第2話 予兆 その2

少なくとも太三と圧徳のやり取りを目撃したこのクラスの生徒だけは、自分たちが異様な事態に陥っているのではないか、と気づくことが出来た。自分の身体を見回す者、飛び跳ねてみる者、自分の筋肉を確かめる者、ひそひそとそうだんする者たちが教室内に静かな不安の嵐を巻き上げる。やがて風を遮断するかのように、誰もがくちを閉ざした。


それからしばらくして、沈黙は、担任がやって来ないことで破られた。始まらないホームルーム、こんなことは教室にいる全員が初めての体験だった。副担任すら現れないのだ。


どうしたんだよ。休校? ラッキー。誰か先生を呼んでこいよ。か〜えろ。これから病院に行ってみようかな。実はね、わたしも10キロ代になっちゃったんだ。勉強どころじゃないよね。


それらの軽口は恐怖を紛らわせるために発せられているようにしか感じられない。


誰もが不安に押しつぶされそうになっているのだろう……辰俊にはパニック寸前の平安だと思った。ひとつでも火花が散れば、一気に弾け飛ぶ。


均衡こそが理想。心のバランスを崩してはならない。

これ以上、体重減少の話題に触れてはいけない。辰俊だけではなく、教室にいる誰もが考えていることだった。


「ねえ辰俊くん。ちょっと来てくれるかな?」


そう言ったのは赤っぽい髪の色をした線の細い女生徒だった。辰俊とは小学校からの幼馴染みだったが、彼女は数か月前に引っ越し、学校以外での出会いも減り、それにともない会話も少なくなり、あいつら別れたんじゃねえの、と噂の種にされていた。付き合ってはいなかったけれど、あまりの仲の良さに誤解されていた。その勘違いを辰俊はべつに嫌ではなかったため、いちいち否定はしなかった。否定しなかったことが、さらなる臆測を呼んだのは言うまでもない。


「どうしたんだよ、塩里(しおり)」

久しぶりの会話に辰俊の声はどこか嬉しさが込められていた。


「ちょっとね、大変なことに気づいたんだ」


興味を持った辰俊は腰を上げた。冷やかしの口笛などが背中に浴びせられるかと思ったが、なにも起こらなかった。


体育館の2階へ向かう。1時間目の授業前なので誰もいない。しんと静まり返った館内は未来の不安を暗示しているかのようだった。

ドアを開け、校舎へとつながっている渡り廊下に出る。

廊下の中央でふたりは歩をとめた。


梅雨の到来を告げる湿った風が辰俊の頬を撫でて通り過ぎた。


辰俊は振り返り、館内を見渡した。外と内との温度差、圧迫感、それらがここと中とで同じだということに違和感を覚えたからだ。密閉された室内と同じであることは変だ。ここは吹き抜けの通路、それなのになぜ、外でも息苦しさを感じるのだろうか。開放感を得られないのだろうか。世界が変わったから、などと簡単には片づけられない。鳥も羽ばたいているし昆虫も懸命に生きている。いつもと変わらない世界だ。


しかし、明らかに以前とは違う。


辰俊は空を見上げた。


透き通った綿あめのような雲がゆっくりと漂っている。これまでに、似た空を何度も眼にしている。それなのになんだこの重圧感。


「世界…変わったよね」塩里が溜め息まじりに言う。


少しだけ驚き、辰俊は耳を傾けた。


「どう変わったのか説明はできないけれど、ただ、ワタシたちが気づいていないだけかもしれない。機微(きび)なる変化。それは動物たちも、昆虫たちも気づかないわずかなもの。その秘密を早く解かなければ、もっと大変なことが起こるような気がする」


髪の毛を手でおさえる仕草を視界の片隅にとらえながら、辰俊は答える。


「温暖化によって、台風、竜巻、地震、山火事、噴火、津波、ウィルスの蔓延などが今後、さらにエスカレートして行くのかな。でもそれって、オレたちにはどうすることも出来ないじゃん。事の成り行きを見守ることしか出来ない。せいぜいエアコンの使用を控えるとかゴミをちゃんと分別するとかしか手の施しようがないじゃないか」


「確かに、個人で出来ることはそれほど多くはない。でも、意識を持つことで少しずつ、変えて行けるかもしれない」


「環境問題の話をするために連れてきたのかよ?」


「そうじゃないの」


塩里が辰俊と眼を合わせた。そのひとみには、怯え、不安の色が含まれている、と辰俊は思った。


「辰俊くんには、体重減少は起こっていないの?」


「う〜ん、3、4キロほど減ってはいるけど、みんなのように進行はしていない」


「そう、良かった。ねえ、辰俊くん、見ててね」


次の瞬間、塩里がふわりと手すりを乗り越えた。


「おい、なにするんだよ!」


腕を伸ばすが間に合わなかった。塩里がみるみる落ちて行く。しかしその過程を目撃し、辰俊の腕は凍りついた。だが、今は思考を整理している場合ではない。腕を戻し、急いで階下へ移動する辰俊。塩里が落ちた場所へと向かう。


「無事か?」


彼女は何事もなかったかのように立っていた。


「わかった?」涼しい顔で言う塩里。


「お前、バカか? 無茶なことするなよ」


「大丈夫よ。だって、ビニール袋を高層ビルの屋上から落としても、シャツをエッフェル塔の上から放り投げても、壊れないでしょ。それと同じ。ねえ、辰俊くん。ワタシの体重って、今、3キロくらいしかないんだ」


世界からある種の異変を感じていたのは間違いなどではなかった。

辰俊は思わず唾を飲み込んだ。


『今、3キロくらいしかないんだ』


塩里の言葉が反芻(はんすう)する。

謎の本質を見つけられない自分の不甲斐なさに、辰俊はなんとも言えない苛立ちをおぼえた。

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