第8話 ヤモリ その2
辰俊が家のドアを開けるとすぐに、おかえり〜と海代が明るく言った。
その元気があるなら大丈夫だな、と辰俊は安心して靴をぬぎ携帯電話を取り出す。午前9時20分。この時間に母親が家にいるのはおかしい。
「今日も仕事やすみなのか? もしかしてクビ?」
居間へ移動しテーブルの上にカバンを置いた辰俊は、庭で洗濯物を干している母親をそう茶化した。
「しばらく閉めるみたい。学校はどうだった?」
「こっちもだ。無期限の休校」
「あら。受験勉強、どうなっちゃうのよ。他の学校も休みなのかしら。ねえ、ちょっとテレビつけてくれる?」
「あきらめなよ、どうせ関係ないのしか流れないから」
手をとめて海代が振り返った。その表情にはどこか影がやどっていた。辰俊は思わず息をつまらせた。
母親に、なにかあったのだろうか。
「おい、大丈夫か? 身体の調子が悪いとか……」
「飛行機……もう飛んでないみたいなの。だから観光客も来なくてね。生活費どうしようかしら。でも、そのおかげで辰俊と過ごす時間が多く持てるんなら、感謝しなきゃね」
にこやかに言う母親を見て、さっきのは気のせいかなと思い、辰俊はホッと胸をなでおろした。
「その期待をうらぎることになるけど、これからちょっと出るから」
「ええ〜」と再び手をとめる海代。「ゆっくりしないの?」
「塩里と連絡が取れないんだ。心配だから彼女の家まで行ってくる。そんなに遅くはならないから」
「なら仕方ないわね。今日の夕飯は、辰俊の大好きな麻婆豆腐だから」
「お、やった。じゃあなおさら早く帰らなきゃ。行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。塩里ちゃんをよろしくね」
塩里ちゃんによろしくね、だろうが、と心の中で悪態をつきながら辰俊は家をあとにした。
別世界と化した町を歩きながら、ひとりひとり電話をかけた。太三、圧徳、そして塩里。誰も出ない。みんなしてオレをはめようと企んでいるのか? と疑念が浮かぶ。しかし、そんなことをしてもメリットはない。
やはり、みんなに異変が起こっているのだ。
急ぎ足だったので、予想よりも早く塩里の家に着いた。階段を駆け上がり部屋の前へ移動してすぐにチャイムを押す。返事はない。
辰俊はなんとはなしにドアノブを回した。音もなく、開いた。
「塩里……いるのか?」
室内は日中だというのに闇に近かった。壁をさぐり電気をつける。
「塩里!」
居間で倒れている塩里の姿が現れた。辰俊は靴を履いたまま駆け込んだ。
肩を抱きあげ頬を軽くたたく。
「どうしたんだよ、おい、しっかりしろよ」
ううん、と眼を覚ます塩里。
「あ……辰俊くん、どうしてここへ?」
「どうしてじゃねえよ。ずっと連絡していたんだぞ。なにがあったんだ?」
そのとき塩里が眼を大きく見開いた。
辰俊の腕を振りほどき立ち上がる。そのままバスルーム、クローゼット、ベランダ、などを調べまわる。
「なにやってんだよ」「消えた」「なにが?」
「お母さんが料理中に消えたの!」
塩里の突然の豹変に、辰俊は言葉を失った。
「空飛ぶ人間の噂は聞いた。おそらく、いいえ、そいつに連れ去られたんだよ。ワタシがお手洗いから戻ってくると、お母さんの姿がなかった。火はつけたままだった。家のカギは残されている。間違いない。空飛ぶ人間の仕業なのよ。ねえ、お母さんはどこへ行ったの、どこに連れて行かれたの、ねえ、ねえ!」
そこで塩里は、崩れるように膝をついた。
辰俊はなにも言わずに抱きしめることしか出来なかった。
ごめんな塩里。守ってやれなくて……。
どれくらい、塩里の泣き声を聞き続けていただろうか。辰俊の脳には彼女の嗚咽が鮮明に焼きついた。
もう二度と、この記憶は消えることはないだろう……。
「ごめんね、もう大丈夫だから」
彼女が落ちつくのを邪魔しないように固定していた、辰俊の腕と脚、背中の筋肉が悲鳴を上げ始めたころ、ようやく塩里がくちを開いた。
「そっか、なら、舞菜おばさんを探しに行こうか」
「え? 居場所、わかるの?」
「わからないけど、連れ去られた、と結論づけるのは早いと思う。気づかなかったのか、ドアのカギ、開いてたよ。出て行った、という可能性が残されている」
「そう……ありがとう。立てる?」
「おう、いや、ちょっと無理そう」
塩里は涙を浮かべたまま笑った。それを見た辰俊は少しだけホッとした。
「仕事場に行ってみようか。もしかしたら同僚が最近の舞菜おばさんの悩みとか心境の変化とか、そのへんのことを知っているかもしれない」
「そうだね、うん、行ってみましょう。ありがとう辰俊くん。本当に、ありがとう……」
塩里の眼に、再び涙が浮かんできた。
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