第二季 春 予告

一日目

「クーベ、これはどうするの?」


 リファが、塩漬け魚の入った壷を持ち上げる。僕は、その壷の中を覗き込む。あと二、三匹ってとこか。


「中身出して、水に浸けちゃって。そいつは今晩食べちゃおう。壷は海岸で洗うから、そのままでいいや」

「分かった」


 僕とリファが台所で食料の整理をしている間、ダグは例によってラジオに釘付けになっている。全く。ダグは体格が良くて頭もいいのに、自発的に手伝おうとか作ろうとか、そういうのが全くない。僕らの手伝いに動くのは最小限だ。あとは、日がな一日ラジオを聞いている。リロイはなんだかんだ文句は言いながらも手伝ってくれたけど、ダグはそこんとこがなー。

 リファはその点、協力的だ。生活に必要な雑事をなーんにも知らなかった代わりに、それを覚えようとする気持ちがとても強かった。まるで禁じられていたことを何でも出来る喜びを知った、子供みたいに。なんにせよ、手伝ってくれる手があることは嬉しい。これからの季節、しなきゃならないことはいっぱいあるからね。


 風が収まってきたので、ダイニングの窓を開ける。部屋の中が潮の匂いで満たされる。ああ、すっかり温かくなったな。吹き付ける風の棘はすっかり取れて、優しく頬を撫でる。そして、塩辛さしかなかった風に他の匂いが混じり始める。何の匂い? そう、生き物の匂いだ。僕ら三人の気配しかなかった島が、生き物で満たされていく予感の匂い。僕は、わくわくする。春は。僕の一番好きな季節だ。じっとしていられなくなる。浮かれているのを、いつもダグに突っ込まれるんだけどね。海は凪いでいる。海面で照り返す日光が、にしんの銀鱗のようだ。今日は、穏やかな春の海を味わえるだろう。


「クーベ、これからどうするの?」

「ああ、海岸で少し洗い物をして、それから草を摘みに行く」

「ええっ? こんな岩だらけの島に草なんかあったの?」


 リファは、こういうところが抜けている。ほっつき歩く癖があったリロイと違って、リファは恐がりで島の中をほとんど歩かない。今までは天候が悪かったから、僕らもあえて遠出させなかったんだけど、それ以上に塔に引きこもる傾向が強い。でも、船が難破しにくくなるこれからのシーズンは、島の中の生き物を積極的に利用しないとならない。ただじっとしてたんじゃ、飢え死にしちゃうからね。


「一緒に来れば分かるよ。食べられる草をしっかり覚えてね」


 僕はダグにも声を掛けた。


「ダグ。俺は関係ないって顔をしないで、何日か手伝ってくれ。座ってばかりだと、足が萎えて動けなくなるぞ」

「余計なお世話だ」


 ダグが、ぶつくさ言いながら大儀そうに巨体を持ち上げた。ああ。また、太りやがったな。


◇ ◇ ◇


「ふう……」


 保存用の壷やかめを洗うのはダグに任せて、僕はリファを連れて塔の裏側へ回った。


「ああっ!」


 リファが口を押さえ、目を丸くしている。


 塔は海側にしか窓が開いてない。塔の背後はかなり急な斜面になってるから、そっちに窓を開けたって意味はないってことだ。だから、普段塔の裏手なんか見ることはない。百メートル以上ある長くて岩だらけの斜面は、冬には葉を落とした灌木がぼさぼさ生えているだけのように見える。でも、それが春には一変する。

 草。草。草。どこもかしこも、手足を自由に伸ばした柔らかい萌葱色の新芽。ふわふわした緑の泡の隙間から、まだ控えめな色の花がその姿を現す。でも、この陽気なら、ここはすぐに色とりどりの花に覆われるだろう。予感。生命の讃歌の予感。ああ、浮き浮きする。


 足元にあった新芽を摘んで、リファの鼻先に掲げる。それを見たリファが、なんだろうという顔でひょいと首を傾げた。


「これって……食べられるの?」

「ああ、今までは保存食ばかりで野菜が全くなかったからね。今のうちにきちんと確保しておかないと。野草の新芽が食べられるのは、ほんのわずかな間だ」

「そうなの?」

「育ってしまうと、ほとんどの草が固くなって食べられなくなる。その前に、保存用の干し菜を作っておかないとならない。忙しくなるよ」


 篭を持ったリファをせっついて、塔の裏手の斜面を少し登らせる。危なっかしい足取りで、岩を伝いながら上がるリファ。


「うん、そのあたりでいい。いろいろな種類のものがあるけど、全部が食べられるわけじゃないから、花を見て区別して」


 足下のつる草を指差す。


「その赤紫色の花がついてるのが、ハマエンドウ。これは葉が食べられるけど、手をつけないで。実が生るまでしっかり育てて、種を冬の間の食糧にする」

「あ、もしかして、あのお豆のスープは……」

「そう、こいつ。ここは穀物がほとんど取れないから、この豆は貴重なんだ。それから、その黄色い小さい花の咲いてるやつ」

「これ?」

「そう。その葉っぱがへらみたいやつね。ハマハタザオ。地面にぺったりくっついてる葉を食べる。こくがあってうまい。そっちの三角形の葉っぱのやつは、ハマアカザだ。少し酸味があるんで、葉を噛めば分かる」


 葉をちぎってリファに握らせる。見本がないと覚えられないだろう。


「足下の葉にとげとげのついたやつ。ノゲシ。ちぎると白い液が出る。茹でると苦みは消える。この細長い葉のが、ハマムギ。今はまだ利用価値がないけど、実がついたら挽いて使える。こっちはノビルだ。この島には香辛料になるものがほとんどないから、こいつの球根を干したのは貴重なんだ」


 リファが、困ったようにぷるぷると首を振った。


「覚えきれない……」

「まあ、今は聞き流してくれればいいよ。適当に摘んで後で仕分ける。でも、どういう方法でもいいから見分け方はしっかり覚えてね」


 僕自身も冬の間に錆びた記憶を掘り起こして磨くようにして、一つ一つの草を確かめながら摘んでいった。篭はみるみるうちに摘んだ草で一杯になる。


「まあ、そんなもんかな。あと十日間くらいは摘み草が出来るだろうから、その間は手一杯採ることにしよう」


 篭いっぱいと言ったところで、しょせんは草だ。大した重さにはならない。篭を背負って斜面を降りようとしたら、リファに呼び止められた。


「ねえ、クーベ、ちょっと聞いていい?」

「なに?」

「クーベはここで三年暮らしてるって言ってたよね」

「そうだよ」

「なんで、こんなにいろんなことに詳しいの?」

「ふむ」


 詳しい、か。まあ、確かにダグやリファよりは、ね。


「ダグが来るまでここに五年いたペーターが、僕以上にいろいろなことに習熟してたんだよ。動物や植物の利用の仕方をよく知ってて、それを全部教えてくれたのさ」

「へえー。でも、そのペーターさんが前の人からそれを教わってたかどうかは分からないんでしょ?」

「うん、それは確かにそう。でも、参考書があるからね。それに気付けば、ここで生きようとする限りはなんとかなるよ」

「えと。参考書……って?」

「地下倉庫に、本が何冊かあるんだよ。この島のことを書いてある本」

「ええっ! そんなの初めて聞いたわ!」


 リファが、急に僕を非難するような顔付きになった。


「聞かれない限り、僕がそれを教える義理はないし。何よりリファは受け身過ぎる。本を読んで何でも分かったように思われちゃ、ここじゃ生きていけないからね」


 膨れっ面のままで、リファが篭を背負った。さて、降りよう。


◇ ◇ ◇


 昼飯の時には、ちょっとけだるそうな空気が漂っていた。たかだか壷やかめを二つ三つ洗うだけで、そんなに疲れることはないと思うぞ、ダグ。リファは塔に戻って早々に本を見に行き、がっかりして戻って来た。だから、必要最小限のことしか書いてないって言ったろう? この島の歴史とか、秘密とか、はたまた魔術とか、そういうのが書いてあると思ったんだろうか。もし書いてあったとしたら、そっちの方が切ないと思うよ。だって、それが分かったところで、僕らにはどうにも出来ないのだから。


 摘んで来たばかりの草をさっと茹でて、ニナ貝の茹でたのと合わせる。篭罠に入ってたカニやエビも、茹でたやつに刻んだノビルがたっぷりかかってる。赤や紫と、緑。色の対比がとてもきれいだ。でも、ダグの顔色は冴えない。小麦粉も砂糖も、残り少なくなってきたからだ。これからは、膨れ上がったダグも少しは縮んでいくのかね。まあ本来食料がもっとも乏しくなるはずの冬に、難破船の食料で逆に肥え太るってのはおかしな話だ。そんなのを前提にしていたら、そのうちひどいしっぺ返しが来るだろう。

 開け放った窓からの優しい浜風を受けながら、春の恵みを口にする。うんざり顔のダグと、嬉しそうな顔のリファ。対照的だ。


「昼飯を食べ終わったら、干し菜を作るのを手伝ってくれ。仕込みが終わったら、もう一度摘みに行くから」


◇ ◇ ◇


 瓶に濃い塩水を入れ、それに摘んだ摘み菜をどぷっと浸けては、篭に並べる。今日は天気がいいので、摘み菜はどんどん萎れて乾いていく。完全にからからになる一歩手前で、藁で束ねて地下倉庫に運ぶ。午前中の分は、あっと言う間に終わった。


「これから何日か、天気のいい間は干し菜作りを続けるから協力をよろしく」


 もう何もしなくていいと思ってたふしがあるダグが、げんなりした顔を見せた。摘み菜が面倒くさいだけでなくて、野菜そのものが嫌いなんだろう。贅沢なやつだ。


 それぞれに篭を持って、塔の背後の斜面を上がる。去年の春、ダグは塔から全く出なかった。リファのことなんか言えない引きこもりだった。僕とシエロとでほとんどの作業をやった。今年はいやいやでも外に出たってことは、何か心境の変化でもあったんだろうか? まあ、いいや。手があって困るってことはない。絶対にない。僕とリファは、さっきの場所よりも少し上に行った。ダグは面倒くさいのか、僕らの場所よりはずっと低いところを横に歩いて行った。


 風が吹き渡る。暖かい海風が。リファの金髪が、それに巻き上げられてきらきらと光る。ああ、そろそろだな。もう少しすると、たくさんの海鳥がこの島に渡ってくる。中には、草を敷き詰めて巣を作るものもいる。輝く枯れ草は、リファの金髪によく似ている。あの髪は……巣材にすると柔らかくて気持ちよさそうだ。


◇ ◇ ◇


 要領を覚えたリファは、午前中よりたくさんの草を摘んだ。それを手分けして篭に詰め、ゆっくりと斜面を下る。そういや、ダグはどこまで行ったんだ? 降りる途中でぐるりと見渡したが、それらしい姿は見えない。面倒くさくなって、塔に戻ったか? 全く。

 ぶつぶつ言いながら降りたところで、かなり離れた場所にダグの姿が見えた。あれ? 塔に戻っていたんじゃなかったのか? ダグの背負っていた篭は、ちゃんと摘み菜で満たされていた。それを塔の入り口のところに置き、湾に近いところまで行って、なぜか海ではなくて斜面を見上げている。


「ねえ、クーベ。ダグは何を見てるの?」


 リファも首を傾げてその様子を見ている。


「さあ……。斜面に何か変わったものでも生えてたのかな?」

「ええー? ダグがそんなのを気にするとは思えないけどぉ」


 確かにその通りだ。リファは、そういうところの勘が鋭い。


「まあ、行って確かめてみよう。摘み菜を処理する時間はまだたっぷりあるし」


 僕もリファもその場に篭を置いて、ダグの立っているところまで歩いて行った。ダグはまさに仁王立ちの状態で、ものすごく恐い顔をして斜面の一部を睨みつけていた。初めて見るダグの凄まじい形相。体は大きいけど、寡黙で穏やかなのがダグだ。声を荒げて怒鳴ったり、怒りをあらわにしたのを見たことがない。そう、とても抑制されているという感じ。でも今のダグは、全身から怒気を発している。今にも叫び出しそうだ。


「ダグ? どうした?」


 僕らに気付いたダグが、一瞬でその怒気を引っ込めた。いつものダグの姿に戻る。僕はそれにほっとすると同時に、底知れない恐ろしさを感じた。

 ダグが、巨体を揺らして足元の砂を踏み付けた。どん!


「なあ、クーベ。俺はここに倒れていたんだろ?」

「ああ、そうだよ」

「その時には、俺以外には何もなかったのか?」

「うーん、少なくとも僕もシエロもペーターも、何も見なかったし、確かめなかったと思う」


 ダグは、リロイの時のことを思い出したんだろう。リロイを見つけたのはダグだ。ダグは、気を失って倒れていたリロイを、ただ抱えて連れて来ただけ。何も確認していないはずだ。それまでの住人にとって、新住人が来ることは誰かの旅立ちを意味する。意識は全てそっちに行ってしまうんだ。俯いて足元を見ていたダグが、ゆっくり顔を上げる。


「俺は、シエロやクーベから聞いた話でしか世界を知らない。だが、俺はここが俺の始まりでも終わりでもないことは分かってる」


 おいおい。いきなりどうしたんだ?


「俺は全部ではないが、過去の記憶を持っている。そして、どうやってここに来たのかも思い出した。リロイの拾ったラジオ、それは俺の座標を探すための貴重な羅針盤だった。リロイが行く前に、ありがとうを言いたかったな……」


 そうして斜面の一角を指差した。僕とリファが、示されたところを同時に見上げた。


「あそこに俺の船がある」


 えっ? 慌てて、ダグが指差した方向を凝視する。今までてっきり岩だと思っていたもの。あれが……船?


「まあ、後で話す。干し菜を作るんだろ? やっちまおう」


 いつもと変わらない様子で、ゆっくりダグが歩き出した。


◇ ◇ ◇


 夕方。たっぷり作った干し菜を倉庫にしまい込んで。ダイニングの椅子で、屈み込んでの作業で疲れた腰を伸ばしていると。急に空気がじっとりと湿り始めた。灯りを点けて、窓を閉める。


「ふう。これから一雨か。今日中にたくさん作れて良かったよ」

「そうだな。まあ、俺はあまり嬉しくはないが」


 ダグは、いつものダグに戻っている。リファは、今朝水に浸けて塩出しした魚をさばくのに苦労してるようだ。手伝うか。台所に行こうとして、ふと振り返ってダグの様子を見た。

 いつものようにラジオを聞いている。身じろぎもせず。眉間に皺を寄せて。じっと何かを見つめて。それは、一見これまでと何も変わりない。でも、僕には分かる。リロイが行ってしまった後、どんよりした虚脱感の中にずっと閉じ込められていたダグ。その投げやりな空気が一変していることに。ダグの中で……何かが動き出したな。僕の視線に気付いたダグが、目だけ動かして僕を見た。


「クーベ。俺を見ても腹は膨れん。ちゃんとリファを手伝ってやれ」


 偉そうに。そう思いながらも、僕は胸騒ぎを抑えることができなかった。明日……確かめよう。


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