第12話 ただのトイレもこの部にかかれば


 ちょうど龍次はその時トイレに引きこもっていた。

 広くはない個室の中で1人、スマートフォンを握るでもなく。


 膝に両肘をつけ、前かがみに、組んだ手で頭を支えて。


 ただひたすらに腹痛と戦っていた。


「ぐぅおおおお……」


 端的に言ってめちゃめちゃ痛い。内から刺されるようなずきずきとした痛みと、腹部全体にしみこむような熱い鈍痛。そのダブルパンチに加えて、今度は尻が痛い。


「三種の痛みのカプリチオ~シェフの気まぐれ風~じゃねえんだぞおいチクショウ……!」


 叫びにも普段ほどの覇気がなく、個室ということで誰が聞いているでもないせいかいつもより心なしか厳しめで重い声。


 ひりだすような喉元からの唸りは、腹部に力を入れて耐えていればこそ。


「おのれぇ……緊張しているわけでもなかろうに……」

「まあでも、明日だしね」

「そんな前日から緊張するようなタマじゃねえんだよ俺ぁ。もっとこう輝けるところこそ我が故郷みたいな」

「なにいってんの」

「すまん忘れろ……ん?」


 男子トイレ。個室。

 ドア越しに響く声。


「……えー、葉寅さん葉寅さん。何故こんなところにいらっしゃる?」


「清掃中の看板出てるしまあ大丈夫だよ」


「そんなことは聞いてない」


「え、じゃあなにさ」


「なにゆえ男子トイレに出没しているのかなきみは」


「え、もしかしてボクのこと女の子だと思ってた?」


「まさかの男だったの!?」


「いや性別不詳だけど」


「隠し通す所存なのね。いやあの、女の子という可能性が捨てきれない以上男子トイレに居るのはいかがなものかと」


「あ、ボク今日男子制服だから」


「だから!?」


「まあ、居たところで怒られないよきっと」


「日本語同士なのにびっくりするほど会話と会話に隔たりが!」


 頭を抱える龍次。腹痛によってもともと抱えていた。


「……で、何の用だよ」


「いやほら、龍次がさ、突然部室を飛び出してったから」


「あー、なに。心配してくれてたの。悪いな」


「部の仲間だもの。そのくらいはね」


「助かるぜほんと……いや、割とぎりぎりだったんでな。腹痛が」


「どんどん顔が赤くなってくのが面白くて、タイミング見計らって出ようとするのを散々引き留めちゃったからね」


「さいっこうにマッチポンプだった! 返せよ!! 俺の謝礼!」


「マッチに対してポンプって確かにオーバーキルだよね」


「そんな話はしてないの! だーもう、心配は有り難いけど色々こっぱずかしいからもう出てけって」


 女の子"かもしれない"相手が、薄い扉一つ隔てた先に居る。

 こっちは腹痛でパンツおろして座っているわけだし、この状態で物体を排出するのも憚られた。


 かといって腹痛がマックスだ。今の自分の身体が、思うように動いてくれるとは思えない。


「ああうん、いやボクが出ていく分には全然かまわないんだけど」


「だったら悪いがそうしてくれ。いや気持ちはありがたいんだが――」


「二人きりにするのは流石にどうかと思うんだよね」


「へぁ?」


 龍次、思考する。


 龍次、たす、葉寅、イコール、2。


 2、引く、葉寅、イコール、1。



 一 人 多 い 。


「ウェイウェイウェイウェイ」


「Fラン大学生かな?」


「どこでそんな言葉を覚えてきたのか知らんが今のはアホ面晒して身体おっぴろげながら叫ぶうぇーいじゃなくてな、待てって意味だ。waitな」


「そういうことなら待つけど」


「いやうんほんと待ってちょっと。葉寅が居なくなったら誰が二人きりになるの? 俺、存在を認知してるのは俺とお前だけなんだけど」


「プロポーズされても困るなあ」


「わざとだろもう! そこもう一人いんの!?」


「うん、まどかが居る」


「おーいまどかー! お前も帰れー!」


「寝てるよ」


「トイレで!? やめさせろ持って帰れ頼むから!」


「ボクの背中で。部室で寝ちゃってたからおぶってた」


「そのまま持って帰れよ!!」


 なんで置いていこうとしたんだよ! と全力で突っ込みを入れる龍次。

 その反動でとてもおなかが痛くなってうずくまる。


 このままだとヤバい。出そう。何がとは言わないけれど。


 冷や汗を一つ垂らし、龍次は葉寅に声をかける。


「あのさ、ちょっと頼むからこれ以上俺に叫ばせないでくれない? 腹部にダメージが来ると割とつらいんだ」


「なるほど……」


「あの、ね。なるほどじゃなくてね、聞いて?」


「でもちょっと狭いなあ」


「は? いやだから戻れって。え、なにに?」


「一発芸大会をするには」


「お前俺の腹を崩壊させたいの!?」


「さすがに冗談だよ。うん、じゃあ部室で待ってるね」


「お、おう」


 一瞬の間。

 がさ、と衣擦れのような音。


 龍次、気づく。


「まどか置いてくなよ!?」


「ちっ」


「舌打ちした!? ねえ舌打ちした!? ってあ、やばい。やばいやばい」


 下痢気味の腹痛で叫べばどうなるか。


 そんなもの自明過ぎて龍次も腹と頭が痛い。

 まどかもセットで居るなら猶更、こう、尻から何かが出る音とかきかせらんない。


「龍次だいじょうぶー?」


「なんでちょっと声が喜色を孕んでるんですかねえ!? え、なに、これなんのイベントなの!?」


「大会前日で緊張してるならほぐしてあげようって」


「いやほんとダイナミック余計なお世話! あと俺いまほぐれたら困るから!! ほんとに!」


「どこが?」


「分かってて言ってるだろお前!! あ、あっ……あっ」


「黄金(こがね)を差し出す顔の無いお化けみたいな声出してる」


「むしろ便所に差し出すまいと耐えてるんですがねえ!? お、おぅ……おぅっ……」


「アシカの物真似芸人の方で?」


「馬鹿にされたから母音をaからoに変えて唸ってるだけですぅ!! あ、ちょ、ほんともうやば」


「今日のうちにリフレッシュしておかないと大変だったりするからね。ほんと、すっきりとね」


「明らかにわざと言ってるだろ貴様ァ! ほんと出てって! まどか連れてほんと出てって!」


 既に龍次の顔は物凄いことになっていた。


 殴られでもしたかというように両頬は抉れ、口元は細まって目は明らかに血走っている。


 眉間は普段無いほどにいくつも皺が刻まれ、先ほどまで組んでいた両手は腹を抑えて汗をかいている。


「ぉぉぉおぉぅ……お願い、だからどっか行けぇ……!」


 ぱくぱくと口を酸素の足りない金魚のように動かしながら、精一杯のひねり出しで声を紡ぐ。


「ん、まあそこまで言われれば出ていくさ。まどかも抱えて。でも、龍次」


「なんだよっ……!」


「忘れないで欲しい。頑張れば頑張って分だけ、達成感は素敵なものになるんだって」


「なんでちょっといい話風に纏めようとしてんの!?」


「いやほら、とどめっていうのは追い詰めた先にあるものだって優子が言ってたからさ」


「ああ!? 優子ォ!?」


 いきなり何の話だ。


 突然振られた意味不明な話題にも、現状の龍次では殆ど対応が出来ない。


 それでも必死に少ない言葉で続きを訴えると。


「……最近のトイレって、さ。リモコンの取り外しができるんだよね」


 血の気が引いた。


 瞬速で、自らが押すべき"流す"のボタンを探すも、壁には虚しく"なにかが取り付けられていた跡"しかない。


「その便座、あったかいでしょう」


「まて!! まて!!」


 血相変えて叫ぶ龍次。


 現実は無情である。


 温かいということは、温度調整するパネルがどこかにあるはずなのに。


 それが、どこにも見当たらない。


 心なしか、壁の"何等かの取り付け場所"は片手に収めるには大きすぎるような気もする。


「大、小、温水調整、温度調整……」


「言うな……よせ……続きを読むんじゃあないっ……! 返せ……頼む……!!」


「ねえ龍次、今、おなかの他にピンチな場所ってどこだっけ」


「お、おま、ほんと、おま!!」


「どこ、だっけ」


「ケ、ケツだよ!! ちくしょう!」


 やけくそだった。


「違うでしょう。呼び方がほら、他に。そう、たとえば」



 うぃーーーん。と無慈悲な機械音。

 龍次の眼球が、背後ぎりぎりにまでスライドする。


 便座の中から聞こえてきたその音は、まるで咎人を突き刺す執行人の足音のようで。


「おしり、とか」


「お前ら、あれか!! ここまで俺と絆とか友好度上げておきながら!! 一緒にやることが決まった瞬間この始末か!! 許さん!! 許さんぞォ! いつか必ず……いつか必ず!!」


 きれいな水が噴出した瞬間。


 のんびりと葉寅はトイレをあとにした。鼻歌交じりに。


 中から聞こえてきた慟哭が、いつまでも響いていた。



「解散じゃボケゴルァアアアアアアアアア!!……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」






 ちなみに、リモコンが無くても便座には流すレバーだとか何がとは言わないが止めるボタンもあると気づいたのは、龍次の喉が枯れ果てた頃であった。

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