第11話 連鎖 その2

舞菜が好きだったお店、施設、思い出の場所をたどるも徒労に終わった。

時刻を確認すると午後8時をまわっていたため、ふたりは捜索を打ち切り、辰俊の家が近かったこともあり、彼の家へ向かうことにした。


電気は点いていなかった。興奮と使命感と疲労で、辰俊はその異常性に気づかなかった。海代は仕事を休み、どこかへ出かける様子もなかった、にもかかわらず在宅の気配がない。

だから辰俊は中に入り電気をつけて、ただいま、などと言った。その無防備。取り返しのつかない油断。塩里というまぼろしの安心感に身を寄せた失敗。


辰俊の家は木造の平屋。壁は薄く音は筒抜け。

「母さん?」

返事がないので辰俊は不審に思った。部屋をまわるも海代の姿はなかった。

携帯電話を取り出して母親にかける。

鳴り続ける着信音が発信者にこれほど苦痛を与えるのか、と辰俊はこのとき初めて知った。


ふたりはリビングへ移動し、乾いた喉を潤した。

「そんなに遅い時間じゃないから、ちょっと買い物とか?」

なぐさめるように塩里が言う。

「かな〜、でも普段、夜は出歩かないひとだから」


腰を下ろしている塩里におかわりを渡したあと、辰俊はもう一度携帯電話を取り出した。

今度はすぐに相手が出た。


『そっちに母さんが行ってないかな』

『いや、来てないぞ。なにかあったのか?』

『ならいいや。じゃあ、また』

『おいおい、久しぶりなんだからもうちょっといいだろ』

『……体重は?』

『全自動ダイエットだ。はははは。お前はどうなんだ?』

『大丈夫だよ、母さんもオレも……』

たぶんね、という言葉は辰俊のくちから出てこなかった。

『じゃあ、また連絡するから』

おい、と遠くから聞こえてきたけど、辰俊はそのまま電話を切った。


「お父さん?」

「ああ」辰俊は無愛想にそう返した。

「もっとゆっくり話してあげればよかったのに」

「いいんだよ」辰俊はキッチンへ移動し、鍋に用意されていた麻婆豆腐に火を入れた。「あいつはオレと母さんを捨てたんだ。本当は電話もしたくなかった」

「それでも……」

「おなか空いてるだろ? ちょっと待ってて」


辰俊の父親がよそに女をつくって出て行ったのは、辰俊が小学生に上がったばかりのころで、実際に離れ離れになる瞬間も、悲しいとかそういう感情は湧いてこなかった。辰俊が覚えているのは、海代がずっとうつむいていた姿だけだった。


母子家庭になってからも、寂しいとは思わなかった。

寂しさを取り除いていたのは海代のちからだと、辰俊は幼心に感じ取っていたのかも知れない。いつも明るく振舞う母親。ちょっとだけ怖いときもあったが、それは辰俊のことを想っての厳しさ。すべては自分の子を守るために。

辰俊が中学に上がり、しばらくしてキッチンでひとり泣いている海代を目撃したとき、辰俊の心に変化が訪れた。

辛くないわけがない。楽なわけがない。

おバカな母親は、ずっと頑張ってきた。

今度はオレが守らなくては。

女性を守るのが男の使命。

女性に涙を流させてはならない。辛い思いをさせてはならない。

けっして、父親のようにはならない。

辰俊はいつの間にか、自分をそういうふうに制するようになって行った。

その考えは今も変わらない。


鍋が沸騰し、火をとめ、麻婆豆腐を皿に取り分け、辰俊はテーブルに戻った。なにか言いたげな塩里に気づかないフリをして、どうぞ、と促した。


マーとラーが効いた海代の作る麻婆豆腐は香りもさることながら辛味もちょうどよくてまさに絶品だった。いつか行った中華料理店でこんなに美味しい麻婆豆腐があるのかと感動し、海代に家でも作ってくれと頼んだところ、最初のころこそたいしたことのない味だったが、今ではその辺のお店では太刀打ちできない旨さだ。何度も何度も試行錯誤を繰り返し、キッチンにカンヅメになっていた母親の姿を、辰俊はいつも見ていた。

作ってくれという言葉は重かったかな、と反省したが、海代は特につらそうではなかった。むしろ鼻歌まで飛び出していた。だから辰俊はなにも言わなかった。

そうやって手に入れた自慢の料理。辰俊はこれが、世界で一番おいしい麻婆豆腐だと思った。


おいしい〜と感動する塩里に、だろ〜と賛同する辰俊。辛すぎないところがまたいいんだよ、ひき肉と豆腐の良さを殺さないから、と返したとき、辰俊はもう一度、携帯電話を取り出した。

相手は海代。

プププ、プププ、ルルルル、ルルルル、と着信音が鳴る。しばらく鳴りつづける。でも出ない。もう一度かけ直す。

プププ、プププ、ルルルル、ルルルル、相変わらず出ないが、先ほどと違いがあった。

辰俊は顔を上げる。

「どうしたの?」

「しっ」

くちに含んだままの麻婆豆腐を噛まないように塩里は動きをとめた。

ルルルル、ルルルル。

「ねえ……」

「わかってる」

音が電話を通してではなく直接耳に届いている。近くにはない。遮蔽物を挟んでいるような響き方。

辰俊は携帯電話を耳から離して意識を集中させた。ルルルル、ルルルル。

ギギイと椅子を引きずりながら辰俊は立ち上がり、それから振り返る。

そのときには塩里にも音の出処がわかったらしく、くちに手を当てながら小さく震えていた。

辰俊は駆け出し、大きな窓を開けた。


短く刈られた芝生のうえに、点滅する携帯電話が落ちていた。

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