三日目

 ずっきん、ずっきん、ずっきん! とんでもない頭痛と吐き気。わたしの目覚めは最悪だった。ダグの的確な警告。一時の快楽の代償がひどく大きいこともあるからな……こういうことだったのね。

 いい香り。甘い口当たり。口に含むと、ふわっといい気分になって。全ての悩みが霧散する。でも、そういう幸福な時間は短い。意識を失って、いつの間にかベッドに寝かされていた。はっと気付いて体を起こしたら……。ぐっ。うえっ! わたしは塔を駆け出て、真っ暗闇の中で、自分をえぐり出すみたいに何度も吐いた。何度も、何度も、何度も。もう自分なんかなくなってしまえばいいと思うくらいに。

 もう。ダグも、クーベも、よくこんなものを平気で飲めるなあ。自分自身に対する情けなさで、気分が滅入る。きっと。わたしがあんな衝動的な行動に出たのは、ダグの宣言のせいだろう。


「この島を出る……かあ」


 リロイも感じてたんだろうけど、自分を失っている喪失感が、どうしてもわたしを後ろ向きにさせる。生活することの忙しさに紛らわせてるけど、自分一人になった時に、それに押し潰されそうになるんだ。ダグは、それに耐えられなくなったんだろうか? ダグはここから出て何を探すんだろう? 探すものが分からないうちに、ここを出るのは怖くないんだろうか? ああ、頭がぐるぐる回る。だめだ。今は何も考えちゃいけない。もう少し休もう。


◇ ◇ ◇


「りーふぁー」


 ん?


「リファ、もうそろそろ起きてメシを食ってくれ。片付かん」


 わたしの枕元に、少し困った顔のクーベが立っていた。


「ううー」

「くっくっく。やっぱり二日酔いになったか」


 意地悪く、クーベが笑った。


「これが二日酔いって言うの?」

「そう。頭痛とか、吐き気とか、そういうのね。飲み過ぎるとそうなるのさ」

「クーベはなったことあるの?」

「僕も最初に酒を飲んだ時にはそうなったよ。加減を知らなかったからね」

「ダグは警告してくれなかったの?」

「その時は、まだダグはいなかったんだ。ペーターもシエロも、酒には底抜けに強かったからね。僕は巻き込まれたんだよ」


 そっか。わたしはペーターもシエロも知らない。クーベが来た時に、彼らがクーベに何を教え、何を残したのかを全く知らないんだ。


 わたしを起こしに来たクーベは、さっさとわたしの部屋を出て、階段を下りていった。その背中をちらっと見て、わたしは溜息をつく。クーベは、まめで親切なんだけど、どうも対応がドライなんだよね。血が通ってる感じがしないっていうか、人形みたいだっていうか。感情が見えない。ダグは無口で怠け者なんだけど、よーく人を見てる。皮肉屋ではあっても、視線に毒がなくて。わたしやクーベの深いところを見通そうとする。動のクーベ、静のダグって感じかなあ。


 そして、二人に共通していること。リロイと違って、二人ともわたしを女として扱わない。でも、これもクーベとダグでは意味合いが違う。ダグは、わたしが女だということを、あえて見ないようにしている感じがする。でもクーベの中では、男女と言う区切りが最初からないように見える。これも実に奇妙だ。リロイがわたしの部屋に忍び込んだ時に、部屋を訪ねてきたクーベが皮肉を言ってるから、そういうのを知らないということではなさそう。でも、色ごとにまるっきり関心がないっていう風に見える。


 それは、地下の泉で沐浴をする時によく分かる。ダグは、わたしやクーベに自分の肌を一切見せない。まるでそれが禁忌タブーであるかのように。わたしたちが揃って外に出ている時以外は、沐浴しないみたいだ。クーベは逆。わたしが裸で沐浴をしていようがいまいが、さっさと服を脱いで体を洗う。そのこと自体に没頭して、わたしなんか目に入らない。そんな感じ。最初のうちは気になってびくびくしてたけど、わたしもすっかり慣れちゃった。


 ああ、いけない。またクーベに急かされる。そろそろ起きよう。


◇ ◇ ◇


 まだ痛む頭を押さえながらダイニングに入ると、ダグがいなかった。どきーっとする。台所でごそごそ音がしてるから、クーベはいるんだろう。


「クーベ、ダグは?」


 ひょいと頭を上げたクーベが答える。


「船を見に行ったよ。午前中いっぱいはかかり切りになるんじゃないかな?」

「手伝うの?」

「要請があればね。でも、ダグのことだから自分でやるって言うと思うよ」


 そんなものなのか。


 吐き続けたわたしに配慮してくれたのか、スープではなくて、薄味のおかゆが用意されていた。ほっとする。テーブルじゃなくて、暖炉の前にお皿を持って行って。ゆっくり、ゆっくり食べた。ふう……。


「クーベ、ごちそうさま」

「ああ、お皿はこっちに戻しといてね」


 わたしが暖炉の前でぼーっとしている間に、クーベは手際良く台所を片付けて、手を拭きながら窓際に歩いて行った。


「うん、これで二、三日は凪いで、暖かくなりそうだな」

「また草を摘むの?」

「続けるよ。今のうちじゃないと出来ないし。それに他にも楽しみがあるしね」

「えと。それってなに?」

「外に出てみれば分かるよ」

「?」


 なんだろ? 分かんないけど。なんとなく、クーベが嬉しそうだ。厳しい表情のダグとは対照的。


 ばたん! 急に扉が開いて、びっくりする。汗まみれ土まみれのダグが、体から湯気を立てながら入ってきた。


「お? リファ。大丈夫か?」

「ええ、おかゆもらって、少し元気になった」

「ははは。二日酔いはきついからなあ」

「ダグは酔わないの?」

「あれっぽっちじゃね」


 ダグは、ずかずかとダイニングを横切って、いつもの席にどすんと腰を下ろした。ラジオのスイッチはつけない。窓際に立っていたクーベがダグに聞いた。


「船はどんな様子なの?」

「うーん……」


 ダグが首を傾げる。


「まだよく分からん。だが、動かせるようになるまでは相当かかるな」

「動かせるの?」


 わたしも聞いてみる。ダグはわたしたちから目を逸らし、窓の外の海を見下ろしながら、はっきり言い切った。


「動かす。意地でもな」


◇ ◇ ◇


 昼ご飯を食べる頃、わたしはやっと二日酔いから解放された。やれやれ。まだ惰眠をむさぼっていたかったけど、クーベに急かされるようにして、篭を持って外に出る。


「うわ、あったかーい」

「やっと春らしくなった感じだね」


 クーベが指差した斜面は、おとといよりもずうっと華やかになっていた。赤、ピンク、黄色、紫、白、水色。色とりどりの花が咲き乱れ、とても幻想的な光景が広がっている。そっかー。お楽しみって、これのことかあ。まるで花に包まれるようにして、草を摘むって感じ。どの花からかは分からないけど、甘い匂いが密やかに漂ってる。


「一日、二日でここまで変わっちゃうんだ。だから、収穫出来るものは収穫しておかないとね」


 でも、どこまでも実務的なクーベ。


「今度は何を採るの?」

「アマナとカンゾウを採る」


 クーベが上って行く後に付いて、斜面を上り詰める。


「下のは、もう伸びちゃってて採りにくいからね」


 そう言って、地面から少しだけ伸び出た芽を指差した。


「その細いのがアマナだ。開いた葉っぱも食べられるけど、採るのは球根ね。束ねて干しておく。長持ちするんで、貴重なんだ。扇のように葉っぱが開いてるのはカンゾウ。ねじるようにして採って。根っこを残しておけばまた生える」


 二種類だけか。今度は覚えるのが楽だ。屈んでせっせと作業をしていたら、頭上を何か黒いものが横切った。ぴゅいーっ。ぴゅいーっ。上空から突然鋭い音が降ってきて、思わず首をすくめた。


「な、なにっ?」

「ああ、来たな。第一陣だ」


 立ち上がったクーベが、手をかざして青空を見上げる。さっきまで、ただ茫洋とした空が広がってるだけだったのに、いつの間にか何羽かの鳥が、鳴きながら飛び交っていた。


「鳥?」

「そう。この島では一番早くに到着する海鳥だね。ウミスズメ」

「へー」

「このあと、どんどん鳥は増えるよ。それに合わせて、僕らも鳥や卵を獲りに行く。これまでは魚。今は野草。そして今後は鳥とアザラシ」

「アザラシも?」

「もちろん。肉や油、毛皮、骨。捨てるところなく全部使える。僕らがこんな小さな島で生きていけるのは、一年を通して何かかにか採れるってことと、難破船のお陰だ。でも、難破船はあてにならない。ちゃんと島で採れるものを食料として備蓄しておかないと、生きてなんかいけないよ」


 そうだよね。わたしは、鳥やアザラシを獲っている自分の姿が想像出来ない。でも、それはここで生きていかなくてはならない以上、避けて通れないんだ。


「ウミスズメも獲るの?」

「いや、ウミスズメはコロニーが小さいし、卵も少ない。しかも、雛が孵ったらすぐに親子で海に出ちゃうからね」


 なんとなく、ほっとする。


「カモメやアジサシが群れで来るようになってからさ。まだまだ先だよ」


 頭上を飛び交う鳥を時折見上げながら、わたしとクーベは草を摘み続けた。


「ふう。今日はこんなところにしておくか」


 おとといのと違って今度は結構重くなった篭を背負って、慎重に斜面を降りる。そういえば。ダグは、見つけた『船』のところで何をしているのだろう?


「ねえ、クーベ。ダグの様子を見に行っていい?」

「構わないよ。僕は、カンゾウの下ごしらえをするのに、お湯を沸かさないとならないから、先に戻ってる」

「分かったー」


 篭を塔の入り口に置いて、わたしはダグが作業しているらしい斜面に走っていった。


「わ!」


 おとついは全く周囲と見分けが付かなかった斜面。一見、岩のように見えていた部分。そこの土や草が剥がされ、何かが剥き出しになっていた。なにこれ? 縦長の巨大な蓋付き鍋みたいなもの。それが斜面ににょっきりと生えている。その陰からダグがのっそりと出て来た。


「ダグ、それが船なの?」


 ダグは、鍋もどきをぽんぽんと叩きながら答えた。


「そうだ。だいぶ傷んでるがな」

「ふうん……」


 船っていう感じじゃないね。帆はないし。櫂も出せないし。どうやって進むんだろう? わたしは、よほど変な顔で船を見つめていたんだろう。ダグが含み笑いをしながら言った。


「まあ……たぶん、リファが考えてるものとはかなり違うと思うぞ。ただな」


 その笑顔をすうっと消して。船を見上げたダグがぽつりと呟いた。


「こいつは、図体はでかいが一人乗りさ。来る時も一人、出る時も一人、か」


 それは。わたしが初めて触れた、ダグの心の一番奥底の声だったのかも知れない。何も言えなかったわたしは、そっとその場を離れた。


◇ ◇ ◇


「おいっしーっ!」


 いや、本当にお世辞抜きに最高においしいっ!


「だろう? 干しちゃうと味が変わるけど、フレッシュなやつだからな。この時だけのご褒美さ」


 クーベもご機嫌だ。クーベが仕掛けた篭罠に入っていた大きなカサゴ。いっぱいのエビとニナ貝。今日採ったアマナの球根とカンゾウの若芽。大きな鍋は海と陸の春の幸で溢れ、それにノビルの緑が散ってて、とてもきれい。それに、汁が絶品だ。


「こんなの今まで飲んだことなーい!」


 悪戯っぽく笑ったクーベが種明かしする。


「昨日のリファの二日酔いの元が入ってるんだよ」


 げえっ……。


「大丈夫さ。酔う成分は、煮立てると飛んで消える。おいしいところだけが残るからね」

「へえ、そうなんだー」

「まあ、滅多にできない贅沢さ」


 ダグはいつものように、むっつりしたまま料理を口に運んでいた。それを横目で見ていたクーベが、さらっとダグに聞いた。


「ダグ、船はどのくらいで出られそうなんだ?」


 相変わらず、回りくどいことは言わない。真っ直ぐ、だ。


「ん……」


 フォークを持った手を止めて。ダグはしばらく何かを考え込んでいた。そして、ゆっくり口を開いた。


「分からん。まず、船がかなり地面にめり込んでしまっているのを、掘り出すところからだ」

「ふうん?」

「それが済んだら、船の損傷具合と機能をチェックして。燃料の残り具合を確認して」

「ねんりょう?」


 わたしとクーベが同時に声を上げた。聞いたことのない言葉。それに気付いたダグが苦笑いしながら説明する。


「帆とか櫂とかが、推進力じゃないんだ。船を進ませるもとだよ」


 それが、ねんりょう? うーん。分かんない。ダグは口ひげを手の甲で拭うと、ふうっと太い息を吐いた。


「まあ、時間をかければなんとかなると思うんだが、一番問題なのは、その『時間』だな」


 えと。


「どういうこと?」

「船が直る前に次の来訪者があれば、そこで俺が終わりになる可能性があるってことさ」


 ちん。思わず、持っていたスプーンを取り落としてしまった。皮肉っぽい笑いを浮かべて、ダグが声を絞り出す。


「俺は。誰かがこの世の中を支配して回しているなんてことは信じない。全ては偶然のもたらす所作だと思ってる。だがな、いや、だからこそ。次に誰かが来れば俺がすぐ終わりになるかも知れないってのも、回避出来ないんだよ」


 しばらく。沈黙がテーブルを支配した。フォークを皿に置いたダグが、静かに話し続ける。


「この島にいた連中は。この前去ったリロイも含めて、みんなそれに悩まされていた。突然来る終わり。旅立ち。その意味が掴めないまま、急き立てられるように。それに抵抗しようとすると、リロイのような結末になるかもしれない。俺は……」


 両手の拳をテーブルの上で堅く握りしめて。大きな声でダグが怒鳴った。


「その『時間』に負けたくないんだよっ!」


 顔を真っ赤にしたダグ。その顔を静かにクーベに向けて、ダグが問いかける。


「リファが来た時に、おまえさんはリファに言ったろ? 定員は三名だけど、それが割れたことはないって」

「……ああ」

「そいつが、俺的にはどうにもしゃくにさわるのさ」

「そうか」

「定員を割る。この島から、時限前に自分の意志で出る。そういう前例を作りたい。俺自身の手で、馬鹿げた慣習を壊したい」


 みりみりみりっ。握りしめたダグの拳から音がした。額に青筋が浮いている。怖い……。


「俺は! リロイの時のような思いを、二度としたくないんだっ!」


 はあはあはあ! 荒い息を吐いて。油汗を流して。ダグはぶるぶると震えていた。それが怒りなのか、恐怖から来るものなのか。わたしには分からなかった。クーベはダグの豹変に驚くことなく、淡々と尋ねた。


「手伝いは要るか?」

「今は要らん」


 ダグは、はっきり言い切った。


「あれは俺の船だ。俺の運命は俺が決める。だが、時間が俺をくじきそうになったら……」


 テーブルの上で固く握り締めていた拳を緩めたダグが。わたしたちに向かって、すうっと頭を下げた。


「その時は手伝ってくれ」


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