第三季 夏 トリニティ

一日目

 海鳥の鳴き声がやかましくて目が覚める。普段は静かな島も、今は騒音の真っただ中だ。だけど、それは嫌じゃない。誰もが生きることを疑わない。誰もが生きるために戦う。島を満たす無数の鳴き声はその証だ。もし俺が鳥ならば、無意識に絶叫し続けるだろう。人間は。そういう意味では不便な動物だなと思う。本能の赴くまま行動することは、自分を生きにくくする。たった三人しかいないこの島においてさえ。


 俺は起き上がって窓を開ける。この島じゃ、夏暑いと言ったところでたかが知れている。裸で過ごさなきゃならないほど気温が上がることはない。それでも緑は濃く、逞しくなり。繁殖を行う鳥や海獣が押し寄せる。生き物のエネルギーが島を満たす。

 日差しの眩しさに目を細めて、両手のひらで思い切り顔を叩く。ぱしーん! ふう。さあ、今日もがんばろう!


◇ ◇ ◇


「よう、ダグ」

「おはよー」


 クーベとリファが朝食の支度をしている。いいコンビなんだが、どうも初々しさがない。何と言うか、師匠とその弟子だ。


「ダグ。ちょっとっ! なに人の顔見て笑ってるの?」


 リファがすかさず文句を言った。


「いやあ、リファもすっかりこなれたなあと思っただけさ」

「こなれた?」

「まあ、古女房みたいなもんだ」


 リファが顔を赤くして膨れた。クーベは相変わらず、そういうことには一切頓着がない。


「評論家面してないで手伝ってくれ。君主みたいにのさばってたら、いつまでたっても痩せないぜ」


 ……手厳しい。


「はいはい」


 今度はリファがにやにやしている。きっといい気味だと思ったんだろう。やれやれ。

 夏になると難破船の備蓄が無くなって、島のものばかりが食卓を彩る。冬と違って、夏は荒れそうな時に無理に船を出さないようで、嵐があっても滅多に難破船が出ないから漂流物も減る。俺と外界をつなぐものが、ラジオ以外ほとんどなくなる。

 去年の夏は酷かったな。気が狂いそうだった。シエロが心配してくれたが、だからと言ってシエロが俺に出来ることもなかった。皮肉なことに、親切なシエロが去って、その代わりにラジオが来た。だから俺は……耐えられた。


 二年か……。俺がこの島に来たのも。リロイが来たのも夏だったな。リロイは最後まで孤立を貫いた。俺たちとの距離を縮める努力をほとんどしなかった。俺も、その点ではリロイと大差ないのかもしれない。だが、俺は今が心地いい。目標があり。生活があり。交流がある。リロイとはうまく交せなかった会話を、リファとは出来る。それはあいつが女だからではなく、あいつが素直だからだ。

 持っている悩みは、たぶん俺もリロイもリファも変わらないはずだ。リロイはそれを抱え込んだまま、何も出さずにここを出た。だがリファは。解決しようとあがいている。俺と同じだ。そこがシンパシーになり、会話になる。それが他愛のないことであっても。


「ちょっと! ダグ! そのでかい図体でぼやっと突っ立ってないでよ! うっとうしいっ!」


 ……まあ、こういう弊害もあるにはあるが。


◇ ◇ ◇


「ああ、ダグ。今日は船の作業にかかる前に、作業を手伝ってくれ」


 俺がダイニングを出ようとしたら、クーベから唐突にそう言われた。


「もっと早くに言ってくれよ」

「済まん。でも、相手があることだからさ」


 ああ、そうか。その時期が来たのか。


「リファはどうするんだ?」

「当然連れて行くよ。役に立つかどうかは分からないけど、ここでは避けて通れないことだからね」

「……そうだな」


 島の新入りには、この時期逃れられない試練がある。リロイはクーベと同じで淡々とこなしたが、リファが乗り切れるかどうか心配だ。まあ、なるようにしかならんな。俺が作業着に着替えて塔を出ると。俺と同じような格好のクーベが、棍棒を持って立っていた。ナイフはリファが持っている。こんな大きな刃物で何を切るんだろう、という不思議そうな顔をして。あとは、大きな皮袋と小さな皮袋がいくつか。俺も棍棒を持つ。


「どこに行くの?」

「ついてくれば分かる。静かにね」


 斜面を上って反対側に出るのがうんと近いんだが、向こう側は崖に近い急傾斜だ。身動きしにくい。遠回りにはなるが、汀線を辿る方が収穫を期待出来る。何をするのか知らされていないリファが、きょろきょろしながらクーベの後を追いかける。しばらく岩礁伝いに歩いて、塔とは反対側の海岸線に出た。


「なんとかなりそうだな」


 海岸を見回していたクーベが、ぼそっと言った。


「目標は?」

「二頭」

「アザラシか?」

「いればね。でもアシカでもいい」


 リファは、この時点で何をするか覚ったようだ。夏の繁殖期にしか出来ない狩り。リファの顔色が変わった。それにお構いなしに、クーベの指導が入る。


「今回は僕らがやるけど、方法は覚えてね。次の住人が誰になるか分からない以上、リファ自身がしなければならないかもしれないから」


 まるで死刑宣告だ。青ざめて俯くリファから目を離したクーベが、海岸を見回して標的を定める。


「出る」


 短く言い残したクーベが、海岸線を小走りに駆け出す。そして海岸線に寝そべっていた中型のアザラシの頭を、持っていた棍棒でしたたかに殴りつけた。がつんっ! 俺もサポートで海側に回る。だが、手際のいいクーベの一撃で、アザラシは見事に仕留められていた。俺はクーベと二人でそれを岩陰に引きずり込んで、解体を始めた。顔を半分背けて口もとを押さえていたリファが、我慢出来ないというように弱音を吐いた。


「ね、クーベ。肉ならお魚でとれるよね。こんな野蛮なことをする意味があるわけ?」


 クーベは皮肉を言うでもなく、諭すでもなく、淡々と答えた。


「肉だけならね。でも、最初に言ったけど、この島にはほとんど資源がないんだ」


 クーベが、リファの着ていた服を指差す。


「いまリファが身につけているものは毛皮だよ。ここでは布を織れる道具もないし、繊維を採る原料もない。毛皮は布を手に入れる数少ない機会なんだ。それにね。金属もそうなんだよ。難破船に積まれているもので、一番流れ着きにくいものは金気のものなんだ。沈んじゃうからね。刃物は本当に貴重なんだよ。魚を獲るのに使う針や銛は、この骨から作れる」


 ゆっくり立ち上がったクーベが上空を見上げ、飛び交う鳥たちを目で追った。


「ベッドで使われてる布団。その中身は鳥の羽だ。これも島で調達している」


 それから、屈んでいるリファを見下ろして確かめるように言った。


「僕の言おうとしてることは分かるよね」

「……うん」


 クーベは、今度は俺の顔を見る。


「少なくとも。それほど遠くない将来。ダグはこの島を去る。それはダグが決めたことだ。必ずそうなる」

「ああ」

「そうしたら、その後来る住人が、ダグのように手伝ってくれるかどうかは分からない。非協力的かもしれない。能力がないかもしれない。今三人いるという意味。それが、変わるかもしれないんだよ。与えられるかどうか分からない難破船の恵みと同じように。僕らに住人を選ぶ権利はないんだ」


 クーベはあくまでも淡々と語る。その中には、何の感情も入っていないように見える。だが、クーベと過ごして来た二年を振り返ると。こいつの言葉にはこれっぽっちも刺がない。無骨なまでに事実を述べて。それでどうするかは決して押し付けない。自己主張が乏しい分。その是非を問うのは、とてつもなく重いことなんだ。

 リファは何度か大きな溜息をついた。そして、その白い手を血塗れにして。まだ温もりが残るアザラシの大きな肉の塊を、のろのろと袋に詰め始めた。


◇ ◇ ◇


 リファの憂鬱が支配する昼飯のあと。俺は船の整備を後回しにしてクーベを手伝った。

 クーベの示唆は現実的だ。全ての未来は、ここを生き抜くことでしか得られない。だから、それへの努力を怠るな。それは、俺やリロイに欠けていたものだ。無くした過去や、見失っている未来に気を取られて、生きるための努力がおろそかになる。俺やリロイがここで何不自由なく過ごせてこれたのも、ひとえにクーベの生活処理能力が飛び抜けて高かったからだ。俺は、この島に捕まってしまった不幸を呪うと同時に、クーベに出会えた幸運に心から感謝している。


「おい、クーベ。リファは置いてきたのか?」

「まあね。さっきはきついことを言ったけど、今年多めに備蓄を作っておけば二、三年は何とかなるからさ。心構えして欲しかっただけだよ」

「なるほどな」

「そろそろベリー類が生り始める。それを見に行かせた。同じ赤でも、血よりはマシだろう?」

「ははは。飴とムチか」

「そういうこと」

「鳥はどうするんだ?」

「卵は取りに行かせるよ。本体の方も、一度は付き合ってもらう。でも、さっきのアザラシほどじゃないはずだし」

「まあな」


 剥がした毛皮を海岸に広げて、こびり付いている肉片や油を石でこそぎ落とす。海水でよく洗い、暖炉の灰をまんべんなく塗って、なめす。


「なめしが甘いと、あとで虫の餌食になるからな」


 クーベが手を止めて、腰を伸ばした。


「ふーう……」

「油は?」

「塔で、釜で煮てる。これで、当分ランプの油を心配しないで済むな。それと……」


 クーベが珍しく、柔らかい微笑みを見せた。


「リファは、これまで気持ちを張り詰めて過ごしてきたはずだ。手伝いも一生懸命してくれてるし、何かご褒美をあげようと思ってさ」

「へえ。何?」

「石けんだよ」

「おっ!」


 クーベが石けんを知っていたことも驚きだったが、それをリファに贈るという発想も意外だった。


「作り方なんか、どこで知った?」

「ペーターに教わってたんだよ。でも、石けんなんか使う意味がよく分かんなかったし、その時は興味がなかったんだ。でも、さっきみたいにアザラシの解体なんかするとさ、しばらくは血生臭さが取れないだろ?」

「確かにな」

「それでなくても滅入る気持ちが、ますますひどくなる」


 クーベは。こういうところによく気が回る。なんだかんだ言っても、クーベがいるから救われているところが多いんだ。


「さて……」


 二人で毛皮を日陰で晒し、ゆっくりと塔に戻った。


◇ ◇ ◇


 リファの憂鬱は、夕食の時までにだいぶ解消していたようだ。実り始めた野イチゴやスグリを探して、それを口にして。すっかり機嫌が直っていた。さすがに、昼に仕留めたアザラシの肉にはあまり手を伸ばさなかったが、それでも楽しそうに食事をした。クーベの見立てが見事に当たっている。

 俺は、クーベの心配りの細やかさに思わず舌を巻く。あいつが女たらしなら、瞬く間にハーレムができるだろうが、あいつ自体には全くそういう気配がない。本当に不思議な男だ。


「待てよ? 男?」


 俺はクーベのキッチンでの立ち居振る舞いに、かすかな違和感を覚えた。俺の記憶の奥底に封印されたままの光景。俺はそれを思い出すことは出来ないが、その感覚は鮮烈に覚えている。そのかすかな記憶にぴたりと重なるのだ。なんだろう? 俺はしばらく腕組みして、考え続けた。そして、それを探り当てた。

 そうだ。母親だ。母親が、自分の子供に注ぐ無償の愛情。俺は、クーベの振る舞いの端々にそれを感じるんだ。だからこそ。クーベの言葉がどんなに無味乾燥な事実でしかなくても、俺はそれに刺を感じない。暖かく思える。きっとそれは、リファにとっても同じなんだろう。俺がじっとクーベを凝視していることに気付きもせず、クーベがリファを呼んだ。


「リファ、ちょっと来てー」


 リファがひょこひょこと台所に入っていく。俺もなんとなく台所を覗く。


「おや、珍しい。どういう風の吹き回しだ? ダグ」

「やかましい。あれを作るのか?」

「ははは、そうだ」

「あれって?」


 リファが、俺とクーベの顔を交互に覗き込んでいる。


「石けんだよ。いつも沐浴の時には水洗いしかしてないだろう?」

「きゃあああっ!!」


 もう、リファの喜びようと言ったらなかった。クーベが材料を並べる。作って与えるのではなく、一緒に作る。ちゃんと、ノウハウを伝えるという意図もあるのだ。


「本当は植物の油がいいらしいけど、手に入らないからね。アザラシの獣脂と暖炉灰を溶いた水の上澄み。それにマンネンロウの粉と、乾かした野バラの花びらを砕いたもの」


 冷ました獣脂に上澄み液を混ぜて、根気よくかき混ぜる。最初はただの二種類の液体だったものが、どろりと固まってくる。


「ここですかさず色と香りを乗せる。早くに入れ過ぎると色も匂いも飛んじゃうし、入れるタイミングが遅れるとうまく混じらなくなるからね」


 きれいな薄桃色に色づいた石けんの素は、かき混ぜるへらの筋がくっきり残るほど固まって重くなった。クーベが大きな貝殻を並べて、それを詰めていく。


「ほら、リファもやってみて」


 同じ手順をリファにも繰り返させる。撹拌は力仕事だが、リファには苦にならないようだ。香料と染料が入ったところで、クーベが作ったものと遜色のない石けんが出来上がった。


「一か月くらい倉庫に置いておこう。水気が抜けて、しっかり固まったら使えるよ」


 紅潮しているリファに、クーベが静かに言った。


「一頭のアザラシは、僕たちにここまで恵みを分けてくれる。それを……忘れないでね」


◇ ◇ ◇


 上機嫌のリファが、お休みを言って階段を上がっていった。台所で獣脂を濾していたクーベが、ふうっという吐息とともにダイニングに出てくる。それから俺の隣に腰を下ろすと、ぽつりとこぼした。


「三人てのは切ないね。たぶん、ダグがここを出たら、次に誰が来てもアザラシ狩りは難しくなるだろう」

「そうか?」

「そうだよ」


 角灯の灯りを見上げているクーベ。


「三人で出来ることが一度広がってしまうと、今度はそれが出来ないことが大きな支障になる」

「まあな」

「僕らも……」


 クーベが、自分自身を説得するように呟いた。昼にリファを諭したのと同じことを。


「覚悟しないとならない。三人の意味が変わるのを」


 その後、しばらくまた角灯を見つめていたクーベは。俺の顔を見ずに、声だけかけて部屋を出た。


「ダグ、お休み。また、明日な」

「ああ」



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