第8話

「〈右盾〉の旦那、随分とお早いお戻りで」

「とんだ災難ですよ。地上で羽を伸ばしてくるつもりでしたが」


 そこにいたのは、紛れもなく〈右盾〉のバゾラだった。

 落ち着いた口調だが、バゾラが何か言うだけで辺りの空気が引き締まる。


「何か問題でもありやしたか」


 これですよ、とバゾラがオルに左手で放って寄越したのは、掌ほどの木切れだった。

 金釘で通信文が彫り付けてある。


「第三階層の隠し棚にこれが置かれていました」

「上からの至急の連絡、という奴ですか。で、何て書かれとるんですか?」


 渡された札を、バゾラに返した。

 オルは字が読めない。

 バゾラはそれを嘲ることはなかった。貴族出身者には珍しい〈右盾〉の美徳の一つだ。

 名うての傭兵隊長だった過去を持つバゾラは、帝国貴族の出だという。

 失った右手の代わりに盾を括りつけてさえいなければ、今でも社交界に紛れ込んで通じるだろう風貌をしている。


「要約すると〈蒼き鷹〉を探りに冒険者が潜り込んだ、ということです」

「〈蒼き鷹〉の財宝を、ですか」

「いえ、〈蒼き鷹〉を、です」


 ふぅむとオルは唸る。

 財宝を狙う冒険者はごまん・・・といる。

 実力がないから第五層まで辿り着けないだけだ。

 だが〈蒼き鷹〉そのものを探ろうとする冒険者というのはそれほど多くなかった。


「辺境守備隊の連中、ですか」

「十中八九、そうでしょう。彼ら以外に〈易損フラジャイル〉のエレンディアお嬢様の秘密の宝箱を探って素知らぬ顔ができる厚顔無恥はこの辺境にいませんからね」


〈蒼き鷹〉現総長の名を口に出すとき、バゾラの口調に敬意が滲む。

 エレンディア総長を尊崇しているからこそバゾラは迷宮の奥に押し込まれてもこの傭兵団を辞めていないというのは周知の事実だ。


「それで旦那は戻って来なさった、と」


 オルの言葉に、バゾラは形の良い眉を顰めた。


「オルさん、言い間違えないで下さい。私たちは迷宮に“潜っている”のです。“戻って来る”わけではありませんよ」

「それはまぁ、そうですわな」

「私たちは地上の民です。迷宮の子ではない。間違えるべきではないでしょう」


 いつもの言い草だ。

 バゾラはここ数年、ずっと地上での勤務を希望し続けている。


 少し離れたところに置かれているベシャミの亡骸を見て、バゾラは九天の印を切った。

 所作が手馴れているのは、送った部下が多いからだ。

 迷宮に拠点を置いている以上、死は身近に付き纏う。


「酷い有様ですが、脱走ですか?」


 物陰で震える〈狗使い〉を見て、察したらしい。

 エスノとかいう〈狗使い〉には、この隙に逃げる度胸もないようだ。

 もっとも、逃げ出していれば首と胴がおさらばしていただろうが。


「ええ、ご明察の通りで。三人逃げて、二人はそこの沼に」


 沼には古い手槍が一本、浮いている。

 暫く沼を見つめていたバゾラは、エスノの方に視線を移した。

 なるほど、とバゾラは左手で顎を撫で、目を細める。

 その視線にオルの背筋を嫌なものが走った。

 獲物を見る、獣の目だ。

 バゾラにはちょっとした嗜虐趣味がある。

 地上に出られなかった鬱憤を晴らすのに脱走し損ねた〈狗使い〉は丁度いい生贄だろう。


「二人死んだのは勿体無いですね。沼の底だと回収も難しい」

「ええ、そのことをお詫びせねば、と思っておりました」


 これまでの経緯をオルは包み隠さず報告する。

 妙な言い訳をしたところでティティリ辺りが告げ口するだろうから、何の意味もない。


「なるほど〈狗使い〉に裏を掻かれた、と。そういうことですか」

「面目次第もありません」

「対策を考えましょう。いずれにしても今は侵入してきたという冒険者の方が問題です」


 潜り込んだ鼠は〈守りの剣〉という梯団パーティだとバゾラは言った。

 オルも聞いた事のある老舗だ。

 成員の入れ替わりは何度かあったはずだが、実力派として知られている。

 五階まで潜ってくる可能性は、十分にあった。

 畜生ガビダン。面倒ごとばかり増える。


「それでも第五層の秘密は漏れやしませんよ」

「漏れない秘密はありませんよ。それが秘密である限りはね」


 バゾラの口調は吐き捨てるようだ。

 漏れるとすれば、補給隊からだろう。

 人選にも口止め料にも気を使っているが、絶対ではない。

 辺境守備隊が本気になれば、補給隊の親類縁者を人質にして嬲るくらいのことはするだろう。

 二人の〈狗使い〉が沈んだ沼を見て、バゾラが慨嘆の吐息を漏らした。


 バゾラは懐から器用に革の煙草入れを取り出す。

 口に咥えると、ティティリがすぐに火を点けた。

 独特の香りと供に、紫煙がふんわりと漂う。

 この匂いを嫌う魔物は少なくないが、並の冒険者が手を出すには少々値の張る代物だ。


 煙草が出た、というのは良い兆候だった。

 バゾラが喫煙するのは何かが解決したときだ。

 つまり〈右盾〉はこの脱走を終わったものとしてみているということだった。

 この分なら、オルへの責任追及も大したことはないだろう。


「しかし、惜しいことをしましたね」

「惜しい、ですか?」

「ええ。〈狗使い〉出身の部下を一人二人は持ってみてもよいかと思っていたのです」

「〈狗使い〉を、ですか」


 考えもしなかったことだが、利点はオルにも思い付く。

 罠の手入れは手指の細い子供である〈狗使い〉に一任されていた。

 彼らの技術は閉鎖的で、代々の〈狗使い〉によって先輩から後輩に伝授されているが、大人はそれをどうすることもできないのだ。


 今回、ラジンとガフの二人がどこに隠れていたのかは分からない。

 だが、恐らく罠を使ったのだろうとオルは目星を付けていた。

 迷宮で大人の把握していないのは、罠だけだ。

 そういうこともバゾラが直接〈狗使い〉を部下にすることで防ぐことができる。

 そもそも、部下として取り立てられる可能性をちらつかせることができるのなら、今よりも〈狗使い〉たちの統制はやり易くなるに違いない。

 他にも良い効果は色々ありそうだった。


「しかし、惜しいですね。アリルとラジンなら、良い部下になったと思うのですが」

「アリルとラジン?」

「ええ、今の〈狗使い〉で脱走を企てそうな気概があるのはあの二人でしょう?」


 沼に嵌ったのは、ラジンとガフだ。

〈狗使い〉の名前をオルはバゾラに伝えていない。


「いえ。死んだのは、ラジンとガフです。アリルは今回の逃亡に加わってませんぜ」

「ほう。そうなのですか」


 アリル。そういえばあの〈狗使い〉はどこへ行ったのだろう。

〈聖域〉を出た時は一緒に走っていたはずだが、第四層へ上がることは禁じられている。

 まだ随分残っている煙草をバゾラは捨て、踏みにじった。

 何か考え事をしながらもう一本煙草を取り出し、そのまま仕舞い込む。


「〈赤目〉のアリルは本当に脱走計画に加担していないのでしょうか?」

「どういうことです?」

「……あの反抗的な目をした〈狗使い〉が、この好機を逃すと思いますか?」


 オルは首を竦めた。

 隣に立つティティリと顔を見合わせる。

 アリルという〈狗使い〉はオルの知る限り従順だったはずだ。

 このバゾラという上司は〈狗使い〉の一人一人を把握しているというのだろうか。


「エスノ、と言いましたね」


〈右盾〉に声を掛けられた〈狗使い〉はがくがくと頷いた。

 死を覚悟している、という風ではない。

 脅え切ったエスノからは、つんとした厠の臭いがする。


「エスノ、正直に答えなさい。アリルはこの脱走計画に加わっていますか?」


 問われた意味が分からなかったのか暫く茫然としていたエスノは、すぐに壊れたように激しく首を横に振りはじめた。

 それがバゾラには気に食わなかったらしい。

 抜く手も見せずに一閃すると、エスノの左耳が飛んだ。


「……黙っていると死ぬよりも辛い目に遭いますよ」


 妙な按配だった。

 いつも気持ちの悪いほどに落ち着いているバゾラが、冷静さを欠いているように見える。

 対するエスノは、今にも泣き出しそうだ。


「どうなのです? アリルも逃亡を企てていたのではありませんか?」

「は、はい。アリルも別の道から逃げています!」


 余計なことを。口の中だけでオルは悪態を吐いた。

 アリルも脱走に加わっているのなら、今一緒にいないのはおかしい。

 大方、苦し紛れの嘘だろう。バゾラに通じるはずがない。

 しかし、バゾラの反応は予想外のものだった。


「やはりそうですか」

「〈右盾〉の旦那?」

「オルさん、貴方は梯団を率いて追跡に移って下さい。〈赤目〉を地上に出してはいけません」

「いやしかし」


〈守りの剣〉の方はどうするんだ、と問おうとして、オルは言葉を飲み込んだ。

 バゾラの目は、見たことがないほどに血走っている。


「私は〈聖域〉に戻り次第、追撃隊を編成します。オルさんには先行してもらいます」

「それは構いやしませんが……」


 オルは親指でベシャミの死体を指した。

 腕に覚えがあるといっても、第四階層から地上までを五人梯団ひとりかけで上がっていくのは危険が大き過ぎる。


「なるほど。では、私の梯団から魔術師のリューリックをそちらへ回しましょう。これで問題はないはずです」


 さすがにバゾラの判断は早い。

 今のオルの梯団は近距離で〈狗使い〉を追うための編成だから、魔術師が欠けていた。


「それなら問題はありませんが」

「〈聖域〉に戻ってアリルがいるかどうかを確かめている余裕はありません。急いで下さい」


 そうこうしている間に、バゾラの梯団からオルの梯団へ物資のやり取りが始まる。

 どうやら〈右盾〉は本当に〈狗使い〉を追うつもりらしい。

〈狗使い〉の脱走を許さないのは規律を守るために必要なことだ。

 ただ、逃げたかどうかもまだ分からないアリルに対してここまで拘る理由が、オルには理解できない。


「お、オレも連れて行ってください!」


 叫ぶように言ったのは、エスノだった。

 思わずオルは鼻で笑ってしまう。

 生き汚さもここまで来れば筋金入りだ。

 少しでも長く生き延びるためならなんでもする心積もりらしい。


「バゾラの旦那、どうしますか?」


 暫くエスノの瞳をじっと見ていたバゾラは、口元だけで笑った。


「いいでしょう。精々高く仲間の命を売って、自分の命を買いなさい」


 エスノが頷く。

 問題はこの〈狗使い〉を加えると梯団が七人になってしまうことだ。

 護符の効果は六人まで。七人だと、一人余ってしまう。


 話し合いの結果、エスノはオルの梯団から少し先行した位置を歩くことになった。

 捨石ギャンビットという配置だ。

 昔はよく使われたらしいが、最近はあまり聞かなくなった役割だった。


「オルさん、必ずアリルを見つけ出してください」

「見つけたときは、どうしやすか?」


 バゾラの返事に躊躇いはない。


「殺して下さい」


 オルたちはすぐに追跡に取り掛かった。

 いつになく機嫌の悪いバゾラの前から、すぐに逃げ出したかったのだ。

 どうして〈赤目〉のアリルにそこまで執着するのか。その説明は、ついになかった。



   ■



 まるで命に執着していない。

 アリルの跳躍はエナの目にはそう映った。

 いつものアリルの慎重さからは考えられない。

 ラヴリドが琥珀漿精じゅえきスライムに飛び掛り、アリルもそれに続く。


 大胆というよりも、蛮勇に見える動きだ。

 漿精の上に立ち、短刀を両手で構えた。

 敵は激しく震えてアリルとラヴリドを振り落とそうとするが、耐えている。


 狙いは、核。

 この琥珀漿精の抱えているのは核融合後の大きな雌性核ウルマンティコアだ。

 半透明の身体の外からでも、狙いは付け易い。


 ラヴリドが漿精の気を逸らし、アリルが攻撃する。

 樹液のように粘性の高い漿精の身体に、抉り込むようにアリルが短刀を突き立てた。

 が、浅い。


 エナも枝から片手剣に持ち替え、戦いに加わる。

 手強い。

 本来は魔術師による牽制が必須の敵だ。

 とは言え、不安定な足場では逃げることも叶わない。

 アリルが短刀の柄を両手で握り直し、押し通すように突く。


 よく研がれた短刀の先端が核に触れた瞬間、漿精が叫んだ。


 口のない漿精が全身を震わせ。耳障りな音を撒き散らす。

 思わず耳を押さえようとして剣を取り落としそうになった。

 アリルはそれでも躊躇わず、更に短刀を押し込む。


 二度三度大きく痙攣し、漿精は動かなくなった。

 まとまりを失った粘液が樹液のように枝を伝い、流れ落ちていく。

 ラヴリドはその寸前に跳び、エナの懐に転がり込んできた。

 慌てて受け止めると、舌を出してはっはっと息を整える。


 アリルは咄嗟に寄生木やどりぎの蔦を掴んだようだ。

 肩で息をしながら、宙にぶら下がっている。


 その表情は、明るい。

 成し遂げた、という表情だ。

 駆け出し冒険者が琥珀漿精を倒したのだ。快挙といっていい。


「アリル、大丈夫?」

「ああ、オレは大丈夫。エナは?」


 大丈夫と答えようとしたとき、何かが視界を暗くした。


 影だ。

 それも、途轍もなく大きな。

 上を見上げると、そこには信じられないくらい巨大な鳥が飛んでいた。


「……畜生ガビダン


 エナの口から自然と罵りの言葉が漏れる。

 怪鳥ガビダン

 またの名を〈空飛ぶ死〉。

 出会えば死ぬこの鳥を、冒険者は罵り言葉に使う。


 第四階層〈淡霧の森〉の主は、巨躯に似合わぬ俊敏さで高度を下げる。

 エナはラヴリドをしっかりと抱きしめた。

 妙にゆっくりと時間が過ぎる。

 現実感がない。怪鳥の羽ばたきが起こす風の圧を、頬に感じた。


 アリルが何か叫んでいる。

 ラヴリドが、それに応えるように吼えた。

 聞こえない。何も、聞こえない。


 目の前で、アリルが、怪鳥の爪に。




 その後のことを、エナはよく憶えていない。

 気が付けば、樹冠でへたり込んでいた。

 傍らには、ラヴリドがいる。

 アリルの背嚢もあるということは、一度下まで降りて回収してきたのかもしれない。


 風の音が耳に痛いほどに聞こえる。

 エナは髪を押さえ、辺りを見回した。

 だが、アリルの姿はない。


 もう一度、辺りを見回した。

 やはり、誰もいない。いるのはラヴリドだけだ。

 胸の奥から湧き上がってくる、叫び出したいという衝動を必死に堪えた。


 迷宮は理不尽だ。

 アリルは漿精スライムに勝った。

〈狗使い〉として迷宮の奥底で奴隷のように扱われていたアリルが、冒険者らしい戦いをして敵に打ち勝ったのだ。

 だが、そんなことはここでは何の意味も持たない。


 九天の印を切りながら、エナは静かに泣いた。


 これから、どうするべきなんだろうか。

 混乱し、働かない頭でエナは考える。

 二人分の背嚢とラヴリドを抱えて下に降りるというのは、あまり現実的な方法ではない。

 ここで荷物を纏めなおし、背嚢を一つにする必要がある。


 それでも、生きて出られる可能性はほとんどない。

 樹冠を経由して地上へ至る道をエナは知らないからだ。

 道なき道を通って一人で第四階層から第一階層まで上がる方法があるとは思えない。


 風の音が聞こえる。

 巨樹の下から吹き上げてくる風だ。

 ここで飛び降りれば、楽になれる。

 乳白色に濁る淡霧の海が、エナを誘惑していた。


 ひゃん、とラヴリドが鳴く。

 駄目だ。諦めるわけにはいかない。

 地上へ戻るのだ。少なくとも、自分から死を選ぶという道だけはありえない。


 二つの背嚢を抱えた。

 まずは、歩き出そう。考えたり悩んだりするのは、歩きながらでもできる。

 エナが一歩を踏み出そうとしたとき、ラヴリドがもう一度鳴いた。


 振り返ると、視界の端に鎖が見える。

 封鎖された“階段”は、どこへ通じているのだろう?



   ■



 無くなった左耳を押さえながら、エスノは進む。

 時折後ろを振り返るが、オルたちの姿は見えない。

 つまり、エスノは囮なのだ。

 たった一人で先行し、魔物が現れれば自分の身を犠牲にして味方が逃げるなり戦うなりする時間を稼ぐ。


 立ち止まれば後ろから罵声が飛んでくるから、エスノは立ち止まることさえできなかった。

 巨樹の樹皮は硬い上にごつごつしていて歩き難い。

 柔らかい苔の生えている部分もあるが、こちらは滑り易いのが難点だ。

 犬のエボックはエスノのことを無視して先へ先へと歩を進めていく。

 老犬だが、小刻みに進む歩調はどれだけ歩いても変わらなかった。


「エボック、待て。待てって」


 声を掛けるとエボックは一瞬振り返り、鼻をふんと鳴らすとまた歩きはじめる。

 犬如きにそんな知恵があるはずもないが、まるで莫迦にされているかのようだ。

 いつもはもっと従順なのに、今日は虫の居所が悪いのだろう。


 歩く速さを落とさないように、必死に歩く。

 立ち止まると、後ろから大人たちの罵声が飛んでくる。

 喉が渇き、腹も減って来た。

 それでも歩き続けるのは、この幸運を逃さないためだ。


 ガフは死んだ。ラジンもだ。

 莫迦な連中だ、とエスノは思う。

 生きて地上に出ることが目的なのだ。その為になら、何でもすべきだ。


 オルとティティリの話によれば、この梯団は第一階層まで上がる。

 アリルが〈順路〉を使うとは限らない。

 広い迷宮の中ですれ違わずに確実にアリルを捕まえられるのは、入り口だけだという考えだ。


 どうしてバゾラはアリルに拘るのだろう。

〈聖地〉に伝令を出す間も惜しんで、追撃を出す理由が、エスノには分からない。

 だが、そんなことはどうでもいいことだ。


 今頃アリルは〈聖域〉をうろついているところをバゾラに捕まっているだろう。

 あの〈赤目〉の先輩には申し訳ないが、精々拷問に耐えて時間を稼いでもらいたい。

 バゾラが追ってさえこなければ、エスノが地上へ出られる可能性はぐっと高まる。


 エスノの策戦は単純だ。

 第一階層か第二階層まではオルに従い、うまく生き延びる。

 捨石として配置されてはいるが、いくらオルでも見捨てはしないだろう。


 囮には囮の使い道がある。

 一番効果的な場面でエスノを囮にするために、普段は護ってくれるはずだ。

 いざという時は犬を使い棄てればいい。

 囮の囮というのも変な話だが、主が生き延びるためだ。エボックも本望だろう。


 第一階層まで辿り着けば、冒険者がゴロゴロしている筈だ。

 彼らに助けを求め、一緒に地上へ連れ出してもらう。

 完璧な策戦だった。こういうものはあまり複雑にしない方がいい。


 ラジンは頭が良過ぎたのだ。

 だから小細工を弄してオルに見破られるし、ガフと一緒に沼に嵌った。

 考え過ぎてもいいことなど何もない。

 アリルも頭でっかちなところがあった。考えるよりも、情報と行動。

 それが生き残るために大切なことだ。


 暫く歩くと、オルから声が掛かった。

 小休止を取るのだという。

 エスノが声を掛ける前に、エボックはもうくつろぎ始めていた。


 休息の場に選ばれたのは、塩槐えんじゅの林だ。

 寄生木の一種で、葉の裏に塩が溜まる。

 ここら一帯の地面が白いのは塩槐から塩が落ちているからだ。

 大人が持ち帰った塩槐の葉を釜で煮込み、塩を取るのは飯盛女の仕事だった。

 エスノも塩槐の葉は見たことがあったが、木そのものを見るのはこれがはじめてだ。


 配給された食糧は、エボックの方が多かった。

 文句を言おうとしたが、エスノは飲み込む。

 オルやティティリの冷たい眼差しに気が付いたからだ。

 この大人たちはエスノのことを、卑怯者と見ているのだろう。

 心外だが、我慢するしかない。


 固いだけの干し肉をゆっくり噛み締める。

 何かを食べる時は、必ず一人で食べることにしていた。

 エボックにさえ食べる姿は見せない。それがエスノのやり方だ。


 誰も信用せず、信頼もしない。

 父親に飲み代の足しにと売られてから六年。

 エスノはそうやって迷宮で生き延びて来たのだ。


「食い終ったら、塩集めとけよ」


 オルが投げて寄越したのは大きめの革袋だった。

 地面に積もっている塩を手で掬い、エスノは袋に詰めていく。


 張り詰めていた緊張が途切れたのだろうか。

 忘れかけていた耳が、ずきずきと痛む。

 ゆっくりと塩を集めるエスノの動きを、オルは何かに対する抗議だと見たようだ。


「塩はな、冒険者にとって大切なモンだ。それくらいは知ってんだろ?」

「はい!」


 ここでオルの機嫌を損ねるわけにはいかない。

 エスノは塩を集める手の動きを速めた。

 さらさらとした粒の細かい塩は指の間から零れていき、なかなか上手く集まらない。

 その苦労を知ってか知らずか、隣に腰を下ろしてオルが話しはじめた。


「魔物が塩を嫌う、てぇ知識を持ち帰ったのは、昔の偉い勇者ブリンガー様だ」

「勇者?」

「そう、勇者だ。幽界を覗き、この世と幽界との境をただす者。そして、何かを持ち帰りし者のことを、勇者という」


 勇者の話は、ここへ売られてくる前にエスノも聞いたことがある。

 荒唐無稽な御伽噺だと思っていた。


「〈塩を持ち帰りし者ソルトブリンガー〉、〈神符を持ち帰りし者アミュレットブリンガー〉、〈甘藷を持ち帰りし者ポテトブリンガー〉……色々な勇者様がいたお陰で、今のオレたちがいるってわけだ。有難くて涙が出るってもんだろう」


 エスノは神妙な顔をして頷いた。

 形だけでも真面目に話を聞いている風を装った方が良さそうだ。

 単なる暇つぶしなのだろう。


 オルは勇者が梯団の仲間を止む無く見捨てることはあっても、売ることだけはしなかった、というような話と滔々と話して聞かせた。

 意外に、気に入られているのかもしれない。

 エスノがそう思ったところで、話は唐突に打ち切られる。


「まぁそういうわけだから、精々気張って塩を集めることだな」

「どのくらい集めておいたらいいでしょう?」


 何の気なしに尋ねたエスノに、オルは凄味のある笑みを浮かべた。


「……たくさんあればたくさん有るほどいいんじゃねぇかな。なんせ迷宮でお前がはぐれちまったら、随分とたくさん塩を使うことになるはずだぜ」


 背筋を嫌な物が走る感覚に、エスノは思わず身震いする。

 迷宮のどこかで置き去りにする気だ。エスノにはそれがはっきりと分かった。

 理由には見当がつかない。

 冒険者は験を担ぐから、梯団の人数が六人よりも多いことを気にしているのだろうか。


「わ、分かりました」


 何とか挽回しなければならない。

 塩を集めながら、エスノは必死に考える。

 死にたくない。生きて、地上に出たい。

 生き残るためなら、ありとあらゆるものを犠牲にする覚悟が今のエスノにはある。


「おいオル、怪鳥ガビタンが出たらしいぞ。そろそろ行こうぜ」

「おう、ティティリ。すぐ行く」


 尻の塩を払い、オルが立ち上がる。


 何か生き残る方法はあるはずだ。

 渋るエボックを先に歩かせながら、エスノは考える。

 逃げてもいないアリルを追うエスノたちの追跡は、まだはじまったばかりだ。

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