第6話
蹴転がされたラジンは、唸るような呻き声を漏らすことしかできなかった。
やったのはベシャミだ。
痩せぎすの小男で、オルの仲間の中でも一番〈狗使い〉たちから嫌われている男だった。
他の四人の大人たちは無様な逃亡者をにやにやと笑いながら見つめている。
〈狗使い〉が嬲り者になるのを見るのは、貴重な娯楽という事だろう。
首を動かさずに視線だけで犬たちの方を探る。
大丈夫、蹴られてはいるが、まだ生きていた。
くぅんと弱々しく泣く声を聞くと、目の間が怒りで真っ赤になりそうだ。
「殺すなよ、ベシャミ。そいつらは見せしめにするんだからな」
「わぁってるよ、オル」
生返事をしながらベシャミはもう一度ラジンの腹を蹴る。
胸の空気が口から溢れ、ごひゅっと変な声が漏れた。
続けてもう一度。
口の端から垂れた唾液が、地面を濡らす。
頬に触れる地面は土ではない。ごつごつとした木肌だ。
第四層〈淡霧の森〉は、巨樹の上に繁る
ラジンとガフ、それにエスノの三人が情けなく這い蹲っている地面は幅一〇
枝の下にはミルクのような淡い霧が拡がっている。
幹を伝って下まで降りた冒険者はいない、とラジンは聞いていた。
霧の中を飛び回っている巨大な鳥や蜥蜴、蟲の類いに生きたまま食い殺されてしまうのだ。
「なぁオル。見せしめ、ってのはよぅ。本当に全員殺さなきゃダメかね?」
「……ベシャミ、何考えてるのかしんねぇが、あんまり愚図愚図してる暇はねぇぞ。〈右盾〉の旦那が帰ってくるまでに〈聖域〉に戻っておかにゃならねぇってのを忘れるな」
「わぁってる。わぁってるよ、そんなことは。だがな、兄弟。こういう穴倉の中で暮らしているとよ、娯楽ってもんが必要だと思わねぇか?」
「……娯楽だぁ?」
オルが鼻で嗤うと、ベシャミは薄い笑いを返す。
「オル、オレたちゃアンタみたいに化粧臭い娯楽を隠れて楽しむ度胸はねぇんでな」
化粧臭い娯楽。
ベシャミの反撃がどういう意味なのか、ラジンには分からない。
だがオルはそれを聞いて、すっかり黙ってしまった。
ベシャミの口角が厭らしく上がる。
この笑みをラジンは前にも見たことがあった。
些細な失敗で自分の整備した罠に嵌って死んでしまった〈狗使い〉の
「おい、おまえら三人。生きたいか?」
エスノが激しく首を縦に振るのが見えた。
さっきからぜぇぜぇと細い息をしているガフの方は何の反応もしていない。
さてどうしたものかと思っていると、腹にもう一発、爪先での蹴りが入る。
「詰まらん奴らだな。生き残りたくはねぇのか」
吐き捨てると、ベシャミはそれきり黙ってしまった。
ねめつけるように三人の顔を睨み、何も言わない。
沈黙がラジンの胸を押し潰しそうになる。
もうすぐ、死ぬのだ。
自由になれたのは、ほんの一瞬だけだった。
〈聖域〉を出る時、どこで死んでも悔いはないと心に誓ったはずだったのに。
「……生き残り、たい、です」
振り絞るように言ってしまってから、ラジンは自分の浅ましさに泣きたくなった。
耳が熱くなり、身体中を血が駆け巡っていくのが分かる。
この期に及んで、死にたくないのだ。ほんの僅かな望みに、縋ってしまっている。
生かして貰えるはずがない。
そんなことは分かり切っているというのに、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
だが、ベシャミの悪辣さはラジンの予想の上をいっていた。
「じゃあ、ここで一人殺せ。お前ら自身の手でな」
言い放ち、小指で耳を穿る。
真面目腐った顔をしてはいるが、その口元には隠しきれない喜悦が浮かんでいた。
オルの方は、と見れば呆れ顔だ。他の四人は笑いを噛み殺している。
「殺、す……?」
エスノの目が泳ぐ。
見ているのは、ラジンの方ではない。ガフだ。
ガフを殺せば、命を繋げるかもしれない。目で、そうラジンに訴えかけてくる。
「一人の死体を見せれば〈狗使い〉共への見せしめにはなる」
「ベシャミ、あんまり馬鹿げたことは言うもんじゃねぇぞ」
不機嫌そうに鼻を鳴らすオルの口調には苛立ちが混じっていた。
「いいじゃねぇか、オル。後の二人は枝から落ちて真っ逆さま。怪鳥にでも喰われて死んじまったことにすりゃあいい。どうせここで二人を見逃しても、死に様に大した違いはありゃしねぇよ」
「そういう問題じゃねぇだろうがよ」
「まさか〈右盾〉の旦那と言っても、この巨樹を降って死体を探して来いとは言いやしねぇよ」
へらへら笑うベシャミを見るオルの目に、怒りの色が滲むのをラジンは見逃さなかった。
何とかこの仲違いを上手く利用できないか。
目を瞑り、考えを巡らせる。何か、何か手はあるはずだ。
こんな時、〈赤目〉のアリルならどう動く。
「分かったよ、ぼくが死ぬ」
声を上げたのは、ガフだった。
驚いて見つめるラジンとエスノの前ですっくと立ち上がると、ガフは膝の埃を払う。
ちびのガフ。
いつも莫迦にしていた相棒は口を固く引き結んでベシャミを睨みつけている。
怖いのだろう。膝は小刻みに震えていた。
相棒の犬がよろよろと近付くのを、ガフは胸に抱き上げる。
「ベシャミさん、聞こえなかった? ぼくが死ぬ。ぼくが死ぬから、ラジンとエスノ、それに二人の犬を助けて」
「おい、ガフ」
「ラジンは黙ってて。ぼくの方がお兄さんなんだから」
確かに、生まれは少しだけガフの方が早い。そういう話を昔したことがあった。
それでも、これまではずっとラジンはガフを、見下してきたのだ。
「〈狗使い〉にしちゃ随分と殊勝な心がけじゃねぇか。ところでいいのか? 助ける中に自分の犬は入ってなかったみてぇだが」
「〈狗使い〉はいつも相棒と一緒だからね。見せしめにぼくの死体を使うなら、ラックの死体もないとダメなんじゃない?」
「……まぁ、それもそうだな」
「それに、ラックはぼくがいないと一人で寝られないからね。残していくわけにはいかない」
ガフの言葉に、エスノはばつが悪そうに視線を背けた。
ベシャミに蹴られてからというもの、エスノは一度も犬の方を見ていない。
もはや苛立ちを隠そうとしないオルに軽く肩をすくめて見せてから、ベシャミはエスノの方へ顎をしゃくった。
殺れ、ということだろう。
エスノが立ち上がり、槍を構える。ラジンも、ゆっくりと後に続いた。
頭ではどうやってガフを助けるかということだけを考えている。
「さ、殺れよ」
ガフが立っているのは〈沼〉の前だ。
〈沼階段〉の名前の由来になった大きな
沈んで、出て来た者はいない。どこへ繋がっているのかは、誰も知らなかった。
血走った目で、エスノが腰を落とす。槍の穂先をガフに向けた。
ラジンも、倣う。
ガフは、目を閉じない。
エスノの方を、じっと見つめている。ラジンは、目を閉じた。
悲鳴が上がったのはその時だ。
野太い。ガフの声ではなかった。
「
魔物が現われる時に、前触れはない。
前からそこにいたかのような唐突さで、魔物はオル達と〈沼階段〉の間に佇んでいた。
反応が速かったのは、オルだ。すぐに片手剣を構え、腰袋から取り出した木の実を口に含む。
ガリチの実だろう。
齧ると一時的に血の巡りが良くなり、集中力も増す。
オルの向かい合うのは、ラジンの見たことのない魔物だった。
七肢狒狒。単にサルと呼ばれる魔物は、異形だ。
大きさは四
鋭い牙を剥く貌は、狒狒によく似ているが、問題は、肢だ。
本来前肢の在るべき部分と、胸の中央からはうねうねとした触手が生えている。
それとは別に、二対四本の後肢が大地を踏みしめているが、こちらは薄い殻に覆われ、蟲のものによく似ていた。
「ヨキタヌンホタレイ、ヨキタヌンホタレイ……」
不気味な鳴き声だ。
口から漏れ出る鳴き声に意味はないはずだが、声音は老爺の唱える呪詛にも聞こえる。
耳を押さえたくなる誘惑を堪え、ラジンはガフの方を見た。
何が起こっているのか、分かっていないという顔だ。
大人は浮足立っている。
オルもベシャミも他の連中も、こちらに構ってなどいられないはずだ。
今なら、逃げられるかもしれない。
そう言おうとした矢先、ガフが足を踏み外した。
〈沼〉の周りは、ぬらぬらと光って滑りやすくなっている。
滑り落ちるように〈沼〉に飲まれるガフの小さな姿。犬は、一緒だ。
必死に手を伸ばすが、届かない。
〈沼〉の縁から、身を乗り出す。
エスノが何か叫んでいるが、ラジンの耳には、聞こえなかった。
■
死んだように動かないアリルの頬をラヴリドは舐めている。
部屋から引っ張り出してから、ずっとそうだ。
片膝を立てて座り込んだエナは、その様子を静かに眺めている。
何をしても反応はない。
呼吸はしているから、死んではいないのだろう。
隠し部屋の水晶に触った途端、アリルは倒れた。
状況から考えて何かの罠だったのだろう、とエナは考えている。
罠の専門家である〈狗使い〉のアリルが知らなかったのだから、よほど珍しい物なのか、そもそも既に失われてしまった古帝国時代の技術なのかもしれない。
少なくとも、エナの聞いたことのない代物だ。
アリルは動かない。
眠っているというわけではないようだ。気絶していると言った方が正しいのだろう。
胸が、あるかなきかの動きをしているだけ。
生きてはいるが、それだけだ。
時折、思い出したように涙を流すが、それはラヴリドがすぐに舐めとってしまう。
魔法か、それとも呪いか。
どのような罠なのかはわからないが、このまま目覚めないのかもしれない。
エナは深く溜息を吐いた。
アリルには聞きそびれていたことがある。
エナの知る限り、靄を視ることのできる人間の数はひどく限られている。
魔物たちの棲まう世界、幽界と密接に関わる特性だからだ。
幽界に関わる不運な体験をした祖に連なる血筋には、時折視える子が生まれる。
血を濃くして、わざと視える子を儲けようとする家柄もあった。
エナ自身に視えるのだから、アリルが視える子であったとしても何の不思議もない。
ただ、どうして〈狗使い〉になど身を
そういう意味では、冒険者の真似事をしているエナも同じかもしれないが。
どうせ死ぬ、とは口にしたくなかった。
だが、脱出行がはじまる前から心のどこかに抱いていた諦念ではある。
諦念があるから、思い切れることもあると考えれば、良い諦念かもしれない。
未練があるとすれば、靄のことだけ。
視えるが故にここにいるエナにとって、旅の果てに出会った少年も同じ目を持っていることに運命じみたものを感じずにはいられなかった。
「ここで死ぬ、のかぁ」
アリルとラヴリドを置いて先に進むつもりはない。
一人で進んでも、第四層は越えられないだろう。
〈守りの剣〉の六人でさえ苦心したのだ。
周りには一生かかっても使い切れないほどの金銀財宝。
そしてここは冒険者にとっては前人未到の秘密の階層だ。
富も名誉もすべてある、と同時に限りなく孤独な死。
まるで昔話に出てくる旧き神に願いを叶えて貰おうとする欲深な者の末路のようだ。
顔を伏せ、目を閉じる。
どうして今自分は生きているのだろう。
エナは自問する。
あの時〈守りの剣〉と一緒に死ぬべきだったのだろうか。
そうではないとするならば、何故。
今ここに、エナがいる意味があるのだろうか。
顔を上げ、アリルの方を見る。
相変わらず主人の頬を舐め続けるラヴリドの脇に、包みが落ちているのが見えた。
師匠に届け損ねた荷物だとアリルが言っていた包みだ。
持ち主のいない荷物を開けてみるのに少し気が引けたが、好奇心に負けた。
エナは思い切って包みを破る。
迷宮の奥に逼塞する魔術師の荷物だ。どうせ大したものは入っていないだろう。
外の包みを破いた瞬間、辺りに薬種の臭いが漂った。
エナは思わず目を瞠る。
刻印は
彼らの作る
中身にはそれぞれ几帳面な字で品名が書き記されている。
嗅いだことのない臭いのする緑褐色の粉末や、虹色の軟膏。何かの黒焼きも入っている。
練丹教団の薬僧たちは秘密主義を旨とする戒律を重んじているから、品名を読んだだけでは効能は分からない。
「……全部試してみようかな」
恐る恐る包みを開けた時の慎みはどこへやら、今のエナはこの薬をアリルに使ってみる気になっていた。
全部試すというのはさすがにない。飲み合せによって猛毒になる薬があるということは冒険者にとって常識だ。
では何を試すか。
考えながら包みを探るエナの指先に、小さな素焼きの瓶が触れた。
〈返魂湯〉
そう記された瓶からは微かに液体の入っている音がする。
「これにしてみよう」
意味はよく分からないが、きっと死人も蘇るほど強力な薬という事だろう。
それならば今のアリルに必要なものに違いない。
昔々姉に読み聞かせて貰った恋愛譚では、こういう時には口移しで薬を飲ませる。
エナも幼心にそういうものにあこがれを抱いたものだが、成長した今では恥じらいも知恵も身に付けてしまった。
アリルの顔を覗き込む。幸いにして、苦しそうではない。
意を決するとエナは、アリルの鼻を摘まんだ。
ラヴリドもエナとアリルを交互に見つめている。
アリルの口が、ゆっくりと開いた。
すかさずそこにエナは〈返魂湯〉を注ぎ込む。
魂さえも蕩かしそうな爛れた甘い香りの液体が、アリルの口の中へ流れ込んでいく。
気管に入らないだろうか。
エナの心配をよそに、アリルの喉が動いた。
飲ませることには成功したようだ。
「あとはどんな効果が出るか……」
飲ませてから急に不安に駆られるが、もはやどうしようもない。
小瓶には
後は、待つしかない。
膝を抱え、エナはアリルの側に座り込んだ。
顔を覗き込み、じっと待つ。
随分と長い時間が過ぎた。
食事をし、水も飲んだ。見様見真似でラヴリドの足も揉んでやった。
だが、アリルに変化はない。
やはり、だめだったのか。
天井を仰ぎ、エナは小さく笑った。
ここならば、魔物に死体を食べられることもない。
考えてみれば、案外いい死に場所かもしれなかった。
冒険者は〈愚帝の霊廟〉に潜る前に、遺書を残してくる。
文字が書けないものがほとんどだから、口述筆記の代書屋の前にはいつも列ができていた。
エナも、遺書を残してきた。
誰も読むことのない遺書だ。
諦めと疲れとが、全身をゆっくりと包み込んでいく。
もう、ここで死のう。そう思うと、全てが楽になって来た。
目を閉じると、段々と周りの気配が消えていき……
「……エナ、エナ!」
耳元で呼ぶ声に、エナは思わず飛び起きた。
いつの間にか眠り込んでいたらしい。
慌てるエナの顔を、アリルとラヴリドが不思議そうに覗き込んでいる。
「そんなに疲れてたの、エナ?」
「……アリル!」
アリルを抱きしめ、胸板とも言えない小さな胸に顔を埋める。
「ど、どうしたの、エナ……?」
「どうしたのじゃない!」
秘密の小部屋で倒れた時のことを、アリルは憶えていないのだろうか。
「それよりもエナ食事にしようよ。オレもう何だかお腹が空いちゃって」
「……うん、そうね。そうしましょ」
気絶する前より心なしか砕けた雰囲気のアリルに、エナは頷いた。
アリルが手早く食事の支度をするのを、エナも手伝う。
ついさっきまで死を覚悟していたのが嘘のようだ。
些細な幸せを、二人と一匹は噛み締めたのだった。
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