第9話・宝石箱の中でハーブティーを

 ローズヒップ&ハイビスカスティーをテーブルに置いて、空を眺めること数分。その間は静寂せいじゃくに包まれていた。でもその静けさは、落ち着かないような嫌なものではなくて、まさにあの流れる雲のように穏やかな時間だった。

 昨夜のように、私の右側にいる彼の体温が伝わってきて、暖かい。私は彼に寄りかかるのが好きみたいだ。肩から太もものあたりまで体温を感じられる。私は彼の肩に、頭をコテンと置いた。そうするとやっぱり、彼もそれに折り重なるように軽く頭をのせてくる。私のアクションに対して、ちゃんと応えてくれるのが、とても温かくて好きだ。一日しっかり寝ると、ひたすら疲れていた昨日と違って、彼の好きなところがポンポンと発見できる。彼の素敵なところを発見するたびに嬉しくて、楽しかった。

「こうしてみると、やっぱり素敵な庭ね」

 私は全体を眺めて言う。

「うん?」

 私と彼はまだ、くっついたまま離れない。というか、私が離れたくない。彼に体重を預けながら私はぽつり、ぽつりと話す。 

「特にやっぱり、手前の大きな椿カーメリアが素敵だわ」

「あの椿カーメリアはね、貰いものなんだ。私が椿カーメリアの美しさに惚れ込んで庭に植えようと決心したときに、処分されそうになっていたのみてね。私が引き取った」

 彼もまた、小さめの声でぽつり、ぽつりと話してくれた。

「家の近所でね、身寄りのないおじいさんだった。私はたまにその人とガーデニングの話をしていたんだ。突然、亡くなってね」

「ええ」

「家を売り出すために、大きな木々はだいたい抜かれて、業者に持っていかれそうになってたんだ」

 彼は、懐かしそうに話す。

「じゃあ、形見でもあるのね」

「形見……そうだね、形見か。うん、そういうことになるね」

「私も、うんと大事にするわ」

 私は彼の顔をちらりと見た。すると彼は、私に寄りかかっていた頭を起こし、私の頬を撫でた。

「椿はたいして手がかからないんだ。ごくたまに剪定するくらい」

「……地に落ちた椿カーメリアも、また美しいわよね。これ、飾ってもいいかしら」

 私は足元にあった、椿の葉を拾う。風でこちらに飛ばされてきたのだろう。

椿つばきは、感性が豊かだ。実は私も、落ちた椿カーメリアは美しいと、思っている」

 見てごらん、と言いながら彼は私の手から椿カーメリアの葉を取る。そして、ツーっと葉を指でなぞらえた。

椿カーメリアのいいところは、葉までもが美しいことだ」

 彼はくるくると葉を回し、光沢のある椿カーメリアの葉に、色々な角度から日を当てる。

「葉を多めに、紅白で椿かーめりあを飾りたいわね。ねえ、ベッドルームか、リビング、どちらがいいかしら」

 私はもう一枚、地面から葉を拾う。

「そうだなあ。リビングに飾っていつでも眺めれるっていうのはいいけれど、ここは中庭なだけあって、秘密の場所だからね。二人だけの宝物」

「ふふ。それじゃあ、ベッドルームに飾りましょう」

「私もそう思った」

 二人だけの宝物と言われて、私は嬉しかった。この立派な椿カーメリアも、私と彼、二人の物。秘密の花園。箱庭の中にいるような素敵な場所。道路に面しているところで、みんなに自慢するようなお庭もそれはそれで素敵だけれど、中に入らないとわからない、こんなに素敵なお庭と木花たちを私と彼だけが知っている。それはとても背徳的はいとくてきだと思った。そしてそれが、非道ひどうなことに、とても美しいことと思ったのだ。

 私は一口、ハーブティーを飲む。彼も、私の腰に腕をまわしてから、一口飲んだ。お腹いっぱいに美味しいご飯を食べた後の、穏やかで暖かい風に、彼から伝わる温もりにハーブティー。私は少し、微睡まどろみながら、彼に色々なことを伝えたくなった。

「さっき」

「うん」

「私の食べ方が綺麗って言ったわね」

「ああ」

 彼は少し不思議そう。

「私、エドに拾われたから、もう前の生活のことなんて忘れよう、なかったことにしようって、思ったの」

「……ああ」

「でもね、やっぱり前の生活が、活きてるのよね……」

 私は、ママのこともパパのことも、新しいパパのことも、ウォーリンガルのくらい路地裏に家があったことも、捨てられてことも、全部忘れて、彼との生活をしようと思っていた。もう、私は彼と生きていくのだから、彼に対しても失礼な気がして、前の暮らしの記憶は邪魔だと思った。けれど、さっき彼が私のナイフとフォークを持つ手を見たときに、確信した。これじゃあ、忘れられないって。

「昨日、言葉遣いはママが教えてくれたって言ったでしょう」

「ああ」

「他にも、ママは、たくさんのことを教えてくれたの。……話してもいいかしら」

「もちろん」

 彼は優しくそう言った。私の腰に回してた手を少しこちらに傾けて、私引き寄せる。私の頭は彼の胸のあたりに、コテンと置かれた。私は、ヴィオラやシロツメクサ、プリムラの真っ白い小花たちの上に落ちていた赤い椿カーメリアの花びらを見る。白に赤がえていて、美しかった。私は彼に体重を預け、目線は落ちている花びらのまま、ぼそぼそと語り始めた。

「ママは、言葉遣いだけじゃなくて、テーブルマナーも教えてくれたわ。フォークとナイフの持ち方、使い方はもちろん、音を立てて食べないようにって、厳しかった。もしもの時のためにって、フランス式のテーブルマナーも教え込まれたわ。食べているときの姿勢にも厳しくて。それから、小さいころだけどパパは日本人だから、お箸の持ち方も習ったわ。パパの持ち方が綺麗だったから、私も綺麗な持ち方を教えてもらえたの」

 私は、彼のしていたように椿カーメリアの葉をくるくる回していた。

「君のママは、いいママなんだね」

「……そうだったのかも」 

彼は、私の持つ椿カーメリアの葉を先ほどのように優しく取り上げた。彼が持っていた葉とともに、テーブルの上に置く。そして、彼は空いている右手で私の手の甲をさする。

「まだあるの」

「うん」

 彼は優しくうなずく。

「ママ、料理も上手でね、私も一緒に手伝ったり、教えてもらったりしたわ。ママが夜に仕事に行くようになると、とても大変そうで、凄く疲れていたわ。だから、私が毎日ご飯を作ったの。それから、ダンスも教えてくれた。いつ社交界に行っても笑われないためにと。あとはお裁縫もできるのよ。お直しはもちろん、簡単なものなら作れるわ。ミシンだって扱える。それから刺繍も。ママに厳しく指導されたわ。一番最近のお勉強は、ラテン語だったかしら。でも、これは教えてもらう前に捨てられたわ。他にも、色々教えられた気がするけれど、今思い出せるのはこれくらい」

 はあ、と、私は彼の腕の中でため息をつく。こんなにママの話ばっかりして、嫌じゃなかったかしらと、心配で。私は、ずっと手の甲をさすってくれている彼の人差し指を軽く握った。

「ごめんなさい、こんなに……」

 ああ、彼から返事がない。嫌われたかな。私は下を向く。すると

「……君のママは素敵は人だったんだね」

 彼は私をぎゅっと抱きしめた。彼の腕の中で、なんで、と聞く。彼は私を抱きしめながら私の髪を優しくなでる。

椿つばきをこんなにも素晴らしいレディに仕立て上げてくれたんだ。君はママを誇りに思っていい」

「……」

椿つばきは容姿も立ち振る舞いも美しい。それは、君のママのおかげだ。私は感謝しなくてはいけないね」

 彼は私の髪を撫でながら、ゆっくり、優しく、私の耳元で言う。

「でも、私、もうエドの家の子だから、もう、前の家のことは忘れなきゃ」

 私は泣きそうになるのをこらえて言う。

「忘れる必要なんてないさ。それに、じゃなくて私のだ。だから、君の両親には私は感謝しなければならないし、椿つばきも実家のことを忘れる必要はないよ。自慢だよ」

 彼は少しだけ私を抱く腕に力を入れた。だから、私も彼の胸に頭を打つようにして強くめり込む。

「私、話したら全部忘れられると思って、私」

 彼の腕の中で、涙がこぼれた。

「いいんだ。いいんだよ。君のパパとママは、一人だけなんだから」

 だんだんと、涙の粒が大きくなっていく。私は、しゃくりあげた。予想以上の優しい言葉に、こらえられなかった。ママを忘れなくていいと言われたのも、ママが素敵な人だと言われたのも、ママを誇りに思っていいと言われたのも、すべてが嬉しかった。

「ありがとう、エド」

 私は何かが許されたような気がして、彼の腕の中で声にならないような声を出す。彼は私が落ち着くまで、いいんだよ、と言いながら、ずっと頭を撫でてくれた。

 彼の手のひらは大きい。ゆっくりと、でもずっと同じテンポで撫でくれたから、私はそれに合わせるようにして、だんだんと落ち着いていった。

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