二日目

 鼻がむずむずする。雨だ。春は天気が変わりやすい。俺は、全てが安定しない春が嫌いだ。天気も。海も。気分も。運命も。何もかもが気まぐれで、何もかもが俺を苛立たせる。俺はそれを抑え込まないとならない。難儀なことだ。

 ゆっくりベッドを降りて、窓を一つ開けた。風はない。空は薄い鉛雲ですっぽり覆われ、まるで汗をかくような細かい霧雨で満たされている。


「昨日は、あんなに天気がよかったのにな」


 まだ薄暗い階段をゆっくり降りて、地下にある泉に行く。使い古された木桶いっぱいに水を汲んで、そいつを頭から思い切り被る。ざばあっ! 


「ぶふう」


 荒布で頭と顔を拭いて、その布を洗う。ざぶざぶざぶっ。

 手を止めて、荒布に目を落とす。ほとんど紋章が消えた緋色の厚地の布。まさか旗も、小汚い男の顔を拭くはめになるとは思わなかっただろうな。ははは。


 顔を洗って目が冴えた。部屋に戻って、布を椅子の背にゆるく縛り、ダイニングに行く。今日の当番はリファだったな。最近だいぶ料理に慣れてきたようで、クーベも付き添わなくなった。最初から最後までやる気がなかったリロイよりは、ずっと飲み込みが早い。


「おはよう、リファ」

「あ、ダグ。おはよー」


 椅子に座ってラジオを付ける。俺の日課だ。小さな小さな音で、放送が流れてくる。俺にしか分からない、ここではないところの諸事情。俺の関われないところで、その世界は変わっていく。それはいいことなのだろうか? それとも……。


 ばん! 大きな音とともに扉が開いて、クーベが何かを手にして入ってきた。


「お、ダグ。起きてたのか。今日は珍しくゆっくりだったな」

「雨降りだったからな。けだるいんだよ。それより、それはなんだ?」

「ああ、仕掛けにかかってたんだ」

「……どう見ても、酒だな」

「ジャグの取っ手に、おもりが引っかかっちまったんだろう」

「よく割れなかったな」

「そうだね。でも、これしか釣果がないってのもつまらんなあ」


 そうは言っても、クーベはまめだ。雨の中、岩場を回って貝やカニを採って歩いている。今日の食事が青菜だけということはなさそうだ。やれやれ、だな。


 静かな朝食。俺も、クーベも、リファも。霧雨に煙る海原を見やりながら、ゆっくりと口を動かす。雲は少しずつ流れているようだけど、明るくはなってこない。クーベも、今日は菜摘みをしようとは言わんだろう。海から目を離したクーベが、俺に聞いた。


「なあ、ダグ。昨日、船がどうのと言ってたろう?」

「ああ……。その話をしようと思ってた」


 俺はラジオを消した。部屋が静寂に包まれる。俺の嫌いな。沈み込むような静寂。


「クーベ。俺は、ここに来た時から一つ。どうしても納得出来なかったことがあったんだよ」

「納得出来ないこと?」

「そう」

「なに?」

「ルールだよ」

「ルールって、この島の?」

「そうだ」


 リファがぐいっと身を乗り出してくる。気持ちは分かる。


「この島には一切の束縛はない。唯一の束縛がそのルールだ」

「うん。そうだな」

「なぜ、そんなルールが要る? 俺にはそれが分からない。納得出来ない。俺が来てからの二年弱の間。俺はそれをずっと考え続けていた」


 ゆっくり立ち上がって、窓辺に行く。


「誰が決めたルールなのか。それも分からない」

「うん」

「ルール自体は機能してる。俺の時はペーターが、リロイの時はシエロが『出て行った』。いなくなったわけじゃないから半信半疑だったが、今回リロイが退場して、ちゃんと機能してることが分かった」

「かなり変則的な形だったけどな」

「そうだね」

「それと」


 俺は、窓枠をがんと叩いた。


「これはルールじゃないが、事実として妙なことがある」

「なに?」


 リファが首を傾げた。


「リロイがどうだったかは知らん。だが少なくとも、俺もクーベもリファも。ここへ来る前の記憶がない」

「ああ」

「うん」

「俺の場合、それは全くないわけではなくて。ところどころにまだらに残ってる。そして、それは思い出そうとすることで少しずつ増えて来た」


 俺はクーベの顔を見る。きょとんとしているクーベ。こいつは、本当に読めない。


「これは俺の勘だが、リロイやクーベにはもともと記憶がないんだろう。だが、俺やリファには部分的にそれがある」


 リファが、食い入るように俺の顔を見つめている。


「つまり、この島に来た動機は、みんな微妙に違うってことだ。それが、記憶の残り具合によってなんとなく分かる」

「何が言いたい?」


 クーベが、腕組みして俺に問う。


「クーベもなんとなくは分かってるんだろ? 俺たちの間で違っているのは、過去の重さだ」

「過去?」

「そうだ。過去」


 リファが顔を曇らせた。俺は、リファがどれくらいのことを思い出しているのかは知らない。だが、それが思い出したいことかどうかは、だいたい予想がつく。


「なあ、クーベ。ここでの生活が始まった時には、一度過去がリセットされる。そこで三人での生活を続ける間に培われたもの。それだけを持って、ここを出て行くのが理想。俺は、なんとなくそういう意図を感じるんだ」

「誰の意図?」

「知らん」


 苛々してくる。誰かが俺を操作しようとしている。押し付けられた矯正が俺をむしばもうとしている。そのことが、どうしても我慢ならない。窓を閉めて席に戻る。それから、でかい声で宣言した。


「俺は。ここを出る!」


 がたーん! クーベとリファが椅子を倒して立ち上がった。


「ど、どういうことっ!?」

「言った通りだよ。ここを出る」


 顔を見合わせる二人。


「もちろん、すぐにじゃないよ。船が要る。その船を見つけたのさ」

「それって、昨日見てたやつ?」


 リファが、穴が開くくらい俺の顔を見つめながら問うた。


「そうだ。俺はあれに乗ってここに来た。それを思い出したのさ。だから、俺はそれに乗って戻る」


 横目で俺を見ていたクーベが、素っ気なく聞いた。


「どこへ?」

「分からん。でも少なくとも、ここではないところだな」

「具体的な行き先はないのか?」

「ないね」


 不思議そうにリファが問いを重ねる。


「なぜ? なぜ行き先がないのに『戻る』の?」


 俺も、それには答えるすべがない。


「さあ。分からん。だが、俺はここに捕らえられている。捕らえられている以上、俺はここでは何も出来ん。その状態を速やかに解消したい。それだけさ」


◇ ◇ ◇


 昼飯を食って。クーベとリファはそれぞれの部屋に引き上げた。俺はダイニングに残ってラジオを聞いている。あの二人にとっては、俺の予告は唐突かもしれない。だが、あれは俺がここへ来て以来ずっと考え続けていたことだ。


 島からの脱出。なぜすぐにそれを実行に移さなかったのか。俺は怖かったんだ。自分が何者かも、何が出来るかも、皆目分からない。自分が兵士だったことは分かる。だが、自分がどこに帰属していたのか。自分の任務は何だったのか。何に成功し、何をしくじったのか。その結果がどうなったのか。全く分からない。俺はリファのことなんか笑えない。最初に仕事、とか任務と言う言葉がその口が出た時。俺は心臓が止まるかと思ったんだ。

 俺の時間は、この島と一緒には動いていない。ラジオの情報が指し示すもの。俺がこうしている間にも。全ての事象が、ぎしぎしと凄まじい音を立てて動いているということ。そして、俺はそこから取り残されているということ。リファの一言は、それを呼び覚ましたんだ。


 無くしてしまった自分の意味。それが、ほんのかけらでもいいから分かっていれば。俺は次の瞬間、なんとしても島を出ようとしただろう。だが、島は俺に何もくれなかった。俺のヒントを何もくれなかった。それがこの島の、俺への解答なんだろう。だから俺は島を出る。俺の意味を探すために、島を出る。


◇ ◇ ◇


 夜になって、雨は強く降り始めた。風はなく。ただ雨粒があちこちで砕けて跳ねる音だけが、塔をすっぽり包んでいる。


 俺の予告。その捉え方は、クーベとリファとでは対照的だった。やはりと思ったが、クーベは見かけ上何も変わらなかった。行けとも行くなとも言わない。それは言及すべきことではないとでも言うように、むしろ頑固なくらいに無関心を貫いていた。リファは激しく動揺していた。落ち着き無く部屋を歩き回り。爪を噛み。髪をかきむしって黙りこくった。リファには、俺が全てを思い出してここを出て行くように思えたのだろうか? そんなことはないのにな。

 だが、今のリファはかつての俺だ。見失った自分に怖れおののき、自分に降り掛かった運命の悪戯に打ちひしがれる。それは嵐だ。心の嵐だ。俺はその嵐を乗り切ったわけじゃない。ただ、その嵐に立ち向かう決意をしただけだ。それを。いつかリファも分かってくれればな、と思う。


「おーい、リファ。夕食が出来たから配膳を手伝ってくれー」


 キッチンで忙しそうに立ち回っていたクーベが、いつもの調子で声を上げた。まあ、リファがあの調子じゃ全く役に立たんだろう。俺は重い腰を上げた。


「クーベ。俺がやるよ。お姫様はブルーなんだろ。今日は役立たずだ」


 リファが凄まじい形相で俺を睨んだ。睨むくらいなら、さっさとやれよな。


「うん? ダグ。どういう風の吹き回しだ? 一度椅子に根が生えたらてこでも動かないくせに」

「はっ。気が向いたんだよ。それに……」

「ん?」

「減量しないと、船に乗れそうもないからな。これからぎっちり体を絞らないとならん」

「へえー」


 クーベが不思議そうに俺を見る。また何かろくでもないことを言うんだろう。


「じゃあ、早速の粗食だ。感謝したまえ」


 ちぇ。豆のスープと煮た干し魚だけかよ。ぶつぶつ言いながら料理と皿をテーブルに運ぶ。おや? クーベが珍しく銀杯を持って来た。


「何の冗談だ?」

「ほら、朝にジャグがかかってたって言ったろ?」

「おっ! そうか。もしかして飲める状態だったのか?」

「蜜蝋の封はしっかりしてた。たぶんいけるんじゃないかなあ。中身が何かは分からないけどね」

「酢とか塩水でないことを祈るよ」

「それはそれで、調味料が増えるから嬉しいが」


 俺たちのばかなやり取りを聞いていたリファが、諦めたように席に着いた。クーベが器用にナイフで蜜蝋を削り取る。ぽん! 景気のいい音がして木栓が抜けた。匂いを嗅いだクーベがにんまりと笑った。


「いけそうだぜ。ワインだ」

「ほう。毒は入ってないだろうな?」


 クーベが俺の疑念を聞いて呆れた。


「航海にわざわざ毒ワインなんざ持って行くやつぁいないだろう? ダグも時々変なことを言うな」


 変なことか……。俺が変なのか、疑うことを知らないクーベが変なのか。まあ、いい。久しぶりのワインだ。楽しませてもらおう。クーベがジャグを傾けて、杯にワインを満たした。


「あれ? 白か?」


 首を傾げるクーベ。


「ああ、いつものとは違うな。これは長期の航海用だ」

「長期の?」

「そうだ。ワインは長い間船で揺らすと、酸っぱくなっちまうんだよ。だからそうならないように、甘い白ブドウを使って濃い白ワインを作るんだ」

「へえー」


 俺が取り返した記憶。それは、俺の帰属に関するものじゃない。それには、頑固なまでに封印が掛かっている。俺が思い出すことに成功したのは、知識だ。その大部分はここでは役に立たないが、それは俺を取り戻すのに必要な鍵。そう思って、知識欲が旺盛なクーベに思い出した端から教え込んで来た。

 クーベは記憶装置としてはとても優秀だった。あいつはまるで俺の備忘録であるかのように、俺の言ったことを正確に記憶していった。クーベがそれをどう思いどう使おうとしているのかは、俺には全く分からない。だが、俺たちの生活を彩るのには充分役に立っていると思う。まあ……それでいいんだろう。


「ダグ、乾杯はどうするんだ?」

「めんどくさい」

「ま、いいか」


 自分の前に置かれた杯の中のワインをしげしげと眺めていたリファが、ふいっと顔を上げてクーベを見た。


「これって……なに?」

「ワインだよ」

「ワインて?」


 酒を知らないのか……。


 リファがどこから来たのかは、俺も知らない。クーベの話だと、船の舳先に生け贄として縛り付けられていたらしいが、その処遇を見る限り、処女で、どこかの皇族の子女である可能性が高そうだ。皇位継承者以外の女児は、皇族とは言っても捨て駒扱いされることが多い。政略結婚や慰みものとしての貢納に使われるならまだましで、神事の生け贄とされることも決して珍しくないのだ。

 リファはそうした運命を負わされ、饗宴から遠ざけられて、ひっそりと飼われていたのかも知れない。この島に来るずっと前からすでに、リファはどこかに閉じ込められていたと考えることも出来る。まあ……それも俺の想像に過ぎないが。


「飲んでみれば分かるさ。飲んだことがないんなら、最初は味見程度にしておいた方が無難だな」

「そうなの?」

「一時の快楽の代償がひどく大きいこともあるからな」


 俺の警告は、リファには届かなかったようだ。最初一舐めしたその味がよほど気に入ったのか、リファは一気に杯をあおって、お代わりを求めた。


「ほどほどにしとけよ」


 俺がジャグを傾けて継ぎ足したワインも、瞬く間に飲み干した。そうして、全身真っ赤に茹で上がり、この世の幸福を全部体感したかような微笑みを浮かべて……潰れた。


「だあから言わんこっちゃない」

「まあ、仕方ないよ。酒を飲んだことのないリファにとっては、砂糖菓子と同じだもの」

「こっちは毒入りだがな」

「ははは。そうだな。風邪を引かさないように、ベッドに放り込んでくるよ」

「済まんな」


 まるで荷物でも運ぶかのように、リファを軽々と肩に担いだクーベが平然と階段を上がっていった。俺もだが、あいつも酔わないんだよな。それに……クーベからは、リロイの時のようなあからさまな性への欲求を全く感じない。年頃の女を干し魚と同様に扱う。俺が自制で抑え込んでいる部分が、あいつには最初からない。不思議な。本当に不思議な男だ。


 俺は、甘ったるいワインの入った杯を片手に雨音に浸る。俺の中の時は、沈黙を破って動き出した。雨音でいっぱいに満たされた部屋の中。一人で杯を掲げた。


「見つかった俺の船に。乾杯」


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