第3話

 殴り飛ばした〈狗使い〉はくぐもった呻きを漏らした。

 拳を撫で擦りながら、オルは迷宮の通路に蹲る少年を見下ろす。

 第四階層へ通じる道の一つ、〈沼階段〉を見張らせていた〈狗使い〉だった。

 口の端から血の混じった泡を吐き、憎しみの籠もった目でオルを見上げてくる。


「本当にここを通ってねぇんだろうな」


 返事をしようとしたのだろう。

 言葉にならないごふっという吐息と一緒に口から出た唾液が床を汚す。

 どうやら本当に知らないらしい。

 少しでも疚しいことがあれば、反応はおのずから変わってくる。

 ここ数年〈狗使い〉を殴り続けてオルが得た持論だ。


 ラジンとガフが上階へ逃げた、という情報は別の〈狗使い〉が白状した。

 脱走に同行することを持ちかけられたが、勇気が足りなかったらしい。

 莫迦な〈狗使い〉風情にしては、賢明な判断だった。

 脱走者には、確実な死を。

 正直な密告者には褒美を。

 仲間を売った卑怯者は今頃、牛酪バターと肉のたっぷり入った麦粥を啜っているはずだ。


 しかし、妙だった。

 ラジンとガフの二人のことだ。

 逃げ出したのなら、普通はここを通るはずだった。


 脱走した〈狗使い〉のほとんどは〈沼階段〉を使う。

 上層へ抜けるにはここが一番〈聖域〉から近いからだ。

 長い間酷使されてきた〈狗使い〉は堪え性がない。一刻も早く上へ昇ろうとするのが常だ。

 そしてあっさり追いつかれるのがこれまで繰り返されてきた脱走劇だった。


 爪先で〈狗使い〉の腹に蹴りを入れる。

 今度吐いたのは胃液だ。ろくなものを食っていないから、それしか出ない。

 悔しげな瞳に涙を滲ませ、〈狗使い〉が嗚咽を漏らす。


「じりません……」

「そうか。知らねぇか」


 オルは噛み砕いた獣骨の破片を吐き捨てた。

 二人はどこへ消えたのか。考えられることは幾つかある。


 一つ目は、この腑抜けの目を盗んで第四階層へ逃げたという可能性。

 見張られていることはラジンもガフも知っているのだから、目を欺くことは考えるだろう。

 何かオルの思いもよらない方法を思いついたのかもしれない。


 二つ目は、上層への別の道を目指したという可能性。

〈聖域〉からは距離はあるが、他にも上層へと通じる道は存在する。

 犬を連れた子供の足ということを考えるのなら、使えそうな道は二つ思い浮かぶ。


 そちらには既に一個梯団パーティずつを派遣していた。

 相手は一日先行しているが、子供の足だ。犬も連れている。

 上手くすれば途中で捕捉できるかもしれない。


 オルが一番ありそうだと考えているのが、三つ目の可能性だ。

 上に逃げたと見せかけて、実はまだこの階層に潜んでいる。

 大人が捜査の網を広げ、戦力が分散した段階ではじめて〈沼階段〉を使うという策だ。

 もしオル自信が〈狗使い〉の立場なら、この方法を使う。

 機を見誤れば簡単に捕縛されてしまうが、上手い隠れ場所を知っているのなら成功率は高い。


 普段は莫迦を装っているが、オルも元は一端の傭兵だ。

 獲物を追うことにかけては一家言ある。


「どうしやすか。バゾラ様にも御報告を?」


 脇に控えていた傭兵崩れが恐る恐る尋ねてきた。

 知らせるべきか、知らせざるべきか。悩みどころなのは間違いがない。


「……〈右盾〉の旦那に知られねぇ内に何とかしてぇが」


 補給隊を送るついでに第四層に赴いている〈右盾〉のバゾラに脱走が知られては拙かった。


 バゾラは損することが嫌いだ。

〈狗使い〉もただではないから、脱走すれば不機嫌になる。

 さらに問題なのは、捕縛できなかった場合だ。

 バゾラは損することが嫌いだが、部下の無能については憎しみさえ抱いている。


 このままでは、留守を預かるオルたちも無事では済まない。

 捕縛が完了してから報告が上がるのが望ましい形だ。

 バゾラの耳に入った段階で二人の身柄を押さえる事ができていないようなことになれば。

 背筋を走る怖気にオルは思わず身震いをする。


 上層へ繋がる他の道への捜索は既に出している。

 第四層へ人を送るのは準備不足だ。

 後できることといえば、この近辺に潜んでいる可能性を考えて狩り出すことくらいだろう。


 いずれにしても〈狗使い〉は脱走できない。

 これまでも、そしてこれからも。

 大人が六人がかりで辿り着くのがやっとの深層から、子供と犬が生きて出られる道理はない。

 仮に第二層まで辿り着けたとして、第一層を突破することだけは絶対にできないのだから。


「笛を吹け。餓鬼と犬を炙り出すぞ」


 オルの指示で傭兵崩れが雑嚢をまさぐる。

 まだだ。バゾラに知られる前に、まだ何とかできるはずだ。



   ■



 耳に障る低音が迷宮に木霊している。

 エナは立ち止まり、後ろを振り返った。

 這うように忍び寄る音は足元から纏わりつくようだった。


 笛の音だ。

 高い音の笛は魔物を呼ぶと忌まれるが、低い音は逆に出所が分かり難くなる。

 その上、遥か遠くまで伝わるという話はエナも聞いたことがあった。


「逃げ切れない、っていう脅しだよ。でも気にしないで」


 壁の罠を探りながらアリルは事もなげに言う。

 逃げているのは自分たちなのだが、アリルは少しも気にする様子がない。

 四方八方の壁を伝って聞こえる響きは、呼集よばいの笛というそうだ。

 大型の魔物の耳を干して加工した笛は、どこまでも背中を追ってくる聞こえる。


「怖くないの?」


 雑嚢を背負った小さな背中に聞かずもがなの問いを投げる。

 アリルは振り向きもせずに小さく首を竦めた。


「あの音の聞こえている間は、ラジンとガフの二人がまだ逃げ回っているってことだ。つまり、こっちに追っ手がかからない」


 なるほど。そういう考え方もあるのか。

 だが、とエナは人さし指を顎に当てて考える。


「でも、その二人って〈狗使い〉の仲間じゃないの?」


 口を衝いて出た疑問は思わずアリルの耳にも入ったらしい。

 振り返り、少し残念そうな顔をした。


「そう思ってたんだけどね。でも、脱出するっていう相談をオレにはしてくれなかった。オレもあの二人にはしようと思わなかった。そういうことだと思う」


 エナは何も答えられない。アリルも、それ以上は何も言おうとしなかった。


 どこまでも続く通路を、二人と一匹は無言で歩いて行く。

 エナは不思議な気持ちだった。

 もし出発前の自分自身に、〈狗使い〉と梯団決義を契ると言っても、信じないだろう。


 エナ・アレクシア・レフ・トトリは駆け出し冒険者だ。

 実家を飛び出したのが十二の春だから、もう三年は辺境で飯を食っていることになる。

 梯団での役割は、戦士。

 剣技に賭けては冒険者稼業に身をやつす前から自信はあったが、〈守りの剣〉の仲間たちと決義を結ぶまでは紆余曲折があった。

 真面目な性格の所為で、背負わなくても良い苦労を背負ったことも一再ではない。


 東方辺境最大の都市バルクデオンの大街区で仲間たちと出会っていなければ、剣の腕ではなく別の物に値段を付ける破目になっていただろう。

 辺境では男女の関係性について中央よりも柔軟性のある考え方が主流的だ。


 アリルと冒険するようになってエナが驚いたのは〈狗使い〉が思ったよりも人間だということだ。

 笑いもするし、不機嫌にもなる。

 飯も食えば厠にも行く。

〈狗使い〉には尻尾が生えているという俗説をエナは信じていなかったが、ここまで人間らしいとも思ってもみなかった。


 心の何処かで、魔物の仲間のようなものだと決めつけていたのかもしれない。

 まだ完全に信用し切ったわけではないが、梯団の仲間だ。

 エナはアリルの真っ直ぐな瞳に賭けてみようという気分になっている。


 少年アリルは時々驚くほど乾いた考え方をした。

 かつての仲間もまるで囮のように扱う。だが、それは今の状況では却って頼もしい。

 何せここは迷宮で、しかも〈愚帝の霊廟〉なのだ。


 エナの知る限り、東方辺境に存在する中で〈愚帝の霊廟〉は最も難度の高い迷宮だった。

『赤表紙年代記』の記述が正しければ、霊廟は全十層から成っている。

 これまでに数多くの冒険者が挑戦しているが、第七層より下へ潜って生還した梯団はない。


 並の冒険者であれば、第二層で早くも行き詰る。

 敵の数は多く、手強い。

 普通なら地の底深くに潜ってからしか姿を現さないような強暴な魔物が、この霊廟では浅い層から侵入者を阻む近衛のように立ち塞がる。

 第一層でさえ、十分に死の臭いの色濃い場所なのだ。


 魔物の出現の少ない〈順路〉こそ見つかっているが、そこから外れてしまえばいつ死んでもおかしくないという危険度。

 冒険者たちの間では〈還らずの霊廟〉の仇名を奉られているのも無理はない。


「この床石は踏まないで。これと、これも」


 アリルの指し示す床石を言われた通りに避けながらエナは続く。

 壁を千足蟲の一群が這っていった。

 燐光石の灯が作る二人と一匹の影が、〈不朽回廊〉の通路をゆっくりと北へ向かって進む。


 アリルの言う通りに歩くと、あれほど煩わしかった罠が嘘のように作動しない。

 エナたちの梯団、〈守りの剣〉の斥候だったガーディルは口の達者な優男だったが、罠に関してはアリルの方が何枚も上手のようだ。


 較べるのがそもそも間違っているのだろう。

 命を懸けて迷宮を潜る冒険者とは言え、迷宮の中で暮らす〈狗使い〉とでは罠に対する考え方も知識の深さもまるで性質が異なる。


 冒険者と〈狗使い〉では、迷宮に対する考え方が違うのだ。

 だからこそ、小部屋を出発する前に方針を決める必要があった。


 魔物とは戦わない。

 魔物にはなるべく見つからない。

 もし出会ってしまったら、全力で逃げる。


 新しい梯団パーティの方針は驚くほど単純で明快だ。

 理由は簡単。戦えば死ぬ。

〈愚帝の霊廟〉に現われる魔物は、恐ろしく強い。

 万に一つも生き残れないということは、エナとアリルの共通した見解だった。




「……止まって」


 考え事をしていたので、アリルの制止に従うのが一歩遅れた。

 幸い、罠でも魔物なかったらしい。

 九天の印を結ぶアリルの視線の先には指輪と金貨、それに剣の柄が落ちていた。

 迷宮の掃除屋である漿精スライムも、貴金属だけは溶かせない。

 目を凝らしてみると、単調な迷宮の壁に僅かな染みが見える。


「……あれは?」

「死体だよ。正確には、死体だったもの」


 アリルの声には悼む色が濃い。

 そこには確かに冒険者がいたであろう痕跡がある。

 死体だったものの数は、六つ。

 生きていた証拠の何も残さず、ただそこに染みだけが残っていた。


 死因は分からない。

 魔物にやられたか、罠にはまったか。あるいは別の冒険者に襲われたという可能性もある。

 最後まで共に生き、共に死んだということだけは確かだ。

 溶け残った片手剣の柄の金細工が燐光石の明かりを受けて鈍く光っていた。


 エナの脚が震える。

 死体の一つは、自分だった。自分が、そうなるはずだった姿だ。

 今この場に立っていられるのは、単なる幸運のお陰でしかない。


〈守りの剣〉はエナの所属した六つ目の梯団だった。

 実家を飛び出して東方辺境に流れ着いたエナにとって、はじめて決義を結んだ梯団だ。


 寡黙な戦士の〈赤髭〉バンヒュー。

 斥候の〈洒落もの〉ガーディルは優男。

 謎めいた魔術師の〈無尽〉のアルクバレウルとはもっと話をすればよかった。

 敬虔な精霊術師の〈黒き〉ボルホは少し苦手だったけど、荷運びのジョンには色々とお礼を言いたいことがある。


 エナは、床に膝を着いた。

 名も知らぬ冒険者たちのために、九天の印を結ぶ。

 魂が幽界へ囚われぬように。正しく九天へ導かれるように。



 迷宮を古くは幽宮、或いは幽境と言った。

 この世界と、幽界とが強く重なり合う場所だからだ。

 本来であれば彼岸あちらの生き物である魔物が此岸こちらへと浸み出てくる場所のことを、今では迷宮と呼んでいる。


 冒険者の魂は、守られねばならない。

 迷宮に囚われてはならない。

 九天へ魂を還すために。また人の子として生まれてくるために。


 護符タリスマンは本来、そのためにある。

 祝福を受けた護符は、六人までの梯団の魂を守るのだ。

 それ以上になると、魂は守り切れないのだとエナは聞いたことがあった。

 梯団の構成員が上限六人なのは、ごく自然の成り行きなのだ。


 ここで全滅した冒険者たちは、果たして護符を持っていたのだろうか。


 簡単な弔いを終え、二人と一匹はまた歩きはじめた。

 既に何度も角を曲がっているから、エナには今の自分の位置が分からない。

〈守りの剣〉が下りてきた場所からからは随分と離れている気がする。


 結局、遺留品は、拾わなかった。

 荷物が重くなるのを嫌ったというのもあるが、アリルが露骨に嫌な顔をして見せたからだ。


「死者の物を拾うのは、気持ち悪い?」

「気持ち悪いとか悪くないとかじゃないんだ。ただ、亡くなった人の物を勝手に取るのは……オレの趣味じゃない」


 そっぽを向いて口にしたその言葉は、多分アリルの本心だろう。

 死体から目的もなく遺品を剥ぐのは、エナもあまり好みではなかった。

 趣味じゃない。その気取らない言い方が、また良かった。


「趣味じゃない、か。じゃあ、拾わずに行きましょう」


 アリルの言葉を聞いてから、エナの足取りは軽い。

 小さくても、共通点だ。

 梯団の仲間とちょっとした共通点を持つのは気分が良い。




 右へ曲がり、左へ折れ、完全にエナの方向感覚は狂ってしまった。

 虎の子の方位磁針を確かめてみると、アリルは北へ向かっているようだ。

 脹脛ふくらはぎの疲れ具合からして、もう半日は歩いている。

 いつの間にか笛の音は、か細くしか聞こえなくなっていた。


「次を右に」


 角に差し掛かってもアリルには躊躇いがない。

 罠のないことだけを確かめると、即座に曲がる。

 その判断に迷いはなかった。


「曲がり角の先を確かめなくていいの?」

「……どうして?」


 一般的な斥候であれば背嚢を一度下ろし、辻から少し侵出して安全を確認する。

 エナの知る斥候は皆そうするのだが、アリルはほんの少し立ち止まるだけだ。

 冒険者の常識を簡単に説明すると、アリルは口元だけで笑いながら、犬の背を撫でた。

 撫でられて嬉しいのか、ラヴリドは舌を出してはあはあと上目づかいにエナを見る。


「その斥候スカウトって人たちには、ラヴリドがいないからだよ」


 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。

 犬の嗅覚を使えば、人間よりもはるか先に魔物の存在を嗅ぎつけることができるだろう。

 それよりも早く魔の兆候を捉えることができるのは、ほんの一握りの人間に過ぎない。


 歩き続けていると、通路の床がほんの微かに下へ傾斜していることにエナは気が付いた。

 長い距離をかけて、ゆっくりと下って行っているようだ。

 石畳に映るエナの影が立ち止った。


「ねえアリル、そろそろ聞かせて欲しいんだけど」

「何?」

「……私たち、どこへ向かっているの?」


 追手の服笛の音はもう微かにしか聞こえなくなっている。

 だが、第四階層の〈順路〉へ出るためには、今来た道を戻る必要がある。


「聞いても驚かない?」

「驚かない、と思う」


 どこかに食糧でも隠しているのだろうか。それを回収しにいくというのはありそうなことだ。

 エナはアリルの赤い瞳を見つめ、彼が何かを言うのをじっと待った。


「第六階層だよ」

「……え?」


 アリルが何を言っているのか、エナには俄かに信じられなかった。

 二人と一匹が目指しているのは、地上だ。

 ならば次に行くべきは上ではないのか。


「オレたちは今、第六階層に潜る道を目指しているんだ」

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