファの嘆きは、ダグには届かないのかな。
本当に僕らとの関係が希薄だったリロイと違って。ダグの根底にあるのは、暖かいものだと思う。でも、ダグはそれを示したがらない。ダグ自身も知りえない、過去の何かがそうさせているのか。僕には知るよしもない。
魚がいい感じに煮えてきた。そろそろ子持ちのイカも獲れるようになる。この時期の魚は油の乗りが今一だけど、釣果が必ずあるのが嬉しいところだ。食事が済んだら、卵を取りにいって、カモメを何羽か締めよう。それから仕掛けを見回らないとな。
「ごめん! 遅れて」
ばたばたとリファが台所に走りこんできた。
「ああ、かまわないよ。大体できたから、皿を出して」
「分かったー」
皿を抱えて行ったリファが、ダグをどやしつけてる。
「ちょっとー。そのでかい図体で、えさ運んでくれるの待ってる雛みたいな真似しないでくれる?」
「ちぇ、手厳しいな」
「ここを出るまでに減量するって言ったのはダグよ?」
「……」
リファもまた。ダグがここを出ることを、決して望んでいるわけではないと思う。生きることを急き立てる僕と違って、ダグは自分の意味を考え、考えさせる。それは、リファのこれからを探る上で、なくてはならないものだろう
一見完璧に見える三人の暮らし。でも、それはある日突然に壊れてしまう。リロイの時。リファには何も心の備えがなかった。だから、ああいう形で別れが来てしまったことが、本当に悲しかったんだろう。ダグの場合は、ダグが自分で出る日を設定する。それが僕らの予想しなかった日であっても、別れに向けてお互いに何を与え、何を残すのか、心を整理することが可能なんだ。だからダグだけでなく、僕もリファも。離陸の準備を……すでに始めているんだ。少しずつ。
朝食の間に、リファに聞かれた。
「今日はどうするの?」
「卵を採りに行くのと、カモメを何羽か締める」
リファの顔が引きつった。
「今日はリファ自身にもやってもらうから。羽と肉を確保しないとならない」
「……はあい」
「ダグは今日も中にいるのか?」
ダグは、視線をゆっくり窓の外に向けて答えた。
「いや、今日は船に行く。ぼつぼつ練習に入らないとな」
え?
「思い出したのか?」
「いや、さっぱりさ。でも、思い出す方法をいろいろ試さないとならない」
ダグが、ラジオをぽんと叩いた。
「俺もそろそろ、こいつの呪縛から解かれないと埒が明かん」
ダグも、もがいている。この島から出るっていうことは、簡単なことじゃない。というか、可能かどうかすらもまだ分からない。でもダグは、時間切れで諦めるってことだけは絶対にしたくないんだろう。
「じゃあ、昼飯には一度戻ってきてくれ」
「気が向いたらな」
おや?
「船での作業は集中力が要る。その間は塔に戻らん。俺がいなくても飯を食っててくれ」
「分かった」
ダグが僕らを見ずに言った言葉。その素っ気なさ。僕は……その時が近いことを悟った。
◇ ◇ ◇
ダグの言葉通り。ダグは、昼には塔に戻らなかった。僕らは昼食後も卵を集め、カモメを三羽締めた。リファはもちろん嫌そうだったけど、前回のアザラシよりはましだと割り切ったんだろう。へっぴり腰ながら、なんとか自力で仕留めた。
僕らが狩りの対象にするのは、
「どしたの?」
「なんか、そういうオスってかわいそうだなあと思って。自分には意味がないってことでしょ?」
「ははは。そんなことはないよ。自分の意味は自分で決めるもんだよ。カモメだってそうだ」
「どういうこと?」
「僕らが決めてるカモメの優先順位なんか、彼らには全く意味はないよ。僕らにしか意味がないんだ。この島ではともかく、他の島ではそれでチャンスを得るオスがいるってことさ」
「そうか……」
「だからね」
僕は空を飛び交う鳥たちを見上げる。海でエサを取って、それを巣に運び込む鳥たちの飛翔。リファが僕の視線を追った。
「僕らも、ここでの存在意義を考えても仕方ないんだよ」
「ここで……って、島のこと?」
「そう。僕らはいずれここを出て行く。その時に、何を持って出られるのか。出て行かなければならないのか。それを考えないとならない」
「うん」
「ダグは、最初からそれしか考えていない。だから、僕らがするようなこういうことには興味がないし、積極的に関わるつもりもない。ダグがこの島で知ったこと、やったこと。それを、ダグは全部置いていくと思う」
「そうか……」
「うん。それは、ダグの未来には意味がないからね」
「クーベはどうなの?」
「うーん。僕はダグとは違う。でも、どう違うかは説明出来ないかなあ」
「クーベにとっては、今の生活に意味があるっていうわけ?」
「そういうことになるね。それに、それが僕だし」
「は?」
「今を生きる。僕の意味は、それだけなんだよ」
リファは、僕の言ってることの意味を理解出来てないと思う。でも、これは説明するようなことじゃない。
「さあ、予定してた獲物は確保したから、降りて処理しよう」
リファはまだ僕に何か聞きたそうだったけど、僕はそれを遮って、さっさと塔に戻った。リファに羽のむしり方を教えて、それをやってもらっている間に、仕掛けを見回りにいく。今日は、あまり実入りがない。まあ、あまり無理に採って回らずに、海藻と貝を拾うくらいにしておこう。カモメをさばかないとな。
海からの獲物をリファに渡して、交代する。カモメの内蔵を出して、海水できれいに洗い、草を腹の中で燻して生臭さを消す。それを金串に通して暖炉の火に寄せ、遠火で炙る。今夜は鳥料理だ。
◇ ◇ ◇
日が沈む頃に。やっとダグが戻ってきた。特に疲れているという感じではないけれど、ますます無口になっている。久しぶりの鳥料理。何か感想を言うかと思ったけど、一言もしゃべらずに、ただ黙々と食べ続けるだけ。いつもなら、僕もリファもがっちり皮肉をぶつけるところだけど、ダグが切羽詰まっていることがひしひしと分かるから、うかつなことは口に出せない。
会話のない、静かな夕食が終わって。テーブルの上を片付けたリファが、椅子に寄り掛かってぽつりと言った。
「……なんでだろ?」
腕組みして厳しい表情でじっと考え込んでいたダグが、ふっと緊張を緩めてリファの顔を見た。
「なにがだ?」
「いや、昨日ダグにインクの作り方を教えてもらって、練習で書いてみたんだけど」
「書けたか?」
「うん、そっちは問題ないの。気になったのはね」
リファが顔を上げて、僕とダグを交互に見た。
「わたしは、明らかにダグともクーベとも違う。肌の色も、瞳や髪の毛の色も。体つきも、何もかも。当然、言葉とか、そういうのも違うと思うんだけど、わたしは最初からみんなとの会話に困らないし、本も最初から読める。なんか、不思議っていうか、変だなーと思って」
ダグは。かすかな笑みを浮かべて。目を瞑ってしばらく黙していた。それから、不意に口を開いた。
「そう。違うんだよ。俺と、クーベと、リファ。みんな、過去も。今も。未来も違う」
目をぱかっと開いたダグが、リファの方を向いた。
「違うままにしておくなら、俺たちを島に呼ぶはずはない」
「えーっ!? 呼ぶぅ?」
リファが素っ頓狂な声を上げた。
「奇妙なルールを押し付けて、俺たちを呼び寄せて試しているやつがいる。でも、その結果がいつも同じじゃつまらないから、ふざけた真似をするのさ」
「ふざけた真似……って?」
「焼き印で、最初から無理無く会話できるようにしているんだよ」
「や、焼き印?」
「同じ言葉。同じ生活。それを隠した記憶の代わりに焼き付ける。まさに焼き印だよ。違う者の間に共通項を与えて交流させる。その過程を見届ける。まるで、アルケミストの実験だ」
「だ、誰が見てるの?」
「知らん!」
苛立ったように、ダグがテーブルを拳で叩いた。がんっ!
「それが憐憫なのか、懲罰なのか、嘲笑なのか。俺たちには知りようがない。苛々するっ!」
ダグが額に青筋を浮かべて、猛烈な嫌悪感を
「済まん……。今のは俺の個人的な考えだ。忘れてくれ」
すっかり意気消沈したダグが、背中を丸めて下を向いた。
「なあ、ダグ」
片付けの手を止めて、ダグに話し掛ける。
「僕たちは三人でここにいる。それでいいじゃないか」
じっと俯いていたダグが、諦めたように顔を上げた。
「そうだな……」
リファがふわりと笑った。
「わたしは、ダグとクーベが一緒にいて本当に良かったと思ってるよ。いっぱい助けてもらって、いっぱい教えてもらって、いっぱい勇気をもらってる」
「まあ、お世辞はそれくらいにしておけ」
ダグはそう言うと、さっきとは打って変わって楽しそうに笑った。
「はっはっはっはっはあ! まあ、俺が楽しくやれてるのなら、こういうのもいいか」
屈託のないダグの笑顔を久しぶりに見た。ああ、でもダグは。僕らがなんと言おうと。僕らがなにをしようと。僕らから受け取ったものを全て置いて、ここを出て行くだろう。それは仕方ない。ならばせめて。せめて『今』だけは。三人の間に心が通う『今』でありたい。そうあって欲しい。
僕はダイニングを横切って、窓を開けた。夜空には星がたくさん瞬いている。ダグがゆっくりと近付いてきて、隣に立った。
「明日も天気は良さそうだな」
「ああ」
リファも寄ってきた。
「海鳥たちも、夜は休むのね」
「俺たちも休むとするか」
「そうね」
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