迷宮の子/蝉川夏哉

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第1話


〈狗使い〉


 迷宮の奥深くに棲まう犬を連れた卑人、奴婢の類いなり。

 多くは子供の姿をしており、東方辺境(〈愚帝の霊廟〉ナド)に見られる。

 出会った者を翻弄し、罠をく使う狡猾さを持つ。

 非力であるが徒党を組むことあり。ゆめゆめ侮るべからず。

 見つけ次第“駆除”するべし。

                        (東方冒険者之心得集 拾遺)






 目の前で機嫌よく揺れていた尾が不意に止まった。

 石造りの迷宮の通路を先に往く犬が、何かに気付いたのだ。

 次いで微かな剣戟の音と蛮声が聞こえると、アリルの小柄な身体が自然と動く。

 壁に背を預け、腰の短刀を抜いた。

 口の中が渇き、鼻の奥がツンと痛む。


 アリルは〈狗使い〉だ。

 売られてきた少年奴隷のことを、ここではそう呼ぶ。

 罠の修理や迷宮の清掃を仕込まれ、冒険者や魔物を見張るのが仕事だ。

 与えられる食い扶持はお世辞にも満足なものとは言えず、命の値段は安い。

 アリルは今年で十二になると聞かされていた。五年前に売られてきたが、同じ時期にここへ来た〈狗使い〉で生き残っている者は一人もいない。

 ここにいれば、いつか死ぬ。それは決して遠い未来の話ではないだろう。


 大丈夫、戦闘はまだ遠い。

 耳を澄ませ、アリルはそう判断した。

 石壁の通路はよく反響し、思わぬほど離れた場所の音を伝えてくる。

 傍らに伏せる犬のラヴリドにはまだ闘志が漲ってはいない。アリルを窺うように見上げてくる視線には、余裕の色すら感じられた。


 念の為、提燈ランタンに布を被せ、地面に置く。

 明りを持つことで相手に先に見つかる愚は避けたい。

 迷宮で先手を取られることは、死とほとんど同じ意味を持つからだ。

 提燈に詰めてある薄日苔からの明かりがなくなると、視界の多くをとっぷりとした闇が占める。

 光源は石壁に一定間隔で埋め込まれている燐光石のぼんやりと淡い光だけだ。


 姿勢を低くし、耳を澄ませた。

 闘争の音は近くなり、また遠くなりを繰り返している。

 戦っているのは、恐らく冒険者と魔物だ。いずれも手練だろう。


 この階層まで潜ってくる冒険者は、ひどく稀だ。

 比較的安全な〈順路〉の見つかっている第四層までとは違い、あまり探索が進んでいない。

 そもそも四層まででも〈順路〉から一歩外れると生きて帰ってくることはとても難しくなる。

 ここ〈愚帝の霊廟〉とは、そういう場所だ。

 挑むのは命知らずか、噂を信じて欲に目の眩んだ考えなしか。

 迷宮の深奥を目指してこの階まで来る本当の強者というのは、例外中の例外だ。


 背嚢から魔物除けの塩袋を取り出し、まじないを唱えながら辺りに撒く。

 掌に残った白い粒を舐めると、少し気力が湧いてきた。

 ラヴリドも舐めようとするのを撫でて宥める。犬に、塩は与えるべきではない。


 戦闘の音が、次第に小さくなる。

 冒険者と魔物。

 どちらが勝ったとしても、アリルにとっては望ましいことではない。


「……できたら共倒れになってくれれば良いんだけどな」


 呟くように言ってから、自嘲の笑みを口元に浮かべる。

 自分はいったい、誰の味方なのか。


 魔物に遭っても、死ぬ。

 冒険者に遭っても、死ぬ。

〈狗使い〉にできることは、出会わないことと、逃げること。

 鼻の利く犬を宛がわれているのは、それが理由だ。

 生き延びるためには相棒の鋭い感覚を信じるよりほかない。


 護身兼作業用の短刀と短弓しか与えられていない〈狗使い〉が百戦錬磨の冒険者を相手に戦いを挑むなど、単なる自殺に過ぎない。

 魔物と対峙するのも似たようなものだが、彼らは腹が膨れていれば見逃してくれることもある。


 むしろ、冒険者の方が危険度は大きい。

 冒険者にとって、アリルたち〈狗使い〉は魔物と似たようなものだ。

 迷宮に棲み、罠を張って冒険者を待ち構える敵。

 見つければ“駆除”されるのが運命だった。


 燐光に照らされた石壁で、無骨蜥蜴が器用に羽虫を食っている。


 目を閉じ、音に集中した。

 鼓動が速くなり、息が荒くなる。血の巡りが頬を熱くさせた。

 大丈夫。ここにいれば、安全だ。

 そう自分自身に言い聞かせながら、犬を撫でる。

 時間が妙にゆっくりと流れていた。


 一際大きな絶叫が響く。それから何も聞こえなくなった。

 耳に神経を集中させながらラヴリドを撫でる。彼が唸るようなら、逃げなければならない。

 勝ったのは冒険者だろうか。それとも魔物だろうか。


 確かめる必要はない。

 今すべきことは、安全を確保して逃げること。そして、報告することだ。

 あまり余計なことをしてはいけない。今は、特に。

〈狗使い〉たちを束ねている〈右盾〉のバゾラは冒険者崩れで勘の良いところがある。

“計画”に気付かれてはいけない。


 音のした方と反対に進みかけて、足を止める。

 戦いのことが妙に気になった。普段のアリルならありえないことだ。

 好奇心に囚われて命を落とした〈狗使い〉を、見飽きるほどに見てきた。

 危ない穴は覗き込むべきではない。

 それでも今行かなければ、必ず後悔するという予感がアリルの胸の中で燻る。

 首の後ろまで伸びている濃緑の髪を、紐で束ね直した。

 行こう。確信にも似た衝動に突き動かされるようにして、アリルは音のした方へゆっくりと歩きはじめた。


 不思議と、足が軽い。

 ラヴリドは先に立ち、ふんふんと鼻を鳴らしながら機嫌よく歩を進めていく。

 先程までの騒がしさが嘘のように、通路は静まり返っていた。

 迷宮第五層の〈不朽回廊〉は石造りの通路と玄室の組み合わせから成っている。

 一部には高架やそれを潜る通路もあるが、基本的には単純な造りをしていた。


 慣れなければ、何処も同じにしか見えない。

 目印さえも付けられないのは、つるりとした石壁が絶えず復元を続けているからだ。

 傷を付けても削っても、ゆっくりと石が再生して元の通りに戻ってしまう。

 白墨で印を付けることさえできないので、この階層を〈不朽回廊〉と呼ぶのだとアリルは聞かされていた。


〈狗使い〉たちは先ず、通路や玄室、そして辻の名前を先輩から叩き込まれる。

 第五層の全体についてではない。

 古の皇帝を葬るための霊廟として国富を傾け魔術まで駆使して建設されたというこの迷宮の大きさは非現実的だ。

 アリルは〈狗使い〉の最年長者として一番広大な範囲の道を記憶しているが、それでもこの階層の端を見たことはなかった。

 同じ方向に丸一日歩き続けても辿り着けないのだから、魔術的な理由があるのかもしれない。


 ラヴリドについて歩いていると、通路の向こうに薄ぼんやりとした光が見えてきた。

 血の臭いに、思わず袖で口と鼻を覆う。

 離れていても分かるほど、死が色濃く香っている。

 目を細めて明るさに慣らしつつ観察するが、動いているものはいないようだ。


 共倒れ。

 一番望ましい結果に終わったのか、それとも勝者が立ち去った後なのか。

 いずれにしても、ラヴリドの落ち着きはアリルを安心させた。


「行こう、ラヴリド」


 何か役に立つものがあるかもしれない。

 冒険者の亡骸から所持品を剥ぐことに、アリルは微かな罪悪感がある。

 かつて先輩の〈狗使い〉に相談した時には嘲笑されたものだが、今でも死者に対しては敬意を払うべきだという感覚が心の底の方に残っていた。


 距離を詰めると、床に油が燃えているのが見える。

 壊れた提燈ランタンから漏れ出たものだろう。戦闘が終わってまだ間がないというのに、油脂を舐めるために漿精スライムが集まりはじめている。

 さらに時間が経てば迷宮の掃除屋である彼らが何もかも綺麗に片付けてしまう。


 辺りに魔物の姿はない。冒険者の遺体が六つ、転がっていた。

 死者を弔う九天の印を結び、一番近くにうつ伏せで倒れている戦士ファイターを裏返す。

 苦悶の表情を浮かべたまま事切れているところを見ると、襲ったのは毒牙大蜥蜴のようだ。

 身体だけで七ヴァール強、尾を含めれば十尺を越えることも珍しくない。牙に強い麻痺性の毒を持っている。


 思った通り、装備が良い。

 酔狂でここまで潜って来た冒険者でないことは、一目で分かった。

〈愚帝の霊廟〉の未踏域へ挑むためか、それとも。

 いずれにしても、アリルの目当ては拵えの良い片手剣でも、驚くほど軽い鉄鱗鎧ラメラーアーマーでもない。本当は喉から手が出るほど欲しいが、はじめから諦めていた。


 この冒険者たちの亡骸は〈右盾〉のバゾラもいずれ見つけるだろう。

 その時に、装備が欠けていれば厳しい追及が行われる。〈狗使い〉の得た戦利品を巻き上げることは、バゾラにとって貴重な収入源になっているという話だった。


 護符タリスマン金創用きりきずの塗り薬、携行食、火口箱ほくちばこ、それに合財袋ポーチから抜き取っても不自然でない枚数の貨幣。

 手当たり次第に自分の背嚢の底の隠しポケットに押し込んでいく。

 戦士ファイター斥候スカウト魔術師ソーサラー精霊術師ドルイド荷運びポーター……


 まだ温かな死体から所持品を頂戴していく作業は、思ったよりも骨が折れた。

 遺品の中には、両親や妻子のものと思われる肖像画もある。アリルはそういうものを極力見ないようにして、自分の“計画”に必要そうなものを剥いでいく。

 暑くもないのにじっとりとした汗が頬を伝った。


 最後の一人はまだ年若い女戦士だった。

 歳はアリルより少し上。そう変わらないのではないか。

 身長は五ヴァールほど。珍しい黒髪を短く切り揃えた色白の少女だ。

 この若さで〈愚帝の霊廟〉のこの階層にまで辿り着くのだから、生きていれば優秀な戦士に成長しただろう。


 不思議な感慨に囚われながらアリルは白銀の胸甲に手を掛け、慌てて飛び退った。

 生きている。

 少女の胸は弱々しく苦しげに、しかしはっきりと上下していた。


 よく見れば、右腕に浅い外傷しかない。麻痺はしても、致命的ではないはずだ。

 毒牙蜥蜴の牙ではなく、尾の一撃で昏倒させられたに違いない。無力化されていたから、殺されることもなかった。


 なんという強運だろう。

 いや、本当に運が良いのだろうか。

 このままここへ放っておけば、彼女は遅かれ早かれ魔物に食い殺されることになる。

 意識を取り戻したとしても、六人でやっと辿り着いた道程を一人で引き返すことは不可能だ。

 それでも、魔物に殺される方がまだ幸せかもしれない。

〈右盾〉のバゾラに生きたまま囚われることに比べれば、冒険者としての尊厳を保ったまま逝くことができる。


 アリルに迷いが生じた。

 放っておくか、とどめを刺すか、それとも。

 このままにしておけば、少女は確実に死ぬ。

 とどめをさせば、少女は美しいまま死ぬことができる。

 だが。


〈狗使い〉としては、ここで殺すか見捨てるべきだろう。

 冒険者は敵で、憎むべき相手だとアリルたちは繰り返し教え込まれている。

 躊躇いながら、アリルは少女の頬に触れた。

 柔らかく、温かい。

 ラヴリドを見ると、愛犬は真っ直ぐな瞳でアリルを見つめ返してきた。


「……よし」


 尻尾に結わえた自分の髪を触る。

 肩を貸すようにして、少女を引き起こした。

 引き摺って歩くよりは、この方が静かに運べるはずだ。


 少女の装備と思しき剣と盾も忘れないように小脇に抱える。

 人一人の重さは、ずしりと重い。

〈不朽回廊〉の長い道を、息を殺して歩く。

 物音を立てないようにすればするほど、胸の鼓動はアリルの耳を強く、速く打った。




 アリルは雑嚢から地図を取り出した。

 惨劇の場からは距離を稼いだ。ひとまずの危機は去ったと考えていいだろう。

 地図は魔物の薄い甲羅に刻み込んだ自作のもので、他の者が見ても模様にしか見えない。

 通路と玄室へやを指でなぞりながら、今日働いている同僚の〈狗使い〉たちを思い出す。

 いつもなら出会っても問題はないが、今日だけは絶対に顔を合わせるわけにはいかない。


 持ち場が近いのは、ラジンとガフだった。

 二人ともアリルに次ぐ年嵩の〈狗使い〉で、担当している罠の数も多い。

 ラジンの担当している毒矢の罠がこの近くの玄室に仕掛けられている。

 アリルが発つ半日前にはもう二人の姿を見なかったから、点検の順番次第ではこの近くにいる可能性があった。


 迷宮にある罠には整備が必要だ。

 一度作動すれば元に戻す必要があるし、長く放置しておくと意図しない動きをすることさえある。

 冒険者を排除する重要な設備だが、注意を怠れば〈狗使い〉にも牙を剥くのが、罠だ。

 だから〈狗使い〉にとって罠の整備は最優先の仕事として教え込まれる。


 横たえていた少女の肩を、再び担ぎ上げる。

 簡単な止血しかしていないが今のところ顔色はそれほど悪くなかった。

 この麻痺毒は命を落とすこともある。が、少女の毒は軽いようだ

 やはり、この少女は運が良い。

 問題の玄室の近くに差し掛かったが、ラヴリドは何の反応も示さなかった。

 張り詰めていた顔の筋が少し緩み、吐息が漏れる。

 ここまで来れば、後もう少しだ。


〈愚帝の霊廟〉の第五層である〈不朽回廊〉は、天井が高い。

 そこを縦横に走る通路の中には高架になっている箇所がいくつもあった。

 階段を登り、少し歩いてまた降る。ただそれだけの構造だが、単調な回廊の中ではよく目立った。


 周囲を確認してから、掌で階段脇の壁を撫でる。

 目当ての場所に突起を見つけると、そっと押した。

 聞こえるか聞こえないかという微かな唸りが聞こえ、ゆっくりと扉が開く。

 アリルとラヴリドしか知らない、秘密の小部屋だ。


 中に入ると提燈を壁にかけ、少女を床に寝かせる。入り口に塩を撒くのも忘れない。

 内側の突起を触ると、壁は開いた時と同じく静かに閉じた。

 提燈で照らし出された小部屋は、ひどく雑然としている。

 朽ちかけた武器防具や様々な道具、薬草、書物、魔物の毛皮や骨。保存食もあった。

 これまでこつこつとアリルが集めてきたものたちだ。

 ねだるラヴリドに骨を与え、アリルは少女の治療の準備をする。


 この小部屋が何のために作られたのか、アリルは知らない。

 知ろうというつもりもなかった。

 この巨大な霊廟には不条理が満ちている。役に立つ不条理であれば、喜んで利用した。


 傷を受けた少女の腕を観察する。腫れはあるがそれほど広がっていない。

 腕を止血していた止血帯を緩め、もう一度締め直した。

 血の巡りが長く止まると、腕が駄目になることがあるのだ。

 毒を排出するためにナイフで腫れに傷を付けると、少女が微かに苦悶の吐息を漏らす。

 気が付いたかと思ったが、そうでもないらしい。


 素焼きの小壺を傾けて、中身を直接傷口に垂らす。見る間に傷口から血が滲みはじめた。

 水筒の水に塩を加えて傷口の血を洗う。比較的綺麗な布で拭い、また同じことを繰り返した。

 ここでできる措置は、これだけだ。

 後は少女の運と体力に頼るしかない。


 雑嚢から取り出した戦利品を床に並べる。

 五人分の持ち物から集めただけあって、役に立ちそうなものは多い。

 本当は最新の地図も欲しかったが、取って来ることができなかった。

 六人の一行に、地図は一枚きり。

 持ち出してしまえば、彼らは地図に頼らずに第五層に辿り着いたということになる。

 気付かれない可能性もあるが、〈右盾〉に不要な疑いは抱かせたくなかった。


 一番の収穫はまだ祝福されたばかりの護符タリスマンを手に入れることができたことだ。

 強い力を籠められた護符は魔を祓う。

 魔物が現れる可能性を大いに引き下げることができるとされているのだ。もちろん、一度こちらの世界へ現れてしまった魔物を押し返すほどの力はない。

 それでも迷宮を潜る冒険者にとって、護符は欠かすことのできない必需品だ。


 護符は一つで、六人までに効果がある。

 二つ持っても、十二人に効くわけではないとされていた。七人以上で迷宮に潜るときは二つの組で挑むことになる。それは神話の時代から定められた決まりだ。


 脱走防止のため、〈狗使い〉には護符が与えられていない。護符さえあれば逃げ出せるというものではないが、護符なしで逃げ出すのは勇気ではなく無謀だということはアリルもよく知っている。

 代わりに、アリルにはラヴリドがいた。

 護符は魔物の出現を抑え、犬は魔物と出会いにくくする。似たものだが、決定的に違う。

 では、二つを組み合わせればどうなるだろうか。

 魔物を出現させにくくする上、出会いにくくもなる。

 都合の良い考えだが、ないこととは言い切れない。

 これまでにそれを試した〈狗使い〉はいないのだ。

 だからこそ、アリルの“計画”にとって護符はなくてはならないものだった。


「……んぅ」


 護符を検分していると後ろで微かな呻きが聞こえた。

 振り返ると、少女の目が薄っすらと開いている。

 事態が呑み込めないのだろうか。

 暫し天井を見上げて茫然としていたが、大きく瞬きをすると無事な右腕で起き上がろうとする。


「ああ、まだ動いちゃ駄目だ。毒が抜け切っていないのに」


 そう声を掛けると少女は聞き覚えのない声に萎縮したようにびくりとしたが、すぐに大人しく身体を横たえて顔だけでアリルの方を見た。


「ありがとう、私を助けてくれて」


 謝意を口にした少女にアリルは思わず訝しげな表情を向ける。

 普通は相手が誰だとか、ここは何処かとかそういうことを聞くのが道理ではないか。


「どうだろう。君を攫っただけかもしれない。ここに監禁しているのかも」

「それはないと思う」


 少女の口調ははっきりとしていた。


「蜥蜴の尻尾で弾き飛ばされて気を失っていたけど、ここに運ばれていることはおぼろげに憶えているから。治療をしてくれたことも。貴方が誰なのか、私をどうするつもりなのかは分からないけれど、まず、お礼を言わないとって」


 そう言って少女はにこりと笑った。


「だから、改めてありがとう。私はエナ。〈守りの剣〉のエナ。よろしくね」


 見ているこっちが恥ずかしくなるほど、屈託のない笑顔だ。

 こんな風に胸の奥が暖かくなるような笑顔を見た記憶が、アリルにはない。

 迷宮での暮らしは死と隣り合わせだ。何もかもがくすんだ色をしている。


 自分も名乗りを返そうとして、アリルは逡巡した。

 少女は冒険者だ。

〈狗使い〉は彼女にとって不倶戴天の敵ということになる。

 恩人だと思ったから、彼女は微笑んでくれた。アリルが惨めな〈狗使い〉だと知れば、この笑顔は失われてしまうだろう。

 それどころか“駆除”しなければならないと考えるかもしれない


「……俺は、アリル。ただのアリルだ」


 嘘だ。

 ただのアリルではない。〈狗使い〉で、奴隷で、誰かの所有物のアリルだ。

 胸をちくりと罪悪感が刺す。

 下らない嘘だ。どうせすぐにばれる。むしろもうエナは気付いているかもしれない。

 この小部屋にはラヴリドがいるし、少し考えれば分かってしまうことだ。

 敢えて言わずにいてくれているのだとしたら、アリルはひどい裏切りをしてしまったのかもしれない。やはり言うべきだろうか。

 躊躇いながら口を開こうとするが、エナに先を越された。


「よろしくね、アリル。ところで、ちょっと教えて欲しいんだけど」


 微笑みを浮かべたまま、エナの目から大粒の涙が零れはじめる。


「皆は……〈守りの剣〉の皆は、やっぱり……?」


 死んでしまったのか。

 質問を最後まで言い切ることを、エナはしなかった。ただ目を閉じ、泣いている。

 運ばれているときの記憶があるのなら、知っているだろう。戦いのときの記憶もあるのかもしれない。彼女が助かったのが、幸運に過ぎないことも。


 何も言わずにアリルは頷いた。つられるようにして、エナも頷く。

 頷きながら、はらはらと泣き続けた。

 気遣わしげに見上げるラヴリドを、エナが柔らかな手つきで撫でる。

 アリルは頭の後ろをがりがりと掻きながら、一人と一匹を見つめることしかできない。


 誰かの死を悼むことは迷宮では日常茶飯事だ。

 送り舟が死の浅瀬を越えるためには誰かの涙で潮が満ちねばならないという話をアリルは聞いたことがある。

 今、エナは泣くべきなのだろう。仲間のためにも、彼女のためにも。




 提燈ランタンの明りが揺らめく。

 窒息しないようにという配慮か、こんな小部屋にも空気の通り道が設けられていた。アリルは試したことがないが、ここで煮炊きをすることもできるのだろう。

 水筒の水が尽きるまで塩水で洗って、少女の左腕の腫れはすっかり引いた。


「毒牙にやられたときはもう駄目かと思ったんだけど」

「運が良かっただけだ。もう少し毒が回っていたら危なかった」

「アリルの処置が良かったからだと思う」


 その小壺に入っていた薬は何なの? と尋ねられ、アリルは別の大壺の中身を見せた。

 中に入っているものを見て、エナはひっと小さく悲鳴を漏らす。

 脛蛭はその名の通り冒険者や〈狗使い〉の脛に吸い付く蛭だ。

 この種に限らず蛭は獲物に咬み付いて血を固めにくくする唾液を流し込むが、アリルはそれを集めて毒で汚れた血を流すために使っている。


「い、色々な知恵があるのね」

「ここで暮らすには工夫が必要だから。潜るのとはまた違う知恵が」


 冒険者と〈狗使い〉。

 立場は違うが、同じ迷宮に挑むものという意味では同じはずだ。

 それでも、狩るものと狩られるものというはっきりとした区別がある。

 同じ小部屋で向かい合って座っているのが、不思議なくらいだ。


 本来なら今すぐここでアリルは斬られてもおかしくない。

 迂闊なことに、片手剣は彼女の手元にある。普段のアリルなら絶対にしない失敗だが、今日はどういうわけか注意が回らなかった。

 いつでも飛び退れるようにしながら、アリルは考える。


 エナを助けたのは、気まぐれではない。

 純粋に打算の結果だ。

 アリルの計画にエナが加わってくれた方が成功する見込みが増す。絶望的なまでに難しいことだが、不可能だと言い切ることはできない。


 だが、エナに了承させることはできるだろうか。

 ここにこのままいれば、いつかエナは死ぬ。そのことだけを取引材料として、〈狗使い〉と手を組むことに少女は頷くだろうか。


「あの」

「えっと」


 沈黙を破ったのは、二人同時だった。

 お互いに言葉に詰まり、譲り合う。暫く譲り合っていたが根負けしたのはエナの方だ。


「えっと、アリルに不躾なお願いをしてもいいかな?」

「内容による。できることとできないことがある」


 ここから出して、だろうか。仲間の亡骸のところまで案内して、ということもありうる。

 不躾と自分で言うからには、食糧と松明くらいは分けて欲しいというのかもしれない。

 譲らなければアリルを殺して奪い取ればいいのだから、交渉を持ちかけてくるだけでも道理を弁えている。冒険者というのはならず者で恐ろしい存在だと聞かされていたが、そうではないものもいるということだ。


「ここは〈愚帝の迷宮〉の第五層、なんだよね?」


 アリルはエナの瞳を真っ直ぐに見つめ、頷く。


「率直に言って、このままだと私はここで死ぬことになると思う」

「このままだと、そうなるだろうね」

「だから」

「だから?」

「だから……」


 さあ、何を要求するか。

 彼女が去ればアリルの“計画”は元通りになる。

 何かを分け与えれば後退することになるかもしれない。それでも、殺されないだけマシだと考えるべきなのだろう。

 だが、本当にそれでいいのだろうか。

 不安に押し潰されそうになりながら準備を進めるだけの日々に、また逆戻りする。

 駄目だ、絶対に。それでは駄目だ。


 何かを言おうとするエナを制し、アリルは少女の手を掴む。鍛えられた手だが、しなやかだ。

 驚く少女に、アリルははっきりと宣言した。


「エナ。俺と迷宮を出よう。地上へ、陽の射すところへ」


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