第2話

 アリルとラヴリドが〈聖域〉に戻ったのは、予定より少し遅れてのことだった。

 当然、エナはあの部屋に匿っている。

 すぐに逃げ出すことも考えたが、検討の結果、却下した。

 アリルもエナも、〈右盾〉の動向を掴んでおきたかったのだ。


 息の詰まる通路を抜けると、目の前が急に開ける。

 この辺りは他より天井が高い。空濠で囲われた小さな砦のようになっているのが〈聖域〉だ。

 空濠の底には塩が敷き詰められており、魔物の出現を防いでいる。


〈聖域〉は〈不朽回廊〉の中で唯一の人の暮らせる場所だ。

 そして、アリルの知る人間の社会とはこの〈聖域〉のことでしかない。


 入り口である跳ね橋には〈蒼き鷹〉の紋章が掲げられている。

 普段通りを装って紋章の下に差し掛かると、アリルはいつもと様子が違うことに気付いた。

 何がどうというわけではない。

 ただ、胸がざわめくような空気の張り詰め方をしていた。


「アリル、手前てめぇは無事だったか」とオルが声を掛けてくる。

〈右盾〉のバゾラ直属の傭兵で、元冒険者だという大柄な男だ。

 顔の下半分が髭に覆われており、いつも口に何かを含んでいる。

 身体は大きいが知恵の方は少し足りないというのがアリルの見立てだった。


「無事です。何かありましたか」


 努めて冷静に。普段通りを装う。

 大人と話すときは叮嚀な口調で。それは〈狗使い〉の処世術だ。

 相手の機嫌が悪い時は、言葉遣いが気に食わないというそれだけの理由で容赦なく打ち据えられることもある。

 真っ直ぐに目を見据えると、オルは視線を逸らした。


 オルはいつもより明らかに苛立っている。

 剣の柄に添えられたままの左手は落ち着きがなく、瞬きの回数も多い。

 まさかもうエナのことが伝わっているとは思わないが、用心に越したことはなかった。


「ラジンとガフの組が帰って来ねぇんだ」


 アリルは眉を顰めた。

 ラジンとガフはアリルと近い区画を担当している。

 何かあったのだろうか。

 二人はアリルより半日も前に聖域を発っているから、既に一日以上〈聖域〉に戻っていないということになる。

〈狗使い〉がそれほど長い時間ここに戻ってこないというのは、普通のことではない。


「犬も?」


 尋ねるアリルにオルが苦々しげに頷く。

 犬も、二人も帰っていない。理由は何だろうか。

 道に迷っているということは考えられない。名の挙がった二人は〈狗使い〉でも古株で、アリルの次に年長だ。経験豊富で、用心深さも備えている。

 いつも二人一組で行動し、これまでも様々な危機を乗り越えてきた優秀な〈狗使い〉だ。


 何かあったと考えるべきだろう。

 怪我をしているのか、あまり考えたくはないが、死んだか。

 生きてさえいれば、犬だけでも〈聖域〉に戻ってくるはずだ。


 若しくは、アリルと同じことを考えたのか。

 迷宮からの脱出が緩慢な自殺だと知っていても、挑戦する〈狗使い〉は後を絶たない。

 考えれば考えるほど、逃げ出したのではないかという疑いが首を擡げてくる。

 ここで野垂れ死ぬくらいならと、二人は考えたかもしれない。


 もしくは。

 エナの仲間たちの死体がちらりと脳裏を掠めた。

 あの六人がラジンとガフを“駆除”したということはないか。

 冒険者は〈狗使い〉を憎むものだ。見つけ次第、遊びのように殺す。

 有り得ることだろうか。小部屋に残してきたエナは、そんなことをするようには見えなかった。

 犬の背を撫で、アリルは不吉な考えを頭の隅に追いやる。


「俺はラジンたちには会いませんでした。ラヴリドも、異変には気が付かなかった」

「本当に何も見てねぇんだな?」


 念を押され、アリルは敢えて不機嫌そうな顔を作って見せた。

〈狗使い〉が犬の名前を出して何かを宣言するとき、そこに嘘はないということになっている。

 既にいない先輩たちが大人と付き合うために作った決まりの一つだ。


 嘘は、吐いていない。

 冒険者については何も聞かれていないのだから、嘘にはならないはずだ。

 アリルもラヴリドも、ラジンたちについては何も見ていないし聞いていないのだから。


「探しに行きます」


 今来た道を引き返そうとするアリルの肩を、オルが乱暴に掴んだ。


「莫迦かおめぇは! 近くに冒険者がいるかもしれねぇだ。守りを固めにゃならんことぐらい〈狗使い〉でも分かるだろ」


 オルのひどく慌てた口調ではっきりと分かった。

 図体の割に臆病なこの大人は、二人が“駆除”されたと思っている。

 冒険者が近くにいるのなら〈聖域〉の場所を突き止められてしまうかもしれない。

 そうなるとひどく面倒なことになる。


「そういう時には大人が守ってくれると信じています」


 言い返すと、オルの表情がますます険しくなった。

 聖域には三十人ほどの大人が詰めている。戦えるのはその内の二十人ほどだろうか。

 六人ごとの梯団パーティを組み、交代で地上と〈聖域〉を行き来している。


〈狗使い〉の監督は彼らの本当の仕事ではない。

〈蒼き鷹〉の財宝を守るため。そして、この〈聖域〉を守るため。

 法外な報酬で冒険者崩れを集めているのはそのためだ。


〈聖域〉が存在すること自体は冒険者にも広く知られているらしい。

 輸送隊が行き来しているのだから、当然のことだ。

 ただ、ここの場所を知っているのは今のところ関係者だけに限られている。


 知られれば、襲撃しようとする冒険者が現れるのは間違いない。

 それを一番恐れているのは〈右盾〉のバゾラだ。

 バゾラの意に背くことはオルにとってもあまり望ましい結果は招かない。


「小賢しいことを言うな! 〈狗使い〉は黙って言うことを聞いてりゃ良いんだ!」


 拳を振り上げるオルの目を、アリルは真っ直ぐに見つめ返す。

〈狗使い〉にとって、大人は敵だ。

 大人がいる限り〈狗使い〉は脱走できない。逃げ出したと悟られた瞬間、追手がかかる。

 情けも躊躇いもない。見つかり次第、殺される運命だ。

 かつて幾度となく脱走を試みた者はいたが、誰一人として成功しなかった。


 連れ戻され、見せしめに殺される。

 生きたまま帰ってこなかった〈狗使い〉も亡骸は必ず持ち帰られ、晒された。

 迷宮に生き、迷宮に死ぬ。死んでさえ二度と日の光を見ることはできない。

〈狗使い〉とはそういう生き物だった。


「じゃあ、哨戒に出ます。ついでに二人を探す。それなら良いでしょう?」


 一度何かを口にしかけ、オルの視線が天井を彷徨う。

 逡巡しているのだ。珍しいことだった。

 いつもなら〈右盾〉のバゾラからの命令が徹底している。大人が命令を躊躇うことはない。

 少し悩んでから、オルはアリルの提案を一蹴することに決めたようだ。


「〈狗使い〉は余計なことを考えなくていいんだ。さっさと飯を食って襲撃に備えろ」


 追い払うように手で払う。

 オルはもうアリルへの関心を無くしたらしい。

 気忙しく跳ね橋の向こうへ目を凝らしたり、悪態を吐いたりしている。

 横柄さはそのままだが、明らかに焦っているようにも見えた。


 ひょっとすると、思わぬ幸運が舞い込んできたかもしれない。

 口元に浮かびそうになる笑みを、アリルは必死に噛み殺した。


〈右盾〉のバゾラは、不在なのではないか。

 もしそうなら、オルの不自然な態度にも説明がつく。

 命令者がいない状態で思わぬ事態に直面し、大人たちが浮き足立っているとすれば。

 計画を実行するのは、今しかないのではないか。


 脱出は、不可能だとされている。

 これまでに成し遂げたものは一人としていないが、アリルは成功させるつもりだ。

 陽の光を見ずにここで死ぬつもりはない。

 少しでも生きて地上へ出る可能性を上げるためには、敵の情報が必要だ。

 エナを一人小部屋に残して〈聖域〉へ戻る危険を冒したのは、バゾラの動向を知るためだった。

 もしバゾラが何らかの理由で身動きが取れないのなら、微かに希望の光が灯ることになる。



 塀の内側には粗末な茅葺の小屋が乱雑に立ち並んでいた。

 規則性はない。ただそこに建てたかったから建てた、という以上の意味はないのだろう。

 一番大きな建物が、バゾラの屋敷だ。

 これだけはしっかりとした造りになっていて、板葺きの屋根が乗っている。


〈狗使い〉たちに小屋は与えられない。道端で雑魚寝し、起きれば仕事へ向かう。

 そして、いつかここでむくろを晒すことになる。


 雑然とした広場を歩きながら、アリルは小さく息を吐いた。

 足元に転がっている獣の骨を踏み砕く。漿精スライムのいない〈聖域〉は、壕の外よりも却って塵芥ごみが散らばり、異臭を放っている。


 息苦しさを感じるのは饐えた臭いのせいだけではない。壕に囲まれた〈聖域〉は、安全な場所であると同時にアリルにとっては牢獄だった。

 鳥籠から毎朝飛び立ちながら、またここへ帰ってこなければならない。

 ここで死にたくないという思いだけが、アリルを冷静にしている。



〈聖域〉の奥から、煮炊きする煙が立ち上っていた。


 井戸で水を補充し、炊事場に使っている一角に近付くと十人ほどのまだ幼い〈狗使い〉たちが飯を食っている。中にはアリルが罠の基礎を教えた〈狗使い〉もいた。

 座り込んで貪るように食っているのは配食の麦粥だ。

 アリルに気付くと、少年たちが顔を上げた。皆、痩せてあばらの骨が浮いている。

 食糧は乏しく、いつも足りていない。

 ぎょろりとした両の目だけが、ぎらぎらと輝いている。


 少年たちのアリルを見る目は冷たかった。

 嫉妬と憎悪の混じった表情だ。仲間というよりは敵に向ける視線に近い。

 年長者の方が飯を多く食えると思い込んでいるのだ。

 昔のアリルも、まったく同じ勘違いをしていた。そんなことがあるはずないことに気付けば、ここで生き抜く知恵も自然と身に付く。


 少年たちの刺すような視線を軽く受け流し、鍋の前で雑嚢から椀を取り出す。

 炊事場を差配する飯盛女たちは〈右盾〉のバゾラの情婦だ。

 情婦という言葉の意味を、アリルはまだ知らない。


「こんにちは」


 できる限り明るい声で挨拶をする。

 アリルの姿を見て、飯盛女はついと視線を逸らした。

 嫌われているわけではない。ただ、気味悪がられているだけだ。

 濃い赤色のアリルの瞳は、この辺りではあまり見かけないものだという。

 瞳の色は、魂の色。見慣れぬ色の瞳には常ならぬ魂でも宿っているというのだろうか。


 それでもアリルは飯盛女たちに愛想よく振舞う。

〈狗使い〉として長生きするためには、飯盛女に嫌われるべきではない。

 椀の中身も量も、全ては化粧臭いこの女たちの胸先三寸で決まるのだ。


 色々な出自の飯盛女がいるが、ほとんどは近くの村から攫われてきたのだという。

 夫や子と引き離され、連れてこられたと泣き暮らす女もいた。

 中には〈狗使い〉を自分の子のように思っている飯盛女もいる。


「アリルかい。あんたは帰ってきたんだね」

「……ラジンとガフのことですか」


 飯盛女は答えずに、杓子で麦粥の味を見た。

 掻き混ぜる鍋からは、いつもより芳醇な香りが漂っている。

 それでアリルは気が付いた。補給隊が来たのだ。

 迷宮の奥底で暮らすために必要な品の幾らかは、地上から補給隊が運んでくる。

 手に入るものはなるべく迷宮の中で調達するようにしているが、それでもどうにもならないものはかなりの数になった。


「今日の麦粥は美味いよ。牛酪バターまで入ってるんだ」

「本当ですか!」


 ここで口に入る調味料といえば、ほとんど塩だけだった。

 新年の祝いの日、ごく稀に牛酪や香辛料が使われることがあるがそれすらも数年に一度だ。


 麦粥の盛りが多い。

 いつもなら茸汁のような麦粥だが、今日は肉の切れっ端までしっかりと入っている。

 魔物の肉ではない。地上から運ばれてきた塩漬けの肉だ。

 肉であれば贅沢は言わないアリルだが、地上から運ばれてきた肉の方が好きだ。

 虫よりも牛の方が、滋養がある。


 普段なら嵩増しの茸しか見当たらないのが、今日は麦がしっかり入っていた。

 補給隊が来るまで食べ伸ばしていた古い麦を纏めて煮てしまうのだ。明日からはまた、湯のような粥に戻る。


「しっかり食べておきな。あの二人の分もね」

「はい」


 本当は、ラジンとガフに食べさせてやりたかったのではないか。

 大人から薄気味悪がられているアリルと違い、二人は妙に好かれるところがあった。


「それと、食べ終わったらおつかいを頼まれて欲しいんだ」

「おつかい、ですか?」

「ああ、〈震え〉の爺様のところにね」


 飯盛女は具のしっかり入った粥と、補給隊が持って来たと思しき小包をアリルに押し付ける。

〈震え〉のヨーマン。

〈聖域〉の奥に隠棲している老魔術師で、医師であり薬師でもある。

 大昔に負った傷が原因で、今でも小刻みに震えているのが仇名の由来だ。この世界には傷を癒す奇蹟のような魔術は流布していない。

 碩学であるヨーマン自身が言うのだから、間違いのないことだろう。

 そして、アリルにとっては掛け替えのない師だった。


 アリルも薄気味悪がられているが、老魔術師も似たようなものだ。

 本当は飯盛女が届けることになっているが、女たちは色々と言い訳を作って〈狗使い〉たちにその仕事を押し付けていた。


 今はなるべく早くエナの元に戻りたかったが、断れば疑われるかもしれない。

 それに、ここを去る前にもう一度だけ師にも会っておきたい。

 分かりましたと答えようとした矢先、跳ね橋の方が俄かに騒がしくなった。

 大声で叫んでいるのは、オルだ。


「脱走だ。ラジンとガフは脱走だ!」


 声を聴いた瞬間、アリルは椀を置き、包みを持ったまま走りはじめた。




 アリルは走った。

 先導するようなラヴリドの尾はいつもより楽しげに揺れている。

 駆け渡る大人たちに紛れ、跳ね橋を突破した。

 咎める者はいない。年嵩の〈狗使い〉も捜索に駆り出されるのが通例だからだ。

 共謀して逃げようという気概は、〈聖域〉での暮らしが石臼のように挽き潰していく。


「〈右盾〉の旦那が帰って来る前に蹴り付けるぞ!」


 脱走者の二人、ラジンとガフを追う大人たちの目は血走っていた。

 口々に罵声を吐きながら六人一組の梯団パーティを組む。危急の事態でも武器防具が整っているのはさすがというべきか。


 冒険者崩れの大人たちは、圧倒的に戦士が多かった。

 魔術師は第五層まで来れば疲弊しているし、〈聖域〉近くで戦うなら荷運びは要らない。

 押し込み強盗のように奇襲で戦うなら、戦士主体の梯団は強力だ。


 三組十八人が目指すのは〈聖域〉から最も近い上階への道、〈沼階段〉だ。

 常識的に考えれば、ラジンとガフが第四層へ逃げるために使うのはそこだろう。

 これまでの脱走者たちも皆、この道を使って地上を目指した。

 そして、全員が殺されるか連れ戻されるかした道でもある。


 手には包みを持ったままだ。しっかりとした重さがある包みの中身は分からない。

 あの場に置いてくれば良かった。しかし、手遅れだ。

 師匠には申し訳ないが、もう届けることはできない。


 この機に、脱出する。

 ラジンとガフの脱走がアリルにとって幸運なのか不運なのかは分からない。

 だが、今日という日を逃せば逃げる機会は永遠に失われるだろう。

 座して死を待つつもりは、犬の毛ほどもない。


 アリルは機を見て道を逸れた。

 大人たちとは違う方角へラヴリドと一緒に直走る。

 目指すは〈沼階段〉ではない。エナを匿っている小部屋だ。

 何度か無意味に角を曲がり、尾行されていないことを確認する。秘密の小部屋までは、何の苦もなく辿り着くことができた。


 壁を探りながら、エナは何をしているか考える。

 傷もまだ痛むだろうか、大人しく臥せっていてくれればいいのだが。下手に荷物を弄られていると、出発が遅くなってしまう。

 出立の準備は八割がた済んでいた。

 大急ぎで残りを詰め込んで、脱出する。その為には、エナにはじっとしておいて貰いたい。


「エナ!」


 塩を撒くのももどかしく中を覗き込む。

 薄ぼんやりとした明りの中で、エナは目を瞑って端座していた。

 美しい。

 短い黒髪と乳のように白い肌を持つ少女は、神々しさすら帯びている。

 不思議と静謐な空気が小部屋を満たしているのを、アリルは視た・・


 顔を上げ、エナが目を開く。

 その双眸はじっとアリルを見据えている。


「アリル、待っていたの。それで、表の状況は?」

「〈狗使い〉が二人逃げた。今が好機だ。なるべく早く出発したい」


 最低限の情報だけを伝えた。

〈聖域〉の状況を知らないエナにあまり詳しく話しても詮のないことだ。

 エナは何も訊かずに頷きを返した。その表情は決意に満ちている。


 好機か危機かと問われれば、アリルは半々と答えただろう。

 大人たちの警戒は厳しいが、浮足立ってもいる。裏を掻く自信がアリルにはあった。


「ここにはもう戻って来ないよ」

「分かった。じゃあすぐに出発しましょう」

「ただその前に、傷を一度見せて欲しい」


 足手纏いになるとは思わないが、傷の具合は把握しておきたい。

 何故か一瞬躊躇ってから、エナは毒を受けた腕をアリルに見せた。


「塞がってる?」

「……アリルの処置が、良かったんだと、思う」


 エナの言葉は歯切れが悪い。

 それにしても見事なのは傷痕だ。

 白い肌にはうっすらと線を引いたような跡が微かに残っているだけだ。

 これまでに何人もの〈狗使い〉の傷を見てきたが、毒を受ければ普通はもっと醜く爛れるものだ。


「……まるで魔術みたいだな」

「傷を治す魔術なんてあるはずないじゃない」


 笑い飛ばすエナに釣られて、アリルの頬も緩む。

 理由はどうあれ、傷が塞がっているのは二人の脱出行にとっては良いことだろう。


「じゃあ、さっそく準備をしよう。ここにはもう戻らないから」


 ラヴリドに骨を与えようとして、アリルはいつもの場所に目当ての物がないことに気付いた。


「準備なら済ませておいたよ」

「何だって?」


 余計なことを!

 思わず叫び出しそうになるのをアリルは懸命に堪えた。

 だが、慌てるアリルに、エナは悪びれる風もない。


 脱出計画は一年近く前から慎重に進めてきた。

 必要なものを一つの雑嚢に纏める。取捨選択と、収納の工夫。

 任務の途中に少しずつ進める準備は希望に胸躍らせるものだったが、苦労の結晶でもあった。

 試行錯誤を繰り返して何とか纏めた荷物を弄られてしまうと、準備には更に時間がかかる。


 珍しく顔を強張らせるアリルを、ラヴリドがくぅんと見上げた。

 背中を撫で、怒りを静める。今すべきことは怒鳴ることではなく、支度をやり直すことだ。

 どうするべきか考えているとエナが二つの雑嚢を部屋の隅から担ぎ出して来た。


「あ」とアリルは目を瞠る。

 雑嚢は、二つ。


「アリルの用意していた雑嚢に入っていたものはちゃんと全部入ったままだよ。そこに役に立ちそうなものを付け足しておいたから」


 予備の護符。

 金創用の傷薬。

 細縄の鉤梯子。

 真新しい火口箱と、油壺。


 エナが指折り数え上げる追加の品は、アリルがどうしても持っていくか置いていくかを悩んだ品々だった。地上からやって来た冒険者というだけあって、エナの選択に誤りはない。

 雑嚢の重さを確かめ、アリルは天井を仰いだ。


 一人より、二人。

 こんな当たり前のことに気付かない程、今までのアリルは追い詰められていた。

 脱出計画を一人で進めることばかりを考えて、二人分の荷物を持っていけることを完全に失念していたのだ。

 二人で荷物を運べば、生きて地上へ出られる希望は大きくなる。

 六人で挑むより可能性は低いが、それでも一人よりは随分良いはずだ。


 正直なところ、エナを信用していいのかアリルは未だに悩んでいる。

 油断なく生き抜いてきた〈狗使い〉としての習慣は、全てのものを疑うべきだとアリルに告げている。何処かで裏切られるかもしれない。


 同時に、人間としてのアリルはエナを信じたいと思っている。

 打算からではない。

 売られて来てからこれまでに真っ直ぐ視線を合わせてくれたのは、エナがはじめてだったのだ。

 師である〈震え〉のヨーマンすら、アリルの眼を見る時は視線を伏せていた。


 腹の底からおかしみがこみ上げてくる。


「……どうしたの? 急に笑い出して」


 驚いた風に尋ねるエナの肩をアリルは軽く叩いた。

 エナがびくりと肩を震わせる。


「必ず脱出しよう。二人で」


 その言葉に、ラヴリドがワンと一声吼える。


「二人と一匹で、ね」


 エナがラヴリドの首を揉むようにして撫でた。


 アリルはふと思いつき、革袋から椀に水を注いだ。

 額の高さにまで掲げ、九天讃頌の聖句を唱えてから一口を含む。

 エナに回すと躊躇うことなく同じく聖句を唱え、一口含んだ。

 少し考えてから、女戦士は椀の水をラヴリドにも舐めさせる。


 梯団パーティ決義。

 冒険者が背中を預け合う仲間と契る古くからの儀式だ。

 オル達が語っていたのを聞き真似で試しただけだったが、然程間違ってはいなかったらしい。

〈狗使い〉である自分と躊躇うことなく決義を結んでくれたエナにアリルは心の裡で感謝する。

 生き残るための欺瞞かもしれないが、今はこの決義が何よりも頼もしく感じられた。


 エナは何も言わない。

 アリルも何も言わない。

 ただ真っ直ぐに、互いの眼を見つめるだけだ。


 二人と一匹。

 護符の加護の半分でしかない小さな梯団が、ここに誕生した。


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