第5話
「二人とも、穴倉の中でくたばってなかったか?」
不安げに声を掛けるエスノに這い出たばかりのラジンはしっかりと頷いた。
ガフはエスノの方を気にしながら、穴の底から二匹の犬と雑嚢を引っ張り出している。
大人による追跡をやり過ごすため、二人は落とし穴を改造した秘密の小部屋に潜んでいたのだ。
上から見れば床にしか見えないが、奥行きはかなり広い。
本来なら槍の飛び出す大がかりな落とし穴だったのを、ラジンとガフは二人がかりで少しずつ改造し、脱出計画のための橋頭堡に仕上げたのだ。
のっぽのラジンとちびのガフ。
いつも一緒に組んでいる二人とエスノが、偉大なる脱出行の
三人と三匹で、合わせれば六。梯団を組む最低人数は達しているという理屈だ。
「オルはどう出た?」
「ラジンの予想通りさ。手勢を分散させて、自分は四層へ行った」
うん、とラジンは顎を撫でる。
策は当たったらしい。これで三人を追ってくる大人の数は格段に減った。
まともに逃げていれば第四層で追ってきたのは三つか四つの梯団だが、今なら一つか二つの梯団だけを気にすればいい。
ガフが全員分の荷物を引っ張り出すと、三人は黙って顔を見合わせた。
もう後戻りはできない。今さら帰っても脱走者として処分されるだけだ。
ラジンが小さく咳払いをし、先頭を歩きはじめる。
目指すのは〈沼階段〉だ。
「……ねぇ、〈赤目〉のアリルには声を掛けなくてよかったのかな」
「くどいぞ、ガフ。こういう計画はどこから漏れるか知れねぇんだ。仲間は少ない方が良い」
後ろを振り返り振り返り進むガフを〈耳〉のエスノが窘める。
二つ名は単に耳が大きいからだけではない。〈聖域〉での噂話は余さずエスノの耳に入ることになっていた。
そのエスノがアリルを誘うのに反対したのには理由がある。
「アリルの〈赤目〉は不吉、か」
「ラジンは信じないのか? あいつの目は魔物の目だって言うぞ?」
「そう言うエスノは信じているのか?」
質問に質問で返され、エスノは小さく肩を竦めるとそのまま黙ってしまった。
アリルの赤目は魔物の目。だから魔物が現れるのが事前に分かる。
犬を連れただけの一人で迷宮を歩き回れるのはそのお陰だ。
噂はラジンも聞いたことがあった。
ひどい言いがかりだと思う。魔物の出現が分かる人間などいやしない。そんなことは誰にでも分かる話だ。空想というより妄想に近い。
ただ、アリルが一人きりで罠を処理することにラジンは複雑な思いを持っていた。
本当なら。
本当なら、ラジンがアリルと組むべきなのだ。
アリルの智慧と抜け目のなさ、目的を最優先する考え方に、ラジンは昔から憧れていた。
二人が組めば、脱出計画はもっと早く実行できたに違いない。
ガフが梯団から少し遅れる。
いつもそうだ。背の低いガフの歩みは遅い。
アリルが相棒を作らないと決めたから、いつでもラジンの隣は〈愚図〉のガフだったのだ。
雑念を払うように、ラジンは槍を振るった。
今は逃げることだけを考えなければならない。
槍は落とし穴の下に罠として設置されていたものだ。
大人にとっては手投槍程度の長さだが、十一歳のラジンたち三人にはちょうどいい。
歩き疲れれば杖にも使えるだろう。
犬たち三匹の先導で〈沼階段〉までは難なく辿り着いた。
ここまでは何度も来たことがある。
第五層〈不朽回廊〉は極端に物が手に入りにくい階層だ。
〈聖域〉で使う薪やその他の物資は第四層に遠征して取りに行くことになる。
第四層へ上がるのは大人だけだ。〈狗使い〉はここで物資を受け取り〈聖域〉まで運ぶ。
つまり、ラジンにもガフにもエスノにも、ここから先の土地鑑はない。
食糧と道具はいくらか用意したが、基本的には臨機応変ということになる。
「さ、ラジン。いよいよだぜ」
「ああ、そうだな。ガフ、大丈夫か?」
「犬たちも大丈夫だよ」
三人で歩調を合わせ、〈沼階段〉へ踏み込む。
指先から爪先から身体が蕩けていくような不思議な感覚。
心地よいような、懐かしいような説明しがたい時間はすぐに終わった。
噎せ返るほど濃い草の香り。
もう何年も嗅いだことのなかった、森の匂い。
木々の間を風が吹き抜ける音。
目を閉じたまま、ラジンは拳を握り締めた。
頬を、涙が伝っている。
ここはもう、あの〈不朽回廊〉ではない。
第四階層〈淡霧の森〉だ。
〈狗使い〉として過ごした日々は終わる。
生きて帰ろうと道半ばで死のうと、〈沼階段〉を越えた瞬間に、自由になったのだ。
もう何者にも縛られない。自由の身になったのだ。
ラジンはゆっくりと目を開ける。
「……よぉ、待ってたぜ」
そこに立っていたのは、抜き身の片手剣を弄ぶオルと、大人たちだった。
■
金細工で装飾された片手剣を無造作に放り投げる。
落ちた先にあるのは、黄金の山だ。
アリルの目の前には、金貨銀貨と財宝がたっぷりと積み上げられていた。
「これが全部〈蒼き鷹〉の財宝なの?」
エナが鈍く光る金銀の山から金貨を一枚拾い上げ、呆然としながら呟く。
〈水没神殿〉から上って来た先にあったのは、財宝の間だった。
バゾラの屋敷よりも広い空間は、金と銀の輝きで埋め尽くされている。
奥行きのある縦長の部屋が元は何に使われていたのかは分からない。
古びた椅子や机がいくつもあるところを見ると、何かを管理する部屋だったのだろうか。
部屋の奥には“階段”がある。
行先は分からないが恐らくは第四階層へ通じているのではないか、というのが二人の予想だ。
ラヴリドが尻尾を振りながらひゃんと一声鳴いた。
積み上げられた革袋から零れた金貨を足先で払いのけながら、アリルは部屋の中を検分する。
この部屋は、〈聖域〉と同じだ。
魔物が出現しないようになっているのだろう。
朽ちた皮袋にさえ、
「全部が全部、〈蒼き鷹〉の集めたものって訳じゃないみたいだね」
壁際に置かれた朽ちかけの
八角形の貨幣には雄々しい男性の横顔と、小さな文字が並んでいる。
「古帝国語……」
「〈愚帝の霊廟〉が造られた頃の金貨かもしれない」
ひょっとすると、横顔は愚帝その人のものかもしれなかった。
師匠の部屋に転がっている蒐集物の中には同じような文字が刻まれているものが多い。
アリルはまだ、読み方を習っていなかった。
「……『九天に
「エナ、読めるの?」
「ちょっとだけね。小さい頃に習ったから」
小さい頃に習った、という言葉にアリルの胸が痛む。
アリルには小さい頃の記憶がない。憶えているのはここに売られてきてからのことだけだ。
老いたラヴリドの母とラヴリド、それに師匠だけがアリルにとって罠以外のことを教えてくれた。
外の世界の子供たちは、どんなことを学ぶのだろうか。
そう考えると、爪が掌に食い込むほどに拳を握り締めてしまう。
九天に嘉されし、とエナの訳を口の中で転がし、アリルは妙なことに気が付いた。
「でもエナ、それって変じゃない?」
「変って、何が?」
「カルリオネスって、愚帝の名前じゃなかったっけ?」
愚帝カルリオネス。
〈愚帝の霊廟〉に葬られた皇帝にして、古帝国滅亡の遠因となった人物。
アリルの乏しい知識では、カルリオネスの名はそう記憶されている。
覇帝という華々しい名とはどうしても結びつかない。
「ああ、でも、そういうこともあるんじゃない? 若い頃には名君だったとか、生前は誰も意見を言うことができなくて死後に評価が変わったとか。歴史なんて書いた人の書きたいようにしか残らないものなんだし」
「……愚帝の肩を持つ人なんてはじめて見た」
〈狗使い〉にとって愚帝は怨嗟の対象だ。
少なくともアリルは憎んでいる。
カルリオネスさえこんな墳墓を築かなければ〈蒼き鷹〉も宝を溜め込まなかったし、自分たちも売られてくることはなかったのだ。
今まで触れた事のない考えに戸惑うアリルの目を、エナは真っ直ぐに見つめてくる。
「肩を持ってるわけじゃないよ。ただ、目に見えているものだけが正しいとは限らないんじゃないかなって思ってるだけ」
目に見えているものだけが正しいとは限らない。
その言葉に思わずアリルはエナから目を逸らした。
目に見えるもの、見えないもの。
アリルにとっては、重要な問題だ。
ラヴリドを撫でながら、アリルはエナの方を見るとも無しに窺う。
金貨や指輪、金塊を矯めつ眇めつするエナの横顔は、凛々しい。
エナ
視線の先のエナの瞳は、赤くない。
第五層で魔物が出現しそうになったとき、最初に反応したのはアリルでもラヴリドでもなく、エナだった。
そのことがずっとアリルの中で引っ掛かっている。
アリルの目は、赤い。
この目が不吉だと陰口を叩かれていることはアリルも知っている。
魔物の目だ。そう言われ、避けられ続けてきた。
だからずっと、隠して来たのだ。
アリルには、魔物が出現する前に煙る
靄が見えて魔物が出現しなかったことはない。
この能力があるお陰で、アリルはラヴリドと一緒に迷宮で生き延びることができた。
この能力がある所為で、アリルはラヴリドとしか迷宮に潜ることができなかった。
打ち明けたのは、師匠にだけだ。
師匠である〈震え〉のヨーマンは、誰にも能力のことを話すなとアリルに厳命した。
その眼は特別な目だ。決して呪われたものではない。
ただ、周りの者はそうと思わないだろう。
人は迷宮で最も臆病な生き物で、有りもしない影に怯えて排除しようとする。
だから、誰にも話すな。言えば、命はないと思え。
普段から厳しい師匠だが、その時の口調は特にきっぱりとしていた。
以来五年間、アリルは誰にもそのことを告げずに今日まで生きてきたのだ。
もしエナも視えるのだとしたら……
エナになら、打ち明けても良いかもしれない。
〈狗使い〉である自分と梯団決義をしてくれた、エナになら。
打ち明けることができれば、何か変わるのだろうか。
変わる、という気がする。
何が変わるのかは分からない。それでも。
金貨を一枚拾い上げ、意味もなく表裏を確かめる。
愚帝、或いは覇帝カルリオネス。
金貨に彫られた愚帝の瞳の色は分からない。
青だろうか。灰色だろうか。ひょっとするとエナのような黒かもしれない。
やはり、止めておこう。
本当にエナが魔物の出現に気が付いたかどうかは、分からない。
もし気のせいだったなら、アリルは師の教えに背くことになる。
どころか、エナにも怖がられてしまうかもしれない。
奥歯を噛み締める。
自分の目を真っ直ぐ見てくれたエナにまで嫌われてしまったら、心が折れるかもしれない。
エナとアリルの仲に亀裂が入れば、脱出の障害にもなるに違いない。
今の二人とラヴリドは上手くやれている。
この関係を壊すわけにはいない。この関係を壊すわけにはいかないから、危ない橋を渡ってはならないはずだ。
自分に言い聞かせるようにして、アリルは金貨を元の山に放り投げた。
エナとの話し合いで、ここの財宝は持って行かないということに決めている。
惜しくはあるけれど余計なことに巻き込まれるのは御免だった。
「アリル、こっちに来て」
「何か見つかった? 黄金の鷹の像とか」
「違うよ。そんなんじゃないって。……ここに、扉があるみたい」
「扉?」
エナの指差したのは
随分と長い間、誰も触っていなかったらしい。床には誇りが積もっている。
言われて見てみると、確かに壁にうっすらと線が走っていた。
剃刀の刃でも通らない程の細い切れ目だが、扉と言われればそう見えなくもない。
「開け方は分かる?」
「ちょっと待ってて」
扉の横を丁寧に探る。
あった。エナを治療した秘密の小部屋を開けるのと同じ、微かなでっぱりがある。
躊躇いながら押すと、扉は奥へ少し引っ込みゆっくりと横へ滑るようにして開いた。
覗き込もうとすると、何もしていないのに明かりが灯った。
アリルとエナは顔を見合わせる。
「……どうする、エナ?」
「……どうしよう、アリル」
入り口から見る限り、部屋の中にはほとんど何もない。
のっぺりと滑らかな素材で壁と床が覆われ、部屋のちょうど中央に子供の頭ほどの大きさの水晶球が設置されている。
「……『呪い』『除去』『部屋』?」
「何それ?」
あそこに書いてある、とエナの視線で示したのは、水晶球の台座だ。
遠目には細かくてほとんど見えないが、確かに細かい字でびっしりと何かが書き記されている。
呪いを除去する、とはどういうことなのだろうか。
水晶球をもう少しよく見ようと、アリルは部屋に一歩足を踏み入れる。
その瞬間、頭の中で何かが爆発した。
耐え切れない痛みに、思わず膝を突く。
目の奥を木槌で殴り続けられているようだ。
ラヴリドとエナの声が、遠くに聞こえる。
水晶玉の方へ手を伸ばし、アリルは、意識を、手放した。
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