第4話
ハサン宅での作業を終え、することのなくなった俺は、村の散策ついでにアーダムの家に向かっていた。
小さな村だというのに、ナジに連れまわされているであろうニューランがどこにいるのかわからなかったし、それに、先ほど見た光景がどうにも脳裏から離れずにいたのだ。
昨晩ははぐれないように必死に歩いた場所を、今度は一人で、のんびりと周辺を見回しながら往く。
いつだったか、大昔はこの一帯すべてが森だったと習った記憶があるが、今のこの光景からはとても想像できない。
目に入るのは一面の草地と、その間から顔をのぞかせる岩と、転々と繁殖しているわずかな潅木だけ。そんな中で、一本だけすっくとそびえる木のそばに建つ小さな家は、村のそれとは違う、何か特別な存在を示しているようにも見えた。
それは、ここに住む者が古唄などというものを受け継いでいるからなのだろうか。アーダムのあの険しい表情と、ハサンが言いよどんだ言葉の裏には、一体どういう事情があるのだろうか。
いきなり訪問をしたら、彼の機嫌をまた損ねてしまうだろうかとも思ったが、すでに目的地は目前まで迫っていた。ここまで来ておいて引き返すのも馬鹿馬鹿しい。
俺は腹を決めると、アーダムの家目指して一直線に足を進めた。
ハサンの家から見かけた煙はまだ昇っていた。が、それは家の中で焚いているものではなかった。どうやら裏庭で火を熾しているらしい。
俺は木を避け、小屋の裏手に回り込む。
ちょっとした庭のように整えられた土の間に、アーダムはいた。昨晩見た険しい顔つきのままで、右手に鉈を持ち、そして左腕では何か小さなものを抱えている。
彼は土で作られた竃の前に立っていた。竃の口は開いており、そこには盛んに煙を吐いて炎を上げる薪がくべられていた。アーダムはその光景をじっと見つめていて、俺が来たことにも気付かない様子だった。
息を詰めて見守ることしばらく。やがて、石像のように立ち尽くしていたアーダムが動いた。
小さくため息をつくように肩を落とし、しゃがみ込む。そして、抱えていたものを地面に下ろした。ちらりと見えたそれは、小さな楽器だった。
それからアーダムは、右手に持っていた鉈を頭上高く振り上げ――
「えっ!?」
思わずあげてしまった俺の声に、アーダムの動きが止まる。
鉈を振り上げた格好のまま、声のした方向を見、俺の存在に気付く。
互いの目が合い、俺は焦る。が、先に目を逸らしたのはアーダムの方だった。慌てたように立ち上がると、鉈を持った手をだらりと下げ、悔しそうな表情で顔を背けた。
「何の用ですか」
食いしばった歯の奥から搾り出したような声だった。
「いや、別に……特に用事があってきたわけじゃないんだけど……」
じゃぁ何なのだ、とアーダムは声には出さなかったが、体全体で語っていた。そして、早くここから立ち去って欲しそうにもしている。
俺はただの散歩だとも、気になったから様子を見に来たのだとも言わずに、代わりにアーダムの足元にあるものを指差し、たずねた。
「それ、燃やしちまうのかい?」
アーダムはやはり俺には目もくれず、僅かに頷いた。
「どうして?」
「あなたには関係ないことです」
取り付くしまもないといった
俺は口を噤むと、竈の火へと目を移した。
放り込まれているものは、薪や木屑などではなかった。アーダムがたった今壊そうとしてやめた楽器と同じものだった。
鉈で真ん中で真っ二つに折られた弓と、楽器であったものとが、赤々と燃える炎に包まれて煙をあげている。
そうして暫くの間、俺はアーダムと共に、小さな木屑が音をたててはじけるのを聞いていた。
その間、アーダムは鉈を持つ手に力をこめたり、緩めたりを何度も繰り返していた。側に居る俺が気になって仕方がないのか、それとも他に理由があるのか。
「なぁ、アーダム」
「何ですか」
馴れ馴れしく呼ぶなとでも言いたげな声色に苦笑しつつも、俺は再度足元に転がっているものを指差して言った。
「よかったら、それ、俺にくれないかな」
俺の言葉がよほど意外だったらしい。
アーダムは、虚を衝かれて無防備となった顔を俺へと向けた。
昨夜は逆光だったからはっきりとは見えなかったが、こうして明るい日の光の下で見る彼の顔は、すっきりと整った顔立ちをしていた。
はじめて真っ向から対面した瞳はアーモンドの色をしていて、髪と同じ豊かな黒い睫毛で縁取られている。
しかし、内面に抱えている葛藤のせいか、全体は暗く翳っていた。年老いて皺だらけのハサンの方が、よほど生気に溢れ、溌剌としている。
「だって、要らないんだろ?」
鉈を指してやると、彼は今更のようにぎくりとし、それを後ろ手に隠した。
アーダムは、突然の俺の提案に戸惑っているようだった。しかし、反射的に拒絶を返すまででもなかった。
何度も足元の楽器と、すでに黒い炭へと変わりつつある火中のそれとを見比べた末、
「……お好きなように」
一言、そう言うと諦めたように項垂れ、また俺に背を向けた。
「ありがとう」
俺は礼を述べ、地面に転がっていた楽器を手に取った。
落とさないようにしっかりと抱えて、来た道を引き返す。
途中、アーダムがどうしているか気になり振り返ってみが、彼は相変わらず煙をあげ続ける火に向かい、俺の方など見向きもしなかった。
広い草原を背景に、一人立ち尽くす背中はとても細く、頼りなく見えた。
日が沈む前に、俺は宿へ戻った。
厨房では、マーリカと手伝いの女達が集まって、夕食の支度をはじめたらしい。邪魔をするのも何だと思ったので、そのまま黙って奥の階段を上り、借りている部屋へと入る。
こんなものを持ち帰ったのだから、ニューランにはさぞかしうるさく突っ込まれるだろうと覚悟していたのだが、予想に反してその姿はなく、部屋も静かだった。
少し拍子抜けもしたが、それならそれで、静かに考えることができる。俺はベッド縁に腰を下ろすと、アーダムからもらった楽器を改めてよく見てみた。
これは、ゆうべナジが話していたラバーブという名の楽器だろう。
弦は三本張られており、そのうちの一本を恐る恐る指で弾いてみると、ぽろんと小さく、予想に違わぬ素朴な音がこぼれた。
さて、これはどうやって弾けばいいのだろう。俺はあれこれと試行錯誤した末、まず胡坐をかく姿勢で座り、楽器の胴体から下に伸びる脚を地面に置いて、それから弦に弓を当てて弾くのが正解だと理解した。
しかし、俺にはこの楽器を弾くことはできなかった。
一応、音は出せるのだ。耳障りで、イガイガとした聞くに堪えない音ならば。
似たような構造の楽器は見たことがあるから、暫くいろいろと試してみたのだが、結局どんなに頑張っても、良い音色を引き出すことはできなかった。
鳴らすのを諦めた俺は、ベッド縁に腰掛け直し、楽器を仔細に眺める。
丁寧に削り出して加工した丸い木製の本体、その胴体部分には、何かしらの動物の革が張られていた。
そこから長く伸びる首の先には、三本の弦がそれぞれの
首の表側、指を置いて弦を押さえる場所には、長いこと使われていた品である証拠が残っていた。馬の尻尾の毛を束ねて張った弓にも、誰かの手に馴染んでいたであろう艶と、その感触が残っている。
胴体の周囲は、これまた丁寧に施された装飾で縁取られていた。幾何学模様と蔓草が絡むような意匠が連続しているのを目で追っていると、
「ん?」
思わず声が出た。
装飾の中に、点々と光る小さな石が嵌め込んである――見間違えるはずがない。天星石の結晶だ。
俺は先ほどハサンから貰った結晶をポケットから取り出し、指に挟んだ。そして、慎重に力を加える。
結晶の中心が仄かに光りはじめたところで、ラバーブに近づける。すると、小さな石たちは呼応するように瞬きはじめた。
結晶には幾つか面白い特性があるといったが、その一つがこれだ。
一定の圧力、あるいは振動を与えると、結晶は内部で発光する。その際、似た構造を持つものもなぜか共振を起こし、同じように発光するのだ。
ただし、結晶自体が脆いこともあって、あまり強い光や信号を発することはできない。現に、俺の指の間で光っていたそれも、徐々に輝きを失い、パキンと音を立てて砕けて散った。
途端、ラバーブを彩る光も消え失せる。
「しまった――」
慌てても、もう遅い。俺は、砕けた結晶とラバーブとを交互に見つめた。
これらの結晶はおそらく、村の男達が山から持ち帰った屑石を利用しているのだろう。
山には、どうやら採掘だけでなく、何らかの精製技術を備えた設備があるようだ。そこで作られたものを、彼らは売り、そして限られた流通手段を使って各地へと届けられるのだ。
結晶は純度が高ければ強度も上がる。しかし、それはそれで高価な値がつくものだから、こっそり持ち帰るわけにもいかない。一方、屑石ならば誰も見向きもしないし、知らない者の目には単なる硝子にしか見えない。簡単に、好きなだけ手に入る。
とはいえ、そのままでは使えないはずだから、何か手を加えているのだろう。だがそうだとすると、ますますケマル氏の腕に感心せざるを得ない。
昨日の受信機もそうだったが、大した設備も持たないこんな辺鄙な場所で、扱いの難しい結晶をこうもやすやすと使いこなすなんて。彼は一体どこで、どうやってその知識と技術を習得したのだろう?
そして、もうひとつ。俺の中で、新たな疑問が頭をもたげはじめる。
この楽器の装飾に、なぜ天星石が使われているのだろう?
これを作った人物は、単なる装飾として結晶を利用したのか、それとも振動を与えると光ることを理解した上で使ったのだろうか。だとしたら、一体何のために?
そしてそれは、ニューランが求めている古唄とも密接な関係あるのだろうか。
しかし、一体どこをどうしたらそれらが繋がるのか。
命名の元となった小さな星状の欠片を前に、考えれば考えるほど謎が深くなる。そうやってじっと考え込んでいると、突然、何の前触れもなく部屋の扉が勢い良く開いた。
「うわ、びっくりした。灯りもつけないで何してんのさ?」
ニューランだ。
日中外を出歩く際には必ず被っているフードを脱ぎながら、側へとやってくる。
「それはこっちの台詞だ。ノックくらいしろ」
いきなり思考を中断された上に、心臓が口から飛び出るほど驚かされたのだから。しかし、おかげでいつの間にか辺りが薄暗くなっていることに気がついた。
俺は手を伸ばしてベッドサイドのランタンをつけると同時に、ラバーブを脇へとどかし、開けっ放しだった窓を閉めるために立ち上がる。
「そういえば、ナジはどうした。一緒じゃなかったのか?」
俺が声をかけると、
「あの子なら下にいるよ。お母さんのお手伝いだってさ。偉いよね、片手なのに」
さらりと言う口調に悪意はない。もとより、こいつにそういった感情があるはずもないのだが。
「そうそう、それでね、ナジったらすごいんだよ。あの子、一度聞いたものは絶対忘れないんだ」
「……うん? つまり?」
「曲や歌を、一度で覚えちゃうんだよ。それも、正確に」
ニューランの話が唐突なのは、今に始まったことではない。その度に、俺は彼の言わんとしている内容の糸口を見つけるのに、しばし時間を要さなければならない。が、このときは、すぐに理解することができた。
「じゃあ、聞けたんだな。ウタについて」
「いや、それはまだなんだ」
盛大な肩透かしを食らって不服そうな顔をした俺に、ニューランが苦笑を返す。
「あの子は楽器を弾いたことがない――手のせいでね」
「なるほど……」
「でも、音は覚えているって言ってた。だから、後でもうちょっと詳しく聞くつもりなんだけど」
と、ここまで言って、ニューランは脱いだフードを放り投げた。
「それより! それ!」
ベッド上に横たわるラバーブに、かぶりつかんばかりの勢いで顔を寄せる。
「これ、ラバーブだよね? どうしたの?」
ニューランはもともと大きな目を一層大きく見開いて、子供のように顔を輝かせている。
「どうって」
答えようとして、俺は一瞬口篭った。アーダムのあの険しい表情が脳裏をよぎったからだ。
「……拾った」
咄嗟に口をついて出た嘘に、ニューランが怪訝な顔をする。
「どこで?」
「村の外……かな?」
「ふぅん?」
ニューランは首を傾げるも、それ以上深くは追求してこなかった。代わりに、目を輝かせ、俺にたずねる。
「触ってもいい?」
すでに俺の返事を待たずして手に取っているのだが、その辺はいちいち突っ込んでも仕方ない。
俺が頷いてやると、ニューランは早速ラバーブを抱え、自分にあてがわれたベッドの上に座り直した。
おもちゃを与えられた子供のような顔で、嬉々として弓を当てながら、ペグをいじって音の調子を探る。
ゆうべの食事の席でハムザが「学者みたいなものか」と言ったとき、俺は「そんなようなモノだ」と肯定しておいたが、正確なところ、こいつの生業を一言で説明するのはとても難しい。
要するに、ニューランは俺の知っている言葉で表現するところの、吟遊詩人だとか音楽家だとか、民俗学者だとかいうものを全部かき集めて、それらをごったに合わせたモノなのだ。そしてそれは、ニューランが求める古唄も同じく、とても一言では表現しきれない代物だった。
古唄とは、平たく言ってしまえば、読んで字のごとく昔からその土地や人々の間に伝わる伝統的な楽曲の事を指す。ただし、単なる楽曲などではない。
いつだったか無知な俺にもわかるようにと、ニューランが説明してくれたときの言葉を借りて表現すると、それは言葉による歌でもあり、音楽のみで綴られた曲でもあり、音という媒体を使った、太古からのメッセージらしい。
いつ頃からかはっきりしていない起源をもつこれは、長い時を経る間に変容し、薄れ、大半は消えてしまったという。
だが、確かにそれは、古唄という形で世界の各地に残っていた。
それらは必ずしも音楽のような媒体として残っているわけではなく、またそうであったとしても俺にはどれを聞いても同じにしか感じられないのだが、不思議なことにニューランは彼なりの嗅覚というものが備わっていて、どこでどう嗅ぎ付けてくるのか、その土地や民族ごとの色に染まりきったものの中から、それらの気配を掘り当てる才能があった。
そして彼は、この欠けてしまったそれらを辿り、どうにかして元の形を取り戻したいと考えているのだった。
雲を掴むような途方もない内容だし、俺にはいまだに理解できていないのだが、ニューラン自身は至って真面目で、いつでも真剣そのものだった。
「うん、いい響きだ。丁寧に作ってあるし、長いこと演奏されて、本体に音が馴染んでいる」
目を閉じ、音に集中しているニューランの姿は、完全に楽器を扱うことに慣れた者のそれだ。
弓も、俺が先ほど試してみたときの持ち方とは違っている。どうやら竿を逆手で持った上で、更に薬指と小指で毛を押さえて張りを持たせるのが正しいスタイルのようだ。
道理で半端な音しか出なかったわけだ、と俺が感心している間にも、ニューランは黙々とペグを回して調律を続ける。
「ニュー、お前」
「うん?」
「楽器、弾けたんだな」
音にやたらうるさい奴だとは思っていたが、実際にこうして彼が楽器を手にしているのを見るのは初めてだったので、つい本音がもれてしまった。
「そりゃあ弾けるよ。最初に言わなかったっけ?」
「いや、覚えてねーな」
俺の返事に、ニューランは苦笑を返す。が、それ以上は食いついてこなかった。
いつもなら軽口の応酬がはじまっているところだが、今はラバーブの方に集中したかったらしい。そうこうしているうちに、鈍っていた音が、はっきりと変化してきたのが俺の耳にもわかった。
「いいね、弦も金属じゃない。やっぱり羊の腸かな?」
ほとんど独り言のような呟きを口にしながら、調和の一瞬を逃さないよう耳を澄ますニューランの顔は、いつの間にか年相応のものになっていた。
普段の言動と見た目のせいで、俺と同じくらいか、それよりも下に見られがちだが、実際のところ、ニューランは俺よりもずっと年上だ。具体的な年齢を聞いたことはないし、本人もそういった態度をとられるのを嫌がるので、つい忘れがちになってしまうが、どうやら本当はハサンに近い年齢らしい。
もちろん、俺も例外ではない。外見だけならアリーの方が年上に見えるだろうが、実際にはあまり変わらないか、彼の方がもう少し年下なのは間違いない。
それは、
俺もニューランも、外なんかに出でこなければ、きっとこの先の持てる時間を延長できただろう。ニューランに至っては、よく観察してみれば、外界の刺激による劣化現象が顕著に現れている。
鼻頭や頬に浮いてしまった幾つものそばかすやしみを見つめる俺の前で、ニューランが動いた。
「――よし」
きちんと座りなおし、ラバーブの長い首に左手を添える。
右手の弓を弦にあてがい、そして。
「どう?」
硬直している俺をみて、いたずらっぽくニューランが笑う。
俺は答えようとして口を開いた。が、言葉は出なかった。
たった一音――否、三本の弦から成る和音は、ほんの一瞬にすぎなかったが、確かに俺の中を駆け抜けていった。脳の奥底を直接撫で上げられたような、そんな感触だ。ただし、決して嫌な類の音ではなかった。
音というものは、突き詰めれば振動にすぎない。
人によって聞き取れる音の幅はあれど、基本的には耳中の鼓膜に伝わった振動が、奥にある器官を通じて脳に達し、脳がその信号を処理をして音だと認識する。それは表面にある大きな脳ではなく、もうひとつ、影に隠れるように頭蓋に収まっている小さい脳の方での出来事だ。
人と獣と分化する以前から、長い年月をかけてゆっくり進化をしてきた爬虫類の脳ともよばれるそれは、人の五感のうちの最も基本的な部分を司るという。
曰く、体を動かすこと、ものを見ること、そして、音を聞くこと――ニューランが奏でた音は、俺の内にあるその器官を直に触れていったのだ。
時間にしてみればほんの数秒だった。しかし、その一瞬の感触が、いつまでも後をひいていた。 琴線に触れるというのは、まさにこのことを言うのだろう。
そして、気付く。
ラバーブの胴に埋め込まれた結晶も余韻に浸るようにキラキラと瞬いていることに。
天星石の結晶が、ニューランの鳴らした音に共鳴しているのだ。
(そうか――)
明滅する灯を前に、唐突に理解する。これは、ニューランの持っているテレプシコーラと同じ原理だと。
テレプシコーラは、結晶を記録媒体に使ったものだ。ニューランが持っているものは集音機能に特化しているが、レンズをつければいずれ映像も刻めるようになるかもしれない。
それはともかく、そうして記録したものをただそれだけに留めないのが、テレプシコーラがテレプシコーラたる所以でもあった。
ニューランが奏でる弦の振動は、ラバーブ本体の共鳴板を伝わって側面の天星石の結晶に到達する。そこで増幅された音は空気中に放出され、そして。
心地よいとか悪いとか、そういったものすら越えていた。もし人を魅了する魔法が存在するのなら、俺は間違いなくそれにかけられた状態だっただろう。
ラバーブの弦はとうに鳴り止んでいるというのに、音は飽和状態となり、室内に満ちたままだった。
俺の耳奥でも、先ほどの感触がまだ残っていた。
がつんと殴られたような衝撃まではいかなくとも、確かにそれは、俺の頭の奥を小さくノックしていったのだ。
一滴の雫が水面に波紋を広げるように、脳髄に残された微かな余韻が神経を巡って、四肢の先にまで浸透してゆくようで――
だが、調和は不意に破られた。
小さな物音に、はっと我にかえる。
ナジだ。
開け放したままの戸口に、目を見開く少年が立っていた。その後ろには、マーリカもいる。
先に動いたのはナジだった。
「それ! アーダムの!」
ナジは転がるように部屋へと飛び込んで来て、ニューランにしがみつく。
驚きに立ちすくむマーリカも、胸元で強く拳を握り締めてながら、大きく見開いた目でニューランの持つラバーブを凝視している。
今にも倒れそうなほどに青ざめている彼女の姿に、俺は慌てて立ち上がった。しかし、彼女は首を振ってそれを押し止めた。
「すみません、取り乱して」
何でもないと装うにはあまりに無理があるが、マーリカはいつものように微笑もうと努力をしていた。
「お食事の支度ができたのでお呼びしようと……すみません、不躾に立ち聞きするような真似をして」
「いえ、そんな」
俺とニューランは困惑しながら顔を見合わせるしかない。が、やがて、マーリカの方が意を決したように口を開いた。
「あの……よければ、それを手に入れた
強い視線に気付いて目を向ければ、ニューランにしがみついているナジが、今にも泣きだしそうな顔でこちらを見ている。
その眼差しに、俺は頷くしかなかった。
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