三日目

 朝。大きな潮騒が聞こえる。わたしは目を開けるのが辛かった。


 昨日の深夜。部屋に忍び込んで来たリロイが、わたしになにかしようとしていたのはすぐに分かった。それが邪心からではなく、底なしの寂しさから来てるんだってことも、なんとなく分かった。わたしは、力一杯拒んだ方が良かったんだろうか? 泣き叫んで、ものを投げつけて、出てけって。それとも、その寂しさを受け入れてあげれば良かったんだろうか? 向かい合って、抱き合って、求め合って。でも、わたしは何もしなかった。何も出来なかった。ただリロイに背を向けて、じっとしていることしか出来なかった。


 わたしの背後に、ずっとリロイの気配があった。一晩中。温もりを強く感じたから、何も着ていなかったんだろう。だけど、わたしにはなにもしないで。身じろぎもせず。ただじっとそこにいた。

 リロイがわたしに見たものは、なんだったんだろう? その寂しさの代償に、わたしに何を求めていたんだろう? わたしには、それが全く分からなかった。ずっしりと重い闇が、わたしとリロイを押し潰そうとする。わたしは堅く目を瞑ったまま、喘ぐように息をすることしか出来なかった。


 そのうち、背中に感じていたリロイの息遣いを感じなくなった。わたしから顔を背けたんだろう。そして明け方近くになって、リロイの気配も感じなくなった。

 わたしはずっと起きていた。一睡もせず。だからリロイが部屋を出たのならすぐに分かる。でも、リロイがベッドを出るような動作は感じなかった。それなのにいつの間にか温もりが消えて、背中が薄ら寒くなっていた。足音も聞こえなかった。ドアを開ける音も聞こえなかった。ただ……何かが床を叩く小さな音だけが、闇の中に響き始めた。ぴち、ぴち、ぴち……と。


◇ ◇ ◇


 こんこんこん! 強くドアを叩くノックの音で、はっと目が覚めた。


「おーい、お二人さん。お楽しみのところ申し訳ないが、朝食だ。そろそろ起きてくれ」


 クーベの遠慮のない言い方! でも、それで少し気が紛れたわたしはおそるおそる目を開けた。窓の隙間から朝日が漏れていて、光が目に沁みて涙が出た。のろのろとベッドから降りて、ドアを開ける。


「おはようございます」

「おはよう。眠そうだな。リロイもいるんだろ?」


 にこりともせず、真っ直ぐに聞くクーベ。


「いた……んですけど……」

「ん?」

「いつの間にか、いなくなったみたいで」


 急に黙り込んだクーベが、ずかずかと部屋の中に入って辺りを見回した。あの音。そう、明け方近くからずっと続いていた、何かが床で跳ねるような音。それがまだ響いていた。音の方にちらりと目をやったクーベが、身を翻して部屋を出て行った。


「そのまま待っててくれ。すぐに戻る」


 そう言い残して。


 わたしはベッドの端に腰を下ろして、頭を抱えた。何が……何があったのだろう? わたしには全く分からない。クーベには分かっているんだろうか? いくらもしないうちに。クーベとダグが揃って階段を上がってくる足音が聞こえた。わたしは、ほっとする。


 クーベが手に何か持っている。スープ鍋? 中に何か入ってる? スープ鍋を慎重に床に置いたクーベが、わたしの前を横切って音がする方に歩いて行った。ダグが腕組みをして、それを厳しい表情で見つめている。何かが床で跳ねる音。それが止まった。クーベが両手で包むようにして、何かを持っている。そうして、手の中のものをスープ鍋の中に落とした。ぽちゃん。小さな水音。


「こういうのは……初めてだね」

「そうか。ペーターから聞いてないのか?」

「聞いたことない」


 何のこと? わたしはベッドを降りて、クーベとダグが見下ろしている鍋の中を覗き込んだ。そこには……。


「こ、このお魚はなに?」


 青い、小さなお魚。鍋の水の中を、不安そうにうろうろと泳ぎ回っている。クーベが、まるで確かめるように呟いた。


「昨日、リロイはこの部屋に来た。リファとの間で何があったかは知らないけど、少なくともずっとこの部屋にいた」

「ええ……」

「で。リロイの部屋にも、他の部屋にも、あいつはいない。塔の戸は閉まってる。昨日降った新雪はそのまんまだ。誰の足跡もない。つまり」


 クーベが、顔を上げてわたしを見た。


「これが、リロイだってことだ」

「そんな……」


 頭の中が真っ白になる。どういうことなんだろう? どうしてそうなってしまったんだろう? わけも分からず涙が溢れてくる。


「う……うっく」


 ふう。溜息をつきながら鍋を見下ろすクーベに、ダグが聞き質した。


「クーベ。こういうことは本当に前にはなかったのか?」

「さあね。地下の倉庫で、島の住人の誰がいつから記録をつけ始めたのか知らないけど、ここをどうやって出たかは一々書いてないから分からないよ。僕が知る限り、リロイみたいのは聞いたことない」

「ううむ」

「もしかしたら、これまでもあったことなのかもしれないけど。でも、住人は長くても五年で入れ替わっていっちゃうし、前どうだったかは知りようがないね」


 クーベの言い方は、どこまでも淡々としていた。それがなぜだかとても癪にさわる。僕には関係ない、そう突き放されているような気がして。黙り込んだダグの背中を、クーベがぱんと叩いた。


「まあ、朝飯にしよう。それからリロイを解放してやらないとな」


 解放? 何から? あまりに分からないことが多すぎて、絶望的になる。自分は何か? 何をしなければならないのか? わたし自身のことも、何も分かっていない。そして、ここにはそれに答えをくれる人はいない。今まで分かったのは、たったそれだけだ。わたしの中にわだかまっているいろいろな感情。自分の感情が自分でも理解出来なくなっている。今は、流れ出る涙の形でしか感情を表せない。


 よたよたと重そうにスープ鍋を抱えて、クーベが階段を降りていく。押し黙ったままのダグが、その後をゆっくり追う。わたしは。部屋に一人、取り残された。涙は止まらない。顔を覆った指の隙間から、どんどん溢れて落ちていく。でも……お腹が空いた。わたしは部屋を出て、ゆっくりと階段を降りた。


◇ ◇ ◇


 ダイニングでは、ダグがラジオもつけずに、テーブルに肘をついて黙りこくっていた。眉間に深い皺を寄せ、分厚い口ひげをぴくりとも動かさず、ただひたすら一点を見つめて。見つめている先には、あのお魚の入った鍋。わたしは、思わず顔を鍋から逸らした。そんなこと、あるわけないじゃない。あれはリロイなんかじゃない。リロイなんかじゃないっ!


「ああ、リファ。ちょいと手伝ってくれ。皿とカトラリーを出して。ここにあるから」


 足元をがんと蹴飛ばしたクーベが、台所から大きな声でわたしを呼んだ。昨日一睡もしてないし、体が重くて本当は動きたくない。でも自分で自分のことをしないと、ここでは生きていけない。のろのろと立ち上がって、クーベの指示通りに皿とカトラリーを運ぶ。

 トウモロコシのおかゆ。大きなお魚を茹でたもの。それに、豆と海藻の煮たもの。クーベが、鍋をどんどんどんとテーブルに並べた。


「さて、さっさと食べちまおう」

「クーベ、この魚は?」


 ダグが、鍋の中のぶつ切りの魚を見やる。


「干し魚ばかりだったからね。昨日、仕掛けを流しといたんだ。でかいたらがかかった」

「お、久しぶりの生魚か」

「たまにはね」


 わたしは……。青い小魚がいる横で、平気で魚料理を食べられる二人の神経を疑う。でも、空腹には勝てない。夢中でご飯を食べた。


 食事が終わってすぐ、クーベが立ち上がった。


「さあ、行くぞ」


 どこへ行くとも、何をするとも言わない。ダグも無言で立ち上がって、外出の用意をしに行ったようだ。わたしも部屋に戻って外套を着込む。ひょいと部屋に顔を出したクーベが、わたしの装備を確認して。それから、ぽんと放り出すように言った。


「最初に言ったと思うけど、この部屋はゲストルームなんでリロイの部屋に移ってね。三階だ」


 これも無神経極まりない。昨日までリロイが暮らしてた気配の中に、わたしを置こうって言うの? でも、わたしの反論を受け容れるつもりなんか最初からないんだろう。言い渡しただけで、さっと階下に降りてしまった。

 ああ……わたしは少し分かった。リロイがまとっていた寂しさを。クーベもダグも、しっかり自分の存在の上に立って暮らしてる。でも、リロイもわたしも自分が何かをちっとも分かってない。そこが寂しさや不安に直結してる。じゃあ、なぜ自分とリロイは重ならなかったの? 欠片を埋め合えなかったの? もやもやとした気持ちを抱えたまま階段を下りて。リロイの部屋に入った。その部屋は……冗談抜きに寒かった。誰かが住んでいたっていう気配が、ほとんど残っていなかったから。壁際に普段使いの衣類が下がってるだけ。あとはベッド。何もない。他になーんにもない。

 島に来て、半年って言ってたよね。部屋を見てすぐ分かったこと。リロイは、この島の何にも興味がなかったんだってこと。リロイは半年の間、何を考え、何を待ってたんだろう? 何も。何も分からない。がらんどうの部屋からは何も。


◇ ◇ ◇


 遅れて塔から出たわたしを、クーベとダグが待っていてくれた。いつも通りの表情のクーベ、難しい顔をしたダグ。鍋を抱えたクーベがさっさと歩き出した。昨日、食料品を拾った浜辺の端の岩場。それを上って、岩礁の突端まで歩いて行く。足場が悪くて、付いて行くのが結構辛い。でも、クーベはお構いなしだ。

 突端近く。時々大きな波がかぶる潮溜まりに降りたクーベは、そこに鍋の中身を無造作にあけた。ざばっ! 青い小魚はほんの一瞬だけ銀鱗を光らせ、すぐに泡立つ海水の中に隠れて見えなくなった。


「リロイ、元気でな。僕たちに食われるなよ」


 本気か冗談か分からない口調で、クーベがそう言った。ダグは潮溜まりをじっと見ていたけど、くるりと海原に背を向け、何も言わずに岩礁を戻って行く。クーベもすぐに空の鍋をぶらぶらさせながら、岩礁を歩き始めた。わたしは。わたしは……口に出せる言葉がこれしか見つからなかった。


「ごめんね、リロイ。さよなら」


◇ ◇ ◇


 リロイのいた部屋。ベッドの端に腰をかけて溜息をつく。もう涙は出て来なくなった。たった二日。わたしに興味を示して。わたしに告白して。わたしに入り込もうとして。でも独りで海に還ったリロイ。わたしの見たリロイは、本当はなんだったんだろう? たぶんそれを考えても意味はないんだと思う。だって、わたし自身のことだって、何も分からないんだから。


 こんこん。ドアがノックされた。


「はい」

「入るよ」


 クーベか。

 これまでと何も様子の変わらないクーベが、部屋を見回して言った。


「リファ。リロイの使ってた衣類は貴重なんで、サイズを直して使ってね。ここでは衣類は自前調達できないんだ」

「はい……」


 それだけ言って部屋を出ようとしたクーベを、慌てて引き止める。


「あのっ」

「なに?」

「リロイは最初からお魚だったんですか? それとも……」


 ほとんど表情を変えずに、クーベが答えた。


「さあね。それは分からないよ。これまでここにいた住人たちには、こんなケースはなかったんだ。だから僕には確かめようがないし、そんな興味もない」


 予想通りの答えにがっかりする。わたしの様子を見透かしたように、クーベが付け足した。


「そうだね。僕に言わせれば、ここは『今』の島だ。僕らはほとんど『過去』を失くしてる。そして『未来』は突然やってくる。島を出るっていう形でね」

「今……ですか」

「そう。この島の中での過去も未来も。この島でしか意味がない。そう考えた方がいいかもしれないね」


 難しいことを。


「どういうことですか?」


 腰に手を当てたクーベが、少し寂しそうな笑顔を見せた。


「たとえば、リロイが最初から魚だったにしても、何かの呪いで魚に変えられたにしても。それが、君に何か影響するかい?」

「え……」


 返答に詰まる。


「それはリロイにしか意味がないことだし、リロイが考えるべきことだ。そして」


 クーベがわたしを指差した。


「君だってそうなんだよ」

「う……」

「君が何者か。何のためにここに来たのか。それを僕やダグが考えても意味はないんだ。君自身が考えたければ考えればいいし、リロイのように考えるのを放棄してもいい」


 クーベには、わたしを説得するとか諭すという意図が最初からないんだろう。事実をただ淡々と並べ続けるだけ。


「ともかく。ここで三人が協力してやってるのは、暮らすってことだけさ。それだって、義務じゃない。その方が楽だからっていうだけなんだよ」


 そう言い残して、くるっと背を向けて階段を下りていった。遠ざかる足音と入れ替わるように、強くなってきた風が窓枠を揺さぶって、せわしなく鳴らしていた。がたがた、がたがた、と。


◇ ◇ ◇


 リロイが去った夜。外は猛烈な嵐になった。海は裂けて、ひしゃげて、荒れ狂い、横殴りの吹雪が視界を完全に奪った。夕食の後、わたしたちは白い悪魔の手の中で沈黙の時を過ごしていた。黙々と魚釣りの仕掛けを調べていたクーベが、その手を止めてふっとこぼした。


「ふう。食料を拾えるだけ拾っといて良かったよ。ちょっとでもタイミングがずれてたら、えらくひもじい思いをするところだった」

「そうだな」


 テーブルの上に吊るされた角灯の炎が、ゆらりと揺れた。閉め切った窓に目をやって、ダグがぽつりと漏らした。


「リロイはちゃんと外海そとうみに出たかな」

「さあね」


 クーベが仕掛けをテーブルの上に置いて、静かに腕を頭の後ろで組んだ。そして、天井に映った灯りの模様をなぞるようにして、長く細く息を吐き出した。


「それは分かんない。でも、もう島には戻れないからな」


 クーベが言ってた『解放』って、島からの解放……か。でも、わたしにはそれが『追放』に聞こえて仕方なかった。リロイの意味って、いったいなんだったんだろう? わたしは、どうしようもなく悲しくなって席を立った。


「お休みなさい、クーベ、ダグ」

「お休み」

「おう、あったかくして休めよ」



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