第4話

「第六階層に?」


 頓狂な声を上げ、慌ててエナは自分の口を両手で押さえた。

 辺りの空気は相変わらずの静寂に満たされており、時折微かに低い笛の音が聞こえるだけだ。

 通路の安全を確かめるように視線を巡らせ、アリルは小さく息を吐いた。


「説明がてら、少し休憩しようか」


 その次の十字路まで進出して、アリルは雑嚢を床に下ろす。

 休止をする時は必ず十字路の一歩手前で。それは冒険者の初歩だった。

 迷宮の通路で最も恐ろしいのは挟み撃ちだ。

 通路なら両側から襲われることはあっても、十字路であれば必ずどこか一方は逃げ道を確保できるはずだ。


 壁に背を預け胡坐を掻くアリルの鼻先を、ラヴリドがぺろりと舐めた。

 アリルが雑嚢から干し肉を取り出し、エナに放って寄越す。

 少し齧って分かった。歩き蝙蝠の肉だ。

〈愚帝の霊廟〉に広く棲息する獣で、冒険者の非常食として重宝されている。


「ありがとう」

「よく噛んで食べて。水もあるから」


 噛み締めると、淡白な味わいが口の中に拡がった。

 臭みはないが、少し癖がある。

 それでも無心で齧りついたのは、エナが暫くなにも食べていなかったからだ。

〈守りの剣〉が全滅する前に、簡単な汁料理シチューを啜ったのが最後の食事だった。


 噛めば噛むほど腹が減ってくる気がする。

 ただ、食糧は節約しなければならない。

 仕度のときに見たが、二人で脱出することを考えれば蓄えは十分でなかった。


 自身も干し肉を齧りながら、アリルはラヴリドの足を揉み始めた。

 足の筋に沿うように撫で、揉み、指先で叮嚀に解していく。

 腹を撫でるとラヴリドが気持ち良さそうに目を細めた。


 エナの知る限り、普通の犬は人間ほど長時間歩き続けることに向いていない。

 ラヴリドはよく訓練されているようだが、それでも休憩は必要だろう。

 アリルが干し肉を分け与えると、ラヴリドは嬉しそうに「ひゃん」と鳴いた。




「普通の方法では、オレたちは第五層を抜けられない。抜けることができても、第四層で必ず追いつかれてしまう」


 必ず、という言葉には力が籠もっている。

 第五層から第四層へ抜けるのに使える道は、二つ。

〈沼階段〉と〈大樫階段〉と呼ばれている。

 大人は他にも知っている可能性があるがアリルたち〈狗使い〉に知らされているのはその二つしかないという。


〈狗使い〉が脱走すると、大人たちはこの二つの道を封鎖する。

 封鎖前に逃げることができたとしても、子供と犬の足で第四層を逃げ切るのは難しいというのがアリルの見立てだった。

 これまでにこの方法での脱走に挑戦した〈狗使い〉たちはすべて失敗している。

 同じやり方で試したのでは、成功の望みは薄い。


「これを見て」


 懐からアリルが取り出したのは、魔物の甲羅だ。

 細かなひびが入っているが、よく見ればそれは地図になっている。

 アリルの手製なのだろう。ところどころ手垢に汚れた地図は年季を感じさせた。

 果ても見えぬ〈不朽回廊〉の地図を少しずつ独力で作った苦労は、どれほどのものだろう。


「ここが出発した小部屋でこっちが〈沼階段〉。……エナ達の倒れていたのは、ここ」


 顔を寄せ合って覗き込む地図はあまりに小さく、燐光石の灯りだけでは見え難い。

 それでもエナは必死に目を凝らした。

 アリルの説明を聞き逃すわけにはいかない。足手纏いになるわけにはいかないのだ。


「オレたちはさっきまで、北へ向かっていて、それから東へ、ここから南へ移動している」


 白くて細い、それでいて使い込まれたアリルの指が地図を左側へなぞる。

 この甲羅地図では、上が東になっているらしい。

 指先は大きく左へ進むとそこで上方向に曲がる。


「もう少し行ったところで西に向きを変える」

「それだと、元いた場所の近くに戻らない?」

「うん。そこが目的地なんだ。オレたちの暮らしていた〈聖域〉の少し裏には、第六層への道がある。今は迂回してそこを目指してる途中ってこと」

「……地上へ出るのに、下へ潜るの?」


 頷くアリルの眼差しは真剣だ。


「これは酔った輸送隊の奴が口を滑らしたんだけど、〈愚帝の迷宮〉には第六層を通じてしか辿り着くことができない“もう一つの第五層”がある」

「え?」


 それはエナもはじめて聞く話だ。

 迷宮に潜る前に聞いて回った冒険者の噂話にすら、そんな情報は上って来たことはない。

〈愚帝の霊廟〉は多くの冒険者が挑んでいるにも拘らず、未だに多くの謎に包まれている。

 危険過ぎる上に、広過ぎるのだ。


 過去に第五層まで到達した熟練冒険者が第二階層で無残な亡骸を曝していることも珍しくない。

 並の迷宮であれば浅い階層は比較的容易に攻略できる。

 だが、この霊廟に限って言えば第一層だろうと第五層だろうと、死の危険と隣り合わせであることには代わりがなかった。


「オレたちは一度第六層へ降り“もう一つの第五層”を通過して第四層へ抜けるんだ。〈蒼き鷹〉の財宝が隠されているという場所だよ」


〈蒼き鷹〉

 その言葉を聞いて、エナは思わず唾を飲んだ。

 身を乗り出すために地面に突いた掌が、自然と固く握られる。


「じゃあ、〈蒼き鷹〉の財宝がいくら探しても見つからなかったのって……」

「ああ、もう一つの第五層に隠されているんだから、普通の方法じゃ見つからないよ」


〈蒼き鷹〉とは、辺境最強の傭兵団だ。

 総兵力は一八〇〇。

 兵の数でこそ〈雷霆団〉と〈オルディ旅団〉に見劣りするが、実質的な戦闘力という意味ではこの二つの傭兵団を上回る。

 義に篤く侠気に溢れ、その上滅法強い。


 辺境がこのところ平穏なのは、〈蒼き鷹〉を雇い入れた方が絶対に負けないからだ。

 その代わり、報酬も桁違いに高かった。

 いつの頃からか〈愚帝の霊廟〉近くに根城を築き、迷宮奥深くに財貨を蓄えているという。

 逆らう者には容赦をしないことでも有名で、バルクデオン市に置かれている監東府は以前から手を焼いているというのが専らの噂だ。


「財宝を運んできた輸送隊は〈聖域〉に立ち寄ってから隠し場所に向かう。でも、帰りに立ち寄ったことはないんだ。一回も」

「……ということは、その“もう一つの第五層”からは別の脱出路があるということ?」

「そういうことに、なる」


 一瞬、アリルの目が泳いだのをエナは見逃さなかった。

 嘘だ。

 より正確に言えば、確証はない、ということだろう。

 状況証拠を積み重ねた推論に過ぎない。アリルの所作はそれを物語っている。

“もう一つの第五層”の存在は確実でも、そこを通じて上に抜けられるかどうかについてはアリルにとっても賭けだということだ。


 だが、他に方法はない。

 思案していることを気取られないように、エナは干し肉を咀嚼する。

 状況は芳しくない。時間は敵の味方だ。今から方針を変えることは最悪の選択だった。


 アリルに賭ける。

 それが今のエナにとっての唯一の行動指針だ。

 賭け金は、自分の命。

 忘れてはならないのは、それも偶然助かった命だということだ。


 エナが今の状況でアリルよりも生き残る可能性の高い方法を思い付きはしないだろう。

 悩むという選択肢はなかった。

 悩まないという道を選ぶのが、今のエナにとって生存の可能性を最も高める方法なのだ。

 これまでのところ、アリルとエナの目標は合致している。

 生きて、地上に出る。それ以外のことはエナにとってどうでもよかった。


「それなら、休憩が終わったら……」


 途中まで言いかけて、エナは口を噤んだ。

 悪寒。

 鼓動が速まり、背中を嫌な汗が伝う。

 目を凝らして十字路の一方を見つめると、何もないはずの空間が微かに揺らいだ。


 ヘイズだ。

 幽界の魔物が迷宮に滲み出す直前に現れる、白い薄煙。

 普通の人間には感じることさえできない靄を、エナははっきりと見ることができる。

 冒険者としては類い稀なる素質だ。

 エナのこの異能のお陰で〈守りの剣〉が潜り抜けた危地は数知れない。


 アリルに伝えなければ。

 そう思って少年の方に視線を向けると、アリルもまた靄の方を凝視していた。

 まさか。

 この〈狗使い〉の少年も靄が見えるというのだろうか。

 遅ればせながらラヴリドも靄の方を睨み、頭を低くして唸り声を上げはじめた。


「逃げよう」


 声も低くアリルに伝えると、エナは雑嚢を引っ掴んで走り出す。

 アリルとラヴリドが跳ねるように逃げ出したのも、ほぼ同時だ。

 やはり、アリルにも見えている。


 出現する魔物が何であろうと、戦うわけには行かない。

 戦士と〈狗使い〉、それと犬。

 小さく歪な半個梯団ていだんでは、挑む方が莫迦げていた。


 相手がこちら側へ滲み出し切る前に、逃げる。

 この僅かな時間差を活かすことが、エナの生存戦略だった。

〈守りの剣〉が全滅したのは、この異能に頼り過ぎたからかもしれない。

 靄を見る力は、既に顕現してしまった魔物と対峙する役には立たないのだ。


 三つの十字路を越えて西に折れる。

 甲羅の地図で示されていた曲がり角だ。あと少し行けば、目的地がある。

 途中、暗闇栗鼠の群れと遭遇したが、気にせずに走り抜けた。

 魔物と迷宮に暮らす動物では、危機の度合いが全く違う。


 背後から、身の毛もよだつ咆哮が背を追ってきた。

 やはり魔物は二人と一匹を追い回して来ているのだ。

 脹脛ふくらはぎが痛い。それでもエナには立ち止まるつもりはなかった。


「エナ!」


 エナを追い抜きざまにアリルが叫んだ。


「なに、アリル?」

「もうすぐ“階段”だ。飛び込んだら、何も考えずに真っ直ぐ進んで!」

「何も考えずに真っ直ぐ?」

「そう、何も考えずに、真っ直ぐ!」


“階段”が見えた。

 何もない空間にぷかりと浮かんでいる、球形のひずみ。

 虹を酒精に溶かし込んだような色合いのその球を何故“階段”などと呼んでいるのか、歳若いエナは知らない。

 ラヴリドを抱えたアリルが“階段”に飛び込む。エナも後に続いた。


 どぷり。

“階段”に飛び込む。

 魔術的に接合された階層と階層の間を移動するのは、とても不思議な経験だ。

 水の中に飛び込んだような、という人もいるが、エナにとっては寝入り端のふんわりと浮くような心地よさに似て感じられる。


 何も考えずに真っ直ぐ。

 何も考えずに真っ直ぐ。

 何も考えずに真っ直ぐ。


 アリルに言われたことだけを口中に唱え、第六階層に飛び出した。

 水。

 飛び出したのは水の中だ。

 口から鼻から空気が漏れ出る。

〈水没神殿〉という名を冠するだけあり第六階層は大部分が水中に没している。


 何も考えずに真っ直ぐ。

 エナは目を見開き、足を踏み締めた。

 地面はある。ならば後は真っ直ぐに進むだけだ。


 浮かび上がりそうになるのを堪え、一歩一歩進んでいくと階段がある。

 こちらは階層を繋ぐ球体の”階段”ではなく、石を積んで作った階段だ。

 十段も上ると、やっと水面に顔が出た。


「よかった……」


 床に手足を突いて不安げに水面を覗き込んでいたアリルが破顔する。

 ラヴリドもひゃんと一声無き、エナの鼻先を舐めてくれた。

 水から上がり、段差に腰を下す。

 走り続けてきたからか、全身が疲労感に包まれていた。


 一息ついて、辺りを見渡す。

 明るい。天井が青く光っているのだ。

〈不朽回廊〉と呼ばれた第五階層と違い、第六階層の天井は遥かに高い。


 外界で言えば雲の浮かんでいるような高さに複雑な幾何学文様の刻まれた天蓋が見えている。

 手を伸ばしても、決して届かない。

 愚帝の命によって霊廟を築いた人々は、いったいどうやってこの空間を作り上げたのだろう。


 目の前に広がっているのは、凪いだ水面だ。

 透明度の高い水の下にはゆらゆらと揺れる白亜の神殿が鎮座している。

 第六階層〈水没神殿〉。

 ここまで生きて辿り着いた冒険者は、どれほど若くとも一目置かれる。

 そんな場所に、今のエナは立っていた。


「アリルの助言のお陰で助かった。ありがとう」

「うん。エナが言う通りにしてくれて本当によかったよ」

「どういうこと?」

「補給隊の話だと、ここで死んじゃう奴は結構多いらしいんだ。水に入ると分かっていても混乱して見当違いの方へ進んでしまったり、単純に溺れたり。それに」


 アリルは掌で水を掬い、宙にほうった。

 別に変わったことのない、普通の水に見える。


「実はこの水は水じゃないらしいんだ」

「水じゃない? まさかこれが全部漿精スライム、とか?」


 言ってしまってエナは赤面した。さすがにそんなことはないだろう。

 もしこの水全てが漿精だったら、エナもアリルもラヴリドも今頃溶かされているはずだ。

 冗句だと思ったのか、アリルも歯を見せて笑顔になる。


「さすがにそれはないよ。でも、それよりもっと恐ろしいかもしれない。ここの水は、普通の水よりずっと重いんだ」

「……重い?」


 水に重いも軽いもないだろう。

 少なくともエナはそんなことを考えたことも聞いたこともない。


「理由は分からないけれど、師匠によるとこの水は普通の水より少し重い。理由は分からないんだけど。正体不明のものには用心しておいた方がいいと思って」


 エナは小さく首を竦めた。

 地上に出られるか、死ぬか。そういう脱出行をしているときに、重いだけの水にまで気を配るアリルの考え方はよく分からない。

 これがアリルという人間なのだ、と言われるとそうなのだろう。

 それよりも尋ねなければならないことがあったような気がしたのだが、疲労の所為か頭が余り回っていない。


「エナ、休憩するのはもう少し進んでからにしよう」


 アリルの指差す先には虹色の球体、“階段”がある。


「これは、“もう一つ”の第五層への?」


 頷くとアリルはラヴリドを連れて球体に足を踏み入れた。

 その足取りに躊躇いはない。

 髪の含んだ水を手で挟んで少し落としてから、エナも後に続く。


 つい先刻と同じ浮遊感を味わっていると、移動はすぐに済んだ。

 水の臭いは去り、〈不朽回廊〉の無臭が帰ってきた。

 恐る恐る、エナは目を開く。

 眩しい。


 その輝きの正体に気付いたとき、エナは思わず立ち竦んでしまった。



   ■



 小鼻を親指の腹で押さえ、強く鼻息を吐く。

 床に散った赤黒い血を見て、エスノは喜びに片方の口角を上げた。

 大人を騙しおおせたのだ。

 これが嬉しくないはずがない。


 オルに殴られた腹を擦り、エスノは辺りを見回した。

 大人の姿はない。第四階層への道を封鎖するために散ったのだろう。

 エスノを手酷く殴ったオル自身は第四階層の捜索に向かったはずだ。


 合財がっさい袋の中から握り易い大きさの獣の大腿骨の破片を取り出すと、エスノは床石の隅を独特の感覚で叩く。

 コンカカコンコンカッカッカッ。

 叩き終ると少し間があり、床石が静かに浮いた。

 エスノは息を呑んで様子を見守る。

 床下から顔を出したのは、ラジンとガフ。二人の〈狗使い〉だった。

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