二日目
寒い。自分の吐く息の白さで目が冴える。リファは寒くなかっただろうか。半身を起こして、窓の方を見る。わずかな隙間から、赤橙色の朝日が漏れてくるのが見える。
「朝か……」
窓がまだがたついているので、風は止んでいない。でも、外は明るくなっているんだろう。ぼくはベッドを出て服を着替えると、窓を一つ開けてみた。
ごおっ! かすかに雪の匂いの混じった風をまともに受けて、思わず顔を強ばらせる。昨日は少し寒さが緩んだかなあと思ったけど、また真冬に逆戻りか。寒風を押し戻すように窓を閉めて、ゆっくりとダイニングに降りる。
「おはよう」
「ああ、おはよう、リロイ」
いつもの愛想のない声で、ラジオから視線を外さずにダグが挨拶を返した。ダグの聞いてるラジオは、ぼくが海岸で拾ったものだ。クーベはそれに全然興味を示さなかったけど、ダグは何日かそれをいじり回して音が出るようにした。ぼくにはそれが何の音か分からない。興味もない。でも、ダグがそこから離れなくなったってことは、ダグには大きな意味があるんだろう。
「クーベは?」
「見回りに行ったよ。また船が難破したかもしれないからな」
「あ、そう」
ダグの隣の椅子に座って、背もたれを抱える。会話が途絶えたまま、ラジオから漏れる小さい音だけが部屋に響き続ける。ぼくは、昨日の夜のことを思い返していた。
突然現れたリファ。変わらないぼくの生活に一筋の光を当てるように、彼女は降臨した。でも、彼女はぼくの時とは違う。彼女は知りたがってる。自分は誰か。なぜこの島にいるのか。自分は何をするべきなのか。素っ気ないダグやクーベからは聞き出せないと思ったのか、彼女はぼくに矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。でもね。ぼくにはどれも興味がないことばかりだった。ぼくの興味はリファ自身。ぼくらは全く噛み合わなかったね。だから、お休みの一言だけを残して部屋を出た。質問にはなにも答えずに。
ぼくが昨夜のことをぼんやり考えていたら、ぼそっとダグに話しかけられた。
「なあ、リロイ」
「うん?」
次の言葉はずっとダグの口から出なかった。しばらくして、視線だけラジオから離したダグが、テーブルの上に言葉を並べるみたいに。
「出るのは……おまえか?」
「……。そうみたいだね」
「まだ半年なのにな」
「そういうのは関係ないんでしょ」
「まあな」
ぼくは、よく覚えていない。ぼくがここに来た時には、ぼくは何もしゃべりたくなかった。何もしたくなかった。ただひたすら、膝を抱えてうずくまっていた。ぼくが、ぼくの代わりに去ったシエロについて覚えているのは、ただ一つだけだ。三日目の朝に、うずくまってたぼくの頭に、暖かい手の感触があった。目をつぶってたぼくの耳に、静かな声が届いた。
「ありがとよ。俺はあんたに何も残せなかった。そのことが嬉しいよ。じゃあな」
シエロはアザラシの皮で作ったカヤックに乗って、海に漕ぎ出たと聞いた。じゃあ、ぼくはどうすればいいんだろう?
ばたん! 大きな音を立てて、扉が開いた。ところどころに雪の塊を付けたクーベが、大きな薪の束と革袋を持って入ってきた。
「お、リロイ、おはよう」
「おはよう」
「リファはまだ寝てるのか?」
「そうみたいね」
「なんだ、てっきり確かめにいってると思ったのに」
ぼくは、クーベのこういうデリカシーのないところが嫌いだ。クーベはぼくの反応なんか見もせずに、袋を開けて言った。
「朝飯にしよう。やっぱり昨日難破した船があったみたいだ。食料がかなり流れ着いて来てる。朝飯食ったら、全員で回収に出る」
ちぇ。今日くらい自由にさせてくれたっていいのに。でも、ぼくの様子なんか見もしないで、袋からでかいチーズの塊を出したクーベがどすどすと大きな足音を立てて台所に行った。
「リロイ」
「うん? なに?」
「おまえは正直だな。全部顔に出る」
ダグが、含み笑いをしながらぼそっと言った。ぼくは、ダグのこういう人を見抜くような態度が嫌いだ。ぼくがむくれてそっぽを向いていると、階段を下りてくる足音が聞こえて来た。軽い。密やかな足音。戸をそっと押し開けて、リファが顔を出す。
「あの……」
「ああ、おはよう。眠れたかい?」
ダグの太い声が響いた。
「ありがとうございます。なんとか……」
台所からクーベが声を張り上げる。
「おはよう、リファ。朝食にするから座ってて」
「あ、はい」
立ちん坊だったリファが、ごつい椅子を引っ張って座る。その動作がぎごちない。リファはぼくの顔を見て、それから顔を伏せた。昨日の夜、ぼくを怒らせたと思ったんだろうか。
「おはよう、リファ」
「あ、おはようございます」
ぼくから声が掛かったことで、ちょっとほっとしてる様子が窺えた。
しばらくして。クーベがなにやら見たことのない料理を運んできて、ダグに嬉しそうに話しかけた。
「水に浸からなかった粉が手に入ったから、しばらくは食卓を賑やかに出来るな」
「そりゃあ、ありがたい。数少ない楽しみだからな」
いや、それはいいんだけど。この薄黄色の、団子の出来損ないみたいのはなんだろう?
「ねえ、クーベ。この物体はなに?」
「さあねえ。僕も小麦粉は見たことがあるんだけど、これはどうも違うみたいだね」
わけの分からないものを調理して食べてしまうってのも、すごいなーと思う。団子もどきを見ていたダグが、にやっと笑った。
「適当がモットーのクーベにしちゃあ、上出来じゃないか。トウモロコシの粉だ。熱湯で練ったんだろ?」
「ああ。こんなのはなんでも、茹でるか焼けば食えると思ってね」
まったくいい加減だよなあ。
大きな皿に、団子と焼いた干し魚、ごろごろと切られたチーズがどんと乗せられて出て来た。それと豆のスープ。ダグがチーズをつまんで、口に放り込む。
「うん、うまい。チーズなんざ久しぶりだな」
「そうだね。流れ着くのは乾物ばっかだから。さあ、食おう」
いつものように、なだれ込むようにして食事が始まった。ぼーっとしてるリファをつつく。
「自分の分を取らないと、なくなっちゃうよ」
「え?」
リファが、慌てて積んである料理に手を伸ばした。誰かに取り分けてもらえると思ってるあたりが、ぼけぼけじゃないか。料理を口に運んだ後のリファの反応が、また不思議だ。一々顔をしかめて。スープを飲んで、流し込んでる感じもする。そうこうするうちに、大皿にいっぱい盛られていた料理がきれいさっぱりなくなった。最初は食が進まない感じだったリファも、少しずつ慣れたのか、最後はしっかり食べていた。
「さて、腹が膨れたところで食料確保に行こう。悪天が続いて塔に閉じ込められたら、ひどくひもじい思いをしなけりゃならんからな」
クーベの一言を合図に、全員立ち上がる。おっと。全員じゃないな。リファが座ったままだ。
「ああ、リファも準備して。防寒着は僕が持ってくるから」
クーベに促されて、リファが慌てて椅子から降りた。でも、そのままぼーっとしてる。食器はぼくがまとめて台所に運んだけど……なんだかなあ。ぼくらが準備でばたばたしてる間も、リファはぼんやり立ったままだ。面倒臭がりのぼくも、さすがに呆れる。
「リファ。黙って突っ立ってても何も進まないよ。知るより先にすることがあるんじゃないの?」
きょとんとしたリファの背後から、クーベが服を被せる。
「きゃっ!」
「そいつ着て。袖と足下の紐を結ぶ。首もとは、ショールがあるから、それ巻いて。手袋はめて。帽子を被る」
リファに指示を出したクーベは、ぼくの方を見てにやにや笑った。
「何がおかしいの?」
「リロイも最初、こうだったんだぜ」
「う……」
ぼくは、こうやって一々揚げ足を取るクーベが嫌いだ。でも、クーベはぼくの顔色なんか見ない。さっと背中を向けて歩き出す。
「さあ、行くよ」
◇ ◇ ◇
昨日の荒れ方は、それほどひどくなかったみたい。雪も降るには降ったけど、歩く邪魔にはならない。みんな無言で、革袋を背負って海岸まで歩く。ぼくは手をかざして、海の向こうを眺める。雪雲はちぎれて流れ去ったけど、青空はところどころに顔を出しているだけ。動くのが億劫だという感じの鉛色の雲の塊が、あちこちでどっしりと空を塞いでいる。ぼくと同じように海の彼方を見つめていたダグが、眉をひそめた。
「どうしたの?」
「昨日程度の荒れじゃあ、軍船は難破しないよ。無理して船を出した商船がいたんだな」
そう言って、波打ち際を指差した。そこには、いろいろなものがばらばらに流れ着いていた。長い間海上で行動する軍船は、全ての物資を頑丈な木箱に納めてるんだって。だから船が難破したら、箱ごと流れ着く。確かに、今まではずーっとそうだった。
「箱が壊れたんじゃないの?」
「そうしたら、箱の破片も大量に流れ着くよ」
「ふうん。そうか」
「さあ、口を動かす前に、手を動かしてくれよ。また荒れだしたらどうにもならんからな」
クーベがしらっとぼくらに釘を刺した。さっきから、波打ち際をきょろきょろと見回していたリファがクーベに聞く。
「あの……」
「なに?」
「わたしはなにをしたら……」
出る時に、食糧確保に行くって言ったよね。聞いてなかったのかな? クーベが無表情に答えた。
「ああ、リファが食べたいと思うものを拾って。ただし、生ものはだめだよ。日保ちしないからね。干したもの、漬けてあるもの、粉系のもの。そんなのがいいかな」
どうも、要領が分かんないみたいだ。
「ああ、もしかして。出来上がった料理しか見たことない?」
恥ずかしそうにリファが俯く。クーベはそれを笑うでもなく、さらっと言い渡した。
「じゃあ、覚えて。ここでは自分がしないと、誰もしてくれない。今は時期的に難破する船が多いから食糧を拾えるけど、暖かくなってきたら釣りと海鳥の狩りで食べ物を確保しないとならない」
クーベの説明はすごく単純だ。だから、どこにも逃げ場がない。
「何か知りたいなら、まず生きることだよ。食べる。暖をとる。必要なものは作る。ここで暮らすなら、まず自分で動かないと」
そう。ぼくの時にも、クーベはそう言った。ぼくに食べるものを用意してくれたのは、最初の三日だけ。シエロがここを発ってからは、クーベもダグもぼくを放ったらかした。おまえが飢え死にしても、代わりが来るだけだ。それでいいならじっとしてろ、と。ぼくはお腹が空いた。喉が乾いた。情けないけど、ずっとすねていられなかった。誰もぼくのことは構ってくれないし、ぼく一人じゃどうにもならなかった。仕方なく、クーベとダグに話し掛けた。どうしたらここで生きていけるか教えてもらった。だから、ぼくは今ここにいる。
でも。半年経っても、ぼくはあの頃と何も変わっていない。膝を抱えて、何もしたくなくて、何とも関わり合いたくなくて。でも、クーベとダグに放置されると寂しい。
ぼくは海を見る。今までも、暇さえあれば海を見ていた。でも、海はぼくを受け入れてくれない。そうだよね。ぼく自身が何も受け入れたくなかったんだもの。『自分』ていうめんどくさいものが、ぼくを意固地にさせている。守るようなものはなんにもないのに、うずくまって防御姿勢を取って。でも、いっつも誰かの助けの手だけは欲しくて。クーベもダグも『ぼく』が何かを一度も気にしたことがなかった。クーベは最初の頃に言ったっけ。
「僕らはここの住人であるってこと以外、何も知らない。知る手段がないから、知りたければ自分で探るしかないんだ。そうするかどうかは、自分で考えればいい。そうしろとも、するなとも言えないよ。僕らだって同じなんだからさ」
クーベは『僕らと同じ』と言ったけど。本当にそうだろうか? ぼくはクーベやダグと違う。もっと弱い。もっと情けない。自分が何にもない。そして、それを何とかしようという気もない。だから、ぼくは浜でいろんなものを拾った。それがなにかをクーベやダグに教えてもらった。それが『ぼく』でないことを知るたび、ぼくは安心してそれを捨てた。……ぼくは、このままでいいんだって。
◇ ◇ ◇
たくさんの食料を拾って、地下の貯蔵庫はとっても賑やかになった。リファは、結局なんにも役に立たなかったけどね。クーベは機嫌良く夕食の支度をしている。リファがぼんやりと暖炉の火を見ている。ダグは、いつものようにラジオに耳を傾けている。
ぼくは……明日どうなるんだろう? 結局、ぼくはこの島に居ただけだった。考えることも。行動することも。何もしたくなかった。生きるための営みをこなすだけだった。ぼくの過去も未来も。なんの意味もなかった。それはクーベもダグも示してくれなかった。リファは、ぼくに何かくれるだろうか? 『居る』だけ以上のぼくの意味を教えてくれるだろうか?
「さて、夕飯にしよう!」
クーベがどんどん料理を運んでくる。まるで、ぼくの別れの宴のように。すっごくいらいらする。そんなにぼくがいなくなることが嬉しいんだろうか? いや、それは僕の八つ当たりだ。考え過ぎ。クーベは、いつも機械的にご飯を作るんだよね。材料が少なければ、ちょっぴり。多ければ、たくさん。最後の最後まで。いつも通りだったってことかあ……。
◇ ◇ ◇
夕飯が終わって、リファはゲストルームに戻った。ダグはダイニングでラジオを聞いてる。クーベは地下倉庫を整理しに行った。ぼくは……角灯を持って、ゆっくりとゲストルームへの階段を上がった。ゲストルームの前で一度深呼吸をして。それから扉をノックする。こんこん。
「はい?」
「リロイです」
「どうぞ」
僕が部屋に入った時、リファはベッドに腰を掛けて力なく俯いていた。
「なんですか?」
リファは少し疲れたように、億劫そうに顔を上げた。どうしようか。一瞬ちゅうちょした。でも……。
「ねえ、リファ。ぼくね。リファが好きです」
リファの顔に怯えの表情が浮かんだ。そうだよね。でも、ぼくにはもう時間がないんだ。ごめんね。ぼくはリファの返事を待っていた。ずっと。しばらくぼくの顔をじっと見ていたリファは、静かに顔を伏せた。
「リロイは、わたしのどこが好きなの?」
「分からないけど。リファがぼくを変えてくれると思ったの」
「わたしが?」
「そう。ぼくはここじゃどこにも、誰にも受け入れてもらえない。クーベにも、ダグにも、塔にも、海にも。この島の中で、ぼくだけがよそものなんだ」
それを聞いたリファは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと答えた。
「わたしも。リロイは分からないわ」
そう……。ぼくは絶望的な気分で、リファの部屋を出た。
そうして。
もう一度。
真夜中に。
言葉が何もじゃましない闇の中で。
受け入れてもらおうと。
決意した。
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