第一章『覚醒』‐目覚めの日‐

第1話★逃亡、女子トイレ


「――おい、急に気色悪いな。というか、聞いるのか?」


 その声に、ふと我に返る。誰かが私を呼んでいるようだ。


 寝ている最中に突然叩き起こされたときに近い意識のまま、机の上に突っ伏していた重たい頭を上げると、目の前には誰かが座っていた。


 そして知らない誰かのひんやりとした手を握っていたらしく、その相手は汚いものを触るようにして手を払った。


「いきなり俺の手をつかむな。まぁそれよりも、話している最中に寝るとは良い度胸だ。眠気覚ましに続きを話してやろう。これこそ魅惑のラインで、これは然るべき評価に値する――」


 目の前にいる青年は一方的に何かの話しをしているが、今はちょっとそれどころではないので、静かにしてもらえないだろうか。


 寝起きのような感覚が抜けず、ボーっとする頭を何とか動かそうとするも、一瞬でその気が霧散してしまう。


 更には、目の前を覆うように薄い霧のようなものがぼんやりと掛かっている。それを払えるかと思い、素早く瞬きをした。


「まぁ、無理はないか。お前みたいな気取った奴には、この魅力に気づくわけがない。正当な評価基準を持っている――」


 私の様子など気にもせず、やけに饒舌な青年は未だに何かの話を続けている。よくもまぁ話が続くものだと少し引いてしまう。


 未だにぼんやりとした視界でもあるし、幾度となく瞬きしていると、目の前に座っている多分声からして若い青年は、さすがに怪訝そうな視線を向けてきた。


「おい? ゴミに目が入ったか? おっと、こいつはついうっかりだ。これは昨日、俺が言った高等な部類に入る程の冗談だ。もちろん、センスしかないと自負しているが――」

 

 と、私の様子から話題をすぐに切り替え、ゴミが目に入った話を始めたでは無いか。どんな話だよと思っていると、視界が晴れ始めて来た。


 青年の顔がハッキリと両目に移った途端、思わず目を見開いてしまった。


 まず目を引きつけたのが、黄金色に輝く頭髪だ。男子にしては少し長めの印象を受けるが、丁寧に纏められ清潔なイメージを受ける。


 また、クールという言葉が似合う整った顔立ちも相まって、かっこいいと思える顔立ちだ。何とも羨ましい。


 そして、そこで違和感に気がついた。


 目の前の青年は、明らかに日本人の顔立ちをしていない。いや、それよりも、目の前にいる青年は、全く記憶にない見も知らずの誰かだった。


 その事実に気が付くと、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。その心臓の音を聞いてハッとなり、自分の身なりを確認した。

 

 あの時のいやにべっとりとしたシャツ姿ではなく、少し色あせた黒色の制服を身にまとっていた。


 更に、机の上には教科書の様なモノも置いてあり、徐々に脳内から警戒信号が鳴り始める。


 ――ここはどこだ? 学校? しかし、学校だとしても成人していた……はずだ。


 突如、心の中を恐怖が支配する。早く逃げなければならない。早く逃げるんだと急き立てている。


 真っ白になった脳みそは逃亡を推奨し、すぐさまその行動に移す。


 座っていた椅子が音を立てるくらい勢いよく立ち上がった。


 すると、その音に目の前の青年を始め、回りに座っていた制服姿の生徒達が一斉に振り向き、その視線が更に恐怖心を煽いだ。


「おい、どうし――」


 た、と青年が言い切る前に、全力疾走で脱兎のごとく教室の出口へと走っていた。


「な、なんだ、ここはどこだ!?」


 堰を切ったかのように焦りが溢れ、そう叫びながら勢いよく教室から飛び出した。


 廊下に飛び出すと、奇異の目を複数の学生が向けてきた。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。逃げなければ。


 しかし、何から? ――いや、考えるのは後だ。今はとにかく逃げなければならない。


 少し走ると目の前に階段が飛び込んできた。すぐさま階段へと走り、そのまま一気に駆け下りる。


 しばらく駆け下りると、続きがない階にたどり着いた。


 続きが無いということは、一階に辿りついた様だ。なら、外へと続く場所があるはずだ。その勢いのまま、再び廊下へと飛び出す。


 すると、目の前にトイレらしきものが飛び込んでくる。


 それを見た瞬間、そこで明らかに他人の姿になっている自分の姿を確認すべきではないか? と今更ながら思い、足を止めてしまった。


 今は一刻も早く逃げなければならないが、本当に別人になっている可能性の方に興味が傾いてしまい、トイレに慌てて駆け込んだ。


 荒い息を整えるよう、まずは深呼吸だ。しまった、ここはトイレだ。異臭が……異臭がしない? 


 更に深く息を吸い込むと、鼻腔をくすぐるのは芳香剤の良い香りで、どことなく清潔感が伝わってくる。


 その香りのおかげか、徐々に冷静さを取り戻していく。良い香りって大事だと、逃避気味に考えたおかげで更に余裕が生まれ始めた。


 さて、鏡はすぐそこにある。冷静だった気持ちはすぐに緊張へと変わる。


 誰だか知らない人達。どこだか知らない、学校の様な場所。そして、明らかに自分では無い体。


 この瞬間、全ての不安要素が脳内を駆け巡る。思わずよろけ、鏡台の前に手を置く。


 もしかしたら、悪い夢かもしれない。そう強く思い込むと、不安な気持ちは薄まり、再び意識が好奇心へと変わる。


「――よし! 見るぞ、見ちゃうぞ!」


 声からして、やはり自分のものではない。トイレに人がいたら申し訳ないくらい大きな声で自分を鼓舞し、鏡の前に立った。

 

 そして、

 

「……だ、だれだ、誰だよ」


 その姿を見て、かすれ声しかでなかった。


 案の定、そこに映っていたのは自分の知っている姿……では無かった。


 鏡に映っていたのは、薄い茜色をした髪色が特徴的な少年で、不安そうな表情は中性的な顔立ちをより幼いモノにしている。


 標準的な体よりはだいぶ痩せ気味で、十歳くらいは若そうな少年だ。


「……あぁ、そうか、これは夢だ夢。――いててっ!?」


 そう言いながら頬をつねると痛みが走る。


 痛みが走るということは、これは、夢じゃなくて現実? じゃあ、この鏡に映る少年はいったい誰だ? 私? いや、というかここはどこだ?


 とりとめのない疑問が次々に浮かび上がって――


「先輩、あの……。ここ、女子トイレなんですけど……? い、一体なにしてるんですか?」

「――はっ? じょ、女子トイレ?」


 その声に驚き、思わず声のした方へ体を向ける。


 目の前には、困惑した表情で私を見つめる女子生徒。

 

 そして、慌てて振り向いた先には個室しかなく、幸いすべて空いていたが、生まれてこの方、女子トイレに入ったことなど一度もなく、なんという幸運! と、現実逃避気味に舞い上がりかけた。


 しかし、再び視線を戻すと、女子生徒は今にも叫び出す一歩手前だったため、一瞬にして現実に戻される。


「い、いや、なんていうか……。そう! ここ、初めてだったからさ! ちょっとトイレ間違えちゃったかな! おっといれ……おっ、トイレ! っていう――」


 そんな言い訳は功をなす訳もなく、女子生徒は「キャアアアアァァ――!!」と、耳がつんざく様な悲鳴をあげた。


 その叫び声を聞きながら、呆然と何も理解が出来ずに、ただ立ち尽くす事しか出来な――


「おい」

「い?」


 やけに冷めた一言に振り返ると、女子生徒の後ろに、先ほどの男子生徒が立っていた。


「逃げるぞ……おっと、悪いな」


 最後は、女子生徒に向け謝罪の言葉を残すと、考える暇を与えないまま、無理やり腕を引っ張られ脱兎のごとく逃げ出した。




                 ☆★☆★




「はぁ、はぁ……あ、ありが、とうね」


 両手を膝にあてて、肩で息をしながら答えた。


 逃げ込んできた場所は謎の無機質な四角い箱が三つとベンチがあり、休憩所といった感じの場所だ。


 また、その近くには桜並木が広がっていて、そこには満開の薄紅色の花が咲いている。


 その色合いは何ともいえない美しさを秘めており、思わず数秒見つめてしまう。そして、その目線のまま空を見上げた。


 空には大小の星が二つ浮かんでおり、一つは紫色、もう一つは赤色に輝いていた。


 その光景が異世界であることを証明しており、呆然と空を眺めてしまう。


「――いや、なに。急に飛び出すもんだから慌てて追いかけると、女子トイレから悲鳴が聞こえてな? まさかと思って覗いたら案の定だ。……ったく。入学式の前だってのに、世話をかけさせるな」


 その行動は、謎の四角い箱に手を当てている青年の声に遮られた。


 青年は、パッと見気怠そうな印象を受ける。しかし、少し見方を変えると、どこか達観した印象も受ける。やはり目を引くのは、黄金色の髪の毛だ。


 その青年は、先ほどかなりのスピードで走っていたのにも関わらず、息を一つも乱さないでいる。

 

 すると、謎の四角い箱が青白く光り、気が付くと青年の手に飲み物の容器のようなものが握られていた。


「で、どうしたんだ? 急に飛び出して?」


 その容器に口をあてながら、気怠そうな態度から一変、鋭い瞳で睨まれ背筋がゾクッとする。


「いや、その……」

 

 思わず口ごもってしまった。その態度に、嘘など通用しないだろう。

 

 なんて言えばいいか迷っていると、青年は何かに納得したのか、やれやれと言った感じで口を開いた。

 

「まさか、あの話を聞いて……。いや、それはいいとしてだな。まさかとは思うが、イズミちゃんからの、追試連絡でもきたのか?」

「そ、そうそう。……へ? ま、まほう? なんだって?」


 素っ頓狂な声で、まさにオウム返しといった感じで、目をパチクリしながら聞き返してしまった。


 あの話とは何なのか気になるところだが、それよりも重要なことをこの青年は言わなかったか?


「だから。というか、俺の見た感じだとギリギリクリアだったような気がしたんだが、あれは気のせいだったのか?」

「い、いや、そりゃまぁ、なんとかなったけど……」

「そうか? ならいいんだけどな」


 その青年の鋭い視線から目を離しながらしどろみどろ答える。何を言っているのか、これっぽっちも理解できなかった。

 

 『まほう』というのは『魔法』のことか? そんなものが存在するわけ――、いや案外存在するのかもしれない。


 ふぅ、と深呼吸をして一旦心を落ち着かせる。


 私は今、知らない場所で、知らない誰かと、知らない体で喋っている。

 

 それが異世界で、魔法の一つや二つあっても不思議じゃないだろう。というか、そうじゃなかったらこれはいったい何なのだろうか。


 そんな様子を青年は不審そうに見守っていたが、ふと視線を逸らした。


「まぁ、いいさ。お前ここんとこ、様子変だったしな。……さて、入学式に行くぞ。早く行かないと、後で監督生に怒られる」


 そう青年は言ったあと、ぶつぶつと何かを言った。


 上手く聞き取れず聞き直そうと口を開く前に、何かに気づいた。


 突然、彼の体から何かが手の中心に向け流れ、外へと放出された。


 そして、持っていた飲み物の容器が忽然と消えていた。


「――っへ?」

 

 間の抜けた声が出て、その後思わず息を飲み込んだ。


「おいおい、まさか魔法を忘れたって訳じゃないよな?」


 やれやれといった感じの呆れ声で言われたが、幸いなのかそれ以上の言及はなかった。


 見間違えるわけがない。あれはだ。


 お伽噺の中だけの産物だとは思っていたが、これが現実だということは目の前にいる青年が今まさに証明した。


 現に、容器はどこかに消え、それが手品とかそういう類いのものでないのは、それを見ていた自分がよくわかっている。


 やはり、魔法がお伽噺の中での話ではなく、実在する世界にいる。


 そして、その世界で生きていた青年と入れ替わったとしていたら、今のこの状況になるのではないか。


 しかし、なぜ自分が……、という事だ。


 確かに魔法が使えたら便利だとかかっこいいとか人並みには思っていた。


 しかし、そんな安っぽい思いで、こんなことが起こるはずもない。魔法が使えたらな、なんてことは、何億という人が思っていることだろう。


 ではなぜ魔法世界に来てしまったのか。誰かの差し金かそれとも単なる偶然か。


 とにかくわからない。わからないことだらけで、立ちくらみがする。


 いったいこれからどうなってしまうのだろう。止めどなく不安が押し寄せてきた。


「おい、何してんだ、いくぞ」


 その思考は、相変わらず気怠そうな感じの青年に遮られた。


 そして、その後姿を見て妙案を思い付く。


 目の前の青年から、いろいろとこの世界の情報を聞き出すのが一番ではないだろうか。


 どうやら、入れ替わったこの体とは面識があるようだし、何より彼の態度は言い換えれば常に冷静沈着であり、何だかいろんなことに対する関心が薄いと、失礼ながらも感じていた。


 もしかしたら真実を話しても動揺などはせず、真摯に協力してくれるかもしれない。


 希望的観測ではあったが、何もしないよりはいいだろう。早くこの混乱から抜け出したい思いもあった。


「――よしっ!」


 そう気合を入れると、青年に真実を告げる一歩を踏み出した。

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