二日目

 うふふー。うふふー。うふふふふー。わたしは。とっても嬉しくて。ベッドの中をころころと転がり回っていた。今日も天気は良さそう。海鳥たちが騒がしく鳴いているのも、気にならない。

 石けん! 石けんよ! しかも、ちゃんと色がついてて、いい匂いがする。ええと、マンネンロウって言ってたよね? クーベったら、どこにそんなのを隠してたのかしら? そんなことはどうでもいい。実り始めたベリーの甘酸っぱさ。体をきれいにできる喜び。ベッドで身を縮めなくても済む暖かさ。夏は好き! 大好き!


 わたしはベッドから飛び降りて部屋を走り回り、それから髪を結わえて泉まで階段を駆け下りた。沐浴しようと思ったら、桶に何か草が活けてある。あ、いい匂い! これは間違いなく、クーベが準備してくれてたんだろう。昨日のマンネンロウとは違うけど、すっきりしたいい匂いがする。

 服を脱いで、水を浴びる。顔と髪を念入りに洗って、最後に桶の水を頭から被る。うわあ! すーっとする。気持ちいい! 今日は一日この香りに包まれて過ごせると思うと、本当に浮き浮きする。


 タオルで髪と体を拭いて、服を着る。昨日の外仕事用の服は、生臭い匂いがついちゃったから着たくない。でも、これからもそれを着ての仕事はいっぱいある。その覚悟をしなさい。クーベはそうやってわたしを叱り、そのあとフォローしてくれる。

 クーベの言ってることはもっともだ。生きるってこと。それに必要なことをするっていうのは、きれい事じゃない。でもわたしはそれを、クーベやダグに任せきりにしてきたのかもしれない。好き嫌いでは計れない世界にわたしがいるっていうこと。それを……ちゃんと自覚しないとね。

 うふふー。でも、今までなかった楽しみが増えるのは嬉しい。クーベに感謝、感謝ー。わたしは、今度は一気に階段を駆け上ってダイニングに行った。


「クーベ、ダグ、おはよー」


 部屋にいたのはクーベだけだった。


「おはよう、リファ。朝食にするから、ダグを起こしてきて」

「へえー、珍しい。ダグがまだ寝てるの?」

「ああ、昨日の夜は何か根を詰めてたのかな?」


 ふうん、クーベも知らないのか。わたしはダグを呼びに行こうとして、ふとさっきのことを思い出した。


「ねえ、クーベ。泉のところにすごくいい匂いの草を活けてくれたんでしょ?」

「気持ちいいだろう? ハマスゲっていう草の根を潰して溶かしてあるんだ」

「ありがとう。その草、この島にはいっぱいあるの?」

「あるよ。あとで教える」

「わあい!」


 わたしは、また走って階段を上る。ダグの部屋の扉を叩く。とんとん!


「おう」


 返事が聞こえた。寝ていたって感じじゃないなあ。


「朝ご飯だよ」

「分かってる。今行く」


 静かな返事。怒ってるとか、調子が悪いってことじゃなさそう。でも……ずーっと船にかかりきりだったのに、どうして?


 わたしがダイニングに戻ってすぐ。重い足音とともにダグが現れた。眠そうだ。


「ダグ、おはよう。眠そうだな。夜更かししたのか?」

「ちょいとな。普段使わないアタマを久しぶりにびっしり使ったんで、ぐったりだ」


 ダグは自分自身のことを茶化さないから、本当に何かを考え続けたんだろう。目を擦ったダグが、鼻を鳴らした。


「何か、いい匂いがするな」

「でしょ? クーベが香草を採って来てくれて。それを溶かした水で髪を洗ったの」

「ああ、その匂いか。うん、いい香りだ。すっきりする」


 ダグが、ひげ面をほころばせた。


「リファ、運ぶのを手伝ってくれ」

「はあい!」


 クーベから差し出されたお皿を受け取って、びっくりする。


「ねえ、クーベ。これなあに?」

「ああ、目玉焼きだよ。海鳥の卵を、朝早く採りに行ったんだ」


 そうか。この島では初めてだけど。わたしは、これをどこかで見た記憶がある。目玉焼きをじっと見ていたわたしを、クーベがたしなめた。


「冷めちゃうから、さっさと運んでくれ」

「はーい」


 鳥の卵。昨日のアザラシのお肉はちょっと臭かったけど、卵にはそんな癖はなくて。とってもおいしい。でも、ダグもクーベも食べ慣れているのか、特においしいということは言わない。


 淡々と食事が終わって。クーベがダグに聞いた。


「今日は船の方の作業をするのか?」


 ダグはそれに答えず、じっと窓の外を見つめていた。それから、ゆっくり顔を振って言った。


「今日は、室内なかで休む」


 わたしもクーベも、びっくりする。


「おいおい、体調でも崩したのか?」


 ダグが笑いながら否定した。


「ははは。そんなんじゃないよ。ちょいと微妙な段階に入ったんだ」

「微妙な段階……って?」


 ふっと息を吐いたダグが、ゆっくり立ち上がりながら答える。


「見たところ。船の損傷は俺が思ってたよりも軽微だ。頑丈な船だったらしい」

「へえー」

「燃料も、まあなんとかなりそうだ」

「そうなの?」

「ああ。ただな……」


 自嘲の混じった笑いが、ダグの口から漏れた。


「ふふ。俺のなくした記憶の中には、あの船の操作の仕方も入ってるんだよ」


 あっ! わたしとクーベは顔を見合わせてしまった。


「あの船についての記憶が全くないわけじゃない。俺があの船を俺のものだと認識できてるんだからな。でも、操作を全ては思い出せないってことは、その中に俺のヤバい記憶が混じっているってことさ。そういうところは、この島の影響が律儀で顕著なんだよ」

「そらあ……」


 クーベが、どう言ったものかという感じで絶句する。


「俺は。そいつはなんとかなると思ってる。ここ数日は記憶を引っ張り出すのに、ずっと考え込んでたのさ」

「思い出せるの?」


 思わず聞き返してしまう。わたしの顔を見たダグが、にやっと笑った。


「多分な。時間は少々かかるだろうが、思い出せるだろう」

「どうして……そんな断言できるの?」

「そうだな」


 もう一度わたしから目線を切って、ダグが海を見渡した。


「隠されている記憶は、大きく分けて二種類あるんだよ」

「え? 二種類?」

「そう」


 ダグが、わたしから何かを取り出そうとするかのように、真っ直ぐわたしの目を見る。


「一つは感情の記憶。喜怒哀楽につながるもの。もう一つは単純な知識だ」

「知識、かあ」

「俺はここに来てから、この辺りを航行する船に関しての知識を全部クーベに話してる。それは、俺がもともと持っていた記憶。全部ではないが、折りに触れて思い出してきた。だが、自分の出自や家族、仕事。そういうものはどんなに努力しても全く思い出せない。それらには、俺の感情が強く絡んでいるからだ」


 ダグが椅子に戻って座り、ラジオのスイッチを入れた。ぱちん。すぐに小さな音で、何かの声が流れ始める。わたしの理解できない言葉。


「俺があの船の動かし方を思い出すには、感情に絡まない方の記憶を根気良く引っ張り出すしかない。それには時間がかかるんだよ」


 ダグは。わたしがいつも見ていた姿勢を取って、じっとラジオに聞き入り始めた。眉間にしわを寄せて。身じろぎもせず。


◇ ◇ ◇


 昼過ぎ。クーベが、ダグをそっとしておこうと言って、わたしを連れて外に出た。


「何か作業があるの?」

「卵の取り方を教える。それと、塩漬け卵を作らないとならないから、それもね」

「うん」

「あと、今朝使った香草があるだろ? あれの見分け方を教えとく」

「クーベが昨日石けんに混ぜた草の粉。ええと、マンネンロウって言ったっけ。あれは、ここに生えてるの?」

「いや、あれは難破船に積まれてたんだ。ここにはない」


 なんだあ……がっかり。


「でも、まだ在庫はいっぱいあるし、僕らは使わないものだから自由に使っていいよ」

「わあい!」


 塔の裏の斜面を上り切って、反対側を慎重に降りる。塔側とは比べ物にならないくらい、傾斜がきつくておっかない。


「途中から本当に崖になるから、無理に先に行かないようにね。鳥も、そこに巣をかけるのはほんの少ししかいないから」


 それにしても。こんなにたくさんの鳥が巣をかけられるんだろうかと思うくらい、斜面は鳥で埋まってた。


「小さな鳥の卵は利用価値がないから、手を付けないで。トウゾクカモメ、グンカンドリ、オオミズナギドリ。大きな鳥の卵を分けてもらう」


 そう言ったクーベが足元の巣から卵を出して、日にかざした。


「こうやって透かして中が見通せないのは、もう雛が育ってるから、元に戻す」

「食べられないの?」

「食べられなくはないけど、おいしくないよ。もう骨も毛も生えちゃってるから」


 うげえ。それは……やだな。


「で、巣の中の卵が一個だったら手を出さない。二個以上あるやつの一個だけもらう」

「どうして全部取らないの?」

「鳥が警戒して、この島で巣を作らなくなったら、僕らは貴重な食料を無くすことになるからね」

「あ、そうか」


 ゆっくり歩き回って、二十個くらいの卵を集める。


「雛が育っちゃうのを防ぐのに、一度冷たい水に浸けて卵を殺す。それから、保存用とすぐ使うのに分ける」

「どうやって保存するの?」

「一度茹でたのを、殻を剥かずに塩漬けにするんだ。塩を抜くのは肉や魚より厄介だけど、冬まで保つからね」


 そんなに難しくはなさそうだ。それにしても、わたしたちが卵を盗んでいるのに、鳥は何も抵抗しないのかしら。


「ねえ、クーベ。鳥は卵を守るのに、わたしたちを襲ったりしないの?」


 振り返ったクーベが、ひどく寂しそうな顔をした。その表情が、わたしの脳裏にくっきりと焼き付いた。焦げ付くくらいに。


「……。しないよ。それは意味がないから」

「どういうこと?」

「自分の卵を狙うのは、僕らだけじゃないからね」


 立ち止まったクーベが夏空を見上げた。飛び交うたくさんの海鳥たち。


「他の鳥も、アザラシやアシカも卵を狙う。一番無防備な卵を。それに抵抗しても意味はないもの。自分が死んでしまったら、もう次の卵を産む機会もなくなる。だから仲間を増やそうとするんだよ。そうすれば、誰かの命が繋がる可能性が高くなるから」


 ピークに戻ったクーベが、卵の入った篭を足元に置いて、両手を真横に広げた。まるで、鳥のように。海風を受けて。それをかき分けるように。目を細めて。


◇ ◇ ◇


 塔に戻ってからは、ばたばたと忙しく作業をした。卵の塩漬けを作って、クーベの仕掛けた篭罠のカニやタコをさばいて。それから……。クーベに教えてもらった香草類を洗って、乾かして。そうか、ハマスゲ一種類じゃなかったんだ。今までは男ばかりだったから、食料優先で見向きもされなかった香草類。でも、その種類と使い方を丁寧に教えたペーターと、それをきちんと覚えてるクーベは、本当にすごいと思う。

 それと……。香草は香りが気持ちいいというばかりじゃない。体調が悪い時に、薬として使うことが出来る。貴重な薬草でもあるんだ。わたしは、そういう知識をきちんと覚えておかないとならない。自分の記憶として残すことには限界があるから、クーベに字を書き残せるか聞いてみた。


「うーん、筆記……かあ。出来るかなあ」


 この島では紙は作れないそうだ。難破船に積まれていた資材の中から、紙の代わりに使えそうなものを探す。これまでは、壁にろう石で記された住人の記録と島のことが書かれた小冊子しか、文字になってるものがなかった。だからどうかなあと思ったけど、羊皮紙の束や薄く削がれた木の板みたいに、紙代わりになるものはすぐに確保出来た。問題はインクだった。倉庫を隅から隅まで探したけど、インクらしいものはどこからも見つからなかった。がっかりしたわたしに、ダグが助け舟を出してくれた。


「暖炉の炭をよく石ですり潰して、獣脂で伸ばせ。それをつけて羽ペンで書けばいけるだろう」


 教えてくれたダグも含めて、これまで住人の誰もが書くことにほとんど興味を示さなかったというのは、とても不思議なんだけど。


 夕食が終わったあと。ダグはいつものように岩のように固まって、じっとラジオに耳を傾けている。クーベは、地下倉庫の食料の備蓄を確認に行った。わたしは、クーベに教わった飲み物を作ってみた。干したハマギクの黄色い花弁。それにハマスゲの根を切ったのを加えてお湯を注ぐ。心を和ませるほのかな黄色と、体の中からすっきりさせてくれるような清涼感のある香り。それを飲みながら、わたしは暖炉の前でぼんやりと考え事をしていた。そう、なぜ三人なんだろう?


「なんで三人なのかな……」


 わたしは、知らないうちに独り言を呟いていたようだ。ラジオを聞いていたダグが、ふと我に返ったように顔を上げて、わたしを見た。


「ははは。気になるよな。俺も最初のうち、ずいぶん考え込んだものだ」


 ダグは背筋を伸ばして、ふうっと息をついた。


「ダグは理由が分かるの?」

「分からんよ。それが分かれば苦労しない。まあ、でも理由を欲しがるのは人間の悪い癖だ。俺も、それからは逃れられん」


 こつこつと。指でテーブルを叩いたダグが真顔になった。


「俺が思うに、だ」

「うん」

「ここで一人きりでは生き抜けない。二人だと、どちらかが寄り掛かられて潰れる」

「う」

「四人以上だと、揉めた時に関係修復がしにくくなる。住人同士が、必要以上に傷付け合う恐れがある。人数分の食料の確保も難しいしな」

「そうか……」

「生きていくのに協力関係を組みやすく、お互いの距離を上手に保てる最小単位。三人ていうのは、実にうまくできてる人数なんだよ」


 ダグは、ゆっくり立ち上がって窓を一つ開けた。夜になって、少し強くなって来た風が部屋を吹き抜ける。暖炉の炎がゆらりと揺れた。


「ただな」

「うん」

「そのバランスが絶妙であるがゆえに、続きもするが、壊れる時は切ないんだよ。永遠に続くトリニティってのは、ありえないってこったな」

「トリニティって?」

「三位一体。欠けることのない完全な三つ組」


 窓を閉めたダグが、わたしを見てふっと笑った。


「リファには、リファの意味がある。それは、俺やクーベとは絶対に重ならん。だからこそのトリニティなんだよ」


 わたしの意味……かあ。


「まあ、いろいろ考えちまうとは思うが、最後の落としどころはそこなんだと」


 どしん! 音を立てて椅子に腰を下ろしたダグが、わたしから視線を逸らし、目を瞑り、ラジオの音に耳を傾けながら。ぽんと言い置いた。


「俺は、そう思う」


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