優しい日々に名前をつけよう

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優しい日々に名前をつけよう

 それは突然のお誘いで。

 「どうわーーーっ」

 そう言って突進しながらぼくに体当たりしてくるのは日常だ。

 ぼくの背中にふにゃりとやわらかいものが当たっても耐え続けているのはほめてほしい。

 そうやって突進してくる女の子はそんなこと、全く気にしていないのだが。

 「おうちに来ませんか?」

 「え?」

 「私のおうちに来ませんか?」 

 「それはどういう意味で?」

 「そりゃあ、恋人としてですよ」

 あっさりと女の子はそう言うけれどぼくと女の子は恋人関係ではない。どうしようもなくただの友人だ。

 「いやいや、ぼくら恋人じゃないからね?」

 「まあ、そうですけれど。私の家族はあまりにも私に恋人ができないから心配してるんです」

 女の子は一人で地元から出てきた。つまり一人暮らしだ。そんな女の子にはたまに両親から電話がかかってくるらしい。女の子には恋人という存在が今の今まで一人としていたことがないらしい。

 顔はそこそこ可愛いし、まあ明るいし、癒されるかといえば頷きにくいが癒されることもある。それなのに恋人ができないのはあまりにも無防備すぎる。そしてある知識が異様なほどに抜けている。性的な知識が致命的なほどに抜けているのだ。多分子供がどのようにして生まれるのかもしないはずだ。男がどんな生き物なのかも、自分がどんな状況なのかも。そんな知識が抜け落ちている。

 「それはそうかもしれないけれど、恋人でもないぼくが君の家に行くのは申し訳ないよ」

 「いや、でも私が男の人を連れてきたら親もちょっとは信用してくれると思うんです」

 必死に女の子はぼくの体を揺する。基本的に女の子がぼくになにかを頼む時はこうやってぼくの体を揺する。

 一応女の子のためとぼくのために言っておくが、女の子はそれなりの年は取っている。決して十代ではない。女の子と称しているのはそのある知識のすり抜けたところと、全体的なところを見て女の子と言っているだけだ。決してぼくはロリコンではない。

 「お願いします。おーねーがーいーしーまーすー!」

 女の子はそれからも必死にぼくの体を揺する。ぼくの体はがくがくと揺れる。

 「お願いだから離して」

 「離す代わりにおうちに来てください。なにも結婚してくださいといっているわけじゃないんです」

 「彼氏としてじゃないならいいよ」

 「いや、それで親が納得すると思います? 普通はそれなりに付き合っているからいくんだと思いますけれど」

 「まあそうだね。っていうかぼくじゃなくて他の人に頼んでよ」

 ぼくと女の子はバイト仲間だ。

 「そりゃ他の人がいればですけど! 私たち二人ですよ」

 たしかに。ぼくらはバイトというよりかただの店番だ。ほとんどお金ももらえない。それでもなんとなくやめられなくて続けている。暇だし、基本いておけば何をやってもオーケーだ。

 「友達は?」

 「いません」

 「友達の兄弟とか」

 「初対面の人と付き合っているように見えると思います?」

 「まあ、無理だね」

 そして状況をいうとぼくは未だに女の子にゆさゆさと揺られている。

 「お願いします」

 「そこまで言うならいいけど」

 女の子のご両親には申し訳ない。

 「ありがとうございます。お礼何がいいですか?」

 「いや、いいよ」

 女の子に礼を求められてもなにも求めるものがない。あらゆる知識が抜けているのだから。

 そんな時でも女の子はぎゅうぎゅうとぼくを抱きしめる。見かけとその感じに会わず女の子は胸が大きい。顔も年よりは若く見えるし、ぼくはロリコン犯罪者に見えないか不安だ。

 「君のご両親は君の状況を知っているの?」

 「ある程度は知っていると思います。ここでバイトというか店番をして、そこそこ友達はいて恋人は一度もいたことがない。そんなもんですか」

 「いや、君の知識についてだよ」

 「そこまで賢くはないけれど、そこまでばかじゃないことはわかっていると思います」

 話にならない。女の子の話はある知識が抜け切った状態で話しているので、質問をしてもそれ相応の回答は返ってこない。

 「いや、そうじゃないくて。下ネタがわからないことについてだよ」

 「知らないと思います」

 それはかなりしんどいことになる。変なことを聞かれてみろ、一瞬で終わりだ。

 だからといってぼくはこの女の子にそのような知識を教える気はない。女の子にはまあまあ真っ直ぐな女の子でいてほしい。話す際に困ることはかなりあるが。

 「どうやって行きますか?」

 「どうやって行きたい? まずいつ行くの?」

 女の子の地元はここから新幹線なら一時間強、車なら二時間強ぐらいで着くはずだ。そこまで遠くもなく近くもなく。

 「なんでもいいですよ。車運転できますか?」

 「うん、まあ。でも一人で二時間も運転したくないかな」

 「それなら私が運転しますよ。私免許持ってるんですよ」

 それは初耳だ。見た感じからして免許は持っていないかと思っていた。

 「それなら車で行こう。車は借りればいいし。いつにする?」 

 「意外とノリノリですねえ……」

 女の子はにやにやしながら、ぼくをぐうと抱きしめる。ああもう、胸が当たっているからやめてくれ。

 「違います。決まったからにはどうするかは早く決めた方がいいでしょう」

 「まあそうですけど。照れなくてもいいんですよ? お母さんたちにも聞いてからですけど、来週の週末とかどうですか?」

 「うん、まあそれでいいよ。ぼくにはこれといった予定はない」

 ぼくらはそれから何時にどこで待ち合わせするかを決めた。ぼくが車を借りて、女の子の家まで行くことにした。

 ぼくらの仕事は店番だ。ぼくらは違うアパートに住んでいるけれど、大家さんが同じでその大家さんがたばこ屋をやっている。大家さんはなにかしらいろんなところに出かけたりするので、アパートに住んでいて暇そうなぼくらが店番をやっている。

 店は家の一角が店になっていて、お客さんが来ない時は和室でテレビを見たりしてくつろいでいる。最近は禁煙がブームの影響か一日に十人ちょっとぐらいしかお客さんは来ないのでかなりのんびりできる。

 実はというとぼくは学生ではない。ここで店番をやっているぐらいなので当然就職はしていない。なにをしているのかはまあ秘密だ。それでも一応それなりの収入は得ている。

 女の子は学生だ。あと二年ほどで卒業する予定になっている。留年しなければ、の話だが。

 「あ、設定考えなきゃですね」

 「いや、そんなの考えてもどうせ忘れるし、ばれるよ絶対に」

 「たしかにそうですね。さすが。私のことわかりきってますね」

 ぼくと女の子はここでバイトし始めてもう二年ぐらいになる。ほぼ毎日顔を合わせ、いろんな話をした。どうして女の子の知識がすり抜けているのかはわからない。両親がそういう状態ということを知らないのなら、両親からそのように教育されたわけでもなさそうだ。

 「私ってどんな存在ですか?」

 それは突然の質問で。ぼくはどう答えていいのかわからない。さっきまで和やかに話していたのに急になんでそんな質問をするんだ。

 「好きな女の子だよ。ぼくにとって」

 「そうですか。それなら付き合いませんか?」

 それは突然の告白で。ぼくはどうしたらいいのかわからない。それはぼくにとって嬉しい告白ではあるけれどそれに素直に頷くことはできない。

 「今はそれには答えられないよ」

 「そうですか。とりあえずよろしくお願いします」

 そう言った後はなにもなかったかのように、いつものように二人で過ごした。



 約束の日の前日ぼくは車を借りた。二人なので軽自動車だ。

 約束の日の朝、ぼくは女の子の住むアパートに行った。ぼくの住んでいるアパートはかなり古いけれど、女の子の住むアパートはかなり綺麗で同世代の女子に人気らしい。

 女の子はいつもと同じように少しかわいいカジュアルな服装だ。ぼくは適当にジーンズで全然いいよと言っていたのでジーンズと軽いシャツにしておいた。付き合ってもいないのに家に行くのはどうなのかと今更だが思えてきた。

 「おはようございます」 

 「おはよう」

 「緊張してますか?」

 「うん、まあそこそこはね。本当に付き合ってもいないのにいいの?」

 「まあ付き合っているようなもんじゃないですか。それにしてもドライブは久しぶりです」

 もはや女の子の頭には恋人となっている男と実家に行くという予定はなくなっているらしい。

 途中で一度休憩でサービスエリアに行ったときにはおなかが空いたと言って、ソフトクリームをもぐもぐと食べていた。そこのサービスエリア限定の味があったらしい。

 それ以外は特に渋滞もなく、運転を代わってもらおうかと思っていたが代わってもらわずに女の子の実家に着いた。どこにでもありそうな普通の家でほっとした。

 「あ、付き合ってるんだから。くっついた方がいいですね」 

 女の子はそんなところだけは気が利くから困る。ぼくらは手を繋いで少しだけ女の子がぼくにくっついて女の子の実家に入った。

 「こんにちは。お邪魔します」

 「こんにちは。どうぞどうぞ」

 「お母さんただいまー」

 女の子の母親は四十代後半ぐらいで女の子と輪郭と目元が似ている。

 「お父さんは?」

 「上で本読んでる。リビングで待ってて。呼んでくるから」

 ぼくと女の子はリビングのソファーに座った。目の前にアップライトピアノがある。女の子は少しだけピアノを習っていたと前に言っていた。

 「緊張しないでください。本当に普通にしてください」

 「うん、わかってるけれど難しいね」

 緊張するなと言われてもするに決まっている。しかも今回は恋人でもないのに相手の実家に来ているのだ。二重の意味で緊張する。

 「こんにちは」

 「お邪魔してます。娘さんとお付き合いさせていただいています」

 「やっと彼氏ができたの。よかった」

 女の子の父親は母親と同い年ぐらいで、優しそうな人だ。

 「ふふふ、私にもついに恋人ができましたー!」

 女の子は口からほいほいとでまかせを出していく。ぼくはどこか矛盾しないかとハラハラしながら聞いている。

 「同い年だったけ?」

 「いえ、ぼくのほうが年上です」

 「ならもう社会人……?」

 「まあ、そうです」

 ぼくはあまり自分の職業について話したくない。一応生活はできているとはいえ、安定はしづらい職業なので言うと怪しい顔をする人が多いのだ。

 女の子の母親はよく話してくれるけれど、父親はまだ口を開いていない。

 女の子は自慢げにぺらぺらと話を続ける。それでもいろんなところが抜けていて、多分普通の人が聞けば本当に付き合っているのかを疑うような話だ。

 ぼくが一番聞かれて困ることはこれからのことだ。結婚をする気はあるのか、と聞かれることが一番まずい。ぼくは付き合っているわけでもない人の両親に将来の約束をするのは不実な気がして嫌だ。

 「本当によかった。このまま私たちは彼氏ができない娘を見続けるのかと思っていたから」

 女の子の両親は女の子に恋人ができたことが本当に嬉しいらしい。

 たしかに二十歳を超えても恋人が一人もできたことがないというのは、かなり苦しいことだろう。

 「あの、娘さんを抜きで話したいことがあるのですか」

 ぼくはどうしても女の子のあの状態がなぜあるのかを知りたかった。

 どうしてあんなにある情報だけが抜けているのか。それを両親は本当に知らないのか。ぼくはいくつか方法を考えた。でもそれは途中でだめになった。何にしても学校に行っていれば保健体育という授業があったはずだ。女の子はそれを受けずに成長したのだろうか。それはないに等しい。女の子は自分で不登校になったことはないと言っていた。

 「じゃあ私二階に行ってるねー」

 女の子はふんふんとスキップしながらリビングを出て行った。

 「少し変わった子でしょ」

 「まあそうですね。お二人は娘さんにある知識が抜けていることをご存知なんですか」

 「特段頭がいいというわけでもないけど、そこまでばかだったけ……?」

 「いや、一般教養は身についていると思います。でも保健体育で習うようなことを何一つとして知らないんですが」

 正直どう表現すればいいのかわからない。どういっても失礼な気がしたけれど、これが一番ましな気がした。

 「ああ、やっぱり。電話で話していても直接話していてもなんとなくそんな気がしてた」

 「なぜああなったのかはご両親はご存じないですか」

 「うん、私たちは知らないな。ごめんなさい。参考にならなくて。でもいい子だから大切にしてあげてほしい」

 「それはもちろんそうしようと思います」

 「ありがとう。他になにかある?」

 「いえ、特に」

 やっぱり両親も知らないとなると何があったんだ。女の子はなぜあんなに何も知らないんだ。

 「話終わったから降りてきて」

 「んー」

 「あ、ぼくはもうそろそろこれで」

 「うん、じゃあ私も帰るね。お母さん」

 「はいはい、また来てね」

 「お邪魔しました」

 ぼくは女の子の手を取り繋ぐ。ぼくよりも小さくて、温かい。

 「ありがとうございました。付き合ってくれて。これでお母さんたちにとやかく言われなくてすみます」

 女の子はぼくの手を離し、深々とお辞儀をする。柔らかい髪の毛がふわりと落ちた。

 「別にいいよ。帰ろうか」

 「はい」

 女の子はぼくの手をぎゅうと握り、ぶんぶんと振り回す。いつも通りの女の子だ。

 ぼくは緊張で朝からあまり食事が進まなかった。緊張が解けたせいかとてもお腹が空いた。

 「私お腹が空きました」

 「ぼくも同じだ。なにか食べようか。何がいい?」

 「ハンバーガーが食べたいです」

 「わかった」

 ぼくはそのまま車をハンバーガーショップに走らせる。

 ハンバーガーショップはお昼時が過ぎていたので、客はまばらだ。

 ぼくは海老フェレオを、女の子は照り焼きバーガーを選んだ。なんとなく女の子は照り焼きバーガーを選ばないイメージがあったので意外だった。

 ぼくらは向かい合って遅い昼食を取った。ぼくにとっては今日始めてのまともな食事だ。そして女の子と外で食事するのはとても久しぶりだ。いつも大家さんの家で作って食べることが多い。それに二人でどこかへ行くことは滅多にない。

 女の子は意外と一口が大きい。なんとなく女の子のような風貌の人は一口が小さく、スピードも遅いという考えがあるが、それは幻想だ。

 女の子はもぐもぐと口を動かしながら、カルピスをするすると飲む。

 「これからどうしますか」

 「帰らないの?」

 「んー、まあ帰ってもいいですけれど。どこか行きましょううよ。せっかく出てきたんですし」

 「じゃあどこに行きたい。久しぶりだね。出かけるのは」

 ぼくたちの関係はなんとなくおかしい。付き合ってあげてもいないし、付き合ってもらってもいない。年の差はすこしあるし、学生と社会人でもある。

 「そういわれるとどこっていうのがないんですよね。公園に行きましょう。大きな公園があるんです」

 「いいよ。そこに行こう」

 ぼくらはハンバーガーショップを出てから、女の子の言う大きな公園に行った。そこは公園という大きさではないほどに大きかった。

 「ふおーーい」

 また女の子はぼくに突進してきた。

 ぼくらはふらふらと公園の中を散歩した。途中で女の子は幼い子供たちと一緒に遊具で遊び始めた。ぼくはそれを見ながらブランコに乗った。ゆらゆらと揺れるこの遊具はぼくは好きだ。女の子は笑いながら滑り台を滑っていた。

 「ふう、結構疲れますね。年かなあ」

 「まだ大学生で何を言ってるの」

 女の子はぼくの隣のブランコに座り、とん、と地面を蹴る。ふわりとスカートが膨らんだ。

 「大学生と幼稚園児を一緒にしてはいけませんよ。体力だって全然違います」

 「いや、幼稚園児より大学生のほうが体力はあるんじゃない?」

 「言われればそんな気もしますけれど」

 キコキコと音を立ててブランコは揺れる。ぼくが前に行けば女の子は後ろへ行く。ぼくが後ろに行けば女の子は前に行く。

 ぼくらは二時間ぐらい散歩した。

 ぼくが運転して帰った。

 「今日はありがとうございました。また明日」

 「また明日」

 女の子は自分の住むアパートの前でぼくに向かってお辞儀をした。

 女の子は優しい。そしてひどい。ぼくの気持ちを知っておきながら、なにも言わない。そして自分の状況に気付いていない。ぼくがどんな気持ちで君といて、君を見ているのかをわかっていない。

 それでも、ぼくは女の子が好きだ。どうしようもなくある知識だけが抜けた女の子が。

 だから、優しい日々に名前をつけよう。

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