第7話
「多分、その二人がオレの父上と母上じゃないかと思うんだ」
気絶していたときに見た夢の話を、アリルは嬉しそうに話す。
これまで全く思い返せなかったという、売られてくる前の話だ。
特にアリルが繰り返し話題にするのは、両親と思われる男女のことだった。
腹ごしらえも済み、二人と一匹はいよいよ第四階層への“階段”に飛び込もうとしている。
「昔のことを全部思い出したの?」
「ううん。思い出したり思い出せなかったり。朝起きたときに夢の内容を少しだけ憶えているみたいな感じかな」
ああいう感じか、と相槌を打ちながら、エナは内心で首を捻った。
アリルがおぼろげながら記憶を取り戻したというのは、あの秘密の小部屋の水晶球の効果なのだろうか。エナの飲ませた薬の効果なのかもしれない。
水晶球の効果で蘇った記憶が、薬のせいでまた損なわれてしまったということも有り得る。
いずれにしても、エナが気にしているのはアリルの出自のことだ。
〈狗使い〉として売られてきたと聞いていたから、貧農の子供かなにかだと思ってきた。
昔のことをあまり話さないのは、単に憶えていないか、忘れたい過去だからだろうと勝手に納得していたのだ。
今のアリルの口振りからすると、話はそう単純ではない可能性がある。
売られてきた段階で、アリルの記憶は失われていたのではないか。
魔法や薬の力で、昔のことを思い出させなくする方法はないではない。
例えば【鉢かぶせ】という魔法がある。
これは魂に鉢を被せる魔法で、昔の記憶が表に出難くするというものだ。
心に深く傷を負った患者に対して魔法医が好く使う魔法で、恋愛譚では失恋に悲しむ王族がこれに頼る場面は少なくない。
ほんの
明るく多弁になったアリルを、エナは危なっかしく思う。
記憶の一部を取り戻して、浮ついているのだろう。
迷宮では、気の迷いは死に直結する。
梯団の仲間として、嗜めておいた方が良いだろうか。
そう思って顔を上げたとき、アリルに声をかけられた。
「さあ、行くよ」
「う、うん」
つられるようにして、“階段”に飛び込んだ。
視界が歪み、胃の腑の浮くような感覚に襲われる。
浮遊しているような違和感は、前回よりも長く感じられた。
眩い光が収まり、地面に足が触れる。
「えっ?」
目を開けた瞬間、エナは思わず口元を押さえた。
眼前に広がる光景は、エナの知る〈淡霧の森〉の光景ではない。
風が吹き抜ける。
ここは樹の上だ。
二人と一匹は今、巨樹の樹冠にいる。
眼下の霧の海から、幾本もの巨樹が聳え立っていた。
その幹や枝に
ラヴリドが一声、ひゃんと鳴いた。
「エナ、ここは外なの?」
アリルの声が震えている。
頬を撫でる風は、迷宮の中のものとは思えないほどに心地よい。
だが、エナは残酷な事実を口にしなければならなかった。
「ここは外じゃないよ。だって、太陽がない」
これだけ広大な空間だというのに、天井は意外に低い。
上に見えるのは、第三階層の底なのだろうか。
〈順路〉を辿って潜っていたときには分からなかったが、〈愚帝の霊廟〉は思ったよりも巨大なのかもしれない。
薄暮ほどの明るさが、どうやってもたらされているのかは、見当もつかなかった。
信じられないほど広大な空間だが、限りがあるのだ。
目を凝らせば、遠近感の分からなくなるほどの彼方に壁があるのが見て取れる。
「そっか、外じゃないのか」
少しがっかりしたような、安堵したような声音だ。
七年。
口にすればたった一言だが、人生の半分以上の時間を暗い迷宮の中で過ごすということの絶望は、エナには想像もできない。
いや、過ごした時間の長さだけではないだろう。
これからさきも、ずっと〈不朽回廊〉にいなければならない。
朽ちもせず削れもしない石壁の牢獄に囚われることは、死より過酷だ。
エナは、アリルの横顔を盗み見た。
列を成して飛ぶ蜥蜴の群れに目を細めているアリルの顔には、言い表せない感慨が浮かんでいる。
「外に出たら、鷹を見たいんだ」
「鷹を?」
鷹は、辺境ではさして珍しい鳥ではない。
偉大なる鳥類の王に連なるとされるこの鳥は気高さと、強さの象徴として崇められている。
「どうして鷹を?」
「〈蒼き鷹〉の紋章が、かっこいいなって」
風に、アリルの髪が靡いていた。
鷹の鳥言葉は〈気高き自由〉だ。
確かに、今のアリルが最も求めているものかもしれない。
うっかり忘れていたアリルに代わり、エナが塩を撒く。
魔物が現れるかもしれない階層に辿り着いたときは、必ず塩を撒かなければならない。
冒険者は、験を担ぐ。
いつ死ぬか分からない生き方をしていると、生還したときの経験に頼ってしまうのだ。
樹冠から他へ移動する道は、二つあった。
一つは、幹に垂らされた梯子。
そしてもう一つは“階段”だ。
第五階層からここへ来たものとは別に、どこへ通じているか分からない“階段”がある。
「エナ、これをどう思う?」
「……私は、使わない方がいいと思う」
問題なのは“階段”が封鎖されているということだ。
わざわざ高価な鉄製の鎖を張り、そこにカナクギ流の字で「使用スルベカラズ」と書かれた羊皮紙を吊るしている。
積もっている埃を見れば、近年使われていないことが分かった。
「補給隊もバゾラも使ってないみたいだし、梯子の方が正解かな」
同意するようにわんと鳴くラヴリドの鼻先を、一匹の蝶が舞う。
その黒い翅を見て、エナは顔を顰めた。
死兆蝶だ。
〈淡霧の森〉だけでなく〈愚帝の霊廟〉に広く棲む蝶で、あまり縁起の良いものではない。
どこかで誰かが死にそうなとき、どこからともなく現れるという不気味な蝶だ。
片手剣の鞘で追い払ってやり、エナは梯子に向かう。
降りる順番は、エナの方が先だ。
ラヴリドを抱えて片手で降りなければならないアリルは、どうしても遅くなる。
使い込まれた縄梯子は、さすがに良いものを使っていた。
無意味に長いものを使わず、ある程度下ると枝に辿り着く。
その枝からまた次の梯子が垂らされているという方式だ。
手入れもしっかりとされている。
途中の枝々には、替えのロープや手入れ用の道具、それに保存食や簡単な傷薬まで置いてある念の入れようだった。
「そう言えば、エナに聞きたいことがあるんだ」
後から下ってくるアリルへの返事に、エナは詰まった。
細心の注意を払いながら梯子を下っているときに、会話をする余裕はない。
「実は、オレの目って……」
ワンッ!
アリルが何かを言おうとしたとき、ラヴリドが激しく吼えた。
吼える先を見ると、蠢く黄色い塊が見える。
〈淡霧の森〉に棲む敵の中では相手にしやすい部類だが、出遭った場所が拙い。
しかもこの個体は異性繁殖の為に核融合を繰り返した大物だ。
核分裂を控えた
エナは咄嗟に自分の位置を確認する。
枝の上でなら、勝てない相手ではない。
「アリル、上!」
「分かった!」
下の枝までよりも、上の枝の方が近い。
唸って威嚇するラヴリドを小脇に抱え、アリルは上を目指して登りはじめる。
這い寄る漿精の動きは意外に俊敏だ。
焦りを鎮めながら、エナは手近な細い枝を折る。
琥珀漿精は
追い払うように枝を振るうが、効果はない。
ラヴリドの鳴き声が大きくなった。
奥歯を噛み締め、エナは枝を振るう。
漿精は、アリルとラヴリドに狙いを定めたようだ。
次の瞬間、何が起こったのかエナには理解できなかった。
ラヴリドが、飛ぶ。
抱えるアリルの手を振りほどき、ラヴリドが漿精に飛び掛ったのだ。
叫ぶアリル。
蝕腕でラヴリドを払い落とす漿精。
落ちるラヴリド。
そして、
「ラヴリド!」
アリルも、飛んだ。
■
迷宮で生き残るのに、感傷は不必要なばかりか邪魔になる。
死兆蝶に纏わり付かれるベシャミの泣き言を、オルは無視した。
覚悟のない奴は死ぬ。
実力のない奴も死ぬ。
運がなければ誰でも死ぬ。
魔術師を連れていないこの編成では一頭でも持て余す敵が、三頭。
はじめに一頭が姿を現し、注意を引いたところで後ろから二頭が挟撃をしてくるという小癪な知恵まで付けている。
この動きは、今湧いたばかりの魔物とも思えない。
大方、どこかの冒険者が殺し損ねたのだろう。
死に損なった魔物は妙な悪知恵を付け、生き汚く、しぶとくなっていく。
敵の攻撃を捌き、切り払い、弾き飛ばした。
こういう敵からは、一撃を貰えばそれでお仕舞いだ。
生き残る目安とはどれだけ傷を受けていないかではなく、攻撃を往なし続けることができるかにあるというのがオルの考え方だ。
触手に貫かれた左脚を押さえて喚くベシャミは、もう頭数に数えられない。
もし役に立つことがあるとすれば、冥府の先達として地獄への道案内くらいのものだろう、
はじめに現れた一頭の触手を一本、斬り飛ばす。
本体から離れた触手は、硫黄に似た悪臭を撒き散らしながら萎んでいった。
魔物には、こちらの常識は通用しない。
視界の隅で、犬が一匹吼えている。
〈狗使い〉の餓鬼を守ろうというのは見上げたものだ。
当の主人の方は、尻餅をついて諤々と震えている。
他の二人は、どこへ消えたんだろうか。
周囲を確認しながら、オルは他の面子に指示を飛ばす。
梯団を切り回すには冒険者としての貫目と指揮の慣れがものを言う。
優れた冒険者は、眼前の先頭を戦いながら、頭の中に冷めた部分を残しておくものだ。
とは言え、オルは自分のことをそれほど優秀な冒険者だとは思っていない。
指揮か、戦闘。
そのどちらかに集中したいと常々思っている。
本当なら指揮に専念したいが、そんなことを言っていられるような状況ではなかった。
何よりオル自身が、目の前の七肢狒々の相手に手一杯だ。
余計なことに気を回すのを止め、オルは七肢狒々の頭に見える部分をかち割った。
頭蓋が中身ごと転がり、異臭が漂う。
だらりと垂れ下がった舌と、洞窟のような喉が妙に生々しい。
これで死んでくれれば大した敵ではないのだが、七肢狒々退治はここからが本番だ。
狒々に似ているのは単なる擬態のようなものだ。
その実態は、漿精に近い。
喉奥からごぼごぼと粟立つ粘体が湧き上がり、隙間を埋める。
恐らく、幽界に住む狒々に似た動物を
そんなことをオルは、剣の師匠から聞いたことがあった。
こういう魔物は、意外に多い。
与太話の多い師匠だったが、偶にこの世の真理じみたことを教えてくれる男だった。
その師匠によれば、死兆蝶は油断を嗅ぎ分けるのだそうだ。
緊張している人間の汗の臭いを、あの黒い蝶は嫌う。
迷宮で気の緩んでいるような莫迦はすぐに死ぬから、死兆蝶とお近づきになった奴は冒険もこの世も引退間際、ということだ。
ちなみにこの蝶が最も好むのは、脅えた人間の汗だという。
「おら、一丁!」
砕いた頭の喉奥に見えた七肢狒々の核を破壊する。
脳もないはずの魔物は、ギョエエと耳障りな断末魔を上げた。
もう一頭を、誰かが始末する。
残った一頭は額に傷を付けたようだが、殺すには到らなかったらしい。
他の二頭がやられたのを見て、逃げ出したようだ。
「追うなよ」
「追う余力なんてありゃしませんよ」
誰かが、軽口を叩いた。
余力はない。その通りだ。
生きていれば余力になったかもしれない男は、死兆蝶に纏わり疲れたまま事切れていた。
こういう死体は、後で念入りに焼かねばならない。
貫かれた傷から漿精が入り込み、
小便を漏らしながらも、〈狗使い〉は生きていた。
犬の方も無事だ。
ただ、二人と二頭はどこにも見えない。
沼にでも落ちたのだろうか。
だとすれば、死体の回収は諦めなければならない。
オルがバゾラの誘いで〈青の鷹〉の財宝を守るようになってから、死体であっても逃げ延びた〈狗使い〉はこれがはじめてだった。
梯団の
その陰気な様子を見ながら、オルは頭の後ろをバリバリと掻いた。
死んでしまったベシャミを羨むわけではないが、これからのことを考えると頭が痛い。
〈狗使い〉を逃がしてしまったこと。
裏を掻かれて捜査の初動が遅れたこと。
逃げた三人の内、二人の死体は回収できなかったこと。
部下のベシャミが死んでしまったのは、まあどうでもいい部類のことだ。
むしろ、都合がよかった。
口先ばかりの男は前々からどうにかしたいと思っていたし、オル自身の過ちを知っている人間の数は少ない方がいい。
それをネタに脅しをかけようとしたベシャミが死んだのだ。
いっそ、清々する。
「しかし問題は〈右盾〉の旦那になんて報告するかだな」
「包み隠さず報告するしかないだろう」
塩を撒きながらティティリが肩を竦める。
バゾラからの目付けに配されている男だった。
油断はできないが、優秀な斥候だ。
「それはそうなんだがな。物事には説明のしかたっていうものがあるだろう」
「逃げ出した〈狗使い〉も死ぬか捕まえるかしたんだ。バゾラ様の虫の居所が悪くなければ、それほどひどい目には遭うまいよ」
酷い目、と言いながらティティリの視線が〈狗使い〉の方を見る。
可哀想に、と心の中で呟きながらオルは鼻毛を抜いた。
脱走を企てたのだから同情の余地はまるでないのだが、エスノとかいう名前の〈狗使い〉のこれからの運命を思うと憐れみは感じる。
願わくば彼の苦痛があまり長引かず、速やかに九天へ召されますように。
「虫の居所が良いことを願うよ」
もっとも、このところバゾラの虫の居所が良かったためしなどない。
〈蒼き鷹〉の幹部に引き揚げて貰えるという甘言を信じて引き受けた穴倉暮らしが、もう随分長くなっているのだから無理もない。
結局、バゾラは上手くやりすぎたのだ。
前任者から引き継いだときはガタガタだった〈聖域〉を建て直し、引き締め、冒険者の侵入を阻み続けている。
傭兵にも冒険者にも向いている男だが、本当はもっと向いているものがあるのではないか。
「何にしても、だ。ティティリ。面白くない話はさっさと報告するに限る」
「それは違いないな」
塩を撒き終わったティティリが手を払った。
補給隊を送って行ったバゾラは、どこまで帰って来ているだろう。
暫く地上で羽根を伸ばして帰って来るだろうから、あと数日は悶々としたまま過ごす破目になるに違いない。
「〈右盾〉の旦那には早く無事に帰って来て欲しいもんだが」
呟くオルの左肩を、誰かが叩いた。
「心配には及びませんよ。この通り、私は無事です」
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